○ある元学園生と様々なことを交信する機会があり、いろいろのことを考えた。
当時の「ヤマギシズム学園」(1980年代、90年代)の暴力「殴る」などの話だ。
当時の学園を推進していた人やその人らを支えていた世話係は、そうすることが学園生にとってよかれと思っていた人がある程度いたのではないだろうか。
学園生たち一人ひとりの違いを認め成長を願う以上に、将来の実顕地を担う人への願いが強かったのではないだろうか。その頃の学園全体の集団心理の気風もあるだろう。
そうした意味では、ある集団の指導者が、その所属する人たちに求めること、あまり変わらないと思う。
それと求め方が激しいと、異様なやり方と人を産み出すことになる。それは特定集団の場合も同様である。
だが大きな違いは、ヤマギシズム実顕地の目標は、「親愛の情に充つる安定した快適な社会を人類に齎すことを趣旨とする」との「幸福会ヤマギシ会」のもととされるヤマギシズム理念を実生活の全生活面で顕現していこうとしているところの生活体だ。
だが、「ヤマギシズム」そのものが分かりづらいものであり、その提唱者である山岸巳代蔵も同様に分かりづらい。
一方、「ヤマギシ」の考え方などに共鳴し、あるいは魅力を覚え、わたしをはじめ多くの人々が参画し、多くの会員を産み出してきた。
しかし、「特別講習会」や「研鑽学校」を経て熟慮して参画しても、ほんの入り口であり、ヤマギシの生命線だと考えている「研鑽方式」で各種の物事を進めていくことひとつとっても、日々の取組の蓄積がいる。
そこでは「暴力」などは生まれようがない。
まして10歳代の学園生の殆どの子は親にともなって連れてこられたか、あるいは熱心な会員さんに勧められて学園生になった人たちである。
ヤマギシ学園は、教え育てる「教育」ではなく自らが学び育つ「学育」として子どもたちを見ていこうという「学育理念」で始まった。
だが、その頃の学園は、もっともらしい理屈を並べ、ひたすら世話係の意向に合わせ恣意的に子どもたちを動かし、それに従わないと説教・殴る・蹴るなど執拗な折檻に及ぶこともあった。
当時の学園世話係の少なからずの人は、反抗的であろうとなかろうと、どの子にも、ひとりひとり精神的な人格者として見ることをしなかったのではないだろうか。