◎ヤマギシの<失敗学的>考察6
鶴見俊輔氏は様々な角度からヤマギシズム社会の可能性と危惧することを度々述べている。
この稿では、ヤマギシズム運動誌『ボロと水』第1号所収の「ヤマギシズムの本質を探る」での鶴見俊輔氏の発言を見ていく。
『ボロと水』はヤマギシ会発足から18年経て、提案者山岸巳代蔵の思想をソシャクし、それを絶対視や固定することなしにたえず前進していく性質のものとして、1972年刊行されたもので、1973年第5号まで出版された。
その中の「ヤマギシズムの本質を探る」は、『ボロと水』の一つの柱として、座談会形式で研鑽していく機会を設け、巻頭記事として第5号まで掲載された。ここに、鶴見俊輔氏や見田宗介氏が参加して、ヤマギシ会メンバーと鼎談を繰り広げている。
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【座談会「ヤマギシズムの本質を探る」〈第1回〉
・「集団の暴力性」とは
〈集団だけに慣らされた人間は、去勢された人間になる可能性を含んでいる。強い人間がつくれない。個人にも集団にも限界があって。それは両義的に捉えねば------。〉
鶴見:「問題はしかし、どっちの極にいっても、限界があるんですよ。集団には集団の限界がある。集団は自然に集団の暴力性ってのを持ちやすいんだ。つまり強制するっていうかな。集団の多数による強制って、出ると思う。そうするとね、考え方の枠が決まっちゃうの。ちょっと違う考え方をしようとする人間を、何となく肘を押さえる形になって危ないんだ。それはね、その集団のいき方は間違いだっていうふうなことをいい得る強い人間をつくらなくなってしまうわけよ。
だから集団だけに固執するとすればよ、だんだんとより多くの集団である国家に閉じ込められちゃってね、国家が「中国と戦争しよう。これが自由のためだ!」といえばね、集団だけに慣らされた人間はね、山岸会員であっても、のこのこと一緒にくっついていくような、去勢された人間になっちゃう危険性がある。」
W:「でも個人の意志が尊重されればね、集団であっても別にかまわないと思う。」
鶴見:「そのところは、とても、非常に難かしいねえ----」
「集団は集団で暮らしている中に限界があるので、個人でなければやっていけないような、つまり、集団から離しちゃう個人というのを、繰り返しつくって、個人でも立っていけるような人間っていうのを、繰り返し突き放してやっていかなきゃ----。春日山でしか生きられないように人間になったら、危ないわね。これは結局ね、日本の政府に飼い馴らされちゃう。」
「だから個人にも限界があるわけ。集団にも限界がある。そういうふうに両義的にとらえて欲しいんだな----。」
「だから原則はいいんだ。このテキスト(『ヤマギシズム社会の実態』)に書いてある限りは原則ってあるんだ。だが実際問題の運営でいうとね、研鑽会でもさ、やっぱり多数の暴力っていうのか、やっぱり、各所に現れてきているね。」
・「研鑽のよって立つところ」
鶴見:「ひとりで生きられない人間が、こう、たくさん寄るとねえ、そこに集団の暴力性が出てきますねえ----。」
「そういう人間ってのはねえ、他の個人より多く狂信的でねえ、「この意見は決まった。正しいんだ!なぜ分らんのか」と、いたけだかになる形の人が多いんですよ、それは。威張り返るってのは大体そうですねえ。自分の考えを自分でやるという、こう考える人間ってのはねえ、そういうことを普通はしないもんなんですがねえ----。だから、そういう集団の暴力性を排除するっていうか、その悪はねえ、刈り取るわけにはいかないとなると、それを弱めるためにも、なるべくひとりで突き出していくし、ひとりでやらなきゃしょうがないんだということを、何度も何度も徹底的にやっていかないとですね------。
集団と個というのは逆の極になるんでしょう。どっちにいったて限界があるんですよ。集団が一枚に固まっちゃったら、もう集団そのものが自滅しますよ。そういう問題があるわけ。だから、集団をつくろうと思ったらどうしても、こう、個に返すということを、繰返し繰返し突き放してやっていかなきゃあ----。そうしないと普通、集団の自己陶酔が始まるんですよ。」
(「ヤマギシズムの本質を探る」『ボロと水』第1号、ヤマギシズム出版社、1971より)】
私が大きな問題だったなと思っているのは、専門分業による「任し合い」の考え方、あるいは「忖度」の感情だ。様々なことを「任し合い」で分担して、事を進めていくのは、共同体の大きな力にもなるが、「任し合い」ということで、自分が担当している以外の、見過ごしてはいけないことへの鈍感さをもたらすという負の要因もある。
振り返ってみると、他の部門の人たちの言動について、たとえ違和感を覚えても、ことさら異を唱えることを控える。あるいは、何か深い考えがあってそうしているのだろうと、実顕地の目指している方向や中心になって進めている人たちへの根拠のない委ねなどがあったと思う。
その集団でのある方向の考え方に対して、とりたてて違和感を覚えない限りさして気にならないが、一旦疑いが出て、それを突き詰めていくのはある程度のエネルギーが要る。さらに、その集団の方向に対し間違いだっていうからには、それなりの覚悟がいる。
まして、同職場での発言力の強い人、多数の意見に対し、じっくり考えた末「それはおかしよ、間違っているよ」と面と向かっていうのは、相手にそれを受け止めていく器量がないと、かなりの緊張を強いることになり。結局何となく肘を押さえられる形になってしまいがちになる。
一方、強い発言あるいは多数意見に後押しを得て、より強い言動、ときには極端なものになっていくような人もでてくるだろう。この辺が鶴見氏の指摘する集団の暴力性だと思う。
自分のことを振り返ると、「実顕地・村」では、アドバイスは受けたが、最終的にはそのとき精一杯考え中心になって自分なりに考えてやっていたつもりだが、「ここでは」どんなふうに考えるかなとの思いがついて回り、やはり「他律性」のある暮らしであったと思う。
「実顕地・村」の規模が大きくなるにつれて、他律的な色合いが濃くなっていった。
実顕地から離脱して、もっとも大きな変化は、自分の足で立ち自分の頭で考える「自律性」のある暮らしになったこと。それに付随してある種の解放感を味わった。
個人はもちろん、小さな家族であろうと共同体や大きな集団だろうと、人と人の関係は「自律性」のある個人が主体性に他との調和をする「自立性」のある人になって同格で関ることが基本となる。家族から大集団まで貫く大切なことだと考える。