広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎福井正之著『「金要らぬ村」を出る…』について思うこと。

〇「金の要らない楽しい村」と「ベーシックインカム(BI)」
 先日、国民に一律10万円を給付する「特別定額給付金」が届いた。
 現在無収入の私たちにとって、コロナによる収入的な影響はないが、特殊な共同体にいたので国民年金も妻と併せて年110万程であり、一時的とはいえありがたくいただいた。

 そのような中、ベーシックインカム(BI)の議論が盛んになってきた。
 ベーシックインカム(BI)とは、「すべての個人が、無条件で、生活に必要な所得への権利を持つ」という考え方。それは「人を分断したり序列化したりしないで、基本的な生活を保障する」ものであり、「人間として尊厳ある生活を営むためのお金を、水や空気と同じように、無条件ですべての個人に保障する」という構想。

 BIは、「働くこと」と「生きるために必要な所得(お金)を得ること」を切り離して考える。それは、「働かざる者食うべからず」との根強い労働観や「働いて稼ぐ」「働きに応じて支払われる」という見方を考え直させるともに、働かなければ生活が保障されない、という今の社会の仕組みを見直し、生存そのものを条件なしに保障するという発想で乗り越えようとするものといえる。

 もう少し視野を拡げて、多くの家庭ではそうなっているように、お金の要らない(やりとりが介在しない)生活を考えてみたらどうなるか。
 さらに、社会からお金というシステムが無くなり、あたかも水や空気と同じように、無条件ですべての人に手に入れられる仕組みが実現したら、どうなるだろう。
 そもそもお金は、何かの物、あるいは労力と交換できる権利(社会的な約束)でしかなく、実体のないものなのだから。

 この構想を突き詰めていくと、実顕地のキーワードでもある山岸巳代蔵が亡くなる前の前年(1960年)に述べた『金の要らない楽しい村』「総論」にある次の文章が思い浮かぶ。

〈金が要らない楽しい世の中に世界中がなると聞いた時、複雑に考えれば、到底不可能だと頭ごなしに否定する人もあるかも知れない。これは何かの考え方を入れて、複雑に考え過ぎているのではなかろうか。
 軒端のスズメや、菜の花に舞う胡蝶でさえも、金を持たないで、何らの境界も設けないで、自由に楽しく舞い、かつ囀っている。権利も主張しないし、義務も感じていないようだ。
 能力の秀れた知能を持っている人間が、なぜ囲いを厳重にし、権利・義務に縛られねばならないだろうか。
(中略)
 金の要らない楽しい村では、衣食住すべてはタダである。無代償である。
 元来誰のものでもない、誰が使ってもよいのである。みなタダで自由に使うことが出来る。
当り前のことである。
 誰一人として、権利・義務を言って眉をしかめたり、目に角立てる人はいない。泥棒扱い、呼ばわりする人もない。
 労働を強制し、時間で束縛する法規もなく、監視する人もない。〉
(山岸巳代蔵『金の要らない楽しい村』「総論」ー全集三巻所収より)


〇福井氏の新刊『〝金要らぬ村〟を出る…』について。
 本人のブログ『回顧―理念ある暮らし、その周辺』(73)「国家予算で国民の生活費を支給する時代!」で次のように述べる。

《それはそれで私に今がっしり取りついている〈観念〉はどえらいものだった。いわく
「国家予算で国民の生活費を支給する時代!」というのである。もっともこの生活費にプラス失業補償を組み込んでもいい。
 ふり返ってみれば私の79年の人生でも経験のないことだと思う。国家というものは国民から徴収するのが仕事であって、その逆はなかった。支給自体はあくまでその必要に応じて補助として支給されることはあっても、その名目は「生活費」自体ではなかったと思う。
 
 今ふり返れば懐かしいと思うものの私は年金が安くて、65歳支給を70歳まで延期したことがある。もちろんヤマギシを出てからである。この5年間は気が気でなかったとも言えるが、その結果生き延びてクソ度胸がついたともいえる。

 さらにもっと〈恐ろしい〉ことに、「金の要らない」村でざっと25年も暮らしてきた。いいかえれば共同体の予算で生活が保障されたのである。もっとも生活費が出たわけでなく生活資材が保障されたのだから、ある意味もっと便利? だったかもしれない。だからそれは「生活費の支給」ではない。そしてこの違いがこれまでどえらい違いだと勘違いしてきたが、いや紙一重の違いであることが見え見えになってきたと思う。

 いうまでもないがこの違いはスーパーがあいているか否かの違いだけである。ウイルスの進行が拡大してスーパーまで開けないとしたら、現物給与にきりかえるしかない。そうなると国家自体が全国民の生活保障体制に入ることになる。

 こうなるとこれまでのソ連型の社会主義どころではない。もっとすごい共産主義に近い体制になるのかもしれない。あるいはもはや国家なんてものに頼らない無政府社会になるかもしれない。となるとここではもはや体制だけの問題ではなくなってくる。

 これ以降になると私(たち)の年来の〈勉強〉が生きてくるかもしれない。要するに「金の要らない村」をどう作るかというテーマになる。

〈「金の要らない仲良い楽しい村」というのは、キャッチフレーズとして今でもかなりの傑作だと思っているが、これに「自由」を加えたい。自由性がなければ楽しくならないのだが、あえて強調する。また仲良い、楽しい、家族同然になる、その結果として金を個々に持つ必要がなくなる、という順番がありそうだ。ただこのプロセスは至難の道である。
いうまでもなく、そのために理念というものが一義となる生き方になるなら、お呼びじゃない。もちろんやむをえざる親愛の情にほだされての人間の共同については、これを否定する気は毛頭ない。しかしそれを意識的につくろうとは思わぬ。そのような心情が自然発生的に内発する地点に出会わないかぎり、それはどこかウソになる。〉
(「実顕地とは何だったか、2」より)》


 今度の福井さんの作品は、実顕地離脱後の何事もお金=賃労働を考えざるを得ない暮らしの実際を描くこととともに、同時期に離脱した仲間との交流を通して、20年以上暮らした実顕地の掲げる『金の要らない楽しい村』とは何だったのかと問うことになる。

 私見によれば、「村」の中では、お金のやり取りが介在しない暮らしを、ある種の不自由さを伴いながらも実現させ、その部分では曲がりなりにも居心地の良さを感じていた人も少なからずいたかと思う
 それは、構成員の“給料なしの働き”によって獲得した資金によって成り立ったのであり、「村」を離れた資本主義社会のなかでは、通用しないものであった。

 まずは、「働くこと(生きること)」と「生きるために必要な所得を得ること」を切り離して考え、「生存そのものを条件なしに一人ひとりに保障する社会」を推し進める、ベーシックインカム(BI)の実現は、多くの課題があるが、その第一歩だと考えている。

 さらに、「お金の要らない社会」を思う。豊かに生きることと、稼ぎ(お金)があること生産性があることとは、異質のことなのだから。

               ☆
★福井正之著『〝金要らぬ村〟を出る…』の新刊案内

f:id:hibihiko_ya:20200810072857j:plain
本書表紙

〇メインタイトル   「金要らぬ村」を出る…

〇帯表 「金無しで25年も暮らした。今さら外で金目当てに働く気がしないのだが…」
〇帯裏 「金の要らない村」に序列ヒエラルキーとさらに体罰まで生まれた。このまま受け止めるしかないのかと何度も自問したが、闘うという選択肢はなかった。〈村〉を出るしかない。
その仲間のことで私がもっとも驚いたのは、互いの口座番号を交換し合って、金を贈ったり贈られたりできたことだった。これって一体なんだったのだろう……

〇関連初期作品掲載  『息子の時間』 (2006年作)

▼購入方法  8月下旬(24日~)最寄り書店から。
その前に入荷の可能性もあるので、前もって電話で注文し入荷日に行った方が確実です。販価) 1000円+税

▼業者 (株)ブイツーソリューション   ☎052-799-7391 名古屋市
     出版社「お手軽出版ドットコム」とは別組織です。

▼作者関係ブログ   http://okkai335.livedoor.blog/
  作者連絡先     akkesi7816@outlook.jp