広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎ヤマギシの<失敗学的>考察8

○ある元学園生と様々なことを交信する機会があり、いろいろのことを考えた。
その中で、山岸さんが「感謝なし」と書いたことが間違いのひとつかもしれませんとあり、その後の連絡で、山岸巳代蔵の『人間の知能』にでてくる「感謝のない生き方-----」の一節が大層気になっていたと言う。

これは、『ヤマギシズム社会の実態─世界革命実践の書─』の「知的革命 私案(一)12.人間の知能」からのものだ。

《私は感謝のない生き方で、感謝したり、感謝されたりしようと思いませんが、生きていることに感謝している人には、朝から晩まで、寝ている間も、先人に感謝の連続でしょう。衣服・住家・踏むコンクリートにも感謝し、食物・容器に感謝し、水を汲み上げ、マッチから火を出すことを教えた人に、物に感謝し、本の紙・字を考案し、郵便制度を考え、電灯・ラジオを、それからその元の元を考案した人に、見るもの触れるものみな感謝であり、誰か見たこともない人の知能に感謝することです。
 世の真実を悟り教えた人に、豆腐・こんにゃくの考案者にも、私の永年の弱腸を快調にした陀羅尼助薬を創り出した人にも、一粒ごとに多謝多謝でしょう。
 謝意の如何にかかわらず、力の百年は人知の一瞬に及ばず、一人の一回の頭脳の働きは、百万年、幾百万億人に幸福を齎し、永遠に消えないでしょう。》

この文章の趣意は、「人間の知能」の働きは連鎖関連的に「幸福」を齎すものだと述べているもので、〈私は感謝のない生き方で、感謝したり、感謝されたりしようと思いませんが、〉以下の文章にあると、わたしは考えている。(接続助詞の「が」は逆接の意)

「人間の知能」の文章は、山岸巳代蔵独自の表現方式で「感謝なし」とは言っていないと思う。

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山岸巳代蔵の考え方で〈無我執。〈無所有〉〈無中心〉〈無重力〉〈無時間〉〈権利なし〉〈義務なし〉など、「無・なし」の言葉がよく出てくる。
私たちが実際の生活の中で「お守り言葉」(先回の考察7で触れた)のごとくよく使っていたが、これらの言葉の意味するものをじっくり探ることはなく、あたかも分かっているかのように使っていた。

今の私自身は、山岸巳代蔵の思想を考察すのに大きなポイントになるのではと考え、これらの意味するものを探り深めることは大切にしたいと思っている。
その場合、我執・所有・権利・義務など、どういうことなのかと考えることから始まる。

一方で、あらゆることに感謝することは大事に考えていて、「感謝なし」とは全く思わない。
ただ、他人に感謝することは大事であるなど言うつもりはないし、それぞれの心の底において置くだけだと思っている。

どちらかというと私自身はそれほど多感ではないが、心の底から湧き上がってくるときに、「ありがとう」というような気持ちが出てくるときが、近来増えている。
むろん、「人間の知能」で山岸さんのいう「感謝のない生き方」をしようと思わない。

山岸巳代蔵は次のよう述べる。
「ヤマギシズムを知り、これこそ絶対だという人が沢山あるが、そうキメつける処に宗教・信仰・盲信形態が生れる恐れがあり、そう思い込んでキメつけるなれば、既にヤマギシズムでなく、こうしたヤマギシズムの考え方そのものをも、正しいか正しくないか分からないから、尚調べていこうとする考え方がヤマギシズムだと思う。ヤマギシズムがよいとキメつけない処がヤマギシズムだと思う」(「山岸会事件雑観」)
「ヤマギシズム」を山岸巳代蔵と置き換えてもいいし、どんなに自分が信頼を置いている人の表現であろうと同様に思っている。

山岸さんが言っていることでも、今のわたしはそう思わないことはいくつかある。
この文章はともかく、山岸さんの言動にはいくつか「どうだかな」と思うところがある。
それが人間・巳代蔵さんの面白さでもあり、それを含めて考えていきたいと思っている。

『山岸巳代蔵全集』の刊行目的もそのことが大きな要因の一つだった。
実顕地の数々の失敗も、山岸巳代蔵の思想を、おかしなところを含めてきちんと検証しなかったことも大きなことだったなとわたしは考えている。

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参照:知的革命 私案(一)12人間の知能
 猿に自転車の練習をさすと乗れるようになり、インコは人語を真似ますが、物を考え出し、創作する能力が低いばかりに、人間のように文化生活が進みません。
 人間と猿との知能が反対であったなれば、人間の生活力は猿より劣り、食は作らず、寒さに弱くて、棲息地帯は狭くなり、子は自活するまでに年数がかかり、樹上にも泊られず、逃げ足遅く、爪牙も持たずに、獅子・狼に絶滅されていたでしょう。
 水に入れば、魚や蛙にも劣り、蝗ほども跳べない人間が、潜水しつつ、洋上・空中さえも、食べながら、読みながら、寝ながら移動が出来るのは、他の動物と、知能の働きのみが異う結果に外ならないもので、将来には、月や星の世界へも行きかねないでしょう。
 肉体労働なれば、いつまでも稼がねばならないでしょうが、頭脳は何を考え出すか、ただ一人の、一回だけの考案が、永久に万人に役立ち、いずれは、衣食住用物資はほとんど稼がなくても、自由に得られるでしょうし、疾病から身体を護り、長寿を全うするようになりましょう。

 私は感謝のない生き方で、感謝したり、感謝されたりしようと思いませんが、生きていることに感謝している人には、朝から晩まで、寝ている間も、先人に感謝の連続でしょう。衣服・住家・踏むコンクリートにも感謝し、食物・容器に感謝し、水を汲み上げ、マッチから火を出すことを教えた人に、物に感謝し、本の紙・字を考案し、郵便制度を考え、電灯・ラジオを、それからその元の元を考案した人に、見るもの触れるものみな感謝であり、誰か見たこともない人の知能に感謝することです。
 世の真実を悟り教えた人に、豆腐・こんにゃくの考案者にも、私の永年の弱腸を快調にした陀羅尼助薬を創り出した人にも、一粒ごとに多謝多謝でしょう。
 謝意の如何にかかわらず、力の百年は人知の一瞬に及ばず、一人の一回の頭脳の働きは、百万年、幾百万億人に幸福を齎し、連鎖関連的に永遠に消えないでしょう。
 
 これほど輝かしい実績を遺し、立派な希望さえも期待される実現力を持つ知能を具えながら、心理的方面の解決が甚だしく遅れ、かつ社会構成の真髄を掴み得ないで、人間社会に紛争が断たれず、不幸から脱却できないとは、省みて辱しい限りです。
 私は人間の持つ知能は、必ずやこれくらいのことは容易に解決し得るものであることを、堅く信ずるものであります。
 これには必ずその原因が介在し、これを除去することは、神仏等他に絶対者があるとしても、それらに何事もなし得るものでなく、人間を幸せにするものは人間であり、その知能であることに間違いなしと断定しております。
 このことが判りながら、いつまでも苦悩を続けていないで、今こそ、ただちに持てる知能を働かせて、真実の社会にしなければならぬ秋(とき)でしょう。

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この項を読むと、山岸さんは「人間の知能」に全幅の信頼を置いているように感じられる。
これまでの歴史的な人類史をみると、人間の知能が深まったとはとても言えない。
「人間の知能」は飛躍的に文明の進歩を齎したが、その時々の人々の「知能の用い方」によっては、悲惨なことも数々起こっている。

「知能の用い方」は、それを用いる人々の心のあり方でもあり知能の一部ともいえる。
この時の山岸さんは、文明の発展、科学技術の進歩、人間の知能への重要視などについて安易ともいえる楽観視をしているようにわたしには思える。

しかし、山岸巳代蔵52歳の1953年に山岸会が発足し、それに関心を持つ人が増えてきつつある翌年「『ヤマギシズム社会の実態』」が発表された。この私案は(本稿未完)になっていて、山岸巳代蔵が1954年の段階でこのように考えているというのをわずか10日余りで書き上げたと言われている。

1954年という時代には、そういう風潮が少なからずあったと思う。
その頃、北朝鮮を理想の楽園と言っていた人が学者にもかなりいたが、そのことだけで一人ひとりの評価はできないと思っている。
山岸巳代蔵に限らずどのような人でも、時代の影響を受けながら思想形成をしていく。1954年に書かれたもの読み込むためには、想像的にも1954年に自分の身を置いて考えていくことが大事ではないでしょうか。