※『思想の科学』に掲載された「子ばなれと親ばなれ』は、後の「ヤマギシズム学園」に繋がる親たちや熱心なヤマギシ会会員、および『幸福学園』設立運動に共鳴する教育関係者などの気持ちと共通するものが多々ある。
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『子ばなれと親ばなれ』
二、自由への旅立ち
こうして、さやかは友人のKさんに触発され、親を説き伏せ、日本からははじめてのサマーヒル学園の生徒として入学することになった。
Kさんは両親といっしょに一足先に渡欧していたから、さやかはひとりで羽田を飛び立って行った。小学校を卒業した年の五月であった。外国旅行も飛行機もはじめての彼女は、何が何だかさっぱりわからなかったにちがいない。パスポートというものを教えられるままにフトコロ深くしまい、これから行く国のお金の単位がポンドだということも、飛行場でお小遣いを両替する時にはじめて知ったらしい。
ノホホンとしたものであった。とにかく地球の裏側へと飛んで行ったのである。サマーヒルから「さやか無事安着」の電報が届いたときには、さすがにほっとした。 「小荷物がなくならなかったことネ」と、私たちは笑い合った。
その後、このことを知った人に会うたびに同じようなあいさつを幾度となく私は受けた。
「イギリスへご留学ですってねえ」「たった二人のお子さんなのに一人を外国に? しかも娘さんをねえ!」「奥さんお強いんですねえ。子どもをあんなに遠くへやるなんて・・・。もっともお宅のお子さんはしっかりしてらっしゃるから・・・」
私はその度に口ではもごもごいいえとか何とか言いながら、心の中で呟いていた。
――なけなしのお金はたいてやるんですよ。しかもわざわざ資格の取れない学校へ。留学なんてものじゃない、学校から逃げ出したんですヨ。
子どもの数が一ダースでもいれば一人ぐらいどうなってもいいというのかしら。男の子なら遠くへ行けて女の子は行けないって誰がきめたのかな。お強いっていうのは、どうやらは薄情ってことらしい・・・。
うちの子がしっかりなんかしてるもんですか、人前でものを言うのが何より嫌いな子だし、乗物の中に忘れものをするのは得意だし・・・。
しかし、中には私たち親子のやり方を理解しようとしてくれた友人がないわけではなかった。ある母親は言った。
「pTAやサークルの中で、ほとんどご自分の子どものことを語らなかったあなたの考え方が、やっとわかったような気がします」
「何ひとつ強制されない学校、その代わり何ひとつ資格の取れない学校、これこそ真の自由な学校ですね。そこへお子さんをやったということは、太平洋の真ん中に筏で放り出したも同然ですよ。ほんとうの自由を知るには、それが必要なんですね。けれど私の子どもをそうさせる勇気はない・・・」と。
またサークルの学習仲間である教師(かつてさやかの担任でもあった)は、ある文章の中でこんなふうに紹介した。
「家を遠く離れて、異なる国家の下で暮らすこと、異なる民族と共に生活すること自体の中に教育を求めたということも勿論あるだろう。しかし何より、子供が何としてもそこへ行きたがっていることの中に、わが子の発達の可能性を見たし、親としてそれを保証してやろうと決意したに違いない。そしてその底には、学校が私たちを教育したのではないという、学校についての苦しい思いがあるし、今の日本の学校も親たちのそうした学校観をくつがえすにいたる現実を充分につくり出してないということがある」
どうも過分に評価された気がしないでもないけれど、いわれてみればみんなその通りかもしれなかった。彼女自身は、いま自分がどんなことをしているのかも知らず、太平洋の真ん中で波に揺られていい気持になっているのだろう。しかし私はわが子の航海の無事と安全だけを祈る親にはなりたくなかった。
三、マイホームから木賃宿へ
さやかが、こうして日本の公教育に見切りをつけたか、あるいは脱走したのか、ともかく何の未練も残さずに行ってしまったことについて、よいか悪いかは別として、何が彼女をそうさせたか、親の一人として考えてみた。
少し大袈裟な言い方をすれば、やはりこれは親子合作の航海プランだと思うからである。
娘が生まれたとき、私は親に似ぬ子であってほしいと思った。少なくとも母親の私には似ない方がいいと思った。名前は私がつけた。「さやか」とつけた。新古今和歌集に出てくる「秋来ぬと目にはさやかにみえねども・・・」のさやかである。
親が子にたくす願望を名前に表現することがあるというが、私もさやかは――はっきりした子になってほしいと願ったわけである。
親の私は、自分でもあまりはっきりした人間ではないと思っている。その私には似ないで、姿かたちも、気質も、行動も、ウヤムヤにしないではっきりして欲しいと願ったのである。あとは何も望まなかった。将来何の職業についてもよかったし、どんな方面の技能や趣味を身につけてもつけなくてもよいし、ましてどんなおヨメさんになってもならなくてもよいと思った。
私たち夫婦は、これといった育児方針はなにも持ち合わせていなかった。また、将来の家庭設計なるものもなかった。
私自身も、娘に続いて息子が生まれた時、それまで娘を近所の小さな無認可保育所に預けて、続けていた共働きを、さっさと止めてしまった。経済的にも間尺にあわないと思ったし、体力の点からも自信がなかったからである。
いわばゆきあたりばったりな生き方であったから、子どもにも積極的に、これだけはさせようとか、させまいとかということは何もなかったのである。何も決めない気楽さだけがあった。結局そんな家庭の中でついでに子どもも育っていったといっていいだろう。
この稿を書くことをすすめてくれたN氏と話していて、子育ての間どういう時に怒りましたか、と聞かれた時、私は答えられなかった。怒ったことがないほど出来た親ではなかったのだが、どういう時にと覚えていないのは、一本筋を通した子育てではなかったということだろう。
「猫と一緒に暮らすには」という文章を読んだことがある。猫ほど人間におもねらない勝手気ままな動物はなく、猫は飼うものだはなく、いっしょに暮らすだけだ、というのである。私も子ども育てたのではなく、子どもといっしょに暮らしたのである。
だからわが家は、子ども中心でもなければ親父中心でも、母親中心でもなかった。大人の来客の多い家だったけれど、子どもたちのたまり場でもあった。近所の子どもたちがよく集まって来て、家の内も外も常に賑やかだった。
とくに自分の家ではやらせてもらえないドロンコ遊びや水遊びをやりに来た。客を通す部屋にさえ壁という壁は落書きだらけになった。そうぞうしい中で父親は自分の楽しみとして本を読み、ものも書いた。だから私は自分の都合だけで子どもに注文をした。
「うるさいから少し静かにして」「ちらかしたものを片付けなさい」などと。
近くには子どもたちの祖母をはじめ、若い叔父叔母がいてよく相手になってくれた。またすぐ近所に、めっぽう子ども好きの年寄夫婦がいて、赤ん坊時代には毎日のように抱いたり負ぶったりしてお守をしてくれた。とくにさやかは、ヨチヨチ歩きが出来るようなると一人で出掛けていっては、この年寄夫婦の供応にあずかっていたらしい。
学校教育には大いに不満を持っていたので、せめて害の少ないところと思って、幼稚園から世田谷区にあるW学園に入れた。少し遠かったけれど電車で通わせた。そこで幼稚園の時から二、三泊ぐらいの合宿で親から離れての集団生活ができるようになった。むしろ親の束縛を受けない解放感を覚え始めたのではないだろうか。
その頃から、私が夜の会合などで外出することが多くなり、子どもたちだけで留守番することがあった。そんな時「お子さんだけで留守番ですか。エライですねェ」。
私は冗談半分に答える。「中国の毛沢東主席の子どもは、革命戦争の間両親と離ればなれになって、浮浪児同様の生活を送ったそうですよ」と。
しかしそんな時、たいてい近くに住む祖母が、そっとのぞきに来ていてくれたらしい。私は見て見ぬふりをしていた。
ふつうの訪問客の他に、ヒッチハイクで遠くからやって来たという若者とか、明治時代の革命家で八○歳を越えた老人とか、泊り客が多くなっていった。中国人、朝鮮人、印度人の友人知人もよく来た。またお坊さんでアメリカ人というヘンな外人も来たりした。
そのうちベトナム戦争の脱走兵が来た。野球の長島選手のファンだというのんきな脱走兵は、片ことの日本語でわが家の子どもたちとトランプをして遊んだりして数日間を過ごしていった。そのうち学生運動の救援の仕事もするようになって、ますます人の出入りが激しくなり、家で会合もよく開かれた。
また週二回開かれる朝鮮語講習会の会場にもなった。
子どもたちにとって家庭は親子四人が仲良く寄り添って暮らすところではなくなり、いろいろな人間と付き合う社交の場となって行った。大勢の人間が通り過ぎてゆき、自分達もその一人として暮らすところであり、母親は保護者としてあまりアテにならない存在だと映ったにちがいない。
私が若者の世話をやいていると、息子はよく「オレにも早くメシを食わせろ」と食ってかかった。我が家は木賃宿のようであった。それもいっこうに儲からないどころか、ソンをする木賃宿であった。
四、日本にサマーヒルを
昨年の七月、私たちはヤマギシズム運動の機関誌『けんさん』につぎのような広告を出した。
「土地を探しています。義務教育にとらわれず、真の人間解放をめざす学校設立のため土地を探しています。自然に恵まれ公害のないところなら交通不便も可。三千~一万坪。坪千円以下を希望。耳寄りな話があったらご紹介下さい」
さやかがサマーヒル学園に行ってからすでに二ヵ月たち、こんな手紙が来るようになっていた。
「手紙ありがとう。あいかわらず元気です。家から送ってきた本は『夜明け朝明け』と『一房の葡萄』を読みました。こっちはやっと少し温かくなってきてカーディガンをぬいでもいいぐらいになりました。もうとっくにプールはあいているけれど、私たちはとても寒くて泳げません。それからここの子どもたちは水着を着ていません。十歳ぐらいの子ははだかの子が多いし、十一歳以上の子はパンツ一枚か半ズボンで泳いでいます。
この頃は、まるっきりいじわるな子はいなくなりました。すごく嫌な子も今日は、日本の切手をあげたら喜んでていねいにお礼を言ってくれたし、他の子もいじわるどころか親切にしてくれる時もあります。年の大きい男の子も、この前野球に誘ってくれたし、十二~三の男の子も、よく遊んでくれます。女の子とはもちろん毎日話したり遊んだりしています。女の子はもともといじわるはしなかったけど、でもまだ授業に出る気は全くなし。もちろん英語の勉強はたのしい。アレインは毎日毎日私たちのところにやってきて『アイアムハングリー キャンアイハヴスウィート』といって、あめやキャンディーをねだります。今日は朝あけたばかりなのに、くれくれっていってききません。
学校の理科室にはオタマジャクシがいます。ガマガエルのみたいに黒くて、それより大きいみたいです。まだ手も足も生えていません。それから学校の中にも外にも道にも花はいっぱい咲いています。学校の向かい側には線路があるけれど、いままで電車が通るのを見たことはありません。線路わきにもマーガレットがいっぱい咲いています。どの家も庭に花をたくさん植えています。学校の中や道にはえた花はおし花やドライフラワーにしているので、日本へもって帰ります。それから海に行った時拾った石も。海は静かで貝はなかった。石はほとんど茶色っぽい。車で二十分ぐらいだった。
そろそろ日本の食べ物が欲しくなった、。毎週来る日本人の女の人はおにぎりを作って来てくれるけど、日本より米がまずい。学校の食事でもたまに出るけれどまずい。今日、イナ(注*ニイル夫人)が日本のおせんべいを買って来てくれた。”日東あられ手焼きみりん”と”日東あられせんごく”というのだった。
前後するが、私たち夫婦は一昨年の五月と六月に、ヤマギシズム特別講習研鑽会(以下特講と呼ぶ)に参加した。この「特講」というのは、受講者と推進・進行の役をつとめる係が一週間寝食をともにしながら、つぎつぎに出されるテーマについて徹底的に話し合い調べ合う講習会であり、討論の場であるが、その「特講」受講後、私たちの生活――目に見える生活は勿論、見えない部分も含めて――は大きく変化した。
なかでも夫がトラック二杯の専門書をある公共機関に売って、その金でヨーロッパ?・ヒッピー旅行に出掛けたことは誰にでも見え、したがって私たちの子どもにも見えたであろう。
その、父親のヨーロッパ旅行の間、私と子ども二人は学校の夏休みを利用してヤマギシズムの生活に多少触れる機会を持つことが出来た。私は研鑽学校という、半日労働をしながら、ヤマギシズムとは何かを調べ自分自身の生き方を考える二週間の過程を終了し、その間子どもは、ヤマギシズム豊里実顕地(三重県津市にある)で生活した。
その後、私が「特講」の係を役として参加している間、子どもたちがヤマギシズム林間学校、つまり小・中学校の「特講」に参加したのである。
子どもの「特講」は大人と同じテキスト、同じテーマで、やはり係のお兄さんと話し合う会である。小学校六年だったさやかが、そこで何をどう感じとったかは知る由もない。それから半年後に彼女がやった脱学校・脱家庭・脱日本という行動に、その影響があったかどうか、それもわからない。
前述の土地探しの広告を出してから一カ月の後、山岸会でも数年前からヤマギシズムによる独自の学校構想が持たれているということがわかり、私たち夫婦だけの、日本にサマーヒルを、という夢はさらにふくらんで、一体生活を基礎にしたコミューン学校を、と発展して行ったのである。そして私たちは家や財産はもとより、私たち自身をヤマギシズム一体生活の中に投げ込んで生活そのものを理想の学園づくりに打ちこもうということになった。私達が十五年間住んだ街の名が永福町、山岸会の別名の幸福会、二人だけで決めていた呼び名も永福学園から幸福学園へとかわり構想はひろがっていった。
五、私の幸福学園運動
親や社会の手で作られたエスカレートに乗ることを拒否し、その代わり自らの足で歩かねばならない道を娘のさやかが選んだ時、実は親である私自身、少なからぬ解放感を味わったのは何故だろうか。
子どもが小学校にいる間、私は教師とはよく話し合い接触の機会を持った。比較的自由な雰囲気のある学校だったためか、一人一人の教師の考えかたや教育思想を子どもを通してだけでなく、じかに触れることによってよく理解でき学ぶことも出来た。PTAなどでの教師とのやりとりのなかから、理想と現実の間で格闘する教師の姿に親近感をおぼえたり、また今日の世相の深い病根をかいみ見る思いがして絶望感にとらわれたりした。
父母会ではこんな場面がよくあった。
――先生、うちの子は私のいうことはなかなか聞かないのですが、先生のおっしゃることならよくききます。勉強するように先生がきびしくしつけて下さい。
――このクラスの学力は遅れているんではないでしょうか。公立の学校ではもっとすすんでいるようです。やっぱり教科書通り公立でやっていることは皆やっていただかなければ困ります。
――できない子に合わせてのんびりやっていたら進学出来なくなりませんか。受験のことも考えて下さい。
――もっときびしく鍛えて下さい。そうでないと社会に出てからが心配です。
先生の理想はよくわかるのだけれど現実はそう甘くはない、というわけなのである。だから、「いま」を少々犠牲にしてもつらくても、「将来」のために親も子もがんばらなくっちゃ、というのだ。
そういえば娘のことを、あう人ごとに言われた「おエライですね」という言葉の裏には「いまそんなに遊ばせておいていいんですか」があったわけだし、将来のことを考えてやらない親への批難があった。私はそのたびに「盲蛇におじずでして・・・」などいっていたが、考えてみると本当にその通りなのだと思う。
親の私に将来の計画や展望がちゃんとあって、計算の上でこの道を選ばせたとは思えないし、まして彼女自身においておや、である。いまやりたいことをやっているだけなのである。
サマーヒルに行くと決めてから、さやか自身もずいぶん友達から言われたそうである。「サヤ、自由な学校へ行くのもいいけれど、やっぱり勉強しておかないといまに困るんじゃない?」と。彼女がそれになんと答えたは知らない。
わが子が理想的に育つことを願わなくなった親たち。現実社会への適応出来る人間にとだけ願う大人。現実社会への適応ということは、「進歩的」な教師も強調する。どんな現実にぶつかってもそれに負けない柔軟性と、思考力をやしなうのが教育です、という。
しかし私はこの辺で首をかしげる。この不幸な社会に適応できる柔軟性とか思考力とはいったいどこまで子どもたちの幸福を保障するのだろうか、と。
子どもが社会に適応できないような理想的な人間になっては困る大人たちは、このままの不幸な社会が続くことを望んでいるのではないか。私は大人たちの間にわずかに残っている理想をかきたてて、いまここで、この悪循環をたちきらなければならないと思うのである。今の大人たちが、不幸な社会に適応しているからといって、子どもたちにその適応能力を、それだけを伝えることが、教育のあり方だろうか。ニイルはその著書でいっている。
「現在においては自由の子ども、自立の子どもといい得るものはきわめて少ない。だから自由の子ども、自立の子どもを説明しようとすると試験的に推測的になるほかない。そういう子どもを育てる結果は、新しい文明を生み出すことになるとも考えられる。しかもこれはいかなる政党が約束する新しい社会よりも、はるかに大きなものを意味しているのである。」
みんなが本来持っている理想や良心や能力が活かされる社会、そういう人間関係を作ろうというのが、幸福学園運動である。大人がそういう人間関係を作り上げていけば、子どももそのような人間に育つ。幸福な人間とは、よりひろい人間関係の中でもっともよい関係を保ちあい、自立する人間なのだと思うのである。
不幸な時代の不幸な親たちから自立しようとする姿を、私は自分の子どもに見たと思う。
さやかは家庭の親や弟、そして長い間付き合ってきた友人や教師などの世界から、さらに広い人間関係を求めて飛び立った。そこは仲良くし、よい関係を保っていなければ生きていけない世界である。
息子の方も自分から希望して、東京の中学へ通うために親類の家に下宿している。叔父・叔母・従姉妹たちと仲良くうまくやっている。親とだけつきあっていれば食べさせて貰える時代から子どもたちは卒業した。自立への道を踏み出したのだ。
子どもはもともと親から離れ自立していくために生きる生き物ではないだろうか。はじめは部分的に、時間を区切ってそれを試して行く。いままでの教育のありかたは、その足を引っ張っていたのではなかろうか。
親自身が足を引っ張られて育ってきたために、それを子どもにバトンタッチしているにすぎない。では親自身は何から自立するのか。それはいまの不幸な社会と人間関係の中のもたれ合いをやめ、子どもから自立するのである。
少なくとも、自分以外のものに責任をなすりつけることをやめ、子どもにそれを背負わすことをやめるのである。親自身が自立しようとしない限り、子どもは自立しないだろう。
幸福学園運動は、親が子から、子が親から自立する運動であり、そしてそういう人間が集まって理想社会を作ろうとする運動である。 (完)
※新島里子『子ばなれと親ばなれ』(月刊『思想の科学』・1973年11月号)