広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎私のこと、ブログ「広場・ヤマギシズム」のこと。

〇5年前に始めたブログに、ヤマギシ関連のことを述べると、そういうお前は何なんだと言われることもある。
 これまでも断片的に触れているが、簡単に私の来し方、主にヤマギシとの関わりを振り返る。といっても記録を残していなくて、曖昧な記憶を頼りにしている。

 1947年、福島須賀川で生まれた。通俗的な言い方になるが、小さい頃ことばがまともに喋れなかったことを除いて、ふつうの家庭環境でふつうに育った。両親や叔母には、よく見守っていてくれたという思いがある。

 18歳頃、社会的な問題に関心を寄せ、しばらく三里塚の援農支援に加わり、その後何かを求めて、沖縄各地に放浪していた。

 その後、釜ヶ崎で暮らしていた1975年27歳の時、特別講習研鑽会(特講)に参加、続いて北海道試験場(北試)の研鑽学校に参加、すぐに参画した。その頃の北試に魅力を覚えたのが大きな理由の一つである。
 北試では、主に分場の姉別農場で酪農に従事していた。

 その頃、ヤマギシは有精卵をはじめ、ミカン、豚肉などの供給活動が始まり、北試では肉牛部門をたちあげ、牛肉を供給に乗せようとの機運が高まり、私に声がかかった。

 関東方面で屠場、肉卸などを手掛けていた肉屋に見習いを1年程して、ヤマギシの牛精肉部門を立ちあげたときは、30歳になっていた。

 その後20年程、牛精肉部門を中心になって担ってきた。
 実顕地の経営にとってかなり大きな部門となり、さまざまな役割についたが、そこにもっともエネルギーを注いだ。実際に牛の解体作業に携わったのは、ゆうに1万頭を越えているだろう。


 1987年から10年程、豊里実顕地の人事として活動した。実顕地全体の「本庁」の人事にはなっていない。

 そこで、その頃実顕地全体の中で大きな影響を及ぼしているS氏や同じく学園に大きな影響を及ぼしているN女史などと、よく一緒になった。

 人事の中では主に、新参画者の受け入れ、「予備寮」の世話係、その頃増えていた青年の受け入れ、「青年研修所」の世話係をしていた。

 その後、「振出寮」の世話係、学園でやれなくなったいわゆる実習生の世話を、妻としていた。
 また、「村」を辞めたくなった子どもの受け入れ先、就職先を一緒に尋ねたりしていた。

 私の子ども3人とも、「学園でやる資格はありません」「ここではやりたくない」とのことで早くから「村」を離れているが、私の中では「村」でやれたらいいと思う反面、いろいろな人と出会い、さまざまな体験をすることが大事と思っていて、「学園でやる資格はありません」といわれた子に、それなら外でやろうと、知り合いのところに連れて行った。
 その後、機会を作っては、受け入れ先の挨拶も兼ねて、子どもと会っていた。

 1997年、振出寮から戻った真夜中に倒れて、そのまま2か月程入院した。主たる病因は肺気腫。

 それ以来、豊里人事を外れ、やがて牛精肉部門を後任に引き継ぎ、研鑽学校(主に振出寮)だけにして、宿舎も研鑽学校のある「村」に移る。
 2001年に参画を取り消し、離脱した。

 なお、牛精肉については全面的に、予備寮、振出寮については、アドバイスは受けたが、最終的にはそのとき精一杯自分なりに考え、中心になって行っていたことで、人がどのように感じようと一切反論しようと思わない。

 離脱後は、新聞の配達業務をしながら、同じころ離脱した仲間といろいろ模索していた。

 割合すぐに、介護支援の仕事につき、その職場には男の介護士は私一人で、困難な事例にあたる人などはよく回ってきて面白かった。

 しばらくして、重度心身障害者支援、養護学校などに関わるようになり、その後、二人暮らしが難しくなった90歳過ぎの妻の義父母と暮らすようになった。

 一方、2003年から『山岸巳代蔵全集』の刊行・編集委員として8年程関わったことにより、ヤマギシズム運動、実顕地の経緯について、「あれは何だったのか」「その時の自分はどうだったのだろう」と自分の課題として考えていた。

 また、元の親しい仲間と会うと、その頃の話になることが多かったが、そのよう事を話題にする人も少なくなっている。


 義父母が亡くなって、家の整理をして、当地に越してきたのは5年前。
 それ以来体が思わしくないこともあり、収入のある仕事についていない。
 また、ブログ「わえいうえを通信」は、その年に入って始めていた。

 最初は何もかも一緒に記載していたが、3年前から、日々の暮らしで考えたことと、ヤマギシ関連を分けて記録している。むろん厳密に分けることはできないが。

 今の私にとって、日々彦「ひこばえの記」は、日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだしてゆくことの妙味を大事にしているブログと思っている。

 ここにきて、二人目の孫の誕生、二歳近くの孫の成長、親しい人の困難な状況や死が続いていること、私の難病の症状が進み妻の支えがないと暮らしていけないことなど、生きて死んでいくこと、夫婦とは、家族とは、それを支える社会とはなど、とりとめもなく思っている。

「広場・ヤマギシズム」は「ヤマギシ」に関心のある方、研究者に参考になればいいという位置づけで、責任というか、実顕地が変質していた渦中に、中心になって進めていたものとして、『山岸巳代蔵全集』の刊行・編集委員として関わったことなどにより、記録に残しておく自分の役割はあるのではと思い、随時書いている。
            ☆

 わたしの好きな哲学者に鶴見俊輔がいる。このことは鶴見氏だったらどのように見るかなと、度々ブログに取り上げている。その中から、次の記録をあげる。

《マルクス主義というのは、You are wrong でしょ。あくまでも自分たちが正しいと思っているから、まちがいがエネルギーになるということがない。
 しかし、思想の力というのはそうではなくて、これはまちがっていたと思って、膝をつく。そこから始まるんだ。まちがいの前で素直に膝をつく。それが自分のなかの生命となって、エネルギーになる。
(略)
「私はI am wrong だから、もしそれらから「おまえが悪い」といわれても抵抗しない。この対立においては、結局決着はつかないんですよ。私がYou are wrongの立場に移行することはないし、You are wrongは私の説得には成功しないから。」
(鶴見俊輔『言い残しておくこと』(作品社、2009年の第二部「『まちがい主義』のベ平連」))

 
 鶴見氏の「I am wrong」の心意気にはとても及ばないが、心に置いておきたいと思っている。

◎(付)「息子の時間」を読んで。(福井著『「金要らぬ村」を出る…』より)

※本書は「手記」のようだと考えるし、著者は誠実に書いていると思うが、誠実であろうとなかろうと、実際にあったこととはずれてくる。少なからずフィクショナルな要素も入ってくるかもしれない。
 ここでは、あくまで作品に描かれたことに即して見ていこうと思っている。


 本文は《自分の息子が自分の思い描いていた像とはまったく似ても似つかない存在に育っている、と気づいたのはいつの頃だろうか? 》との書き出しから始まる。

 これは息子との交流の物語であるが、語り手のとらえる理想社会の変質にも抱いた感情であり、物語の前半では、息子との行き違いと同時に、理想社会のこと、その変質がきめ細かく語られる。

 本作は、語り手「おれ」が理想を覚えてG会に一家を連れて参画した時の小さな息子が高校生になったとき、G学苑になじまないまま、Gの「村」を出ることになった。

 おれは、G学苑幼児部の創設の方にも奔走していて、息子が「村」を出ることに危惧をいだいて、長い説得をするが、息子は「おれはここでやっていけん」とぽつりと云う。それでまたおれの長い語りがはじまるのだった。つまり平行線が数日続いた。息子は、親の描いた理念の世界とコトバでは届かない、自分の未だコトバにならない世界を呼吸し始めているようだったとおれは思う。結局息子は「村」を出ることになった。

 ところが、一七歳の息子と会ったとき、仲間や寄る辺となる、ある家庭などにより快活に育っているのを見て、対等に向き合い、息子の存在感を覚えるようになり、自分の子供時代から青年期への成長を振り返ることで何かしら同質のものが流れていることを感じるようになる。

 一方G会は、おれがかなり長い間、かってない理想社会への大壮挙と思っていて、そこに自由で平等な社会の雛型を見ていたが、組織が巨大になる同時並行に、そこも序列化とトップダウンの管理社会を形成して大きく変質していった。
 指導部の選任・解任も形式化し、衆知を集めるとされた研鑽会も整理・専門化され、全体で運動のビジョン、路線について論議すべき場がもはやどこにもなかった。

 そしてそこを離脱することになる。

《 おれには「村」の内情が、蓄財へと結果する無限運動に従属しながら、そのことに無自覚な「理想に燃える」働きアリの巣に見えてきた。公開された情報のもと、理想への沸騰する想像力を村人挙って集中する機会があれば、たぶんちがって見えたことだろう。しかしそれを喚起したかつての理念は、もっともらしい宗教教義か、こじつけに、威容を誇る大食堂や生活施設はただの金に任せたガラクタに変わった。
 なんのせいか、はたまた誰のせいか不明だが、見た目の壮大さに反比例してなにかが停滞し鬱屈していた。おれは呼吸困難を覚え、ともかく一息つきたかった。当時企画された都市居住の村外活動はおれには格好のはけ口となり、それに乗って「村」を離れた。そこで元村人たちとの遠慮のない交流に触れ、それによって得た少しばかり多様な視点と置かれた距離によって、かつての疑惑は確信に近いものに変わった。その後、しばらくして参画も取り消した。》

 
「村」離脱後になって、「親」として息子と、より「純粋」に向かい合うことになったと思う。そのことを実直に赤裸々に明かしながら、臨場感のある描写は心に迫ってくる。


 ここでは後半の「村」離脱後の印象的な場面を見ていく。

〇息子の「街の親」
《自分らの生活に余裕がないのに、妻は息子に些少の金品を贈り出した。息子がフリーターの暮らしを続けていたということもある。その最初が布団だった。電話での息子との話から、「村」を出たときに持っていった布団をぼろぼろのまま使っているらしいと推測したのだ。これまでなにもしてやれなかった、という自責の感情が彼女から溢れ出すようだった。あったかいすよ……、息子は素直に感謝の弁を伝えてきた。》

 それからしばらくして息子と「村」で出会うことになる。息子たちが東京で世話になっていた岩城さん一家がG会に参画していて、その岩城さんが肝臓ガンで病没した。

 岩城さんはG会のいわゆるシンパで「村」と行き来があり、「村」の学育にいて街に出ていた仲間がよく集まっていて、その子どもらの世話をなにかと心がけていた。

《おれたちは大阪から、息子は東京からM県の「村」の葬儀に参列した。もはや短髪の普通の勤め人の姿だった。
「いや、もうロックどころでなくなってきたすよ」と息子は苦笑した。ご多分に漏れず生活に追われ出しているようだ。息子はお通夜で缶ビールを祭壇に捧げた。村人は酒タバコをやっていなかったから、それは目立った。岩城さんと一緒にビールを酌み交わした街での思い出があったからだろう。翌日息子は一緒に世話になった若者とともに棺を運んだ。その印象はおれには鮮烈だった。》

 この場面はとりわけ印象深い。
 疑問を覚えて離脱したおれたち夫妻、学苑に馴染まなく高校生のときに「村」から出た息子、岩城さんに世話になった元学苑生の若者たち、その人らを温かく包み込む「村」の気風がふつふつと伝わってくるような場面だと思う。

 お通夜で、酒タバコをやっていなかった村人の中での祭壇に捧げた缶ビール。元学苑生の若者たちによって岩城さんの遺体が入った棺が運ばれた場面は読んでいても映像がまざまざと浮かんでくる。


〇離脱親元にやってきた息子
《(二十九歳の》彼は意外なほど冗舌な一面も見せたが、反面なにをするでもなく沈黙したまま狭い台所の椅子に腰掛けたまま過ごした。瞑想しているか、ぼんやりしているか分からないたたずまいで。
――おまえはなにをするでもなくどこへ出かけるわけでなく、ようそんなにじっとしてられるなあ。
――そう、そうなんすよ。こうしてるのが好きなんすよ。いろいろ聞こえてくるというか、聞いてるというか……
 不意に息子の過去の姿が蘇ってきた。あのバス停で、なにをするわけでもなくぼんやりと地べたを眺めていた息子が。》

 息子中学生の時の、バス停での場面でのおれの思いは次のようなことだった。
《おれは、なにをするわけでもなくここに座っていた息子の時間を思った。それはぼんやりととりとめのない時間以外に考えられなかった。えらいボーとしたやっちゃなあという印象だった。》

《あの時には気づかなかったが、息子のそのいわば覇気のなさは、環境にがんじがらめにされた諦めによるだけではなかったのではないか。
 おれは街に出て仕事を探し始めた時、面接の結果を待ちながらまったくなにをすることもなく日を送らねばならなかったことがあった。------なにをするか考えるのにも疲れ本やテレビにも飽き、ぼんやりしてまったく時間の流れに身を任せていた。いわば自己を放擲していた。

 空に漂う翩翻たる雲を眺め、近くにあった沼の風に揺れる波形を眺め、彼方の高速道に渋滞する車の遅々とした動きを眺めていた。いつしか夕日が沈み、辺りが暗くなっているの気づく。こういう時が経つのを意識しなかった時間、そのことでかえって、ああ「時間」とはこういうものかと感じる。すなわち無為の充実とでもいうものを、その時になって初めて知ったような気がした。
 その瞬間瞬間に、おれの感官の奥深くに感応するなにかで時が止まり消える。そしてそのなにかとともに流れ漂いどこかに運ばれていく感触。それは微かで取り出すことも滅多にできないが、その感覚を手がかりに外界を把握し、自分なりの世界認識が広がっていきそうな気さえしてきたのだ。》

 このような無為の充実を味わうことにより、次のような述懐をする。

《そうか、おれは若い頃あまりにも学ぶこと、すなわち外から知識や情報を吸収することに走ってきたのではないか。振り返ってみれば、こういう「ぼんやり」はおれの中高校生時代には知らなかったものだった。たぶんおれには受験勉強があり、暇があったら英単語を覚えるという脅迫観念がおれの生活を支配した。
 その後の学生運動も教師生活も、暇があればなにかをやっていなければ気が済まない半生を過ごした。「村」での生活も基本的には意識生活の連続、一日二四時間全てに理念、イズムを顕わす生活だった。G会の「進展合適」の理念は本来自然適合性を指していたのだろうが、「成るのではなく為す」「合うのでなく合わせる」という方にウエイトがかかっていた。》

 本文から私が思うのは、理想社会づくりに燃えていた頃の息子への見え方に対比して、そのようなことがなくなった離脱後のおれの息子への見え方が、極端に違っていること。
 
 また、高齢になっての離脱後の厳しい状況であることゆえか、G会にとどまらず現社会の「する、なす、進めること」に力点を置く傾向を問いかけるものになっている。

 それにしても息子の「ぼんやり」は、どのような「時間」なんだろう。
 また、本書全体にも言えるが、この辺の描写の確かさ巧みさを思う。


〇息子の境地
 本作は親子との短い会話のやりとり、それについての親の感慨が語られ、随時心に留まったエピソードが入り、「息子の時間」「ぼんやり」「悠揚な言動」などが語られることで、前半部分の重苦しさが、後半はのびやかになってくるような気がする。

《そういえば二、三日前にも、あれっと怪訝に思った息子の物言いがあった。妻はなにかのきっかけで、おれの薄くなった髪や顔の皺やシミをからかった。
――なんか汚くなって、もっと昔はいい男だったのに。契約違反よねえ。
――そんな云い方するもんやないすよ。人生の風雪に刻まれた勲章なんすよ。
 妻もちょっとあっけにとられて、へーおまえ面白いこと云うねえ、というしかなかった。しかしおれは、父親としての自分を許し認めてもらったようでうれしかった。同時にその物分かりのよさ、さらにはそのGイズム的な発想(あるいはその歪曲)が少し気になった。》

《もっとも息子は、少しばかりおれに同情し、人間老けてくるとそうなるという世間知を婉曲に持ち出しただけかもしれない。息子も「村」を出て十年以上たっているから、音楽のメッセージその他によって自ら思想形成してきた部分も大きいだろう。

――おまえにとってもう「村」は過去のものだと思ってきたが、そこで身に付いたものもかなりあるんか。
――あんまり意識したことないが、なんかあるやろ。なんせポン友のほとんどは昔の学育もん、すよ。なんか切れない。今のシャバはおれらに生き辛いところがある。だからついつい寄るんすよ。おれは結婚しとらんが、子どものいるヤツは子どもを育てるならやっぱあんな環境がいいというの。

――へー、昔は「村」の方が生き辛いと思って外に飛び出したんやろ。
――そりゃあ出てみて分かることもある(と息子は言う)。おれもずっと住むならかなわんが、一時的ならあんなところもあっていいと思う。親父たちがそこへ行こうとした気持ちは分からんでもない。》

「学育もん」というのは、「村」での学育は、小学校就学一年前から親から離れて合宿生活をやる寄宿生活体というものだった。そこで、育ち合ってきた仲間たちのこと。

《息子は別にG会の理念を身に付けているというわけではない。ただ親から離れた子ども集団の寄宿生活で身に付いたなにかがあるようだ。そこで教育され仕込まれたものではなく、いわばワルガキ同士寄った解放感と連帯感のなかで培われてきたなにか。それが彼のいう「学育もん」という呼称にこめられた共有感覚なのだ。世間での波風多い体験がそれを郷愁のように析出したのだろう。おれは自分の学生時代の、寮生活のことを思い出していた。個室などはない五人部屋だった。おれが対人赤面症と吃音を克服したのは学生運動だけでなく、あの寮での仲間たちとの親密な暮らしがあったからだ。》


 最期は、岩城さんの葬儀で、「村」で借りた式服を着ていいなと思ったこともあるのか、おれたち夫婦と息子とで式服を買いに出かけた場面で物語は終わる。

《おれも試着をして鏡の前に立ち、外に出ると妻は上から下へとじろじろと眺めた。
「馬子にも衣装、カンリインさんにも衣装、まっいいか」
 息子は云った。「オヤジ、サマになるじゃん」
 その声はなんの屈託もなかった。そう、サマになるか。おれはなんとなく安堵し嬉しくなった。サマにならない人生のささやかな慰めだった。それでも息子は少しばかり照れていた。もちろんおれも相当照れていた。ヘンな親子だと思った。》


 本作は新刊『「金要らぬ村」を出る…』に添えて、掲載された。
 よく取り上げられる諺にベンジャミン・フランクリンの『時は金なり(Time is money)』があり、現社会での時間論では、かなり社会への影響があるし、一人ひとりの意識の上でも根強いのではないでしょうか。

 だが「時間」は、過ごし方により豊かにも貧しくもなる。「時間」の持つ豊饒さや奥深さを考えると、本来的にお金には換算できようのないものと考えている。
  
 本作の一つの大きな特徴は、息子のゆったりした「時間」が描かれ、そこからかもしだされる悠揚とした言動により、期せずして、現社会で根強い「時は金なり」の社会観をはじめ、現社会の「より早く、便利、効率的」に価値を置く傾向を問いかけるものになっているように思う。

◎ある夫婦の物語。(福井著『「金要らぬ村」を出る…』より)

〇本書を通して、私の関心は大きく二つある。
(1)ヤマギシズム社会の『金の要らない楽しい村』、実際の「村」のなかでは、お金のやり取りが介在しない暮らしと、「村」離脱後の何事もお金=賃労働を考えざるを得ない暮らしとの違い。

(2)ヤマギシの「村」にいる時と離脱以後の世間での暮らしで、家族、親子、人と人の関係などが、どのように変化したのか。
 むろん、一人ひとり「村」での生活でも、離脱以後の世間での暮らしでも、大きな違いはあるだろうが、私が知っている範囲のことを通して見ていく。

 私の場合もっとも大きな変化は、自分の足で立ち自分の頭で考える「自律性」のある暮らしになったこと。それに付随してある種の解放感を味わった。

「村」では、自分なりに考えてやっていたつもりだが、たえず「ここでは」どんなふうに考えるかなと思いをはせる、「他律性」のある暮らしであった。
「村」の規模が大きくなるにつれて、他律的な色合いが濃くなっていった。

 個人はもちろん、小さな家族であろうと共同体や大きな集団だろうと、人と人の関係は「自律性」のある個人が主体性に他との調和をする「自立性」のある人になって同格で関ることが基本となる。家族から大集団まで貫く大切なことだと考える。

 特殊な共同体を考えるとき、「一つの大家族」というような比喩で語られる。
 だが、規模が大きくなってからのヤマギシの「村」の中では、家族のつながりはとても薄く、各種手続きをはじめ、衣食住のことを専問分野の人の「任し合い」で、ほとんどのことを、個々人として「村」の一員として向き合う暮らしである。

 一方、世間の暮らしにおいて、特に厳しい生活状況の中では、多くのことを夫婦で向き合うことになる。あまり厳しい状況とは思わなかった、私たちもそうであった。

「村」では「ここでは・われわれは」の中での「わたし」であり、世間の暮らしでは「わたし」と「わたしたち夫婦・家族」が密接につながっている。
         ☆

 〇本作『「金要らぬ村」を出る…』から主に夫婦の触れ合いを通してみていく。

※本書は「手記」のようだと考えるし、著者は潔く素直に書いていると思うが、著者が誠実に書いていようとそうでなかろうと、実際にあったこととはずれてくる。無意識にフィクショナルな要素も出てくる場合もある。ここではまず、あくまで作品に描かれたことに即して見ていこうと思っている。


『「金要らぬ村」を出る…』は、20年献身的に打ち込んできたJ会(※ヤマギシの「村」)に疑問を感じて離脱した後の、何事もお金=稼ぎを考えざるを得ない暮らしの実際を描くこととともに、家族との関わり合いや仲間たち(といってもあまり接点のなかった)との心温まる交流を通して、次なる明日に向けるようになっていった。という作品ともいえる。
  

 本作は主人公の置かれた簡単な状況の導入から始まり、二「アリとキリギリス」で夫婦の触れ合いが描かれる。

《「もう気が付いてもいいでしょ。いつまで好き勝手にキリギリスやってるの。わたしはもういやだよ。老後に備えて、いまからなら間に合わないかもしれないけど、まだ働ける間はアリさんにならないと」
 こうまで言われてしまえば、おれは生返事を決め込むわけにはいかない。手を止め靖代の方に向き直った。
「おまえはそういうが、人間はただのアリのまま死にたくないというへんな生き物でもあるんだよ。自分のやりたいことをやって死ねるなら本望だ。あの童話に間違いがあるとしたら、あまりにもキリギリスを哀れっぽく描きすぎることだ。ほらあのタイタニックの楽団員たちは、船が沈没する寸前まで楽器を放そうとしなかったじゃないか」》

 という大人げない理屈を並べる夫(主人公)と、実生活に根付いた奥さん(靖代)のやりとりから始まって、次の展開になる。

《「よく言うよ! いちばん寒がりでいちばん大食いのあんたが。おまけに昼日中から呑んでるじゃない。男なら女房子どもに心配かけないようにしてよ。それができないあんたのために、なんで私がご飯つくらにゃあかんの。人間やりたいことだけやってたら生きていけないんだよ」

「やりたくないことはやらんでいいよ。飯ぐらいなんとかするわ……」
「ほんとう? あんたそんなこといっていいの」》

 実生活の厳しさを感じながらも、自分の夢を追い続ける主人公と、実体に即して的確に生活者として困難を乗り越えてゆこうとする妻・靖代の葛藤が続く。


 三「前史」で主人公はこのように語る。
《私のなかに意味不明の余白が広がり、総括・反省への飢渇が前進への欲求にブレーキをかけ始めた。この二〇年はいったいなんだったのか? 共同体Jへの自分の献身はなんだったのだろう、それにどんな意味があったのか?
 これまではJで救われたと思ってきたが、考えようによってはそこで人生を棒に振ったといえないこともない。なぜJ会はこんなことになってしまったのか? 勧誘してきた同調者、追随参画者への、さらに係暴力が問題となった子どもらへの自責感、自己批判も含め、J会の総括、すなわちその<裏切られた革命>について様々な問題を考えざるをえなくなった。》

 また、四「村から町へ」で次のことが述べられている。
《私はいったんは自ら放棄していた読み、かつ書くことを必死に始めようとした。本は高価で買えなかったが、幸い街には図書館というものがあった。それは実は整理総括の欲求を越え、なにかを必死に取り戻そうとしたともいえる。これまではタブーとして蓋をして失われ、忘れてきたこと、やりたかったことが渦巻いていた。》

 まだこの頃は、生活の厳しさ以上に、上記の思いでいっぱいだったのだろう。


 この物語は、主人公の「私」の語りで展開する。
 妻とのギクシャクした関わり合いにおける感情の変化を赤裸々に明かしながら、臨場感のある描写が続くが、妻・靖代の存在が物語の深みを添えている。

《私がムラを出て四、五か月経った頃、ムラを離れた仲間たちと連絡が取れ始め、有志による〈淀川グループ〉と名づけ、それぞれの暮らしや老後などを忌憚なく話すようになり、私はこの楽しさ懐かしさはなんだろうと訝んだ。そして、それぞれに口座番号を知らせ合うようになり、時々互いの口座に正体不明の金が振り込まれた。
 それは娘がムラを出て転がり込んできたばかりの後で、その送金に私は感動したが、靖代は「なんかママゴトじゃないの」と笑った。》

 この娘の同居、その屈託のない存在は、この一家にある種の明るさをもたらした。


 このグループとの老後の暮らしを語るなかに、「しかし靖代のなかにはなにか堅固なものがあると思う。もう三十年以上も一緒に暮らしながら、私にもよく分っていない。」との書き出しのJ会離脱前のことが語られる。

《私は共同体にいる間何度か、靖代の深層にあるその堅固な常識的エゴイズムを崩そうとした。やんわり批判したつもりだが、彼女はとことん責められたと感じたのだろう。それは私への靖代の根元的な不信感を引き起こし、いまに至る後遺症になっている。》

 ここでは、靖代のことをよく分かっていないのに、根元的な不信感を引き起こすようなことを何度もする主人公の傲慢さを感じる。 

 本作では主人公が靖代をどのように見ているのかと思いながら読んで、どうも一面しか捉えていないように感じた。
 私は、厳しい暮らしの中でしたたかさに生きている靖代の存在により、一家を生活面でも精神面でも逞しく支えているとみている。


 懇請していた「村」からの援助金への話に絶望した主人公と靖代の会話がある。

《「結局はもっと稼げということやろ。なんとかするよ」
「そんな言い方をされると私一人が悪いみたいね。私は必死に働いてるのよ。あんたのように余裕なんかないよ」
 私は黙っているしかない。靖代のこの街に出てからの必死さというものを知らないわけではない。彼女は私と同じくハローワークに並ぶ苦労も、金銭のやりくり参段も二〇年にわたって知らなかった。彼女の街暮らしへの無知からくる不安と心労は、どちらかといえば気楽、無頓着な私の想像を超えていたにちがいない。》

 そして、ニューヨークの世界貿易センタービルなどへの連続テロ攻撃事件の翌朝、靖代は次のようにいう。

「よーし、私も決めた。あんたたちが、好きなことをやるなら私も好きにしていいのね。今日から私はあんたたちのご飯を作らないから、洗濯もしないから! それからあんたは頼りになれないから、お金も別々にするからね!」

 その後、それぞれが適当に自炊し、主人公のわびしい食生活が続く。


 ある日、グループから「どこか二人で温泉旅行に行ってきてよ」という内容のFAXと、かなりの額の金が振り込まれていて、山陰方面への夫婦温泉旅行となった。

 十三「〈新しい街〉とやさしさの磁場」で靖代から声がかかる。
《「混ぜご飯を作ったけど食べたけりゃ食べていいよ」
 炊飯器から立ち上る煙は、鰻のにおいを漂わせていた。お前の料理がなくてもへいちゃらだよ、というポーズをとり続けてきた私もこれにはイチコロだった。

 しばらく口ごもったあと、靖代はなにげなく訊いた。
「ハイウエーの集金の仕事って大丈夫なの。排気ガスがもうもうとしてるし、これからは吹きっさらしで立ちんぼだよ」

 私が勤務している警備員の仕事は来年三月で契約切れだった。
「あんたは肺が弱いんだから無理せんとき」
 鰻のにおいといっしょに吸い込んだなにかで胸が蒸せた。そして目元が熱くなった。靖代の優しさを感じたのだが、ただそれだけではないような気がした。

 私は思う。ふだん疲れ固まっている私はそんな涙もろくもないし、やさしくもない。もう歳で涙腺が弱くなったせいだろう。ただなにかに触れたような気がする。やさしさの磁場というのか。それはたぶん悲しみと不幸の場に虹のように架かり、触れるとやさしさが吹き出す。やさしい人に育たなくとも、やさしい人になろうと取組まなくとも、やさしい人になれと強持てに迫らなくとも、その場に触れたらだれでも吹きだすやさしさ。やさしさがないのではない。たまたまそういう場に出会わなかっただけかもしれない。》


 日々の暮らしの中で、いろいろな人との触れ合いで、「やさしさの磁場」をビンビン感じるようになっていったのだろう。この辺の巧みな表現は、本作の醍醐味である。

 読み応えがあったという私の妻は、この場面に限らず本作を通して「靖代さんは偉いね、このような状況下での踏ん張りに、したたかな意識を感じる」などという。「私だったらこのような亭主(主人公)についていけるだろうか」ともいう。

 十四「生活援助金受領」では「J会」から主人公一家への援助金の受領の話があり、「終章 漂泊へ」となる。

 娘さんは関西空港発の旅客機でデザインの勉強をしにアメリカにいき、主人公夫妻は六九歳まで勤務できる「夫婦住み込みマンション管理員」の職が決まり、今夜の天王寺発の夜行バスで湘南に向かう。


《「あの子はたしか窓際だったよね。今どの窓にいるんだか……」と靖代は旅客機の窓の一つ一つを覗うように見るが、この位置からは人が居るなんの痕跡も見えない。
「いやあ、こっちのことなんかさっぱり気にしてなんかいないやろ」そう、私ら親なんかふり返るな、子どもはそれでいいのだ。

 ほどなく飛行機はとぼとぼと頼りなげに動きだし、滑走路に入り始めた。いったんそこに入った飛行機は、先ほどとは打って変わって雄叫びを上げて飛びかかって行く巨獣のように、轟音を上げて白い路を驀進した。雲は夕陽になぶられてオレンジ色に発色し、そのなかを飛び立った飛行機は白銀色に輝いた。そしてたちまち空の彼方に消えた。
 やおら私たちは展望台から降り始めた。幻想を抱くことがなければ、これからの私たちを待つのは<今浦島>の死ぬまで続く漂泊の旅だろう。たしかに《淀川》グループとは切れるが、あそこはメンバーの紐帯や組織が至上の場ではない。私には各人が自分の道を見出す過渡の場であってよかったと思う。後は残ったメンバーが決めることだ。
 私は娘の出発を見送り、自分たちもここに新たな出発の時を刻みたいとねがった。》

 ここは、主人公たちの息吹がふつふつと描かれていて、印象的な場面だ。ここでとりわけほっとするものを感じ、明日につながる「私たちの漂泊へ」の旅立となっている。


 ここまで主語はほとんど「私」で、靖代の発言や、何か説明するとき「私たち夫婦・一家」という使い方もあるが数少ない。

 後半に少し見受けられるようになるが、この終章にきて、「私ら」「私たちを待つのは<今浦島>の死ぬまで続く漂泊の旅だろう」「自分たち」という表現など続く。

 十二「夫婦温泉旅行」あたりから、主人公中心の物語から夫婦、家族の物語になってきているように感じ、また、主人公の実生活者としての成熟をも覚えた。

◎福井著『「金要らぬ村」を出る…』の感想文。

〇新刊福井著『「金要らぬ村」を出る…』の書評をブログに掲載した後、著者からある人の新刊感想文の連絡を受けた。
 それは心にしみるような感想と文学的な観点のある文章で、私の書評にはないものだった。

 私の書評は、素直な感想というより本書の背景となる考察から簡単な紹介というもので、この新刊感想文を読んで、再度本書に向き合うことになった。


 また、昨日読み終えた妻の読後感を聞いてみた。
 妻は前作『追わずとも牛は往く』については、それほど評価をしていなかった。
 
 新刊本の妻の感想は、総じて言葉遣いや描写力の確かさを感じ、伝わってくるものがあり、とても読み応えがあったという。

 私よりも文学作品に造詣が深いこともあり、それについてどうかと聞いてみたが、どうしても、奥さん、娘さんや文中に出てくる人に「今どうしているのかしら」など、気がいってしまいがちになり、いろいろと事情を知りすぎているゆえ、一つの作品として見るのは難しいという。
  
 もう一つの短編「息子の時間」については、16歳で「村」の学園を辞めさせられて、その後町工場で働くことになった自分の息子とダブってきて、身につまされるものがあったそうだ。
 
 私は、妻以上に事情や作品の経過を知っているので、かえって一つの作品として見るのは難しい面もあるかもしれない。
 本書の作品としての深みや面白さをまだまだ掴めていないと思っている。

 だが、人によってその作品から受ける印象はさまざまで、心にしみる箇所もいろいろだ。
 一人ひとりの持つ見方には限りがあり、他の人の感想に触れて、その作品の見え方が深まっていく面もある。

 作品は刊行したら、あとは読者が膨らませ、広がっていく。その意味でも他の人の感想から刺激を受ける醍醐味、面白さがある。
 
 私としては、同時期に限らず離脱した仲間、そこで過ごした元学園生、現実顕地のメンバーがどのように感じるのか、それ以上に、そのへんの事情を知らない読者が作品としてどのように思うのかはとても関心がある。
               ☆
 
 著者から連絡受けた、新刊感想文の観点は特に印象に残った。 
 
《旧友NI氏より、今回の新刊についての書評をいただいた。同じく旧友K氏(1作目の編集担当)を通してかつての同窓生に届いたものを再転送します。

【福井大兄の本、しばらく前に届いて読了してたんですが何か「読んだよ」と言えないまま一週間がたちました。内容が少しつらかったし、ヤマギシ退会して随分立っているのに前作もそうだが今回も時間がかかっていて精神的なくくりも大変だったろうなと、安易な感想はダメだよって感じでした。なまじ福井さんを多少知ってるからいけませんね。

 最後の飛行場見送りの場面が一番印象的です。お嬢さんも含めて、寂しさと悲しみと、少し光射す希望の揺らぎ見えるフィナーレでほっと慰められました。言葉も文体もいいですね。全編の思いがここにつめられたと思いました。

 それにしても「村」を出て「新しいまち」に向かった仲間たちの人の好さはどこから来るのだろう。小さなかたまりは出来てもコミュニティがないと社会は成り立たないしねえ。自立共助かあ。その後のみんなはどうしてるかなあなんて思わせられます。ふつうのフィクションではそうならないけどね。いいおみなの多恵子さんはどうしただろうね。福井さんが美浦の村長室に来てくれたのは三重の実顕地でリーダー的に頑張っていたときだったな。生き生きして見えましたね。様々な世界、いろいろな人生選択、今作も貴重な記録文学と思います。

「追わずとも・・」の方が物語性はあったと言えますね。ページ繰るのたのしみだったから。デモ今回も労作ありがとうです。続編もありですね。皆で待ちましょう。
 お元気でまた。 福井さんによろしく  NI生】


(福井記 NI氏への感想)
 NI氏からは前作「追わずとも牛は往く」で実に繊細で心温まる書評をいただいた。それ以来の付き合いどころか、実はずっと札幌の大学寮からのつながりがあった。当時彼はランボーの愛好者でフランス語でそれを読んで見せる根っからの詩人だった。私がヤマギシに入った頃は彼はすでに田舎村の村長に収まっていた。それでも時折「図書新聞」にも寄稿する読書人でもある。

 いうまでもないがその精神の痕跡はずばり、最後の飛行場見送りの場面に現れる。ぼくのこの書のモチーフはいうまでもなく、「金要らぬ」であり、「ただ働き」の世界であって、これまでの広報もあくまでその部分を前面に掲げた。しかし彼のこの指摘によって、私にまざまざと蘇ってきたのは、あの夕陽に燃えながら飛んでいった飛行機の場面だった。つまりこの新作は、あの映像から起爆しあの映像で終わる。そのぼくの心中を彼は詠んで見せたのである。そういう意味で彼は典型的な文学者だといっていい。

 このことはぼくがこれまで私記だ、手記だ、ノンフィクションだなんて区別だてしてきたことが宙に飛ぶ。それはそれで否定できないが、同時のその書き出しの発端となる衝迫には何かしら特別の感動や感激を伴うものがあるらしい。それが「文学」だというなら何も否定することはない。

 その観点もあるのだろうが、そのあとで彼が取り上げる作中人物の捉え方が極めて的確であることに驚く。そこには私がなんとか描こうとした作中人物が生きて動いていたのである。

「(あの)仲間たちの人の好さはどこから来るのだろう」

「その後のみんなはどうしてるかなあなんて思わせられます。ふつうのフィクションではそうならないけどね。いいおみなの多恵子さんはどうしただろうね」

 ほんとうに短い文章の一説ながら、ずばりと心に刻まれる。さよう、この頃の皆は今どうしているのだろう。ぼくはずっと長いこと会えなくなった彼らと再会したくて、この本を書いたといってもいいのである。
(ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(84)から)》

 なお、ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(85)に、新刊感想②が掲載されている。
  http://okkai335.livedoor.blog/

◎福井著『「金要らぬ村」を出る…』の書評①

〇新刊の書評に入る前に、私が思っている、福井氏の来し方に触れてみる。

 人はある時、心が躍る出来事に出会う。その「虹」のようなものに劇的な感慨を覚えて、その人の生き方につきまとうことがある。

 あるいは、ある出来事と遭遇することで、その後の生き方を左右された人も少なからずいるだろう。

 1941年生誕の福井氏にとって、初期のヤマギシ会の北海道試験場との出合いはそのようなものだったのではないだろうか。

 彼は大学卒業後、北海道東部で高校教員をして、1960年代の学生運動の挫折を引きずりながらも、理想の教師たらんと日夜励んでいた。その時分に出会ったのが北海道試験場である。

 そこは理念の頭でっかちの学生運動とは違って、日々の暮らしに根ざした、一個人や一家族を越えた無所有の一体生活(「財布ひとつ」の生活)体として、ひとりも不幸のない「金の要らない楽しい村」の理想を実践していた。何よりもそこに暮らす人たちに魅力を覚えた。

 1976年35歳の時、彼は妻と子供二人を伴って、そこに丸ごと参画した。

 そこは、後の名称もヤマギシズム実顕地となり、参画者や共鳴する会員も増え続け、組織の拡大が進むにつれ、初期の頃に持っていた理想が変質していき、特に大きな期待をもって始まった学園運動が数々の人権問題を起こすなど、2000年頃、疑問を感じた人による大量の離脱者を生み、60歳を迎えようとしていた彼もその一人だった。


 氏の場合は、この度の新刊『「金要らぬ村」を出る…』に描かれているように、世間での厳しい生活に追われつつ、20年以上暮らしたヤマギシのことを、「あれは何だったのか」と思う日々だった。

 一方、「何が本当に必要なことなのか」「自分とは何者か」「俺は何をしたいのか」と、先人たちの知見を参照しつつ、数々の論考を自身のブログに発表していた。
 また、自分なりの「ヤマギシ総括」の意味合いもあったのだろう、詩や小説の試作に書き現すことをしていた。

 この辺りのことを、福井氏の処女詩集「今浦島抄」の一部を見ていく。この詩集は2011年に書いたもので、ヤマギシの「村」を離れての感情、思いが切々と描かれている。


(詞 集 <今浦島 抄> 番 一荷より)
・私の思想<自分の住む所には自分の手で表札をかけるに限る 精神の在り場所も、ハタから表札をかけられてはならない。石垣リん。それでよい>(石垣りん)

ところが住むところには同居もあれば貸室もあって
他人の表札が下がっている場合がある
貧乏でやむを得ずそうしていることもあるが
身を隠すために好んでそうしている場合もある
私は
その主人に相共鳴したばかりでなく
さらに一体化せんことをねがい
自分の表札を外した
その方が大きな目的だったし
また安楽だったのだ
それは精神にとって、つまり“私の思想”にとって危機なのだといつしか思うようになった<大事なのは他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ>(村上春樹)

“私の思想”とは
どうもその小さなことに関わりがあるようだ
でもこれまで<他人の頭で考えられた>ことが
いっぱい詰まっていて
それ以外のことはぼんやりしている
そのなにかが蘇るために
貧しく不安多くともあえて別居し
いまだなにもない小さな部屋の表札に
番正寛と記す

・自分を知りたい
社会を変えようとするなら自分が変わること
しかし今は自分を変えようとは全然思わない
その前にもっと自分を知りたいのだ
自分を知るとは
たぶん自分の変わらないところを
明らかにすること
これまであまりにも当座の必要に合わせて
色々なことをやりこなしてきた
「何でもやれる人」を目指して
結局自分が何をやりたいのか
自分にとって何がかけがえのない仕事なのか
さっぱり分らなくなっている
精神といい自我という
それらはなにゆえに
かくも執拗に問いかけてくるのか?
お前はなにもので
お前の本当にやりたいことはなにか、と
たとえ生活や生命が十二分に満たされても
満たされずうごめくそれら! 
             ☆

 組織を離脱した以後、自分で考え、自分で目標を定め、自分で行動を選択する「自律的」な暮らしの中で、厳しい生活にも関わらず、喪失感とともにある種の解放感を味わっていたと思う。

 ところが、体罰などの学園の問題が顕在化するにつれ、学園運動につながる幼年部拡大を担当していたこともあり、自責感の強い自己批判の重い日々に陥っていく。

 その後の時間の経過もあり、徐々に重いくびきが溶解し始め、世間での暮らしや仲間との出合い、さらに理論書や文学作品などにより、ささやかながら「自己肯定感」を覚えるようになっていた。
 同時に自己のこともヤマギシのことも、負い目のつきまとったところから客観的に見られるようになる。


 そして、70代半ば過ぎの2018年になって、初めての刊行作品『追わずとも牛は往く』の自費出版に結実した。
 本書は、著者の40年ほど前の1976年から2年程の「北海道試験場」(「北試」―ヤマギシ会)の体験をふまえ、書き進められた記録文学である。
 エピローグの『ヤマギシズム実顕地』での著者の体験の20年余にわたる総括部分は、ある程度「実顕地」を知る人にとっては、簡潔にまとめてあるように思う。
 本書の特質として、ヤマギシの生活体に関するおそらく初めての文学作品となるだろう。


 新刊『「金要らぬ村」を出る…』の本作は、20年以上献身的に打ち込んできた実顕地(※ヤマギシの「村」)に疑問を感じて離脱した後の、何事もお金=賃労働を考えざるを得ない暮らしの実際を描くこととともに、家族とのギクシャクした関わり合いにおける感情の変化を巧みな文章でつづり、以前の「村」での仲間たち(といってもあまり接点のなかった)との心温まる交流に、離脱前の「村」には感じられなかった親身さを覚え、彼の活力を孵化させ次なる明日に向けるようになっていった。
 また、20年以上暮らしたヤマギシズム社会(「金要らぬ村」)とは何だったのかと問うことになる。
 とても読み応えのある作品に仕上げられている。


 もう一つの短編「息子の時間」は、著者が理想を覚えてヤマギシの「村」に一家を連れて参画した時の小さな息子が高校生になったとき、「村」になじまないままそこを出ることになった。ところが世間で、ほとんど父親とは関係なく、息子は生き生きとはつらつと育っていた。
 著者は「村」離脱後になって初めて「親」として息子と「純粋」に向かい合うことになる。そのことを実直に赤裸々に明かしながら、臨場感のある描写は心に迫ってくる。
(つづく)

◎福井正之著『追わずとも牛は往く』ー労働義務のない村でー 再考

※この度の新刊、福井正之著『「金要らぬ村」を出る…』は、2018年刊行の『追わずとも牛は往く』と繋がりがあると思っていて、その書について触れてみる。

 

〇タイトル『追わずとも牛は往く』の副題として「労働義務のない村で」とある。

 本書の特質として「働かざる者食ってよし」「働かざる者食うべからず」のフレーズが要所に出てくる。その表現とともに、「働くとは」、「さまざまな人たちと共に生きていくとは」を自問自答しつつ物語が展開し、本書の基底音となっている。

 

 本書は著者の北海道試験場(ヤマギシの村)の体験をもとにした、「睦みの里」という共同体を想定し、そこでの村人と大地と牛との生活が、生き生きと描かれている。

 1975年、主人公・丈雄がそこを最初に訪問したおり、村人より次のような説明がある。

 

〈丈雄:世間では働かんと食えん、いわゆる《働かざる者食うべからず》という暗黙の強制がありますよね。(------)

 村人・須崎:一軒の家じゃ親が働いて子どもらを食わせる。もちろん自分らもそれで食う。その動機は家族を養うということや。子どもは働かんから、家賃、食費を払わんから食うな、という親はまずおらんやろ。まあ《働かんでも食ってよし》じゃ。別に遠慮せんと大きな顔していてよい。ところがこの家をもっと大きく広げて考えてみなされ。中には子どもみたいな大人もおる。働いても稼ぎが乏しい人、体の具合が悪うて働けん人、それにブラブラしていたい人もおる。親ならそんな人らを放っておけんやろ。いや別に親とは誰と決まっとるわけやない、なんとかそんな人らを食わしていくのが親や」(第一章「発端」p31~32)〉

 

 次の年、主人公丈雄は、地元の高校教師を退職し一家四人と参画する。

 主人公西守一家が『睦み』(※北海道試験場)に到着した翌日に、『睦み』の役職の人たちによる主人公夫妻の受け入れが予定されていた。

 それまで時間があり、今の新鮮な気持ちのうちに友人たちへの挨拶状をと手紙の文章を考えた。

 

《ようやくやってきたこの里の宿舎の窓からは

 広漠とした雪原が見え

 そのかなたに知床の山々がくっきり浮かんでいます

 私たちの「個」は互いに屹立し他と峻別される単峰でなく

 あの並び立つ連山の峰の一つになりうるならば、とねがうのです

 人は共にあることが避けがたいからこそ

 睦み合うものとして生まれたのでしょう

 だから自分だけでなく自分を含めた人々のために

 身体を使うこと智恵を働かすことが心地よく爽快なはずです

 そんな大家族の未知の可能性に賭けてみたいのです》(p52~53)

 

 最近、このことについて福井氏は次のように感慨を述べている。

〈ぼくは自分ながらへーと感嘆していた。偶然にも最も出会いたかった章句だった。そしてこの内容で日々充実して動き得たら、「生産性を超えた生きている価値」に到達しえるはずだと感じた。そこで改めて別海で感じてきた心地よさなるものは、まさにこの「生産性を超えた生きている価値」にあったのではないかと思えてきた。

 それは理からいえば「この連山の一峰」と重なってくるのである。そしてあれこれの場面がそのように生きてきた証のように思い出されてきた。なんと疎いことか。おそらく金銭との代償では絶対にそうは感じられなかったであろう。》

(ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(82)改稿「金要らぬ」「働かざる」の境地・8月14日より)

 

 そこでさまざまなことを体験し、主人公丈雄は、大空と大地と牛と夢太き人々との暮らしに充実感を覚える日々が続く。

 そこでの実感に裏付けされた描写力の確かさ巧みさに、ずんずん惹き込まれていく。

 

 ところが、働かないブラブラ族を抱える「睦みの里」の将来を憂えた村人が、その理念・理屈に共鳴する「全人愛和会」に参画しようとする動きが次第に高まってきた。

 それについて、主人公に相棒慎ちゃんはいう。

 

《慎ちゃん:ここの本当の良さはブラブラを責めんというか、あんたの言う『働かざる者食ってよし』のベースがあることや。誰も表立っては言わんが、これはすごい覚悟やと思うよ。あくまでその人に任せて目先のことでじたばたせんちゅうことやろ。よそに頼ってその良さを崩したら、ここはなんの魅力もない。それを自力でなんとかでけんやろかとずっと思うとったがな」(終章「岐路」p260)》

 

 そして、1976年の春『睦み』へ参画した二年後の1978年三月 『睦み』メンバーはほとんど全員が『全人愛和会』(現・ヤマギシズム実顕地)に再参画。『睦みの里』は解散した。

 

 エピローグは、1978年「睦みの里」解散後の「全人愛和会」での著者20年余の総括が語られ、1999年にそこを離脱する。

 

「全人愛和会」は、その拡大路線のもとで発展し、人は増え、規模は大きくなっていく。

 〈全人愛和会の生活の変貌は、古いメンバーにとっては、まさに夢の暮らしだった。大理石づくりの浴場、普通の家庭料理の水準を越えた食事、こざっぱりした新調の衣服、そして月々なにがしかの小遣い、季節ごとの親睦行事。おまけに診療所や養老施設までできていた。まさに自称するように「ゆりかご前から墓場の後まで」の施設環境まで整備されつつあった。清貧が旨となっていた理想運動体が、こういう物質的繁栄まで到達できるなどというのはおよそ信じがたいことであった。(「エピローグ」p265)〉

 

 だが、相互扶助的共同体を成り立たせていく肝心な「生身の人間同士の裸のふれあい」は薄れていき、工夫を重ねたさまざまな仕組みの多くが形骸化していく。

 

 著者は次のようにいう。

〈全人愛和会の挫折は意外にも早かったのである。学園世話係の暴力事件や参画者の離脱時における財産返還問題を機に外部に反対派も生まれ、マスコミの批判も厳しくなっていった。----その流れの大きな帰結が2000年前後の全人愛和会のメンバーの急激な離脱だった。丈雄夫妻もいち早くそこを離脱する。離脱の始まりはなんらかの内部的な持続運動の帰結というより、個々人の「このままではここには居れない」の直観から始まった〝相互無告〟の行動だった。後には組織的に大がかりな行動に転化し、かなりのメンバーが「全人愛和」の〝壁〟を越えることになる。(「エピローグ」p266)〉

 

〈このような過程が示すものは、当然全人愛和会の組織構造の問題だった。これまで「大きな家族」の総親和的イメージの背後に、そこではいつしかごくひと握りの指導部による序列化とトップダウンの体制が確立していたのである。丈雄がかつて感銘した「見出そう」「引き出そう」「合わせよう」のメンバーの相互関係がいつしかくずれ、体制に「沿う」「合わせる」が取り組みの主たるテーマになっていった。(「エピローグ」p267)〉

 

 そして、1999年著者夫妻は離脱する。

〈離脱後の主人公:それは丈雄にしてみれば人生の晩年を前にして、新生活へのいわば強いられたチャレンジだった。もう還暦を過ぎていたから、人生にとって三度目のコース変更を迎えることになる。そして置かれた場はまさに「働かざる者食うべからず」の厳しい苦界の只中だった。(「エピローグ」p268)〉

 

 数年たって、著者は手記めいたものを書きはじめ、やがて『睦み』の記述が始まる。当時の記録メモがないなか、記憶をもとに書いたという。本書の最後は次の一節で「完」となる。

 

〈丈雄ももはや七十半ばである。しかし三度も人生コースを変更してきた自分には、これからの余生に寄りすがれる記憶は何もなかったように思っていたのである。まったくそうではなかった。今、その悔恨を別海『睦み』への愛惜によって溶かしながら、希望への、言いかえればわが自己肯定への道に、微かながらに灯がついたように感じる。(「エピローグ」p273)〉

         ☆

「働かざる者は食うべからず」は、現代の日本社会・日本人をはじめ、世界中のどの国・地域にも、このように思う人が多いかもしれない。経済成長を追いかける人たちの、一つのキーワードとなるのかも。

 それに対し著者は、「あの村では実際にタダ飯を食らう、『働かざる者食ってよし』の暮らしがずっと成り立ってきました。」と、タイトルに「労働義務のない村で」と添えた。

 特殊な共同体を考えるとき、「一つの大家族」というような比喩で語られる。家族あるいは拡大家族だったら、「働かざる者食うべからず」というような思い方は出てこないのではないのか。

 

 食うことは生きることであり、どのような食糧・食材も先人たちや多くの人や「もの」のエネルギーの結晶である。そのこと踏まえても、安易に「食う」ことと労働義務を繋げることはおかしなことだと私は思っている。

 

 なお、見田宗介、野本三吉などに注目されていた1970年代の北海道試験場(睦みの里)では、物理的規模は小さくとも、「生身の人間同士の裸のふれあい」、「さまざまな人たちと共に生きていく」、「労働義務のない村」の、大雑把ではあるが試験場機能が働いていたのではないだろうか。

 

※『追わずとも牛は往く』(労働義務のない村で)の入手は著者に問い合わせしてください。 

  著者連絡先   akkesi7816@outlook.jp

◎福井正之著『「金要らぬ村」を出る…』について思うこと。

〇「金の要らない楽しい村」と「ベーシックインカム(BI)」
 先日、国民に一律10万円を給付する「特別定額給付金」が届いた。
 現在無収入の私たちにとって、コロナによる収入的な影響はないが、特殊な共同体にいたので国民年金も妻と併せて年110万程であり、一時的とはいえありがたくいただいた。

 そのような中、ベーシックインカム(BI)の議論が盛んになってきた。
 ベーシックインカム(BI)とは、「すべての個人が、無条件で、生活に必要な所得への権利を持つ」という考え方。それは「人を分断したり序列化したりしないで、基本的な生活を保障する」ものであり、「人間として尊厳ある生活を営むためのお金を、水や空気と同じように、無条件ですべての個人に保障する」という構想。

 BIは、「働くこと」と「生きるために必要な所得(お金)を得ること」を切り離して考える。それは、「働かざる者食うべからず」との根強い労働観や「働いて稼ぐ」「働きに応じて支払われる」という見方を考え直させるともに、働かなければ生活が保障されない、という今の社会の仕組みを見直し、生存そのものを条件なしに保障するという発想で乗り越えようとするものといえる。

 もう少し視野を拡げて、多くの家庭ではそうなっているように、お金の要らない(やりとりが介在しない)生活を考えてみたらどうなるか。
 さらに、社会からお金というシステムが無くなり、あたかも水や空気と同じように、無条件ですべての人に手に入れられる仕組みが実現したら、どうなるだろう。
 そもそもお金は、何かの物、あるいは労力と交換できる権利(社会的な約束)でしかなく、実体のないものなのだから。

 この構想を突き詰めていくと、実顕地のキーワードでもある山岸巳代蔵が亡くなる前の前年(1960年)に述べた『金の要らない楽しい村』「総論」にある次の文章が思い浮かぶ。

〈金が要らない楽しい世の中に世界中がなると聞いた時、複雑に考えれば、到底不可能だと頭ごなしに否定する人もあるかも知れない。これは何かの考え方を入れて、複雑に考え過ぎているのではなかろうか。
 軒端のスズメや、菜の花に舞う胡蝶でさえも、金を持たないで、何らの境界も設けないで、自由に楽しく舞い、かつ囀っている。権利も主張しないし、義務も感じていないようだ。
 能力の秀れた知能を持っている人間が、なぜ囲いを厳重にし、権利・義務に縛られねばならないだろうか。
(中略)
 金の要らない楽しい村では、衣食住すべてはタダである。無代償である。
 元来誰のものでもない、誰が使ってもよいのである。みなタダで自由に使うことが出来る。
当り前のことである。
 誰一人として、権利・義務を言って眉をしかめたり、目に角立てる人はいない。泥棒扱い、呼ばわりする人もない。
 労働を強制し、時間で束縛する法規もなく、監視する人もない。〉
(山岸巳代蔵『金の要らない楽しい村』「総論」ー全集三巻所収より)


〇福井氏の新刊『〝金要らぬ村〟を出る…』について。
 本人のブログ『回顧―理念ある暮らし、その周辺』(73)「国家予算で国民の生活費を支給する時代!」で次のように述べる。

《それはそれで私に今がっしり取りついている〈観念〉はどえらいものだった。いわく
「国家予算で国民の生活費を支給する時代!」というのである。もっともこの生活費にプラス失業補償を組み込んでもいい。
 ふり返ってみれば私の79年の人生でも経験のないことだと思う。国家というものは国民から徴収するのが仕事であって、その逆はなかった。支給自体はあくまでその必要に応じて補助として支給されることはあっても、その名目は「生活費」自体ではなかったと思う。
 
 今ふり返れば懐かしいと思うものの私は年金が安くて、65歳支給を70歳まで延期したことがある。もちろんヤマギシを出てからである。この5年間は気が気でなかったとも言えるが、その結果生き延びてクソ度胸がついたともいえる。

 さらにもっと〈恐ろしい〉ことに、「金の要らない」村でざっと25年も暮らしてきた。いいかえれば共同体の予算で生活が保障されたのである。もっとも生活費が出たわけでなく生活資材が保障されたのだから、ある意味もっと便利? だったかもしれない。だからそれは「生活費の支給」ではない。そしてこの違いがこれまでどえらい違いだと勘違いしてきたが、いや紙一重の違いであることが見え見えになってきたと思う。

 いうまでもないがこの違いはスーパーがあいているか否かの違いだけである。ウイルスの進行が拡大してスーパーまで開けないとしたら、現物給与にきりかえるしかない。そうなると国家自体が全国民の生活保障体制に入ることになる。

 こうなるとこれまでのソ連型の社会主義どころではない。もっとすごい共産主義に近い体制になるのかもしれない。あるいはもはや国家なんてものに頼らない無政府社会になるかもしれない。となるとここではもはや体制だけの問題ではなくなってくる。

 これ以降になると私(たち)の年来の〈勉強〉が生きてくるかもしれない。要するに「金の要らない村」をどう作るかというテーマになる。

〈「金の要らない仲良い楽しい村」というのは、キャッチフレーズとして今でもかなりの傑作だと思っているが、これに「自由」を加えたい。自由性がなければ楽しくならないのだが、あえて強調する。また仲良い、楽しい、家族同然になる、その結果として金を個々に持つ必要がなくなる、という順番がありそうだ。ただこのプロセスは至難の道である。
いうまでもなく、そのために理念というものが一義となる生き方になるなら、お呼びじゃない。もちろんやむをえざる親愛の情にほだされての人間の共同については、これを否定する気は毛頭ない。しかしそれを意識的につくろうとは思わぬ。そのような心情が自然発生的に内発する地点に出会わないかぎり、それはどこかウソになる。〉
(「実顕地とは何だったか、2」より)》


 今度の福井さんの作品は、実顕地離脱後の何事もお金=賃労働を考えざるを得ない暮らしの実際を描くこととともに、同時期に離脱した仲間との交流を通して、20年以上暮らした実顕地の掲げる『金の要らない楽しい村』とは何だったのかと問うことになる。

 私見によれば、「村」の中では、お金のやり取りが介在しない暮らしを、ある種の不自由さを伴いながらも実現させ、その部分では曲がりなりにも居心地の良さを感じていた人も少なからずいたかと思う
 それは、構成員の“給料なしの働き”によって獲得した資金によって成り立ったのであり、「村」を離れた資本主義社会のなかでは、通用しないものであった。

 まずは、「働くこと(生きること)」と「生きるために必要な所得を得ること」を切り離して考え、「生存そのものを条件なしに一人ひとりに保障する社会」を推し進める、ベーシックインカム(BI)の実現は、多くの課題があるが、その第一歩だと考えている。

 さらに、「お金の要らない社会」を思う。豊かに生きることと、稼ぎ(お金)があること生産性があることとは、異質のことなのだから。

               ☆
★福井正之著『〝金要らぬ村〟を出る…』の新刊案内

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本書表紙

〇メインタイトル   「金要らぬ村」を出る…

〇帯表 「金無しで25年も暮らした。今さら外で金目当てに働く気がしないのだが…」
〇帯裏 「金の要らない村」に序列ヒエラルキーとさらに体罰まで生まれた。このまま受け止めるしかないのかと何度も自問したが、闘うという選択肢はなかった。〈村〉を出るしかない。
その仲間のことで私がもっとも驚いたのは、互いの口座番号を交換し合って、金を贈ったり贈られたりできたことだった。これって一体なんだったのだろう……

〇関連初期作品掲載  『息子の時間』 (2006年作)

▼購入方法  8月下旬(24日~)最寄り書店から。
その前に入荷の可能性もあるので、前もって電話で注文し入荷日に行った方が確実です。販価) 1000円+税

▼業者 (株)ブイツーソリューション   ☎052-799-7391 名古屋市
     出版社「お手軽出版ドットコム」とは別組織です。

▼作者関係ブログ   http://okkai335.livedoor.blog/
  作者連絡先     akkesi7816@outlook.jp

◎福井正之著『「金要らぬ村」を出る…』刊行のお知らせ。

〇8月下旬(24日予定)に、福井正之さんの新刊『〝金要らぬ村〟を出る…』が出版されます。

 70代半ば過ぎの2018年に、初めての刊行作品『追わずとも牛は往く』の自費出版をしました。
 その後、身体的な「衰え」を感じつつ、次なる営みとして、さらに作品を刊行したいと考えていて、紆余曲折を経て、この度出版に至ったそうです。

 その経過を氏のブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」から見ていきます。

☆「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(74)から
《 出版の方もようやっと印刷までこぎつけた。4月初めに申し込んだときは、もう新型コロナの渦中で本になるのかどうかずっと危ういものだった。

------ところでふり返ってみて不可思議というしかないが、何といっても最大の課題は、この本のタイトルと「帯」(表紙をくるむ)の内容を決定することだった。こんなに何転もしたことはない。しかもこの時点では目の症状が悪化して、かすみ目中断しばしば・・・。それでも表紙の映像構想と絡んで、ずいぶん楽しくなった。無茶クチャ苦労したともいえるが、ふり返ればここまで面白かったこともなかった。あえて紹介しておきたい。

[タイトル]は、はじめっからずうと変わらなかった堅物だったのが、ようやっと動いた。
 「金の要らない村」から離れて→「金要らぬ村」を出る…

「帯」案①
「――しかしそこを飛び出したいま歴然と見えてきたのは、こちらの社会の方こそ自分がアリにならねば生きていけない社会だった。かつては心ごとアリに変えたが、いまは心を隠してアリになることが生きる方便だった。いったいどちらがましなのだろうか。」

「帯」案② 上の「アリ」という表現に到達するのにかなりかかったが、ずいぶん気に入っていた。ところが、うちの元高等部生にはよくわからんと散々だった。それでもっとわかりやすくした。事実は変わらないが、視点が少し変わった。いやそんなもんじゃない。この「金の要らない」には私(たち)にとっての全思想、生き方がからむ。そのことをさらりと言えば次のようになる。

 「金無しで25年も暮らした。今さら外で金目当てに働く気がしないのだが…」》(2020年07月05日記)

☆「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(80)から
《この作品の元になっているのは、<古い>人なら目通しされているかもしれない「今浦島にわか老後」という私の手記です。もう10年以上前に概要はできていました。この頃からなにかと文章化、物語化する習性が芽生え、かなりの量産がされていたと思います。つまり自分なりの「総括」化がそこまで行くしかなかったということでしょう。

 これに今回かなりの量の「ある前史」という部分を加えました。おそらくこれがないとなぜヤマギシがヒエラルキーと体罰を持ち出すに至ったかの過程が不明であり、私が25年もそこで「金の要らない」暮らしが可能だったか理解不能だろうと思います。

 そういうことではこれらは短期間に仕上げたというより、これまで出版の機会がないまま公表し、また感想をもらっては修正してきたという歴史があります。そういう旧作はまだごろごろしており、その中で私にとって最も愛着があり忘れがたいと思えるものを上梓したということです。

 さらにここでは、これまた旧作で私にとって忘れがたい「息子の時間」という小編(2006年作逗子で)を付け加えてあります。公開タイトル『〈金要らぬ村〉を出る・・・』作品の第2弾というべきか「付」をつけてあります。これは私にとって唯一の文学志向作品で懸賞に応募したものです。結果として私はこの道を踏みませんでした。

 それでともあれこれらの作品は、「私記」ないし「手記」の範疇にあるものであり、ちょっと「小説」とはいいがたい。強いていえば「ノンフィクション」といっていいと思います。これらの営みが「金要らぬ社会」で将来どんな営みになっていくものかは興味深いですが、またいずれ別の機会にしましょう。》(2020年08月07日)

 ※ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」
 http://okkai335.livedoor.blog/

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◎特講について思うこと(吉田光男)

※吉田光男さんは「特講」の係を何度もしていて、「わくらばの記」で、おかしなこともしていたなと真摯に振り返っている。そこに受講者のみならず世話係、推進係がおちいりやすい盲点がいくつかあり、それを見ていく。

〇吉田光男『わくらばの記』(5)から
〈3月8日〉
 人間は観念の虜になりながら、自分が観念に縛られていることに気がつかない。私にそれを気づかせてくれたのは、特講である。これなしに、自分が自縄自縛に陥っていることに気づくことはなかったかもしれない。

 私にとって、特講で何かが変わったとか、何かが明確になったというものがあったわけではない。が、すごく楽になったのである。何かが外れたのである。その時はよくわからなかったが、後で考えると、自分の観念の枠組みがストンと外れたのだと思う。途端に世の中が明るくなり、誰とでも仲良くやれそうな気分になった。ものすごい開放感である。

 しかし、これで自分の観念から自由になったわけではない。特講は初めの第一歩にすぎなかった。だから山岸さんも、特講生へのメッセージの中でこう書いている。

「これで終わりでなしに、これから研鑽生活の始まり。良かった、分ったと一応喜んでも、つぎつぎと問題がいろいろの形で現われてくる」

 このメッセージは繰り返し何回も読んでいたのに、自分の中では特講の出発を特講を卒業したかのように錯覚していた。始まりを終わりと取り違えていたわけだから、観念の呪縛を逃れられないのは当然である。

〈3月10日〉
 私は、参画してから特講の係りをやるようになった。10年近く山岸会本部の事務局にいて、数えきれないほど係りをつとめた。また大田原に移ってからも那須特講を手掛け、韓国配置になってからは韓国でも特講や研鑽学校の世話係をやった。

 この世話係体験を通してはっきり言えることは、自分の、或いは自分たちの特講の進め方は、根本的に間違っていたということである。それを一口で言えば、特講を研鑽方式ではなく教育方式で運営してしまった、ということだ。研鑽方式というのは、終わりのない旅のように、どこまで行っても結論のない「本当はどうか」の連続のはずである。しかし実際には、

「腹が立たないのが本当」
「仲良しが本当」
「一体が本当」
「無所有が本当」

 と、結論に到達したところで終わりにしてしまった。鶴見さんの言う「一丁上がり」である。そのために研鑽の連続性が断ち切られ、参加者は本音と建前の乖離にさらされることになる。

「腹が立たないのが本当だと思うのに、自分は何で腹が立つのだろう」と自分を正直に調べることをせず、「腹は立っていませんよ」と人にも自分にも言いつくろう態度をとることになる。「仲良しが本当」と言いながら、陰で人の悪口を言ったりする。本音を隠して嘘を言うような、建前だらけの生活に陥ってしまうのだ。ここからは人間性の一部が失われてゆく。

 これは、まさに自分自身のことなのである。と同時に、多くの人の実態でもあった。世話係自身がこの程度であれば、特講生にそれ以上を望むのは難しい。特講が研鑽生活への入り口ではなく、出口になってしまっていたのは無理もない。

 特講という研鑽方式への重要な機会を生かすには、まず世話係自身が真に研鑽できる人、研鑽しようとする人になることが出発点であろう。よく「誰でもやれる」と言われたりするが、それではマニュアル方式で運営する特講もどきにしかならない。


〇吉田光男『わくらばの記』(12)から
〈8月×日〉
 特講の歴史を自分なりの見方でまとめてみたが、夜中に目が覚めたりすると、それに関連したさまざまな出来事が思い出されてくる。そんなことをポツリポツリと書いてみることにする。

 あれは私がまだ韓国にいてビザの切り替えで帰国していた時のことだから、90年代の初めの頃だったと思う。久しぶりに春日のヤマギシ会本部を訪ねた。最近の拡大の進め方について聞きたいと思っていたからだ。

 事務局に声をかけると、見知らぬ中年の女性が出てきて応対してくれた。「最近の拡大のやり方は?」と尋ねると、マニュアル通りなのかどうか、いきなり私に次々と質問を投げかけてきた。いわゆる“想定問答”というものなのだろう。これには度肝を抜かれた。そうか、こんなやり方で特講拡大をやっているのか。そう言えば、子育て講座も、楽園村勧めも、すべてマニュアル化していることを改めて思った。その時は違和感は残ったものの、それ以上深く考えることもなかったが、いま思えばこれは大きな問題である。

 ファミレスなどに入ると、メニューを聞いた後、必ず「○○と○○ですね」「以上でよろしいでしょうか?」と聞かれる。「しばらくお待ちください」ではなく、「以上でよろしいでしょうか?」である。以上だけではいけないのだろうか、と一瞬考えてしまう。後ろめたい気持ちを押さえて「以上でいいです」と言うわけだが、最初の頃は何か嫌な気分が残ったりした。

 それはともかく、山岸会の中でこのマニュアル化が進められたのは、マクドナルド方式が日本に定着したのと軌を一にしている。要するに、対象とする相手をすべて同一の人間、大衆という砂粒の一つ、悪く言えば木偶人形のように見做すことなのである。ここには「人間とはこういうもの」とする、すごく安易な人間観が潜んでいる。人間一人ひとりの違いが見えてこない。またここには、合理化、効率化の思想が含まれていて、テーブル回転率を上げるように、拡大回転率を上げようとしたのであろう。そのためには、誰でもができる、誰がやってもいい、というマニュアル化が最大の武器となった。

 当時の私は、全くそのことに気づかなかったし、自ら進んでそのマニュアルを推し進めてもいた。第一、特講の進め方がそのようなものであった。もちろん、特講は人間の思考を閉じ込めている観念の壁を突き崩すために仕組まれたものであるから、そこにはテーマもあれば、それを出す順番もほぼ決まっている。また特講の目標として、5つの項目が垂れ幕に書かれて、最初から正面の壁に掲げられている。しかし、これはマニュアルではない。だが、当時の私と私たちの多くは、「係りなんて誰がやってもいい」と口にし、特講生一人ひとりと向き合うことをしてこなかった。

「腹が立たなくなった」
「かばんは誰のものでもない」
「自然全人一体が本当の世界」等々。

 大半の参加者がこう口にすれば、それで特講は大成功と思っていた。鶴見俊輔さんの言う「一丁上がり」である。しかしこれで、最も大事な研鑽力、どこまでも真実を検べていく姿勢が養われたかどうか。恐らく"わかってしまった人”ばかりをつくってきたのではないか。わかってしまったら、もうその先は検べることはしない。研鑽停止の状態になる。

 人は一人ひとり違う。係りはその一人ひとりと向き合い、共に考える姿勢が必要なのである。つまり、参加者から学ぶ姿勢である。それによって世話係りは、もたらす者であると同時に、もたらされる者であることができる。

 特講での手痛い経験が幾つかある。確か70年代の後半のことだったと思うが、参加者には京大霊長類研究所の鈴木さん(今は教授か助教授だと思うが、当時は助手)ら比較的知的レベルの高い人が多かった。後に参画して豊里・多摩で供給活動などをしていた谷野夫妻も参加者の一員であった。私は、その時は事務局で窓口をやっていたが、3日目か4日目に突然参加者全員が出てきて、垂れ幕を焼く事件が起きた。そのあと、「責任者を出せ」ということで、私も被告席に坐らされた。

 要するに「こんな垂れ幕のようなものがあるから、特講が機械的でおかしなものになってしまうのだ」という主張である。もうその時の対応のやり取りについては忘れてしまったが、何とか説得して特講を最後まで続けることはできた。しかし、内容は特講とは言い難い気の抜けたものでしかなかった。世話係りはと言えば、みなシュンと落ち込んでしまって進めることができず、他のものが変わって進めた。

 これと似たような事件をもう一度経験しているが、要するに「誰でもができる」というマニュアル化された進め方が、いかに特講の真目的を歪めてしまうかを、この段階で気づくべきであったろう。

 

〈8月×日〉
 これも70年代か80年代のことだったと思うが、安井登一さんが夜中にヤマギシ会本部にやってきた。話をしているうちに、事務局東側の大会場から世話係りの怒鳴り声が聞こえてきた。

「何でや?」
「お前ら、アホか」

 畳を叩く音まで聞こえる。安井さんは「これは、ちょっとひどいね」とつぶやき、「特講は知的革命なんだよ。暴力革命とは違う」と話した後、帰っていった。恐らく安井さんは、最近の特講の進め方を心配して、様子を見に来たのだろう。しかしその時の私には、安井さんの言うことがよく理解できなかったし、どこをどう考えたらいいのかもわからなかった。

 また、亀井のおばちゃんからは、こんなことを言われたことがある。

「どうも最近の特講は理屈ばかりで、身についたものがないんじゃないか。私らの時は一体がどうのこうのといったことはさっぱりわからんじゃったけど、食卓に一人だけパンが足りんと聞けば、あちこちからパンが集まってくる。また帰りの旅費が足りんと聞けば、財布ごとお金が集まるといったことがあったよ」

 同じような批判を、中身は忘れたが奥村明義さんからも受けたことがある。しかし、そうした批判を受け止めて、研鑽につなげるということは、当時の私たちにはなかった。自分たちの今のやり方でいいのだ、とする固定した考え方に捉われていたからである。批判がすべて正しいというわけではなく、また自分たちがすべて間違っていたというのでもない。しかし、誤り多い人間の考えで「これが本当だ」といかに主張したところで、そうかどうかはわからない。だからこそ、検べる、研鑽するのであり、この研鑽力を身に付ける仕組みが特講なのである。世話係り団にこの研鑽する姿勢がない以上、特講参加者にそれを求めても無理、というものであったろう。

 これは、誰だったか名前を思い出せないが、古い参画者から聞いた話が耳に残っている。初期の、まだお寺を借りて特講をやっていたころ、ちょうど怒り研の最中に、別室で休んでいた山岸さんが風のようにスーッと入ってきて、「何でや?」と怒鳴り声を上げている係りに、「それで、あなたはどうなの?」と問いかけたというのである。これには係りも驚いたらしい。いっぺんにシュンとなって、それまでの居丈高の態度から、「なぜなんだろう?」と共に考える姿勢に変わったというのである。 

 正解を求めたがる姿勢は、特講だけでなく研鑽学校もほぼ同じようなものであった。最近のことは知らないが、私の経験した研鑽学校は、すべて‟正しい答え”を覚えるように進められていた。だから、終わって一週間程度はみな溌剌としているが、すぐに元の木阿弥になってしまう。研鑽する力がほとんど身についていないのだ。

 とかく人間は、正しい答えを求めたがる。第一自分がそうだ。正しい答えを得れば、それだけで自分が正しい立場に立てたように安心する。安心するためにこそ、正しい答えを欲しがる。易しく、簡単に、スピーディーに。しかし、‟正しい”物や事など、観念のつくりあげた幻影にすぎない。研学後一週間で賞味期限が切れるのも当然なのである。
 
参照:◎吉田光男『わくらばの記』(5)2018-03-22
   ◎吉田光男『わくらばの記』(12)2018-10-03
  

◎特別講習研鑽会(特講)変遷史。(吉田光男作成)

※「ヤマギシ会」の入り口である特別講習研鑽会(特講)についていくつかの角度から見ていこうと考えている。
「特講」については様々な方が触れているが、その変遷史を考察したものは、ないだろうと思っている。(※あれば連絡してほしいです)
「ヤマギシ会」、「実顕地」の歴史を知るうえで、「特講」の変遷史を見ることも欠かせないと思っている。
 吉田光男さんが記録したものが『わくらばの記』にあるので、その部分を掲載する。

〇吉田光男『わくらばの記』(11)(2018-10-02)わくらばの記 ごまめの戯言③〈8月×日〉より。
 UやKなどの三氏の呼びかけで、特講拡大の会合が開かれるという。各実顕地への参加の呼びかけがあり、内部にも連絡がきた。その呼び掛け文を見ていてもう一つ心に響くものがなかった。それは現状をどう見ているかの分析がなく、研鑽の焦点をどこに置くのかわからない点であった。みんなで寄って景気づけしようでは、何も始まらないのではないか、と思ったのである。

 私は参画40年の僅かな経験しかないが、特講はその時その時の時代の流れと、それを汲み上げる実顕地の努力の相互作用によって大きく動いてきた。この相互作用の動きがどのようなものであったかを知らなければ、今の時代に合った拡大はできないのではないかと思っている。しかし、そのことを知る人、考えようとする人は少ない。そこで、自分の経験を基に、時代状況と実顕地の動きを連動させて考えてみることにした。


〈第一次急拡期――1956年~59年〉

 1956(昭和31)年に第一回特講が京都粟生の光明寺で開かれ、これに参加した約160名の参加者が、「もう腹が立たない」「これで世界中から戦争を無くすことができる」と感動に打ち震え、拡大に走り回った。参加者は増え続け、特講拡大は急速に進んだ。と同時に、1953(S.28)年にスタートした山岸会式農業養鶏も急速に拡大を続けており、ここからの特講参加も増えていった。

 そして1958(S.33)年早々、百万羽養鶏の話が持ち上がり、3月に四日市市日永で百万羽養鶏についての有志の集会が持たれた。次いで4月、三重県菰野町で開かれた「かもしか会」という先進的な学者・研究者の集まりで、山岸さんから「百万羽科学工業養鶏」構想が正式に発表された。ここから急速に運動が進み、7月に四日市市赤堀で百万羽創立総会、8月には春日山での山岸会式百万羽科学工業養鶏株式会社の起工式が行われ、参画希望者がどっと春日山に集まった。

 翌59(S.34)年4月、「真目的達成の近道」が発表され、急拡運動の全面展開となる。それまで大阪にあった山岸会本部を春日山に移し、新たに特講会場を建設した。

 ここまでは、急進拡大の名にふさわしく、まさに順風満帆、特講開催回数は84回を数え、参加人数は恐らく5000名を下らないだろうと推定される。

 この時代がどんな時代であったかは、一概にくくることはできないが、昭和31年の『経済白書』に「もはや戦後ではない」という有名なせりふが書かれたように、戦後の混乱が終わり、経済が成長軌道に乗りかけた時期である。しかし、一般にはまだ戦争の傷跡が生々しく、人々は戦争のない安定した社会を求めていた。特講はこうした人々、特に農民層に強く訴えるものを持っていた。


〈縮小停滞期――1959年~70年〉

 特講会場が春日山に移った最初の急革第一回特講、1959(S.34)年6月の第85回特講には〈ニセ電報〉で呼び出された人が沢山いて、逃亡者が続出した。これが山岸会事件の発端である。続く7月の急革第二回、第86回特講の最中に三重県警が「不法監禁容疑」で捜査を開始した。新聞は「養鶏講習の看板で山中に監禁・洗脳」と書き立て、参画者の親族やその周辺の人々は会に対して恐怖心を抱くようになった。

 特講終了後間もなく、県警200名と報道関係者多数が春日山を包囲して、14名を不法監禁容疑で逮捕・拘留した。その折も折、東加九一氏の傷害致死事件が起こる。この事件で、山岸さんを始め、柿谷さん、木下さん等8名が全国指名手配となった。これ以降、特講参加者はほとんどゼロの状態となったのである。

 明くる60年1月、山から土井たかえさん、渡辺操さんら5名が東京に拡大の旅に出る。この年は安保改定が社会の争点となっていて、特に4月以降、安保反対の大衆的なデモが国会周辺で繰り広げられることになった。そしてここに鶴見俊輔さんを始め、思想の科学系の知識人多数がかかわっていて、これら知識人と渡辺さんらヤマギシの夫人部隊がドッキングすることになる。これは、後々ヤマギシを学生・インテリ層に広める上で非常な力になった。

 翌61年5月、山岸さんが亡くなる。特講が再開されるのは、ようやくこの後3か月してからである。参加者は10名足らずでそれほど多くはなかった。この状態はしばらく続く。

 この10年は、64(S.39)年の東京オリンピックをはさんで、経済が右肩上がりに上昇する時代である。岩戸景気からいざなぎ景気へ、実質成長率は最低8・6パーセントから最高14・2パーセントと高水準を維持しつづけ、一億総中流化へと突き進んだ。都市部の住宅不足を解消するため、公団住宅が都市周辺部に広がっていった。ベッドタウンの誕生である。

 こうした経済の上昇過程は、同時に社会的な矛盾や軋轢をも生んだ。国際的にはベトナム戦争の激化、理想とされた中国革命の文革による混乱、また国内では大学の現状や学問のあり方をめぐる学生たちの疑問、こうしたことから学生たちが大学の変革をめざして立ち上がった。いわゆる学園闘争である。しかし、この闘争も68(S.43)年の東大安田講堂への機動隊導入、強制排除で幕を閉じる。全国の他大学でも、この前後1年内外で運動は終息を迎える。

 運動の終息で目標を失った学生たちはどこへ向かったか。一部はヒッピー化して世界を放浪し、一部は新たな共同体に活路を見い出そうとした。いわゆる泡沫コミューンの誕生である。そしてその一部がヤマギシにも流れてきた。農民中心の特講が、ヒッピーや学生、落ちこぼれサラリーマンにとって代わられるようになっていく。


〈成長前期――1971年~79年〉

 71(S.46)年秋、安全食糧開発グループ代表の岡田米雄氏から、「食卵として有精卵をつくってくれないか」という話が持ち込まれる。早速、入雛時期、卵価等が決まり、よつば牛乳の共同購入グループ等への供給が始まる。73(S.48)年には、「六川の低農薬ミカンを」という話もあったが、出荷直前になって「見た目が悪い」ということで、キャンセルされた。そこから実顕地が主体となって供給を始めることになり、多摩供給所が発足、活用者グループ作りが始まる。折からの自然食ブームもあって、供給は急速に広がった。これがきっかけとなって、全国的に供給所が設置されることになる。

 一方、特講のほうは、しばらくは参加者が伸びず、10人前後の状態がつづいた。大きく変わり始めたのは、1000回特講(1977年?)に活用者が初めて参加してからである。このとき参加者は70名弱で、東京狛江から活用者第一号として、Y・Mさんが参加した。また医師の松本繁世さん、出版社のHさん、学生のS君など、これまでの反体制社会運動家とは毛色の違った人たちが参加した。これをきっかけに、特講は大きく伸び始める。狛江からは次々と特講送りがつづき、それは町田、国分寺、日野等の都心を囲むベッドタウンへと広がり、またS君を通して、茨城大学や周辺の女子短大へ、また両親の住む新潟三条へと広がった。

 活用者の広がりが特講の拡大を招き、また特講拡大が活用者の拡大を推し進めた。実顕地では卵の需要拡大にこたえるため、新たな実顕地造成が進められ、鶏舎建設が急ピッチで推し進められた。水沢内部川、六川津木、大田原などが造成される。

 この時期に中国研究者の新島淳良夫妻が参画、阿山に幸福学園を開設する。そして75(S.50)年8月に、第一回「夏の子ども楽園村」を幸福学園で開いた。翌76年には、春日山で初めての楽園村を開催、ここから供給、特講、楽園村という連動する拡大運動が軌道に乗っていく。


〈大躍進期――1980年~94年〉

 1980(S.55)年、実顕地ではこの年から年間テーマと月別テーマが出されるようになった。豊里に新しい浴場が作られ、また新食堂「愛和館」が建設されたのを機に、村の暮らしを見直そうというのが、そもそもの出発であった。前年の79年には、それまでの「養鶏法研鑽会」が「生活法研鑽会」に衣替えして、生活面の見直しが始まっていた。

 それまでの愛和館の暮らしと言えば、作業着のまま食堂に入り、豚糞の臭いを周囲に撒き散らして、しかもそれを当たり前としていた。このへんの見直しが始まり、各職場に作業更衣室が作られるようになった。この暮らしの変革は、外から活用者を受け入れたり、楽園村の子どもやその親を受け入れる上で大いに役だった。80年には「ヤマギシの実顕地を参観しませんか」の全国運動が展開された。

 とにかく、この時期の実顕地は拡大に拡大を重ねており、80年の養鶏関係の生産規模は、「餌総量一か月1000トン、鶏舎総連数は25連鶏舎250棟、鶏総羽数は70万羽」(「春日山50年の歩み」)というものであった。82年の春日山8月特講には、141人の参加者があった。84(S.59)年には、海外第一号の韓国実顕地が誕生している。

 まさに村は日の出の勢い。そして、85(S.60)年5月に、「第一期ヤマギシズム学園幼年部」が創設され、翌86年4月に「ヤマギシズム学園高等部」が開設された。

 学園の創設と学園運動の始まりは、それまでの運動に質的変化をもたらした。特講拡大、活用者拡大、楽園村拡大というこれまでの運動形態に学園拡大が加わり、さらにこれは参画拡大という方向へと突き進んでいく。92(平成4)年4月の村人テーマは「2300人学園生 村人と共に新学期」というものであった。楽園村も、学園の拡大を目指して「夏の楽園村」とは別に、「毎月楽園村」(「3週学校、1週楽園村」)運動が展開されることになる。参画者も急激に増え始めた。

 しかし、この急激な拡大は、さまざまなひずみをもたらした。特に、親に強制的に送り出された子どもたち、親の参画によって学園に入れられた子どもたちには、一律的な学園生活は耐え難いものであったかもしれない。何人かの子どもが、祖父母のもとへ脱走する事件が起こった。親は話にならないので、祖父母のもとへという、涙ぐましい脱走劇である。

 こうした事態の中で、93年10月、S・M氏がヤマギシ批判の「私のみたヤマギシズム社会の実態」を発表、続いて94年5月、T氏が『ヤマギシ会の暗い日々』を出版、同年6月には「ヤマギシを考える全国ネットワーク」(代表・松本繁世)を立ち上げた。また実顕地内では、美里実顕地のK氏が、「賃金未払い」ということで、津地裁に提訴した。これは調正機関脱退者からの初めての訴訟であり、これ以後参画時の出資財産返還訴訟が何件も繰り返されることになる。

 一方、実顕地では、「オールメンバー研」が開かれ、毎年5月山岸さんの墓前で「オールメンバーの誓い」を声高に唱える行事が行われるようになった。外部の批判に揺るがない自己の確立を目指したものではなかったかと思う。

 このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。

〈混乱・縮小前期――1995年~99年〉

 1995(平成7)年1月、阪神大震災が発生、次いで3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。阪神大震災は、それまで何となく続いていた社会の太平ムードを打ち砕き、地下鉄サリン事件は新宗教やそれと同類と見られた集団(ヤマギシもそこに含まれていた)に、"カルト”‟洗脳”のレッテルを貼り付けることになった。

 この年8月、「ヤマギシを考える全国ネットワーク」が、脱退者と参画者の家族に、実顕地に対する訴訟の勧めをアピールした。これに応じた広島のY氏が参画時出資金の返還を求める訴訟を起こす。翌96年には、Mさんの出資金返還訴訟など、情報公開請求を含むさまざまな訴訟に見舞われることになった。

 こうした時代背景のもとで、それまでデパートに一定の売り場面積を確保していたヤマギシの店が、次々と閉鎖されるようになった。「安全食品連絡会」という団体からの閉店要請を受けてのことであるが、元参画者による「牛乳の日付改ざん」の告発も、生産物の安全面での信頼を失うきっかけになった。

 一方実顕地のほうは、この頃から「本もの」という言葉を多用するようになった。96(H.8)年の2月度テーマは「基盤整備 本もの本質を本筋に乗せる」である。しかし、何が「本もの」であるかの研鑽は十分行われず、実顕地生産物はすべて「本もの」である、という抽象的であいまいな考え方に向かってしまった。この自己肥大化した考え方は、とうてい外部からの批判に耐えられるものではない。しかし、まだ活用者の支持は強く、生産物が大きく減少することはなかったし、特講も活発だった。

 この頃から学園生の祖父母たちによる子どもとの面会要請や、子ども引き取り要求が激しくなる。この動きは、96年11月の「ヤマギシの子供を救う会」の結成(ジャーナリストの米本和弘氏と学園生の祖父母)に至る。これに呼応して、ジャーリズムは一斉に反ヤマギシキャンペーンを開始する。96年11月、日本テレビは「今日の出来事」でヤマギシの子どもを5回に亘り放映、「週刊新潮」など週刊誌も、格好の話題としてこの問題を取り上げた。産経、読売を始めとする各新聞社も同様である。

 こうした反ヤマギシ包囲網の中で、実顕地はどう対応したか。

 97(H.9)年3月度テーマは「日常の総ての現れは もとの心の顕れ」である。また子どもに関しては、96(H.8)年7月度テーマが「親が子供に対して外さない いき方」、9月度が「親と子の異い 親が実践 子供も実践」である。これらテーマの真意は、子どもに対してはわがままを許さない、学園をやめたいとか、係りに対する不満を言わせない、ということであり、また動揺する親に対してはそれは「もとの心」がイズムから外れているからではないか、と引き締めをはかるものであったろう。だから、自分の子どもが「学園をやめたいと言っている」というような話は、村人どうしで話し合われることはほとんどなかった。いきなり村を出る人がいて、「なぜか」と聞くと、ようやく重い口を開いて「子どもが出ると言ってきかないから」と話してくれたりした。

 こうした中で、97(H.9)年、名古屋税務局の税務調査が始まった。この事件は全国紙で「ヤマギシ 脱税疑惑で捜査」と報じられた。翌98年4月、「ヤマギシ会200億円の申告漏れ」と各紙に報じられ、実顕地は60億円の追徴課税を余儀なくされた。

 一方学園のほうは、97年度テーマに「学園 小中一貫学校法人設立へ始動」とあるように、公立校設立準備を始め、翌98年4月に「やまぎし学園」設立認可申請書を県に提出した。しかし、これに対しては「祖父母の会」を始め反対運動が根強く、日弁連が「子どもの人権擁護」という観点から勧告を出したり、また県が小中学生に対するアンケート調査を行い、認可不適切の方向へ大きく傾いた。そのため実顕地は、99(H.11)年6月、申請を取り下げることとなる。

 この90年代後半の時期は、実顕地にとってまさに激動の時代である。村の指導部門に、ある種の亀裂が見られるようになった。それは村人テーマに表れている。

 98年3月度「行ける所へ 行きたい時に 行く自由」
 同4月度「やりたい人がやりたい丈やる自由」
 99年9月度「自主 自発 自立 自律」

 これらのテーマは、それまでの一定の強い方向性をもったテーマから「自主」や「自由」を強調する方向へ転換している。しかし、完全に変わったわけではなく、方向性をもったテーマとしばらくは同居していた。ところが98年10月、突然「村から街へ、イズム普遍化の秋来る」というテーマが出された。これは、それまでの全員参画、実顕地拡大という流れとは逆行するものであった。いわば、実顕地解体の方向である。これは、真意不明のまま村人の混乱を引き起こした。こうした最中に、これまで実顕地の運動を指導していた杉本利治さんが亡くなった。


〈衰退期――2000年~2012年〉

 2000(H.12)年から村のテーマが一切なくなった。方向付けをしない、というか方向付けができない状況になったのである。そして村から街への流れの中で、脱退者が相次いだ。ただこの脱退者のうちには、ヤマギシズムそのものに反対してというのではなく、今の実顕地に異を唱えてという人がかなり含まれていた。そして、この年の12月には、S氏などの人たちが鈴鹿に居を移し、新たな運動拠点を構築した。これによって、村を出る人、それに強く反発する人、両者の間で迷う人と、村人の間でしばらくは混乱が続いた。こうした動きは、学園の解体を早め、学園廃止に追い込まれる実顕地が相次いだ。当然、楽園村も参加者が減り、特講も縮小した。また、活用者グループの解体により、生産物の供給も急速に減少した。1980年以降、供給拡大、楽園拡大、特講拡大、学園拡大、実顕地拡大と互いの相乗効果で伸び続けてきたヤマギシズム運動が、ここへ来て負のスパイラルに陥ったのである。

 このような時にもっとも大事であるはずの研鑽が、十分に力を発揮できなかった。というよりも、研鑽力が村人の間に十分養成されていなかったということであろう。「聞く」「検べる」という最も基本的な部分が欠落していたのではないか、と思う。調正所の言うことは聞けても、それに反対する人の意見は聞けなかったり、またその逆であったりした。つまり、誰の言うことでも聞けて、誰に対しても言えて、では本当はどうかと検べる、検べ合う――この基本的な研鑽力が身についていなかったのである。

 これは、これまでの特講、研鑽学校のあり方、中身を検討するいい機会であったと思うが、ほとんど取り上げられることはなかった。そして従来通りの研鑽体制を今なお踏襲している。

 この2000年前後の時期で記憶に残っていることの一つに、こんなことがあった。熊本の甲佐実顕地にいるとき、何人かの供給所のメンバーが、配送車や運輸トラックに書かれた「ヤマギシ」の文字を薬品で消しているのだ。「何しているのか」と聞くと、本庁から消すようにとの指示があった、というのである。周囲からの反ヤマギシキャンペーンが盛んなこの時期こそ、「我々はヤマギシです」と胸を張ってなぜ言えないのか。なぜ隠さねばならないのか。同じように、農産物でも、これまで「本もののヤマギシの生産物」と謳っていたのに、「なになに農園の農産物」とヤマギシの名前を隠すことがはやり出した。こうした姿勢の裏に、何があったのだろうか。次の運動の発展のためには、避けて通れないテーマのはずである、と思うのだが……。

〈???――2013年~〉

 2013(H.25)年に春日山で一部にテーマが出されるようになった。最初は春日山で細々とテーマのある暮らしが始まったが、翌年には各実顕地にこれが拡がっていった。「実顕地一つ」あるいは「実顕地一つからの実動」ということで、実顕地間の交流が盛んになった。これは、それまでの停滞ムードを吹き払い、新鮮な空気に入れ替える効果があった。しかしこれが、ヤマギシズム運動の本質的部分や実顕地生活の基本的な部分の変革につながるかどうか。

 この間、生産物の供給はほとんど止まってしまった。供給所は次々と閉鎖され、配送も宅急便などに切り替えられた。替わって登場したのが「ファーム」という名の販売所である。しかしこれも、一部地域に限定されていて、全国展開とは程遠い状態である。また、特講も参加者が伸びず、開催回数も激減してしまった。

 いま日本の社会はますます混迷の方向をたどっており、若者の多くは希望を失って自殺者が絶えず、老人は施設や団地の一室で孤独死を余儀なくされている。こうした時代の変化に、ヤマギシは何をもって答えるのか。これからの実顕地はどうあったらいいのか。今ある実顕地の良さ、可能性というものを、どうすれば社会に発信できるのか、自己満足ではない答えが、いま一人ひとりに問われている。

          ★

 以上は8月に記したノートを整理したものであるが、これの整理には何日もかかってしまい、疲れ果ててしまった。昨夜は夜中3時まで吐きつづけ、このまま書き続けるのは難しそうなので、一応今回はここで打ち切ることにする。

 なお、年表は「春日山50年の歩み」と「近代日本総合年表〈岩波版)」を用いた。これらの年表と自分の経験したことを重ね合わあせて綴ったものであるが、1990年以降は韓国に行っていたり、帰国後は成田の造成や大田原、甲佐等、周辺部分にいて、豊里や春日の動きを直接知る機会がなかった。そのため、見方が偏ったものになっているかもしれない。できたら、大勢の人たちがそれぞれの経験を持ち寄って、歴史を振り返ると共に、これからの進路がいかにあるべきかを検討してほしいと願っている。

(51)問い直す⑩「特講」がこれまでとちがって観える(福井正之)


○旧友からのFBへの投稿に「自分が何者であるのか?どのように生き死を迎えるのか…?という問いに揺らいでいる」とあった。私は久しぶりに自分の<同類>に出会ったようで心強かった。同時にこの問いかけへの私の思索は、まだ中途であることを思い出した。
 
 くり返しになるが私の論考では、ヤマギシ批判=自己批判テーマがメインではあるが、同時に<自己存在観>に関わるテーマを交錯させてきた。その発想は私の表現では、以下のようになる。
 〈社会を変えようとするなら自分が変わること/しかし今は自分を変えようとは全然思わない/その前にもっと自分を知りたいのだ/自分を知るとは/たぶん自分の変わらないところを/明らかにすること〉
 そこで私は、自分自身の生い立ちや親との関係、自分の理念的なものへの関心の深さ等に着目してきた。いいかえればわが人生について「問いかけ」始めたのである。その中での最大の気づきは「自分がしたいことをはっきりできない子どもは、たぶん本質普遍性や理念に向かうのではないか」という認識だった。これはかなり以前から意識してはきたが、表現としてはムラ離脱以降である。それは自分の欲望や欲求への屈折した態度の結果であり、生き方として決して肯定できるものではない。このことは同時に子育て、学育面にもかかわってくる重要なテーマだと考えている。
 同時に気になり始めたのは、私自身の「特講」体験のことだった。それもこれまではその〈「一体」「無所有」等の真理・真実性への導入的研鑽〉という意識だったが、このところ特講こそ「自分を知る」上でかつてない機会だったのではないかと感じ始めている。

 ちなみに吉田光男さんも手記の中で、何度か自分の特講体験に触れている。
「人間は観念の虜になりながら、自分が観念に縛られていることに気がつかない。私にそれを気づかせてくれたのは、特講である。これなしに自分が自縄自縛に陥っていることに気づくことはなかったかもしれない。私にとって、特講で何かが変わったとか、何かが明確になったというものがあったわけではない。が、すごく楽になったのである。何かが外れたのである。その時はよくわからなかったが、後で考えると、自分の観念の枠組みがストンと外れたのだと思う。途端に世の中が明るくなり、誰とでも仲良くやれそうな気分になった。ものすごい開放感である。」(「わくらばの記」59p)

 その印象は私もほぼ同感である。あの解放感や高揚感もわりと鮮明だが、当時のメモにも触れて新たな発見もあった。私に何かを呼び覚ましたのは以下の部分である。
「ベラベラとしゃべっていたおれは自分が恥ずかしくなった。いわゆるインテリ(教師、学者の卵など)は、これまでとは逆転してどちらかといえば劣等生のようだ。よくしゃべったが、それはひたすら実質のない煙幕をまき散らしただけだった。逆にこれまで沈黙していた人々(農家の親父、自殺未遂の少女など)は、後になるほどその本領を現し始めた。この人々は、血肉化された体験のみを彼ら固有の言葉で訥々と語り始めた。今度は先行するおしゃべりたちが沈黙し何事かを考え始めるのだった。」

 いうまでもなく<怒り研>の場面だった。現在の時点で考えれば、ここで取り上げているのは参加者の「自分への問いかけ」の真剣さだった。その観点では私は劣等生だったのである。自己顕示と韜晦をない混ぜた日常的なおしゃべりの次元で参加し、そのうちこれはなんか<集団的セラピー>の一種かもしれないなどという批評に終始し、その場の渦中には参加していなかったと思う。それが変わったのである。かれらによって私は、人が腹の底から発するもののリアリティーというものを明らかに感じだしたのだ。

 これはまさに「教育者が教育される」場面であり、私自身が「学育」者である言葉を実感した最初の体験だった。「自分を知る」という観点でこの場面を想い浮かべると、そこにあったのは「なぜ私は腹が立つのか」あるいは「そこに残れるか」という自分自身への真剣な問いかけだった。その姿は「自分を知る」ために「われに向き合っている」一人ひとりの存在であり、その微妙な重要さは「一体とは」「無所有とは」という理念的な真理・真実への直接の問いかけではなかったことである。したがってその帰結として生じたのは「自他融合と心的自由(事実と思いの分離)」の心地よさ、解放・高揚感だったのだ。

 そして私が参画を決めた根元的動機は、まさにその心地よさにあったと思いだす。しかし参画して以降、最初に感じた違和感は、ここはどうも特講で体感した世界とちがうのではないか、だった。どこまでも「なんでや」と問いかけ続けられるような研鑽機会はまずなかったし、それに代わる研鑽学校なるものは、どこかお勉強的な学習が多かったのである(自らも係機会の多かった吉田さんはそれへの危惧を随所に表明されている)。それこそ今にして思えば「けんさん(真なる研鑽)」喪失の兆候だった。

 今ふり返るにその違和感こそ、実顕地変質へのたしかな兆候だったのだ。その手掛かりを見失った私(ら)を待っていたのはもうくり返すまでもないだろう。参画以降、仲良し・親愛の自然な心情がいつの間にか実感を失い、「ねばならない」信条と習慣に変質していく。その流れを見れば、イズム理念への傾倒よりも、その真実性への絶えざる(自他への)「問いかけの連続」にこそ真価があると感じる。理念を信条化していくことは、決して理念の正当性を保証しない。逆に理念のドグマ化、宗教化を結果する。

 私の特講受講は1973年のことであり、ざっと三十数年も前のことであるが、特講というものがこのように見えたのは初めてのことだった。そしてこのことは当然ながら、この間「自分はこの世界の中で何者なのか」と問い続けてきたことと直通してくるのである。ただそれはどこまでも孤独だったし、特講は集団だった。しかし特講は「孤独な自問者」の集合であって、集団内の交流に直接の意味はないと思う。あるいは自己研鑽者のその営みのままの集合体といってもいい。
 とはいえ私の特講参加の主たる動機は、やはり「「自分とは何者なのか」から発していたはずだった。
2017/7/26

参照:◎吉田光男『わくらばの記』(5)(2018-03-22)

◎自分を見つめ直す

〇吉田光男さんは『わくらばの記』のなかで、随時「自分とはなんだろう」と自問している。」
  福井正之さんの〈『わくらばの記』に触れて〉の一連の「問い直す」の論考も「自分とは何者なのか」がメインテーマになっている。
 それに関連する『わくらばの記』の記事からいくつか見ていく。(改稿)


・本ブログ『わくらばの記』(2)(3)より。
〈2016年1月27日〉:「少年時代からの自分を振り返ると、自分が自分であろうとするよりも、いつも自分以外の何者かになろうとしてきたように思う」

〈2月5日:前に私は、「自分が自分であろうとするよりも、自分とは違う何者かになろうとしていた」と書いた。自分は自分であるよりない存在なのに、なぜ自分以外の何者かになろうとしていたのか。
 自分は自分が卑小な存在であることを知りながら、それを素直に認めたくなかったのだ。本来の自分ではない存在であるかのように自分を示そうとして、自他を偽るのである。しかし、他は偽れないので、結局は自分を偽り通すことになる。
 教養主義や向上志向などもその表れだ。そして参画してからは、例えば「あるべき姿があるはずです」というテーマの「あるべき姿」に自分を見せかけようとする。テーマに向き合い取り組むのではなく、見せかけの方に力を入れるのだからバカな話だ。しかし、これは私だけのことではなく、多くの村人にも見られた傾向である。
 会員時代はよく会っておしゃべりしていた女性たちが、参画後は会ってもお互いに素知らぬ顔をして通り過ぎる、といった光景がよく見られた。これは「あるべき姿」にとらわれて、本心からの会話を成り立たなくさせていた結果だと思う。
 人間は今ある自分の姿をそのまま認め、そこから出発する以外にない。自分を隠す、自分を飾るということは、他の評価によって自分を位置づけようとする、風まかせ、波まかせの実に不安定な生き方にほかならない。

・『わくらばの記』(17)より。
〈2017年1月2日〉:この日、息子一家が来てくれた。しばらくみんなで話し合っているうちに、孫の一樹から鋭い質問が飛び出してきた。こうした真正面からの問いかけには、ごまかしたり、はぐらかしたりはできないなと思い、こちらも真剣に答えることにした。 

 ――年を取って体が衰えても筋肉は鍛えられるというから、筋肉ムキムキになる運動をしたらどうか。

「皮膚がたるんで皺だらけの体で、筋肉だけ鍛えることはできそうもない。鍛えることよりも、できるだけ衰えないようにするための足腰の運動はつづけている」

 ――もっと長生きしたいとは思わないか。

「生きられるだけは生きようとは思うが、より長くとは考えていない。薬や生命維持装置で、生きる時間を少しでも長くとは考えていない」

 ――もっと幸せになろうとは考えないか。

「その‟もっと幸せ”というのは、どういうことだろうか。幸せに普通の幸せ、もっとたくさんの幸せ、といった区別があるだろうか。幸せにAランク、Bランクという区別はないのではないか。もしあるとすれば、前のは本当の幸せではなかったということになる。幸せを感ずる中身は日々違っているとは思うが、その時その時を幸せに生きることが大切だと思っている」

 ――じゃあ、幸せって何か。

「その質問に全部答えることは難しいが、最近考えたことを言うと、自分を知るということが大事な一歩かと思っている。宇宙の話を聞くと、宇宙空間に存在する物質やエネルギーはほとんどが未知なるものだと言われている。その90パーセント以上は、不明な物質やエネルギーで、それを暗黒物質とかダークエネルギーと言っている。同じように、人間の心の宇宙もわかっていない。つまり、人は自分が何者であるのかわからぬうちに、一生を終えることになる。それにもかかわらず、みんな自分は自分だとわかったつもりになっている。じゃあ、何を以て自分だと思っているかというと、自分以外の何か――例えば財産とか名誉とか地位とか知識とか――そういうものが自分であると思っているのではないか。しかし、そうした自分以外のもので自分を幸せにはできない。それでは、おじいちゃんは自分がわかっているかと聞かれると、とうていわかっているとは言えないけれども、わかっていないことがわかったとは言うことができる。だから、自分の心の中を旅する努力をしているが、それが楽しい。そこに生きがいを感じている」 

 そんな話をして、多分よくはわからなかったと思うが、真面目に答えたことの何かは伝わったかもしれない。〉 


・『わくらばの記』(18)より。
〈2月×日〉夜中に目覚めたときなど、ふと自分はなぜこんな文章を書いているのだろうか、と考えることがある。去年の1月以来だからだいぶ長いことになる。文章としては拙いし、考えていることも侏儒の戯言に過ぎない。何人か読んでくれる友人知人がいるからという理由もあるが、そうした知友に甘えて書いているだけであれば、貴重な時間を奪うだけで申し訳ないし、自分にも嘘をつくことになりかねない。出発は、ガンになったことをきっかけに、自分を見つめなおすことにあった。何もしなければ、時間の流れにただ流されるだけで一生を終わってしまう。流されながらも、自分が何者でどこから来てどこへ行くのかを見つめなおしてみたい、そのために書き始めたはずである。あくまで、自分のために書き始めたはずである。昨夜、ふとそのことを思った。〉


 実顕地という特異な環境にいると、そこに大きく影響されながら自己を形成することになる。私の場合も、やらされていたということはほとんどなく、大方は納得の上で、自分のこととして行動していた。離脱してみて、かなりそこの気風に染まっていたなと思っている。
 また、ことさら「自己とは何か」というような問いは立ててはいない。時折立ち止まって、なんで自分はこのことをしているのかと問い直すことは大事にしている。

 福井さんは「自分とはいったい何者なのか?」という問いをたてる。〈その出発点は私の場合、ジッケンチを離れたからこそ生まれた認識だった。〉と述べる。
 晩年の吉田光男さんは、実顕地で暮らしながら、ある程度そこに距離をおいて「自分はいったい何をしようとしているのか」と真摯に自問されていた。
 
参照・吉田光男『わくらばの記』(3)(2018-02-17)
  ・吉田光男『わくらばの記』(17)(2019-02-13)
  ・吉田光男『わくらばの記』(18)(2019-03-05)
 

◎「心あらば愛児に楽園を」

〇「心あらば愛児に楽園を」は『ヤマギシズム社会の実態』(通称「実践の書」・青本)にある言葉で、その書は山岸巳代蔵の代表的な著作で、参画者にとって、ヤマギシ会に深く関わって人にとって、もっとも馴染みのある本だと思う。

 本書は、養鶏をはじめ実際家としての生業から見つけ出した、山岸の考える理想社会(ヤマギシズム社会)の構想やその実現方法を、包括的に、具体的に、初めて正面から発表したものである。極めて短時間のうちに綴られた未完成のものであるが、青年期に構想しその後再検討を加えてきたものが端的に提案されている。

 また、ヤマギシ会の入り口である「山岸会特別講習研鑽会」(特講)の唯一のテキスト・研鑽資料として使用され、今もなお「ヤマギシズム特別講習研鑽会」において使用されている。

『ヤマギシズム社会の実態』は、「解説ヤマギシズム社会の実態(一)」、「知的革命私案(一)」、「知的革命の端緒・一卵革命を提唱す」の三論文からなる。
 その三番目の最後の論考として「二 本旨 心あらば愛児に楽園を」がある。

〈「二 本旨 心あらば愛児に楽園を」
1 源泉の涵養
 いま日本は精神的に物質的にまことに乏しいです。
 この日本を最も豊かにするものは、人間の持つ知能であり、一人の知恵は世界一の日本にするかも知れませんし、決して奇蹟でも僥倖でもありません。その知恵は何処にあるか、何処かにあっても引き出すことが出来ずじまいになるかも知れません。(中略)

 その構想計画のうちには、重要にして一日たりとも忽せになし得ないもののみではあるが、私は国民全般の福利を普遍的に増進する、今日の重要施策と同時に、今一つ、今ただちに着手しなければならぬ、基本的重大方策があることを強調したいのです。
 今日の問題に忙殺されている中にも、明日の破綻防ぎ、光彩輝く将来を画策・施工しておくことで、今日は苦しくとも、むしろそれに総てを賭ける方が、賢明だと信じています。私は、今日はどうにか生きて働けてさえあれば辛抱し、今日に於て明日のために勉学し、十年後のために果樹の種を下して肥培し、百年、千年後のために植樹を行い、道路・水路の整備を強行し、明日・次代の児孫の豊かさを念うものです。

 自己の延長である愛児に楽園を贈ることは、間違いのない真理であり、自分に尽す結果になり、今日自己一代の栄華や、自己の子孫のみのために囲いの中に営み貯える、いつ侵され崩れるか図られぬ不安全さを思えば、ひとと共に力を合わせて行い、みな血の繋がる人間同属の児孫の幸福のために、致すことが真実です。〉

 この文章が、一週間の特講の最後の方で読むことになる。
 特講で一週間通して時間をかけてとことん考える、自分一人でも考えるし、他者とも一緒に考える。男女性別・年齢・育ちの異なる人々と、徹底的に話し合う体験を通して、様々な人々が密室的なそれでいて親密な空間で寝食をともにし、一週間何でも出し合える気風の中で、徹底的に話し合いを続けていくと、係りも含めて参加者同士の一体感が深まっていき、自他の隔たりが薄れていく。

 ものの見方・考え方が、従来は自覚のないままキメつけた判断で見ていたことが、はたしてそうなのか、本当はどうなのかというように、物事を根底から検べる「けんさん」及び「幸福研鑽会」の楽しさ、厳しさ、大事さを味わうことになる。

 それと共に、独特なテキストの本意が親身に入ってくるようになり、「心あらば愛児に楽園を」にインパクトを覚える。

 むろん、特講の進め方やテーマなどは、開催時期によって違ってくるが、その目的や全体の枠組は一貫して同じ質のものが流れていると思われる。
 また、その捉え方は一人一人違うものだと思う。
 ここでは、特講、研鑽学校などの研修部門に携わった私の体験から述べてみた。

 こうして、ヤマギシ会の趣旨「われ、ひとと共に繁栄せん」に共鳴した山岸会会員となる人も多かったと思う。

 私の推測になるが、「心あらば愛児に楽園を」が新島淳良氏による幸福学園構想につながり、そこからヤマギシズム学園が生まれたと思っている。
(※ヤマギシズム学園は、初期の構想とは甚だ違った展開をすることになるが、ここでは触れない。)


 参照:鶴見俊輔「ヤマギシカイとヤマギシズムについて」(一九九五年一一月)
 私はヤマギシカイの本部に行って、七日間のけんさん(「特講」 のこと)を受けた。
 テキストがわたされ、それをめぐって、自分の考えるところをただいってゆくうちに、はなしはぐるぐるめぐるという、めずらしい形のあつまりだった。人間は自分の底に、他の人と一緒に助けあって生きてゆこうという気組みをもっている(それは私の中にもある)。それをどうあらわしてゆくか、そのうちに、どこかで道からそれてしまうのだ。スターリンにしても、なみはずれた体力にまかせて、家庭で皿をあらい、掃除をすることを日課とし、その上でスターリン言語学の論文を書くようにしたら、彼の持つ天分を、圧制にふりむけることなしに、共産主義の成就のためにつくすことができただろう。言語によって命令することに終始すると、無害な活動に終らない。とざされた大学をつくるのも、圧制の準備になる。
ヤマギシカイにおいては、その可能性はどのようにふせがれているのか。

 ヤマギシカイについて知ってから四十年、その会員とつきあいをもつようになってから三十年以上もたっており、その間、二度、ヤマギシカイの本部に行った。とにかくつづいているというのが事実であり、何よりも、この事実が重い。

 ソ連という共産主義国家はレーニンという最初の指導者がつくり、その国家はスターリンの独裁のもとにおかれた。ヤマギシカイは、これをはじめた山岸巳代蔵がなくなってからすでに一世代をへた。その間に何度も、中央の管理を受け持つ人の交替があった。これまでのところ権力者の固定をふせぎ得たことは、ひとつの達成である。同時にけんさんという集団会話の入り口を示すテキスト以外に、一つの固定したテキストをもたず、このテキストで対話をはじめると、相手の言うことをよくきく、怒りのトゲをぬいてきくということをとおして、七日間の対話をともにできる。この方式が、とざされた体系をつくることからかろうじて、この集団を今もまもっている。その中心には、山岸巳代蔵が戦争中自分の内部にかくしていた「ダレノモノデモナイ」という理念が生きている。

 シャカムニがあらわれる前に、無数のブッダが世界にはいた。
 おなじように、山岸巳代蔵の前にはいくつもの村があり、その村にはヤマギシズムと相通ずる理想があった。それをうけついでヤマギシズムがあらわれたのであろう。村を、欧米の近代文明よりもおくれたものとしてとらえる明治以降の日本にも、この理想はなじまないし、米国による敗戦と占領以後の日本にも、この理想はなじまない。しかし、原爆をつくって脅迫する国家制度をうけいれ発展する近代に対して、どのように対してゆくかの根拠地をここに求めるためには、山岸巳代蔵の戦中の理念をうけつぐことが、今も大切であるように私には思える。
(『山岸巳代蔵全集 第二巻』所収)

◎守下尚暉『根無し草』のコメントから②

〇守下尚暉『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』を紹介したとき、元学園生から養鶏書にある記事の写真とコメントをいただきました。

〈 生魚屑養鶏を排する理由
 生魚屑につきましても、農業養鶏では、無代で庭までそれを運んで貰っても「使うな」と強調していることは、飼育羽数が五〇〇羽未満の人が多く、労力と技術の点から、他の重点作業と生活時間を尊重する理由からで、一家の主人がそのような小利のために、他の作業・全体の経営・社会人としての責任に支障を及ぼさないよう、また主婦が日々その管理に忙殺されて、一家の生活が疎かになるなれば、賢明な行き方とは云えません。人格完成のために、勉学途上の青少年の貴重な時間を、毎日の残菜・生魚屑集めに空費する等は、目に見える肉体は大きく伸び、金銭は積まれても、目に見えぬ尊さが備わらないなれば、人間としての生き方を忘れた、迂闊な歩み方であることに気付きます。青少年は体の錬成と、読む・聞く・見る・試みる、即ち培う時代で、奪ってはならないです。〝一人の頭脳は百万人に幸福を齎すもの〟です。生魚屑を用いて一日一回給餌の方法もあり、その方が数回給餌よりも成績はよろしいが、ちょっと技術が要り専業家向きで、この方法については山岸会専業養鶏編で述べることとし、ここでは農業養鶏向きの事項のみ採り上げましょう。〉

 これは『山岸式養鶏法・農業養鶏編』の「八 農業養鶏には」の「生魚屑養鶏を排する理由」の文章である。

 元学園生からのコメントは次のようなものです。
〈T・Y:私はあまりヤマギシズムについては詳しく知らないのですが、この著者(守下尚暉)の方に養鶏書? とか言う本のある一節を写真で撮って送ってあげました。著者の方も当時見たことも無いとのことで無知やったと言ってましたが、その部分を当時本人が知っていたら、当時のヤマギシがちゃんと素直に学園で顕していたら、学園と言うもの、青年期の時間も違っていたと言っていたのかもと。
少なくとも創設者の理念にはちゃんと書いてあったのに、そういう要素が、子供たちに感じられなかったというのが、残念なように思います。〉


『山岸式養鶏法・農業養鶏編』と『ヤマギシズム社会の実態』は山岸巳代蔵の初期の著述になる基本的なもので、参画者にとって、もっとも馴染みのある本だと思います。

 T君がこのような箇所に注目していることにビックリするとともに、守下氏にこの記事の写真を送ったことに、この積極性はすごいものだと思いました。
 おそらく、参画者の多くはこの記事のことをちゃんと読んでいないと思います。

 本書にある〈人格完成のために、勉学途上の青少年の貴重な時間を、毎日の残菜・生魚屑集めに空費する等は、目に見える肉体は大きく伸び、金銭は積まれても、目に見えぬ尊さが備わらないなれば、人間としての生き方を忘れた、迂闊な歩み方であることに気付きます。青少年は体の錬成と、読む・聞く・見る・試みる、即ち培う時代で、奪ってはならないです。〝一人の頭脳は百万人に幸福を齎すもの〟です。〉

 このような文章を読むと、今回は守下著のことで学園に焦点を当てましたが、実顕地も初期の構想とは正反対のことをしていたんですね。その延長上に学園問題があると思います。

 この文章の少し前に次の記事があります。
〈「余剰労力と人間生活」
 長男は二三才で力もあり、体が頑健ですが、田畑や鶏に手を触れさせません。それは可愛いから楽をさすためではなく、息子には息子としての一番大切な生活があるからです。子供が遊んでいるから、蝗採りや草刈りをさすではいけないと思います。それは教育の重要性を考慮に入れて、家全体としてどうか、その子供の生活にどういうことになるかを考える必要があり、老人等もこの世へ働きに生まれて来たのだ、死ぬまで働くのだ、と云う人もありますが、それはその人の自由意志にありまして、主婦を一家の道具視するものと同じように、本当の生活を忘れた考え方だと云えます。〉


 山岸巳代蔵は、このような表現は基本的な両書に限らず随所に触れていて、この角度から青少年がどのように育ったらいいと想っていたのか、山岸の思想を考えるうえでも、見ていこうと思っている。

◎守下尚暉『根無し草』などについてのコメントから

〇守下著『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』のことをFacebookに取り上げたとき、同じころに育った元学園生からいくつか疑問も含めてコメントをいただきました。
 さらに、参考になるかとも思い、学園に触れた故吉田光男さんの論考「元学園生の手記を読んで」を紹介したところ、いろいろな反響がありました。

 当ブログは、理想集団がどのように変容していったのか、様々な視点から考察することで、今後に生かしていければいいかなと考えています。
 特にヤマギシ会、実顕地が力を入れ、異様な展開をしたヤマギシズム学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返ることは大切で、その意味合いにおいても守下著『根無し草』やそれに関してのコメントで、いろいろな方が、考え、思うことを寄せることで、様々な角度から焦点があたり、過去のことを現在につなげるのは,このブログの目的の一つであり、その一部を上げておきます。


「元学園生のコメントから」
T・Y:正しいと思われることを言うのは気持ちのいいことなんだけど注意しないといけないんでしょう。正しいっていうのが 語弊があるのなら 全人幸福って感じ?
 これは この組織に限らず 世界や社会の幸せを訴えたり、良いことをしていると思われる他の組織についてもいえることで 人間は間違いやすく 普遍的に同じ失敗もする。
 ひょっとしたら 戦中、戦後の日本も似たようなものやったのかもしれない。もっとちゃんと 感じていることをオブラートに包まずに後の世代に伝えていたら 良かったのかもしれない。自分が撃った鉄砲の流れ弾で、埋めた地雷で亡くなった被害者がいるかもしれない・・・と思うとぞっとするけど 自分の家族をまもるため・・・・・に。
 組織が大きくなればなるほど 気をつけないといけないということなんでしょうね。

 おはようございます。でもあそこで学んだことも多かったことも事実です。
 後悔は無駄だと言う人もいたり、しますが、少しの後悔と沢山の反省はより良い人生には必要なのかな? と思ったりもします。

K・N:学育部とかもあったかと思うが。おかしな考えも公意となり。半ば強制的でもあった。
 当時の本庁メンバーからさえもその後の反省を聞いたこともなく、山口さんがこうして振り返ってくれることは、気持ちの整理もついて嬉しいことではあります。
 当時から壮大な社会実験だと思って参画したつもりであったが、軌道修正も難しい組織だなとも思った。
 矛盾したこともかなりあった。まあやっぱり本庁の偉そうにしていた人の責任は重大だと思う。
 失われた命もけっこうあり、続く影響もあり。私の一生にもつきまとうことのようだ。

 誰かが、とんでもないことを言って、別の人が、それは違うこうじゃないか、また別の人が、いやいや2人とも全然違うわ!、それぞれの思うところを出し合い、足し合い、とんでもないことの正体が何となく探り出していけるのが、楽しかった気がする。
 最終の方では、誰かの考え、本庁の考え(黒幕😱)の考えに依存する、指示を仰ぐってのがあったんじゃないの? いやあったと思う。どこで話し合っても本庁に確認するってのが多過ぎたわ。そしてその場には本人不在でね。まあ当初からそこは崩壊していた部分なんだと思うが。

 誰もが何かに操られていたような。誰もが傷ついたのかと思うが。当時、どういう気持ち、どんな背景があったのか知りたい。
 今も許せないと思う人も多いことだろうが、赦すことも必要のように思うし、当時の反省は必要だ。

H・W:今でも学園生時代での反省した事柄を覚えています。反省をしないでいたら又同じことを繰り返すのでは…と、思うのです。
 山口さんがこうして出してくれている事は自分にとってとても大きな事です。吉田さんの読ませてもらって、当時のこと思い出されます。
 本当にどうだったんだろうと振り返ってみたいと思いますね。

 常々学園、学育で育った人達は心に何らか傷があるのを感じていました。鬱病になっている人が何人もいたりと…。話を聞くたびに憤りを感じたり。
 当時主力でやられていた人の発信としては山口さん福井さんしか知らないです。
 みなさんどの様に思われているのか知りたいと思っています。


H・S:当時を生きた学生として中高と色々、ありましたが恨み言は言いたくないので言いませんが一つだけ。中学の係の事は一生忘れないと思います。まさに動物実験でしたね。


「学園以外の方からのコメント」
K・H:吉田光男さんの手記、初めて読ませていただきました。シェアさせていただいて、何度も何度も読ませていただきます。

H・M:学園に限らず、結局のところヤマギシズム実顕地構想全体が、「こころの解決」より「形に依存」することが原因だったと私は反省しています。幸福社会という架空の極楽浄土のような理想をかかげ、それを正しいとして、時間軸を未来に逃避し「いつかそうなる」と、理想を追っていました。平和の為に戦争をするのと同じ発想です。
 こころの解決も理想社会も「今ここ」でないと意味がありません。だって、本当に実在するのは、今のありのままの自分だけです。社会とは人のことで、最小単位の社会が自分のこころの世界です。人を変えることができないなら、自分のこころの解決が何より肝心なことだと思うのです。
 私はヤマギシズムに出会って、本当に多くのことを学びました。自分の原点だと今でも思っています。私は仏教の世界に帰って、私も含めたすべての生命の幸福を願う、慈しみのこころを育てながら、ブッダの瞑想を実践して暮らしています。こころの解決は、結果ではなくその姿勢にあります。おなじ志の人といるとそこに、柔和な社会が努力せずともあらわれます。
 40歳の頃、実顕地で暮らしていて「これは間違いだ」と静かに気づきました。不思議なことに同じ時期に、因果具時の如く、多くの人が目覚めはじめました。実顕地を離れて鈴鹿に集結したころが懐かしく思われます。そこにも、こころの解決に中心を置く人と、寄らば大樹の陰のように、形に惹かれる人があらわれます。
 憧れた無所有社会は、自分のこころにあります。我利我利の生存欲をありのままに見て、何だ生きているってその程度のことかと見て、生存欲から離れることも難しいとは思いません。一切の理想を追わないと、ありのままが自分の理想と合致します。私は支配者ではないのです。


「わたしからの返信」
・自分のやれることとして、実顕地や学園のことを過去のこととせず、現在の問題として考えていくことやっていこうと思います。その意味でも、今回のいろんなコメントは励みになります。

・どんなことも失敗や間違いはつきもので、たえず見直し、軌道修正が必要だと思います。また、そのことをきちんと振り返ることが大事だと思っています。

・「あとは研鑚しておくよ」という反応が多かったですね。要するに本人たち不在で、上のもの指導者に決めてもらいましょうというような、本来の「研鑽」になっていないことですね。学園生活では頻繁にあったと思います。

・そんなこともあったなと、簡単にやり過ごすことはしたくないです。現実に犠牲になった人はいるのですから。

・ある会員さんから中等部のある人について「その人の名前を聞くと、胸が張り裂けそうで一杯です。」という投稿がありました。

・今回は守下著のことで学園に焦点を当てましたが、実顕地も初期の構想とは正反対のことをしていたんですね。その延長上に学園問題があると思います。

・このようにいろいろな方が、考え、思うことを寄せることで、あることが様々な角度から焦点があたり、またそれぞれに還っていくような気がします。
 過去の事を振り返るのは大事だと思いますが、注意する必要もあり、躊躇するものもあります。どちらにしても自分にとっても誰にとっても、何かいまに繋がるものがあればいいかと思っています。