広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

矢野智司本かじり歩き(3)子どもの遊び領域

○矢野智司本かじり歩き (3)子どもの遊び領域 「贈与と交換の教育学」より
*『愛児へのおくりもの』について
先回、矢野本の「ボランティア」についての記述から体験学習の意味を考え、さらにそこからそれほど予測できたわけではないが、ヤマギシの学育、実学のテーマにまで考えを広げることができた。
おそらくそこからの自動連想であるが、私のアタマにかのヤマギシ幼年部の映像があれこれ揺曳してきたのである。これまでも矢野本の随所にあった「遊び」についての記述がつながりだしてきたということかもしれない。

そこで長らく読んでいなかった『愛児へのおくりもの』の自著の部分を通して読んでみた。そこで変な言い方だが、私にはかつて想像していたよりも面白かったのである。しかもその文体はほぼ現在とあまり変わっておらず、チョウ久しぶりに自分と再会できたような微妙な感激があった。
私が気になっていたのは、その記述の中のいわゆるイズム理念の優位性を説明する恣意性や短絡だった。なかったといわないが、それほど気になるものではなかった。ああいう場と環境にあった者の表現としては、かなり稀な抑制を感じたからである。いわゆるイズム信奉者以外でも普通に読める文章になっていたと思う。

もちろんそれには懐かしさからくる甘さがないとはいえない。ただその傍証の一つとして村岡本『ユートピアの模索』を挙げてもいいかもしれない。あの本は現在の私とは明らかに立場は異なるし<ヤマギシ御用達>の臭味もあるが、取材を受けたこともあり、彼なりの誠実も感じていないわけではない。その本のヤマギシ学育肯定面(批判面もある)の記述において、最初に『愛児へのおくりもの』からの引用がぼんぼん並んでいたのである。

彼は取材時に「感動した」と言っており、それがそのまま本に現われていたわけである。そのことを私自身どう受け取っていいか、今も複雑な思いが残る。
もっとも現在は大きなテーマだと考えている<親子の根源性>の問題については、当時の親たちの心配に配慮したそれなりの説明はあるものの、踏み込みは浅いと思う。
というのは私がそこに問題を感じたのは子どもらが家庭に帰ってから(特に幼年部を出て以降)の親子関係からで、当時は受け入れ現場だけ見て大丈夫だと安堵し、問題意識もその次元に止まっていた。

導入はそれぐらいにして、実はあの著で記述してきた子どもらの生活のみならず遊びが、矢野本の思想によって再検証可能な部分を相当程度感じたこと、それがこの稿の大きな動機であった。

*<有用性>という期待と子どもの本性
相当箇所を引用する。
「――遊びによって子どもは体を丈夫にするとか、役割と規則を学ぶとか、社会的な人間関係を豊かにするとか、自然や社会についての認識能力を高めるとか言われてきた。なるほど、このような指摘は、遊びの効用として主張する限り、どれもまちがっていないのだが、教育的効果という有用性が前面に押しだされることによって、遊びが本来もっているはずの生成の力と奥行きとが削減されてしまう。遊びの中心は、そのような<経験>としての側面にはない。遊びはもともと有用性の秩序を否定し、エネルギーを惜しげもなく過剰に蕩尽する自由な行為である。遊びは遊ぶために遊ぶのであって、遊びを超えるどのような目的ももっていない。」125p

この<遊びの効用ないし有用性>と<遊び自体の本来性>との峻別は、矢野思想の根幹をなしているものである。このような峻別の認識は、私のなかには幼年部発足時にもこれまでにもなかった考え方であった。ただ思い出してみればこの考え方の一端は学生時代から「本来、時間を持て余す子どもはいない」という観念として潜在していた。

『愛児へのおくりもの』を読みながら当時を思い返してみると、これは奇妙な推測になるだろうが、私ら大人が意図してきた有用性なる考えは、ほとんど子どものなかに浸透しなかったのではないかと考えられる。なぜならそこに「教育」の<教>があまりなかったからである。

普通、有用性を大人や教師が意図すれば、そこに意図、目的の説明、それへの誘導、達成度比較判定などの教育指導が頻繁にくり返されたであろう。ところがその対象は5歳児の子どもらである。
かれらやかの女らが作業着を身に付けて芋ほりに行く、あるいは三角筋をつけての食事準備をする。まさにスタイルとしては<有用性>そのものであったし、そこに私ら大人としての期待もあった。そして子どもらがほとんどその期待通りに<有用な>役割を担い、その技能を家に帰っても発揮できるほど身に付けていったことも事実である。

そこに幼年部への驚異や感動が生まれるわけで、私たちもそこに想定以上の成功感を覚えていた。しかし現在矢野論の認識を踏まえれば、そこに現出した事態はやはり子どもらにとっては遊びと同次元ないし、遊びそのものの世界だったのではないかと考えざるをえない。
最初に係りがちょっとやって見せるだけで子どもらに起こったことは、ほとんどは「やりたい、やりたい」一色だったが、この自発的な意欲こそ遊びというものの本質的な属性だったのである。

*作業は遊びそのものだった
当時、幼年部の子らが鶏舎から鶏糞を運びだし、栗林に撒く作業をビデオで撮って親たちに見せていた。その感想が以下である。(『愛児へのおくりもの』冒頭)

「全然つらそうじゃないのねえ。何か楽しさが伝わってくる。」
「やっぱり仕事じゃなく、遊んでるんでしょうねえ。」
「それでも全力を出しきってる。それがちっとも苦しそうじゃないのね」

また私自身の以下の記録もある(『愛児へのおくりもの』―戸外での実学と遊び)。
「いくら彼らがやりたがり屋だといっても、やるのはせいぜい1時間半、短くて30分くらいのものだ。しかし、ここには作業があり、学習があり、遊びがある。それらは未分化のままだが、それがいいのだと思う。」

その動きは確かに「未分化」といっていい。しかしその作業も学習もまさに遊びの範疇に入ってしまうのではなかろうか。
作業や学習のイメージからくる「やらせる」とか「しつける」という必要性がほとんどなかった。たとえそのような係の指導性が発揮されても、子どもらはどこかで付いていけなくなるだろう。子どもらはやりたい範囲でしかやらないし、またやれない。それこそまさに5歳の子どもの天性というしかない。彼らはそのいわば<心の物語>そのままを表わしただけであったと思う。

子どもらはたまたま大人が付いていて、大人から見せられた<仕事・作業>という遊び(あるいは<ままごと>といってもいい)をやってみたくてたまらず始めただけであった。そして実はその作業も、かれらが日常触れるブランコや自転車、花や虫や牛たちとまったく同列な遊びの対象だったのである。

矢野本の記述を紹介する。
「具体的な場面を思い浮かべれば、成長において子どもが関わるのは、人との社会的な関係にとどまるのでないことは明らかだ。遥か彼方の銀河から動物や虫や花や石、人間以外にも様々な事物や事象と関係を切り結びながら子どもは成長する。それだけではない。子どもは眼に見えるものを超えて、大人にとってはこの世に存在しないものとみなされているものとも深い関係を築き、その関係のなかで成長していくのである。」122p

「――いや正確には、今は活性化されてはいないが、子ども時代にはたしかに活発に動いていたというべきであろう。このような力は、どの子どもにも見ることができる。子どもは風が吹けば風になり、熊に会えば熊になる。」275p

作業でもその意味、目的として、かれらに日常感覚で入っている言葉は、「お役に立つ」などの<有用性>用語は少々難しく、せいぜい「仲良し」であった。
そこでの大人の役割とはちょっと<教育>ということばでは収まらない何か、調整役とでもいうか、相談役、準備役などと言ったらいいのかもしれない。その点でかれらが身近に実感していた世話係は「お母さん」だった。あるいはさらに時折必要なのは、ともに遊べる<遊びの大先輩>であったかもしれない。

5歳児からもう少し長じて、一般に子どもらが<指導>され、努力したり、頑張ったりして初めて、作業や学習が遊びから分離する。しかしその分離が幸福かどうか。いうまでもなくその遊び次元で、ずっと作業や学習を続けられる人もいないわけではない。そこに子どもらから人間としての根源的な課題を問われているような気がする。

*外せない「遊び」の根拠
私はそこでの世話係の資質というものを考える。たまたまその幼年部初代世話係のOさんは、<教えない>という点ではうってつけの女性だったのである。おそらく普通の幼稚園や保育園では子どもらを呼び集め、あれこれの「いけません」を声高にアッピールできる、いわゆる指導性なるものが求められるだろうが、彼女はそれが疑問視されるほどのやさしい人だった。
そして彼女や彼女を通して私たちが、<村>の大人としての期待をぶつけなかったからこそ、子どもらは遊びに専心し、結果として期待以上の<有用性>を培ってもいたのである。

この逆説とでもいうべき事態に、私は今さらながら深甚な意味を感じる。
それは上述の矢野氏の遊び観にフィットする境界線を指し示しているからである。しかもその微妙すれすれな一線を。すなわち子どもらがどのように作業や日常の生活技術に習熟したようでも、主体である子どもらは遊びを遊んだだけだったのだ。
子どもらの心に在った物語は栗さんや友との仲良しやお母さんの笑顔だったのであって、達成や習得という目的にあったわけではなかった。
そのことは矢野氏の言う、「遊びはもともと有用性の秩序を否定し、エネルギーを惜しげもなく過剰に蕩尽する自由な行為」という対極的な表現を借りれば、より鮮明になる。

さらに追加する。
「子どもの遊びは、例えば、ごっこ遊びにみられるように、<はいどうぞ>と差しだされた土の団子を前にして、<土だけど団子><団子だけど土>というパラドックスをやすやすと乗り超える。そして、子どもは、土の団子をまちがえて口に入れてしまうことなく、それでいて土の団子を団子と見立てることができる、自由で歓びに満ちた意味の生成の場を自在に生きる。
そこでは、自分が遊んでいるというより、遊び自体が生き物のように自己展開していく。そして、遊びのなかで、子どもは世界と自分とを隔てている境界が解けるという自己の溶解を体験する。このことにより、遊びの体験は、日常以上に鮮烈なものとなり、強い現実感を与えてくれることになる。」199p

そのことにどれだけ深い根拠を感じ、その意味を貫くことができたかという視点で、改めて幼年部というものを見直しみたくなってくる。
というのはそういうはっきりした自覚は私にもなかったし、そうである限り大人はいつしか<有用性という誘惑>に足をすくわれていくであろう。いわば有能で指導性あふれる世話係ほどその可能性は高いし、そしてそういう誘惑は学園当局や拡大部や親にも溢れていたのである。

*<有用性の誘惑>からくる目的の手段化
というのは、かの幼年部卒業生監督によるドキュメンタリー『アヒルの子』のなかで、私が違和感を覚えたのは、もう20歳前後の母親にもなっている元幼年部生に、オネショの記憶がかなり強いしつけを伴うマイナスイメージとして残っていることだった。
私はそういう現場は知らず、遊び的な子ども同士の研鑽方式で何とかなってきたという記憶(伝聞)しかない。
とはいえそれでも解決不能ないし、手が回らない状態でついつい即効的な<有用性>を求めての懲罰方式にとらわれたこともあったかもしれない、と思い至るのである。

ちなみに「個別研」のことを公表していただいたⅠさんの文の中でオネショが治らない小2の弟が「真っ裸で学育舎の裏に立たされて」という記述があるし、このような<野蛮>とも言いうるしつけは他の元学園生からも聞いたことがある。
ことオネショのことに限らないが、もしこのような日常的な急場の必要から、本来<遊び存在>である子どもをしつけることが先行、優先するようになっていったとしたら、おそらく幼年部<質>は成り立たなくなるのではないか。その兆候については、幼年部の人数が増え、係りの世話量が増えるにつれ、種々出ていたのではないかという危惧が残る。

それについて実はずっと気になってきた幼年部評がある。それは時期的にはかなり記憶が薄れているが、私の旧友が三重地区の幼年部を参観して、「子どもらはどうもモノトーンだな」という感想を伝えてきた。
それともう一つはこれも教育系の知人が地方実顕地の幼年部を参観した際、「どうも子どもらしく生き生きしていない。目が死んでいる」という厳しいものだった。
もちろんこういう感想は主観的なもので、時期とかタイミングとかいろいろ勘案しなければならないことであるが、「もしやとありうるのではないか」と思ったことがある。ただこの頃私は拡大専門で、学園の実態を確かめてみる機会はほとんどなく、かつまたそこまでやってみる必要を感じなかったのであろう。

ただそれ以来、子らにもよるが、親離れの虚脱やさみしさを受けとめきれない要素として、少数の係による<大部屋育児>があるのではないかという疑問を抱くに至った。
したがって現在ではあの『愛児へのおくりもの』で記述できたような質の子どもらの<楽園>は、初期のように子どもが小人数で、それに相応しいお母さん的な係(多めに)、さらに実顕地との里親的なつながりの存在が不可欠だったのではないかと考えるに至っている。

そしてその負の想像の膨らむところ、中・高等部の個別研や体罰にまで届いてしまうのである。
中・高等部生になれば作業はもちろん遊びの次元を超える。
ならば前回「ボランテイア体験」で触れたように、かれらの農業実学が単なる作業体験を超えて<純粋贈与の喜び>を体感することに、外すべからざる不動の根拠を置きえていたならば、と慨嘆せざるをえない。
おそらくそれも幼年部の遊びの世界と同質のものであったにちがいない。
しかし、それは幼年部ではおそらくそれほど顕在化しなかった<目的―手段の転倒>、特に顕著なのはジッケンチ内からの経営的要請に随順してきたことによって、あちこちにひび割れを生じてきたように見える。(続)
(2014・5・8)