※「失敗学的考察」をブログに投稿してから、様々なコメントや意見があり、テーマからも様々な方の思いがあり、その一部を適宜記録していこう考えている。
その中から「ヤマギシグループ」に投稿された武和さんの記録を一部転載する。
武和さんは自ら立ち上げたFBのコミュニティに彼のヤマギシ観を何度か投稿している。
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○武和定道さんの投稿から
ヤマギシが失敗したかどうかは、それぞれの意見があり判定し難いところがありますが、
私の個人的見解では、ヤマギシの根幹である特講については、高く評価しています。
ただそのヤマギシの世界を、顕現化しようとした村は、失敗だったと思っています。
特に失敗を認め改革しようとしなかったように私的には観えていました。
そこが大きな過ちだったと思っています。
今も現在進行系なので今後どのように成って行くのかわかりませんが、私の知る今までの村の姿はヤマギシズム理念が充分活かされていないように見える。
今は私のいた頃から変化しているようですが、
私が居たころの村は、内部統制や外部に対しての方策としてヤマギシ理念を利用し押し付けてきた感がある様に思います。
20年余り前に私はヤマギシズムと村の考察として小冊子を作りました。その一部を末尾に転載して置きます。
失敗学というのは失敗から学ぶという姿勢だと思いますが、今まで数限りなくそのチャンスは日々あったはずですが、研鑽、研鑽と言いながら、全く研鑽して来なかった結果ではと私は思っています。
それは主に村を推進して来た幹部に大きな過ち、傲慢、問題研鑽の欠如、村理念に盲目であった事が大きな要因だと思います。
私も勿論含めた疑義を感じた村人が声をあげるのを躊躇した事もあると思います。
集団の中での疑義の声、手をあげるのは大変な事です。又その声はその人個人の問題と捉え村の問題としては捉えて研鑽してこなかった。
私は参画した折上司からとにかく何でも出されたものは食ってくれと言われました。消化出来なくても、私的には食って来たつもりです。
沈黙は金なりと言いますが、それが毒にも成っていったのだと思います。
多くの村人が離村したのはそれぞれだと思いますが、一つは村での窮屈感があったのではと思います。
私の場合は、ある面で特殊だったかも知れませんが、娘を亡くしイコールで離村した訳では有りません。
きっかけにはなりましたが、一つはその後親が具合が悪くなり、親の事も看れたらと、親の居る地域の供給所を提案した所、それが通らず、では今回は親を優先して、ヤマギシズム内用生活からヤマギシズム外用生活に変え村生活を休業しますと宣言して、村を離れました。
もう1点は、私は村で娘を亡くすという辛い体験をしましたが、そんな体験をした者が、特に村には必要という気持ちもありましたが当時の私の感覚では限界みたいなものも感じていました。
そこは今思うと自分が村での生活を試された結果だと思います。
離村した当初は、親が片づくと嫁さんと話して戻っても良いという気持ちでしたが、村を離れる時一月分の生活費20万円を貰い税金についてはその都度話していきましょうと云う事でしたが、実際は、話しにならず、とても高給取りだったので、大変でした。
そんな事もあり、戻る気持ちはなくなりました!
その親の件と税金で大変嫌な思いをしたのが村に見切りをつけた事に繋がっています。
ただヤマギシズム理念については、多くの点で認めています。
そんな事から今でも機会が有れば、村に顔を出して居ます。辛い場ですが、多くは素敵な人の集まりだと思っています。
金のいらない仲良い楽しい村という看板今は、無いようですが仲良い楽しい村にと云う想いは持っています。
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それに続いて、文中にも紹介されていた1998年11月に作成した小冊子から一部抜粋の記事あります。
それについては、<ヤマギシグループの交流の場>をご覧になって下さい。
https://www.facebook.com/groups/334119399658056