広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

(46)問い直す⑤ イズム、イデオロギーへの嫌悪と見直し(福井正之)

〇 <自己存在観>(自分を知る)に関わるテーマBと<真理(真実)観>(ヤマギシ批判=自己批判)テーマAの統合などという少々大仰なテーマを打ち出したところで、また吉田光男さんの文章に舞い戻る。吉田さんの場合Aが主題であって私のような区分けは特にないようだが、Bの表現も随所に顔を出す。もう<統合>などと言わなくとも、A主題のなかに自在に組み込まれているようだ。

「わくらばの記」終りの方で息子さん一家の訪問を受け、お孫さんから「鋭い質問」を受ける場面が印象的だ。

〈――じゃあ、幸せって何か。

「その質問に全部答えることは難しいが、最近考えたことを言うと、自分を知るということが大事な一歩かと思っている。宇宙の話を聞くと、宇宙空間に存在する物質やエネルギーはほとんど未知なるものと言われている。その90パーセント以上は、不明の物質やエネルギーで、それを暗黒物質とかダークエネルギーと言っている。同じように、人間の心の宇宙もわかっていない。つまり、人は自分が何者であるのかもわからぬうちに、一生を終えることになる。それにもかかわらず、みんな自分は自分だとわかったつもりになっている。じゃあ何を以って自分だと思っているかというと、自分以外の何か――例えば財産とか名誉とか地位とか知識とか――そういうものが自分だと思っているのではないか。しかしそうした自分以外のもので自分を幸せにはできない。それでは、おじいちゃんは自分がわかっているかと聞かれると、とうていわかっているとは言えないけれど、わかっていないことが分かったとは言うことができる。だから自分の心の中を旅する努力をしているが、それが楽しい。そこに生きがいを感じている」

 そんな話をして、たぶんよくはわからなかったと思うが、真面目に答えたことの何かは伝わったかもしれない。〉(251p)

 私は感嘆した。若い頃のイメージでいえば「ここに人生の教師がいる!」という感動に近い。お孫さんとはいえ一人の真摯な若者に向き合ったときの老学究の心の緊張がよく伝わってくる、臨場感あふれる表現だ。しかも宇宙科学的真理からの導入のように、私には到底できないようなスケールの大きもある。そのベースにある吉田さん自身の心の喜びや生き甲斐を通して、私が縷々述べながら果たしえなかった<自己存在観>のリアリテイーを見事に表現していただいたような気がする。

 直ちに思い出されるのは、記憶の細部は不鮮明だが高等部「学究」があった頃のことである。新島淳良さんがたしかマルクスの「剰余価値」や「疎外された労働」について語り、それに興味津々食いついてきた学園生の存在だった。そしてその「学究」が停止されたとき、本庁にその疑義を問いかけに行ったメンバーがいたことを知ったのも、ごく最近のことだった。当時<実学一本で行く>というその世界知というものに無頓着かつそのどうしようもない発想の貧しさにおそらく愕然としたであろうが、私にそれ以上何かしたという記憶はない。

 ともかくそのことを踏まえながら、吉田さんのA主題<真理・真実>に立ち戻る。吉田さんのいろんな切り口が覗かれるが、たとえば私には最も解りやすかったのは、鈴鹿の資料『asone 一つの社会』への疑問である。

〈納得できるところ、同調できるところはたくさんある。しかし疑問は残る。それも根本的な疑問である。疑問というのは、「もともと」とか、「本来」という言葉で言い表される中身だ。「人間本来の姿=幸福」・・・「もともと安心安定」「無いのが本当」 (中略) 私は今「本来」も「もともと」も棚上げして、自分のあるがままの姿を見つめ直すことに重点を置いている。「真理とされるものから出発する思想は、一種の原理主義になりうる。〉(135~136p)

 このような発想は前述した私自身の2000年当時の<真理観>にも符合し、私はそこから「わが全心身で嗅覚でき、かつ実感できる真実」に依拠するようになってきた。しかし私はそれを全肯定しているわけでなく、それも容易に一種の<実感信仰>になりやすい。改めて吉田さんの論述の厳密な手つきに感銘する。 

 しかしそれよりも何よりも私の最大の関心は、いわゆる「イズム」という表現で括られる世界のことである。私はそこをまず保留状態というか、この<善にも悪にも変貌する得体の知れない>思想へのある種の嫌悪感からそれをすっ飛ばして、「いったいこの自分とは何なんだ」という問いに直接向かった。こういう「正体不明のイズムなるものに取りつかれてしまった自分」という形容をつけながら。

 私も吉田さんと同様、マルキシズム(私たちのような年齢であれば誰しも心当りがあるであろう)というイデオロギーに執着した前歴がある。私はそれに懲りてとことん愛想尽かしをしてきた分野だったはずである。にもかかわらず内容はちがえ「○○イズム」に再帰してしまった。しかも私とちがって吉田さんはなおイズムへの希望を失っていない。

「思想が思想として成立するには、それが世界性を持ち得るかどうかにかかっている。世界性とは、普遍性である。一つの考え方、一つの論理が、何ものかを代表するイデオロギー性を持ちうるとしても、ある地域、あるグループ、ある時代を超えて通用する普遍性を持ちえないとすればそれは思想にはなりえない。」(125p)

 吉田さんはそのように問いかけながら、かつ山岸さん自身の、人々の誤解、キメつけによる宗教・信仰・盲信形態への恐れを紹介される。その上で、さらに自らの従来の信じキメつけへの反省にもふれながら、以下のようにまとめられる。

「ヤマギシズムが思想としての世界性を持ち得るかどうかは、決めつけのない前進無固定の、研鑽形態の思想として、私たちがヤマギシズムを再生しつづけることができるかどうかにかかっている。」(127p)

  何という苦渋に満ちた語りであろうか。私には、申し訳ないが言葉つきは優しくともこれは<鬼のような頑強な執念>にも聞こえる。その表れの現実をどこにも確認しようのないただ中で、(他のどこかにあるのかもしれないが)ただ存在しうるのは吉田さん自身のその語りのことば(魂)とその可能性だけである。私のなかでもすでにそのことばない。以下は私の<ぶっちゃけ>開き直りである。 

〈たぶん私は「転向」したのである。(中略)そもそも理想、大義、真目的なるものへの参画と称し、人生の総てを最初から(あるいは中途からでも)自縛・他縛するようなことは、どこか虚偽があると思うようになった。その流れは必然的に子どもの未来をも束縛するのだ。そういう簡単な真実を知るのに、私には二度の挫折が必要だった。一度目は学生運動、二度目はヤマギシ。よっぽど大バカでも三度目はない。普通人にとっては、そこまでできるほど人生は長くはない。〉(「ジッケンチとは何だったのかⅡ」)

  急いで(私の中では長い時間がかかっている)註釈を入れれば、この「転向」とはあの時期ではごっちゃだった<ジッケンチ>イズムからであって、必ずしもヤマギシズムからではないと思い返している。しかもこのようないわば<私的な>ことは、公開せずとも私自身が黙って巷に消えていくだけで充分なことであろう。私がここでいまだ山岸さんの語りやイズムについては一知半解でしかないが、あえて言上げしたいのはやはり吉田さんが死守(かつ死後守)もされてきた「真なるヤマギシズム」であり、なかんずくその「けんさん」の真実の可能性である。何も一同会して語り合うことばかりが「けんさん」ではない。 

 私のいわばこういう<屈折した>志向には、なにがしかの偶然が伴ってきたと感じる。あの<ジッケンチからの逃亡>は当時は強いられた偶然だったが、その前にはたしか幼年部拡大推進マシーンと化した自分の疲労感と徒労感がびっしりこびり付いていたはずである。おそらくムラ離脱後の無我夢中の精神的営為がそのことを<わが必然>と化してきたと得心する。前にも触れたようにそのことに後悔はないが、吉田さんの心の営みにはどこか深い敬意と魅かれるものを覚える。その吉田さんも長い間特講や研鑽学校の係をやってこられたいわば<偶然>が、現在の自(他)究明へと熟成されてきたのかもしれないという必然を感じてしまう。ふと浮かんできたのが、ずっと死ぬまでアテネの広場を離れることなく問いかけ続けてきたソクラテスのことだった。

  おそらく人は死してのち心近くにあった人に、またこれまで以上の何かを呼び覚ます。このお孫さんへの語りを読み返してみると、「おじいちゃんは自分がわかっているかと聞かれると、とうていわかっているとは言えないけれど、わかっていないことが分かったとは言うことができる」とある。これこそ「無知の知」ということなのではないか。あらためて「けんさん」を人類の普遍的古典智からも捉え直すことができそうな気がしてくる。(続く) 2017/5/30

参照・◎吉田光男『わくらばの記』(9)(2018-08-13)
  ・◎吉田光男『わくらばの記』(10)(2018-08-13)
  ・◎吉田光男『わくらばの記』(17)(2019-02-13)

◎「なぜ と問いつづけていく」「問い直す」という生き方

※福井正之さんは吉田光男さん逝去を受けて、10回に亘る「問い直す」のテーマで論を展開している。「なぜ、と問うことを続けている。」というのが『わくらばの記』に一貫して流れている特徴だと思っている。
 私が『「なぜ と問いつづけていく」という生き方』の表題で記録したものを改稿採録する。

〇吉田光男さんから受け取りたいと思っていること
『わくらばの記』は、食道癌による入院前の2015年12月25日から書き始めている、年明けて、84歳の誕生日の1月3日に次の記録がある。

〈『1★9★3★7』はずしりと重い。しかし、逃げるわけにはいかない。これを読むと、自分が書いている「学園問題」についての手記は、チンケで底が浅く、とうてい書き続けることができなくなった。もっと自分に向き合わなければ、書く資格も意味もない。
 辺見庸は、「なぜ」と問うことを続けている。物事の重要性は、説明や解明にあるのではなく、問うことであり、問いつづけることの中にこそ存在する。説明、解明、解釈、理論づけ、……それらはそれ以上の究明を放棄するときの弁明にすぎない。終わりのない過去を、つまり現在に続く過去に区切りをつけ、ごみ袋に詰めて捨て去るときに用いるのが、説明であり解釈である。説明の上手下手は、ごみ袋が上物か屑物かの違いにすぎない。〉(「わくらばの記」2016年1月3日)

  2017年3月頃からまとまった思考が困難になってきて、思考の断片をノートに書き綴ったものを「断想」という名でまとめた。その中で、「問い続けること」について述べている。

〈*大きく問うものは、大きく考え、小さく問うものは、小さく考え、問うことのないものは、何も考えない。ただ、この問うということは、批判したり、攻撃したり、反対することではない。批判・攻撃・反対は、すでに何がしかの結論をもってそうするのであるから、そのときにはもう問うことも考えることも止めている。問うとは、ただただ問うことである。問い続けることである。その過程で何がしかの結論を得ることがあったにしても、それは〈とりあえず〉の結論であり、疑問符つきの結論にすぎない。〉(『わくらばの記』-「断想」2017年3月)

 
「なぜ、と問うことを続けている。」というのが『わくらばの記』に一貫して流れている特徴だと思っている。

 何か大事だなと思えることを、「問い続ける」ことは、その対象をあらゆる角度から見つめると同時に、それを見つめる自分の見方・考え方、さらにはその見方・考え方を下支えしている深層の心理までをも調べていくことの果てしない連続となるのではないか。

 基礎的なことを探求している科学者などは、ほぼ対象をつぶさに探り、あるいは実験をしていくことである程度究明していくことが可能だが、人間や社会のもろもろのことを探求していくには、外にある対象に向かう力とともに、内なる自分の見方、心の在り方に向かう力が同時に働いていくことが必要だと思う。

 
 何かを考え始めるのは、ある種の驚き(戸惑いなども含めて)から出てくる。対象が何であれ、自分の心の反応から生じるのだと思う。その驚きを、通り一遍の解釈でやり過ごしていくことが多いのだが、その場合、驚きの新鮮さは日常生活の中で失われていくことが多い。

 最初の驚きから、「なんなんだろう」と問い続けることで、視界がぐっと広がっていき、そこからさらに問い続けることで、自分の見方、考え方を見直す端緒となり、持続した課題となっていく場合もある。いずれにしても、自分の心のありようが、問い続けていくときの起点となるのではないだろうか。

 人は、自分の見たいようにしか見ようとしない、聞きたいようにしか聞こうとしないもので、これはいいも悪いも、そのような傾向があり、普段はそれで円滑に生きていける面でもある。
 だが、深く問う、探る、調べるときには、その自分のもっている傾向に対する自覚が伴っていかないと、思いたいように思うことになり、問い続けるとはなりにくいのではないだろうか。

 
 このことについて、御自身の心の状態に引き付けて吉田さんは問いつづけている。
〈最近つくづく思うことは、事実と認識とのズレという問題である。どうしても認識は、事実のずっと後にやってくる。
 例えば90年代末に、村は学園問題でマスコミからの総攻撃を受けた。特にテレビでは日本テレビが、週刊誌では「週刊新潮」が、「ヤマギシの子どもたち」についての報道を繰り返した。これらの報道にはかなりの悪意が含まれてはいたものの、真実の部分も少なからず含まれていたように思う。しかし私たちは、それを認めようとはしなかった。認めるようになったのは、ずっと時間が経過してからである。
 私たちは、やはり事実そのものを見るよりも、自分の見たいようにしか見ようとしないものなのだ。その事実がどれほど真実であろうと、それがその時の自分にとって受け入れがたいものであれば、それを拒否しようとする無意識の心理が働く。そして、こうした無意識の心理が働いていること自体を認めようとしない。自分の認識の経過を振り返ると、そのことが痛いほどよくわかる。しかもまだ、その誤りやすい認識の罠から抜けきることができないでいる。だから山岸さんが、どれほど研鑽しても「である」と断定できるものはなく、あくまで「ではなかろうか」とする以外にないのだ、と言っているのだろう。〉(『わくらばの記』―「病床妄語」2016年2月20日)

 
 日常の暮らしでは、ある段階で、一応「こうではなかろうか」と、それをもとに動いていくことも多いだろう。そういう場合でも、そこに何らかの余白を残し、疑問符をつけておき、いつでも見直しできる、やり直しできる心のゆとりが必要だなと思う。
 だが、このことについては大事だなと思っていることについては、問い続けることが肝要ではないだろうか。

 晩年の吉田さんは、「問い続ける」ことが生き方となっていたように思う。
 今の私にとって、とても困難なことではあるが、このことを心においておきたいと思っている。

 それには、わからないことをわからないままに問い続ける知性の耐久力、理解不能なものをいまのじぶんの理解可能な枠に押し込めようとしない心の在り様が大切ではないだろうか。

参照:◎吉田光男『わくらばの記』(1)(2018-01-17)
   ◎吉田光男『わくらばの記』(4)(2018-03-03)
   ◎吉田光男『わくらばの記』(20)( 2019-05-09)

◎自己とはなんだろう

※吉田光男さんは『わくらばの記』のなかで、随時「自分とはなんだろう」と自問している。

・本ブログの吉田光男『わくらばの記』(3)より。
〈2月5日:前に私は、「自分が自分であろうとするよりも、自分とは違う何者かになろうとしていた」と書いた。自分は自分であるよりない存在なのに、なぜ自分以外の何者かになろうとしていたのか。
 自分は自分が卑小な存在であることを知りながら、それを素直に認めたくなかったのだ。本来の自分ではない存在であるかのように自分を示そうとして、自他を偽るのである。しかし、他は偽れないので、結局は自分を偽り通すことになる。
 教養主義や向上志向などもその表れだ。そして参画してからは、例えば「あるべき姿があるはずです」というテーマの「あるべき姿」に自分を見せかけようとする。テーマに向き合い取り組むのではなく、見せかけの方に力を入れるのだからバカな話だ。しかし、これは私だけのことではなく、多くの村人にも見られた傾向である。
 会員時代はよく会っておしゃべりしていた女性たちが、参画後は会ってもお互いに素知らぬ顔をして通り過ぎる、といった光景がよく見られた。これは「あるべき姿」にとらわれて、本心からの会話を成り立たなくさせていた結果だと思う。
 人間は今ある自分の姿をそのまま認め、そこから出発する以外にない。自分を隠す、自分を飾るということは、他の評価によって自分を位置づけようとする、風まかせ、波まかせの実に不安定な生き方にほかならない。

・本ブログの吉田光男『わくらばの記』(18)より。
〈夜中に目覚めたときなど、ふと自分はなぜこんな文章を書いているのだろうか、と考えることがある。去年の1月以来だからだいぶ長いことになる。文章としては拙いし、考えていることも侏儒の戯言に過ぎない。何人か読んでくれる友人知人がいるからという理由もあるが、そうした知友に甘えて書いているだけであれば、貴重な時間を奪うだけで申し訳ないし、自分にも嘘をつくことになりかねない。出発は、ガンになったことをきっかけに、自分を見つめなおすことにあった。何もしなければ、時間の流れにただ流されるだけで一生を終わってしまう。流されながらも、自分が何者でどこから来てどこへ行くのかを見つめなおしてみたい、そのために書き始めたはずである。あくまで、自分のために書き始めたはずである。昨夜、ふとそのことを思った。〉

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〇人間の体は、親から受け継いだDNAに加えて、今までの食生活や環境によってつくられてきた腸内細菌や微生物との共生によって自分の身体が成り立っている。生命現象など細胞内の要であるミトコンドリアも真核生物の細胞小器官で他生物由来のものである。
 また、他の生き物を食べて、タンパク質などの栄養を取り入れることで生きながらえてきた。現在の地球生態系は、生命体が互いに角逐し合い、共存し合いながら維持してきたものである。
 
『多田富雄コレクション1、1免疫という視座―「自己」と「非自己」をめぐって』の「ファジ―な自己」の中で、多田は次のようにいう。 (※ファジ―fuzzy:あいまいなさま)

〈意識の「自己」は身体の「自己」の上に成立し形成される。その身体の「自己」を決定している最大のものが免疫系であることは異論がないと思われる。〉
 〈近代の免疫学は、免疫系とは、もともと「自己」と「非自己」を画然と区別し「非自己」の侵入から「自己」を守るために発達したシステムと想定してきた。そんなに厳格に「自己」を「非自己」から峻別している事実があるとすれば、その判断の基準は何か。そして免疫系が守ろうとしている「自己」とはそもそも何なのか。というのが免疫学の問題の立て方だった。〉
 ところが、〈「自己」は「非自己」から隔絶された堅固な実体ではなく、ファジーなものであることが分かってきた。それでも一応ウイルスや細菌の感染から当面「自己」を守ることができるのは、むしろ奇跡に近い。
 免疫学はいま、ファジ―な「自己」を相手にしている。ファジ―な「自己」の行動様式は、しかし、堅固な「自己」よりはるかに面白い。〉
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「非自己」の侵入から「自己」を守るために発達してきたとされる免疫機能だが、実はその「自己」があいまいで、「非自己」との境界は後天的にシステム自体が作っていくものであることが免疫学の最先端を踏まえて語られる。
 多田をはじめ、現在の免疫論の考えかたは、真の〈自己〉は〈非自己〉の延長線上にあり、その〈非自己〉との関係のしかたによって、〈自己〉が成り立つという。つまり、内なる〈非自己〉の存在なくして〈自己〉はありえない。
 免疫機能に限らず、自分のからだは、現実には私の意のままにならないことからも、意識でとらえた精神的な自己、人格的な自己も、つきつめて考えていくとあいまいなものではないのか。

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 実顕地という特異な環境にいると、そこに大きく影響されながら自己を形成することになる。私の場合も、やらされていたということはほとんどなく、大方は納得の上で、自分のこととして行動していた。離脱してみて、かなりそこの気風に染まっていたなと思っている。
 また、ことさら「自己とは何か」というような問いは立ててはいない。時折立ち止まって、なんで自分はこのことをしているのかと問い直すことは大事にしている。

 福井さんは「自分とはいったい何者なのか?」という問いをたてる。〈その出発点は私の場合、ジッケンチを離れたからこそ生まれた認識だった。〉と述べる。
 晩年の吉田光男さんは、実顕地で暮らしながら、ある程度そこに距離をおいて「自分はいったい何をしようとしているのか」と真摯に自問されていた。
 
参照・吉田光男『わくらばの記』(3)(2018-02-17)
  ・吉田光男『わくらばの記』(18)(2019-03-05)
 ・ブログ・日々彦『ひこばえの記』◎自己とは何か(多田 富雄『多田富雄コレクション 1』から)(2018-01-23)

(45)問い直す④ 「人生」への眺望を組み込んで(福井正之)

※福井正之さんは吉田光男さん逝去後、『わくらばの記』や吉田さんの論考などから、ご自分に引き付けて、「問い直す」というテーマで10回に亘って論を展開し、自身のブログに発表してきた。
 随時それを取り上げながら、主にそれに関連したこと、及び、そこから派生してくる実顕地、ヤマギシズム運動を見ていこうと考えている。


〇 先回は、わが「実感できる真実」からの典型的な発想事例を紹介した。ただ私のメインテーマは「問い直し」である。しかしその問い直しに入る前に、もう少しその対象の全貌を明らかにしておく必要がある。それはやはり<真理観>と対置してきた<自己存在観>のことになる。その特徴は、これまでの私にとって「かなり開き直ったともいえる方向」への転身として一応釘を刺しておいた。

 それはもちろん「実感できる真実」の流れであるが、「自分とはいったい何者なのか?」という問いに関わる。ただもちろん一挙にそうなったわけではない。その出発点は私の場合、ジッケンチを離れたからこそ生まれた認識だった。ムラを離れていなかったら、そういう問いは生まれなかったであろう。その発端は「村―町」運動で寄り合ったGメンバーとの交流だった。ここで私は初めてこの間メンバーが抱えていた様々な「本音」に出会った。G内でのこれまでの習性や警戒感が外れたせいもある。私はこれこそ(かつて夢には見たが出会ったことのない)「幸福研鑽会」ではないかと実感していた。...

 ここでその内容に触れるゆとりはないが、私にはそこはその後の思索や究明の坩堝であり源泉のような場になっていた。その活動は2年近くで挫折したが、そこから以降私のなかで胚胎してきた問題意識は<自分のいた場への同調と違和感><自分を知りたいという欲求><「私の思想」の模索>ということになるだろう。それに当たる表現をいくつか紹介しておきたい。やはり詩形式が簡明だろう。


〈わたしはどこに居たのか/(中略)おそらくそこが息苦しく空気が薄ければ/空気がまともにある場を 探すだろう/たまたまそこを降りてみると次第に楽になる/そこまで来て初めて私の居た山の/酷薄な高さを知るのだ/「きみがイギリスしか知らないとしたら イギリスを知らない」(『今浦島抄』―距離)

〈社会を変えようとするなら自分が変わること/しかし今は自分を変えようとは全然思わない/その前にもっと自分を知りたいのだ/自分を知るとは/たぶん自分の変わらないところを/明らかにすること/(中略)
 精神といい自我という/それらはなにゆえに/かくも執拗に問いかけてくるのか?/お前はなにもので/お前の本当にやりたいことはなにか、と/たとえ生活や生命が十二分に満たされても/満たされずうごめくそれら!〉(同上―自分を知りたい)

〈――「大事なのは他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」(村上春樹)/“私の思想”とはどうもその小さなことに関わりがあるようだ/でもこれまで「他人の頭で考えられた」ことがいっぱい詰まっていて/それ以外のことはぼんやりしている/そのなにかが蘇るために/貧しく不安多くともあえて別居し、いまだなにもない小さな部屋の表札に/番正寛と記す〉(同上―私の思想)


 このような表現は私の数編の手記的小説とともに2003~5年頃のマンション住込み管理員の暮らしの中で<噴出>しているが、これは私の人生にとってもただならないことだった。これまでも人生の岐路に立って考え抜いてみたことは幾度かあったが、文章表現として一貫できたのは初めてのことだった。

  ただそれも前述のようにムラを「離れた」というより、そこから<逃亡した>人間だったという自覚が大きかったと思う。やはりそこが「息苦しく空気が薄かった」という危機感が先行し、それはどうしても「強いられた」という感覚として残る。このことはたびたび思い返すが、吉田さんがジッケンチに留まりながらも、なぜあのような広闊な思索と究明が可能になってきたのか、に想いを馳せざるをえない。そこではそれこそ直接的な様々な不条理や違和感に包囲されていたであろうに。

  私はそこから直ちにジッケンチ批判の方向に進んだわけではない。ふり返ってみればその方向は、私が2008,9年の「ジッケンチとは何だったのか」論考以来のことである。ただそれでも最初のHP(2012年)のタイトルが、以前の感覚を引きずった「挫折体験と自己哲学」だった。その後の物を書いてきた動機は、ヤマギシ批判を織り交ぜながら罪責感、自己批判、自己決済、清算等々の、誰しもちょっと身を引きたくなるような、おどろおどろしい内容だったと思う。

 その間、吉田光男さんから個別研についての「元学園生の手記を読んで」(2013年)の重厚かつ示唆的な論考を頂いた。特にその中で紹介されていた山岸語録に触れ、私はジッケンチと山岸さんを一応分離して考えるようになってきた。そもそも青本とジッケンチとは内容を異にする部分が多々あり、またそれ以来吉田さんやYさんのような『山岸巳代蔵全集編集』に関わってきた人の知見に触れる機会が増えてきたからでもある。

 さらに昨年初頭世に出たかやさんコミックへの衝撃は大きく、HPタイトルを「反転する理想」に変更した。この間の私の認識の基調は、やはりヤマギシは「正しくなかった」、同時にそれとほぼ一体だった私は「正しくなかった」という認識、いいかえればより<真理観>(真実観といってもよい)に近くなってきたと思う。それもわが「実感できる真実」からであった。そのことは厳密にいえば吉田さんも同様だろうが、やはり彼の広範な知見と究明による真実表現ということでは学ぶべきところが大きい。それは吉田さんが一貫して問い続けてこられた内容であり、その「問い直し」についての吉田さんの深刻な反省を、困難ではあるが可能な限り受け継ぎたいと考えている。

 経過説明に時間を取って恐縮だが、ようやっとここで私自身が「問い直し」たいと考えてきた主題に入る。それは私がこの間ずっと着目しながらも、なかなか胸にすっと落ちるような了解には至らないテーマだった。すなわち私のなかで割り切れないのは、この課題はあの2003~5年ごろの「自分とはいったい何者なのか」という究明とはどのようにかかわってくるのかという問いである。そのわが<自己存在観>に関わるテーマBとヤマギシ批判=自己批判テーマAとはたしかに一線を画しているようでもあるが、そこにどうしても深い連関を意識せざるをえない。そしてその方法としてAは「究明」(情報、学理の吸収IN)といってもいいが、Bはやはり「表現」(自己表出OUT)になると考える。

 そこで大雑把な連関感覚をあげてみると、ムラ離脱当初の<自分のいた場への同調と違和感>とか<「私の思想」の模索>の中では、もうすでにAの意識は自明のことだった。またそのAの究明のただ中でもBの「表現が慰謝と救済になりうる」という感覚がついて回っていた。そこにはもちろん「人生」のにおいが漂っている。つまり巨視的に云えばヤマギシも私の人生の中の一コマであるし、逆にいえばヤマギシ的(ヤマギシに限らないが)社会構想の中で個々の人生は不可欠な要素でもある。

  このような機微を含めた問題群が私の「問い直し」の主題になる。大胆とも粗雑ともいえるかもしれないが、私が企てているのはこのAとBとの統合である。これまで幾度か取り上げているが、成功したとはいえない。(続く)
 2017/5/25

参照・本ブログ◎「元学園生の手記を読んで」 吉田光男 2013-10-30

◎山岸巳代蔵の思想、真理について

※わたしが持っている資料や『山岸巳代蔵伝』から山岸巳代蔵の著作を随時紹介していこうと考えています。なお、『山岸巳代蔵全集』は大きな図書館にはあると思うので、原文および関連するものはそちらを調べてください。


〇『正解ヤマギシズム全輯 第二輯』「愛と愛情の関連」
4 保ち合える真理こそ、愛の無測・無限・無形の力
 これから取り上げる「保ち合いの理」は山岸らしい特徴ある世界観で、山岸の宇宙・自然観であり、この「保ち合いの理」は「一体観」「愛情観」などの理念へとつながる。

                    • -

〈宇宙、天体、太陽、地球、月等を含む星と星との保ち合い。地球も太陽もどの星も、何ら強固な不動のものに固定していない。空間に点在するのみで、安置の場所もなく、固定した軌条もないのに、時間・距離をほとんど正しく自転・公転等を正しく律動している。この不安定状態の中で安定状態にあることは、引力か磁力か、相互の何かの作用によって保ち合っているためだと思う。
 相互間に、力の測定も契約も、宇宙創生以来なされていないだろうし、各々自律的に、他との関連作用によって、無識の中にそれぞれの場を得ているようだ。即ち、契約も、掟・命令も、指導も、守らねばならないとする軌範もないにもかかわらず、少しも逸脱がない。約束もないのに、正しく保ち合えるもの。保ち合える真理こそ、愛の無測・無限・無形の力だと思う。与えるものでもなし、求めるものでもない。権利も義務もない。領空・区画もない。意志も意欲も思想もない。感情もない。大小軽重の差もない。熱も光も音もない。冷たくもない。温かみもない。念もなし。しかして、宇宙万物何物も作用している。愛の作用のない個は成り立たない。
 真理とか、保ち合いとか、愛という文字・言葉そのものでもない。理論でもない。力というより、保ち合いの作用。中心がどこにもない。頂点がない。特例・特定がない。(『正解ヤマギシズム全輯 第二輯』「愛と愛情の関連」)〉

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 これは『正解ヤマギシズ全輯』の一つとして、山岸にとって大きな問題意識のあった「愛と愛情の関連」のメモからのものである。同内容のものが多少表現を変えていくつか書かれている未完の一節である。この「保ち合いの理」は、「愛と愛情」だけではなく、一貫して流れているもので、人類一体観、夫婦一体観などの一体観の基盤となる観方である。
 個々別々のものが寄り集まって一体になるというものではなく、この世に存在するあらゆるものが、保ち合いの理によって成り立っているという自然全人一体観である。
『山岸会養鶏法』に、「空気や水や草や塵芥(じんかい)が、卵に変わる自然の根本妙手を知ろうとしませんか」との一節があるが、あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって生じているという観方であり、同一の論理を共有するから一つになるというような一体ではなく、文化や思想や人種など異質な要素があろうとなかろうと、生きとし生けるものすべて、生物であろうと無生物であろうと、存在すべてがもともと一体であるという観方である。
(『山岸巳代蔵伝」第七章より。※『山岸巳代蔵全集」第七巻所収)


〇『山岸養鶏の真髄』「真理から外れて、真果は得られない」
 出発点においても、その過程においても、真理に即したものでなければ真果は得られない。また、小さくても本質的なものが実れば、燎原(りょうげん)の火の如く、おのずから世界中に拡がっていくというのが山岸の基本的なコンセプトである。
 山岸の思想の根幹となる考え方に、「真理から外れて、真果は得られない」がある。

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〈栗の実を稔らそうとするには、一個の本当の栗の実を土に捨て、芽がふき、根を張り、幹をのばし、三年、五年を待たねばなりません。実からすぐに実が生まれるものでなく、小さい本物の実を得るためには、直接用のない枝葉まで繁らさねばなりません。
 この文章も、実を急ぐ人には廻りくどいでしょうが、求められる物とは縁遠くて、不必要に見える部分も根であり、枝葉、幹ですから、山岸養鶏の真髄を会得する上に、最も重要欠くことのできない条件として、気永に一句も余さず読み、かつ役立てていただきたいです。そして枝にたわわに成り下ったからとて、木に攀(よ)じ、痛いイガに触れる無理しなくとも、実は自然のままにはぜて手に帰するように、実を実を、利を利を、と余り焦らなくとも―焦らない方が、労少なくてよい実が得られます。
 真髄さえ掴めばすべてが簡単に解り、いちいち手を下さなくとも、苦労知らずに、年ごとに豊かな秋の稔りが満喫できます。
 物には順序があり、踏み外さない途を知ってから進むことで、この養鶏法では言われるまま、説かれるままに、自分の考えもみんなと共に研究して練り直し、ただ一筋に素直に進むことが真髄です。
 自己断定で一足跳びに幼稚園から大学へ行こうとしたり、横道へ外れては失敗します。永久に続く、動かぬ真理の一本の途を、一歩一歩踏み締めて行くことで、この道こそ安全保証が出来ますし、責任を持って推奨するに足るものです。
(『山岸養鶏の真髄』「真理から外れて、真果は得られない」)〉

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(『山岸巳代蔵伝」第十二章より。※『山岸巳代蔵全集」第二巻所収)

◎「広場・ヤマギシズム」と『山岸巳代蔵伝』から

※ 阪神・淡路大震災から25年、今年は特に、記憶・教訓を継承する重要性を語る論調が目につく。
 振り返って私が25年余所属した実顕地を離脱してから20年近くたつ。

 吉田光男さんの『わくらばの記』は、2016年1月に食道癌で長期入院することになり、それ以前から心においていた、〈ヤマギシに関連して、自分が向き合わなければならないテーマについて、これから書き続けてゆくつもりです。黙ったままであの世に持って行くよりも、正直なところを書いておくほうが良いのではないかと思ったからです。〉
 とあり、それが本随筆の底流にある。
 
 私もそれに近い思いがあり、2017年12月にブログ「広場・ヤマギシズム」を立ち上げた。
 そこに次のことを書いた。

〈理想を掲げたヤマギシズム運動、実顕地の影響の大きさを考えると、第三者的な視点による研究、真っ当な批判の類は、はなはだ少ないと思う。そこで、関心を抱く人や研究者などの究明や学びに役立つような資料・記録館などをつくれないものかと思っていた。
 この度いままでのブログなどを整理する中で、個人的なブログでは限界があるにしても、ささやかなものしかできないが、「広場」として立ち上げてもいいかなと思った。
 まず、自分が思っていることを発信することが基本原則だと思う。
それに加えて、わたしが持っている資料や『山岸巳代蔵伝』、吉田光男さんの『わくらばの記』などの記事も生かしていきたいと思っている。〉

 今年は、それにも気をおいていきたい。

◎「真理観」について(吉田光男『わくらばの記』から)

〇吉田光男さんの『わくらばの記』は、2016年1月に食道癌で長期入院することになり、それ以前から心においていた、〈ヤマギシに関連して、自分が向き合わなければならないテーマについて、これから書き続けてゆくつもりです。黙ったままであの世に持って行くよりも、正直なところを書いておくほうが良いのではないかと思ったからです。まとまり次第お送りします。〉と、随時メールで送られてきたものを、編集した。

『わくらばの記』は、食道癌による入院前の2015年12月25日から書き始めている、翌年1月18日の入院前には、「真理観」およびそれを志向する心の働きについて書いている。

〈(1・5):青本の一番最後に「全世界の頑固観念・我執を一時も早く抹殺しよう」という文章が載っている。この文の冒頭で山岸さんはこう言う。
「自分の目から見て逆に見えること、間違いに見えることでも、批評・批判・非難を口にすべきでなく、そんなに思う時は、自分が批評・批判・非難などできる自分であるかどうかを、まっさきに検べることである。」
 この文章を今まで何回読んできたことだろう。言っている言葉は誰にでもわかるのに、その中身はほとんど理解されていない。いや、私自身は理解してこなかった。字面だけの常識的な理解しかしてこなかった。
 他を非難することは、無意識のうちに自分を正しいと位置づけることであり、その瞬間に過ちの地獄に落ちる。実顕地の歴史の中で、これまで数々の間違いを犯してきたが、それは自らを正しいと位置づけたことから始まったのだ。例えば――
「実顕地は真実の世界」
「ヤマギシの生産物は本物」
「世界でただ一つの真実の学園」……
 これらのスローガンは、無言のうちにこう言っていることにほかならない。
「実顕地以外は偽物の世界」
「山岸以外の生産物は偽物」
「ヤマギシズム学園以外は偽物の学園」
 他を非難する意識無しに、他を非難し、夜郎自大に陥ってしまって、しかもそれに気がつかない。謙虚さの欠片もない。そのことにずーっと気がつかなかった。

〈(1・6):自分を正しいと思いたい願望、これは根強い。あるいは正しくありたいという願望、あるいは正しいところに身を置きたいという願望、これも強く自分を捉えていた。
 そして実顕地が真実の世界であり、正しい存在であるならば、そこに身を置くことは正しい在り方であり、その真実の世界を推進(指導)する本庁なり研鑽部なりの方針に沿うことは正しい在り方である。…… 
 こうして、研鑽は名ばかりの会合となり、上から出されるテーマを理解するためだけの集まりとなった。正に真理は上から降りてくるのである。こうした大衆心理がピラミッド組織を下支えする。「特別人間はいない」「長のいない組織」のはずが、いつの間にか特別人間をつくり、長や指導者を生み出した。
 こうした誤りを、いま実顕地は克服したであろうか? あるいは、自分たちは、そしてまず自分は克服したといえるだろうか。〉

〈(1.13):よく自分たちは「真理から見れば」とか「真理から外れないように」とか、あたかも真理を我が手中にしているかのような言動をしてきた。これほどの思い上がりを、天人共に許すはずがない。
 有限で愚かな人間が、時空を超越した真理なるものを把握することなど不可能であり、ましてその真理から物事を見、判断することなどできるはずがない。人間のできることと言えば、間違いや過ちから謙虚に学び、少しずつ方向を改めてゆく以外にない。そのためには、過ちを過ちと認め、間違いを間違いと認める勇気が不可欠である。しかしこれが意外と難しい。認めたがらないのである。こうして真理の方向からますます外れてゆく。〉

 そして18日から105日に亘って入院する。その後度々それについて言及している。
 ここでは現在につながる記録を上げる。

〈〈7月×日〉:Mさんからもらった鈴鹿の『asone 一つの社会』を読み始める。納得できるところ、同調できるところはたくさんある。しかし、やはり疑問は残る。それも根本的な疑問である。疑問というのは、「もともと」とか「本来」という言葉で言い表される中身だ。
「人間本来の姿=幸福」
「病気のない健康体であることが本来の姿」
「生まれて間もない赤ちゃんは……人間本来の姿」
「もともと安心安定」「無いのが本当」
「スタートが一つ。最初から一つ」
 これまで実顕地で言われてきたことと、それほど変わらない。それをやさしく、わかりやすい言葉で解説している。
 しかし最近私は、この「本来」「もともと」という言葉に、強い疑念を持つようになった。この言葉は、「真理」と同じ意味で使われているから、もしこの言葉に疑問を出そうとすれば、「お前は真理に楯突くのか」と言われそうで、「はっ、はあっ」とひれ伏す以外になくなってしまう。しかし、「真理」と「人間が真理と考えるもの」とははっきり違うものであり、「人間の考える真理」はあくまで頭の中の存在であって、それは真理であるかもしれないし、真理でないかもしれない。いわば、真理という実像に対して、「真理と考えるもの」は仮像にすぎない。この仮像をもって「本当」とし、これをすべての物事の原点としてしまえば、自分の今の姿、実態との開きを何によって埋めるか、そこにうそ偽りが入り込む余地が生じないだろうか。2000年以来、私がもっとも苦しんできた問題は、そこにあった。私はいま「本来」も「もともと」も棚上げして、自分のあるがままの姿を見つめ直すことに重点を置いている。
「真理とされるもの」から出発する思想は、一種の原理主義になりうる。だから鈴鹿を離れた人は、「スタートが一つ、最初から一つ」の出発点から外れた人、「最初から一つではなかった人なのだ」と切り捨てられることになる。
 私には、鈴鹿にも、鈴鹿を離れた人にも、何人かの親しい友人・知人がいる。みんなそれぞれが、人々の幸せを願い、何らかの活動をしている。何が真の幸せに結びつくのかはわからないが、それぞれの生き方は尊重したいと思っている。だから、このような疑問や異論を提起することはどうかとも思ったのだが、疑問は疑問として正直に語る方が大切だと考えて書いてみた。〉

〈〈7月×日〉:昨日はEさんに送り迎えしてもらって、豊里の資料研に出た。そこで、Sさんの「本来」「もともと」と表現されていることの中身をどう考えるか、と問題提起してみた。あまり深まることはなかったが、最後にEさんが「そう考えられるが、どうだろうか」と発言した。まあそのへんが一つの落としどころかと思うが、もっと各人で考え続けたいテーマである。しかし、考え続ける人は少ないだろうな、とも思う。実顕地の研鑽会は、その場かぎりで終わってしまい、考え続ける習慣というか持続性がない。そのことがどういうことかは、また別のテーマであるが。〉

 わたしの場合、自分の主張として真理についてほとんど発言したことはないが、「本来」「もともと」などは使いたいときがある。表現としては「だと思うが」という類のニュアンスを込めているつもりだが。
 科学の欠かせない要素に反証可能性がある。
 そこから、自分が考えていることはどこまでも仮説で、他の見方を検討する余地や、自分のとらえ方を見直す態度があることにつながる。
「今の段階では自分はこのように見、考えるが、どうだろうか?」という心の態度だ。
 人間の究極の問題として、自分がまちがっているという可能性は、科学的に考えて排除することはできないと考えている。

 鶴見俊輔は、次のように言っている。
「私はI am wrong だから、もしそれらから「おまえが悪い」といわれても抵抗しない。この対立においては、結局決着はつかないんですよ。私がYou are wrongの立場に移行することはないし、You are wrongは私の説得には成功しないから。」
 ※(鶴見俊輔『言い残しておくこと』より)

参照:本ブログ・吉田光男『わくらばの記』(1)(2018-01-17)
吉田光男『わくらばの記』(10)(2018-08-13)
日々彦「ひこばえの記」・「間違い主義」と「アブダクション」について(1)(2016-02-13)

(44)問い直す③ 真理って?、だが真実なら(福井正之)

 私自身の2000年当時の<真理観>については、その時期からかなり経った『ジッケンチとは何だったのかⅡ部』(2009、左上資料編参照)において次のように記述している。

〈たしかにもともと人間は、どこまでも理想・真理を求め、理念自体に化すことができる。私はそこに人間の偉大さがあるとどこかで考えてきた。その結果がヤマギシ参画とそこでの取り組みだった。ところがその真理とはどうして知りうるのか?

 それは普遍的であり個々の主観的感覚を超えたものだから、感覚からは知ることは困難である。またそれは俗人ではない真人こそ知りうる、と。ならば真人を目指すべきだろうが、私には「真理」なるものは「特別人間」の所管に見えてきた。ならばまたその特別人から学び、あるいは信仰すべきだろうが、その気も起らない。〉(8、「特別人間」ではなく普通人として)


 これは当時の私の精一杯の認識であった。念のため吉田さん自身の<真理観>を確認しておきたい。彼の真理観についての記述は多いが、私の上の文脈に近い部分に限ってあげてみると

 
〈かつて私たちはよく「真理」を口にし、「真理にそって」などと言っていたが、自分たちの行為が真理にそっているかどうか、誰が検証し誰が保障するのか、みんな自分たちがそう思い込んでいたにすぎなかったのではないか。〉(89p)

〈中島(註、岳氏)氏によれば、ガンジーも、鈴木大拙も、西田幾多郎もこの多一論(註、いわば多神教)で、「一なるもの」は言語化できないとしている。つまり、それが真理である以上、人間の相対的な言語によっては表現できず、人間は真理の影しかとらえられないという。〉(91p)


 真理についてのこのような認識から、私はいわば「かなり開き直ったともいえる方向に転身して」いった。以下はその認識の発端となった文章である。

〈だから与えられ学ぶべき「真理」は私には縁がない世界だと思うことにした。私が手掛かりにできるのは、今のところわが全心身で嗅覚でき、かつ実感できる真実しかない。聖人君子なる「特別人間」(山岸氏はその言葉を否定的に使ったが、私は彼こそ「特別人間」であると断ずる)になりたい人は勝手にやったらいいだけである。普通の庶民感覚からすればそれは<ヘンな人>である。そしてこの思いは私の二十年のジッケンチ体験が齎す慙愧の思いであり、自分のなかでわずかに残しうる感覚的な智恵に属すると思っている。

 もちろん私は歴史上理念に準じた偉大なる人の存在を否定できるとは思わない。ただ彼らの偉大さはその思想・事業・実績にも拠るが、あまり表面化されないその<「特別人間」としての矛盾>を極限まで生き貫いたことにある、と考える。山岸巳代蔵も然り。〉(8、「特別人間」ではなく普通人として)

 私が「山岸巳代蔵」氏への、このような批判的言辞を公開文書で吐露したのは、これが最初で最後である。「特別人間」とはいうまでもなく青本の「幸福研鑽会」の中で、「特別人間や、神や、仏は仲間入りして居ませんから、或る人を盲信し、屈従迎合しない事で・・・・・・」(「5.命令者はいない」)とある。今わが拙文を読み返してみると、山岸さんに「そういうお前こそ特別人間じゃないか」と断定しているのである。こっちが一方的に彼を<特別人間>化しておいてのこのような指摘は、今から考えれば無礼、無分別極まりない言辞かもしれないが、この部分を撤回したり隠匿する気はない。その時の私は事実そのように在ったというしかない。

 逆に言えば、それまでずっと彼を「特別な人」として<自発的に>「盲信し、屈従迎合し」てきた部分もなかったとは言わない。もちろんそこに特講も大きく介在する。その流れで後継幹部諸氏への迎合も続いたが、逆にいえばそういう幹部諸氏への反発が山岸氏への幻滅へと突き進んだ。

 その後、私が依拠してきたのは、上述のように「わが全心身で嗅覚でき、かつ実感できる真実」しかなかった。そこで私は時には「ひととともに」あろうとする心情(真情といってもいい)に出会うことができたが、それはしばしば自己保存の危機に基づく打算との葛藤のさなかであった。


〈ただなにかに触れたような気がする/やさしさの磁場というのか/それはたぶん悲しみと不幸の場に虹のように架かり/触れるとやさしさが吹き出す/ふだん 疲れ固まっているぼくにでも/ やさしい人に育たなくとも/やさしい人になろうと取組まなくとも/やさしい人になれと強持てに 迫らなくと/その場に触れたらだれにでも吹きだすやさしさ〉
                            

〈そのような自己保存のための葛藤が乏しい環境で実践される理念は、一見華々しいがどこか空疎・上げ底で<理念のための理念>と化していった。語彙不足の貧しいイズム用語で研鑽すればするほど、実感を欠いた思い込みの固定になっていなかったろうか。参画者が街に出てみたくなる動機の一つは、私がそうであったようにまさに<実感を求めての旅>にあった。〉(同上8、「特別人間」ではなく普通人として)(続く)
2017/3/19

参照・(連載)吉田光男『わくらばの記』(7)2018-05-03

 

◎今年「広場・ヤマギシズム」について思っていること

○今思っていること
 広場・ヤマギシズムについては、ヤマギシのことを考えていける一つの広場と思っています。また、後の研究者などに繋げればいいかなと思っています。
 今の社会状況からも、実顕地・ヤマギシ会は、共同体として様々な角度から考察していくに値するものがあるとも思っています。

 長年そこで暮らし、進めてきた自分としても、それについて発信していく役割があるのではないかと考えています。
 それ以上に編集機能を大事にしていきたいと思っています。
 自分の考えていることはささやかで限りがあるし、他の人の作品、論考や記録などを適宜編集しながら書いていこうと考えています。

 今のところ吉田光男さんの論考や「わくらばの記」が優れた資料だと思っていて、そこに福井さんの論考や鶴見俊輔氏の論考にも触れながら書き進めていこうと考えています。
 ただ、身体の劣化が激しくてどこまでやれるか心許ないですが気概だけは持ち続けたいと思っています。

 また、山岸巳代蔵の著述資料についても、たまに要望があり、それも載せていこうと思っています。
 なお、検索欄に言葉例えば「真理」「実顕地」「鶴見俊輔」などと入力すると、関連記事が出てきます。

◎福井正之の処女詩集「今浦島 抄」について

 ※福井正之氏の新ブログ『回顧―理念ある暮らし、その周辺』の9月6日に、〈「今浦島抄」から わが初発の感覚と認識〉が掲載された。
 その詩集「今浦島 抄」について、思うことを書いてみる。

 福井さんは1976年35歳の時、独特の理想を掲げた山岸会の初期のころの北海道試験場(北試)に共鳴して一家を伴って参画した。
 その共同体は徐々に社会的にも認められるようになりヤマギシズム実顕地としては参画する人も増えていったが、福井さんはは数々の疑問を覚えるようになり、1999年そこから離脱した。60歳を迎えようとしていた。
 その後、それは自己の人生にとって、どういうことだったのかと、書くことをとおして旺盛な文筆活動を始めるようになる。

 私自身は、現象としては氏と同じような歩みをすることになり、離脱後の文筆活動に様々な刺激を受けてきた。
 特に処女詩集「今浦島 抄」は氏の文学活動の初々しい原点となると思っていて、一部抜粋とはいえその再録を嬉しく思っている。
 
 特に、このブログに紹介された「私の思想」につながるはじめの何篇かは特に印象深く何回か読んでいる。
 このブログに、わたしのノートから挙げてみる。

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 〇詞 集 <今浦島 抄> 番 一荷

<序 詞>天命(1)
・1976年春
おまえは書くことを断念して飛んだ
あのような生活をしたくて  なろうことならあのような人たちになりたくて
やれないことはない そう信じて飛びつづけてきた
そして1999年春 おまえは行動を断念して書いていた
あのような生活とあのような人々が帰結するものについて
どのようにやっても  こうしかやれなかったことについて


・今 浦 島
竜宮城の二十年も 終ってみればあっという間だった
楽しい時間というものは記憶に残らぬ あるいはふんわり単調な時間も同じ
あんなに長い一日 生活丸ごと保障でなんの不安もない
あったかも知れぬ危機はすべて タイやヒラメが舞い踊った一体のお芝居
帰ってみて玉手箱を開ければ
にわかに襲いかかった幻滅の老後  なんの稼ぎも蓄えもない
残ったのは覆ったお伽噺の残骸


・ピリウド
周囲の発するすべてのセンテンスに  クエスチョンマークをつけていた
どこからもピリウドが返ってこなかった
そのうち自分が巨大なクエスチョンマーク自体となり
ふわふわと宙に漂いはじめた
どこかにピリウドがないか 
Yは巨大なピリウドだった  大地であり安息所だった
二十年たってそこもまた
いくつものクエスチョンマークをつけないではいられなくなった
いままた振り出しに戻る
子どものように嬉々として巨大なクエスチョンマークを繰り出したいが 
エネルギーに欠ける
いまはピリウドを探さない  自分でピリウドを打つのだ
小さなピリウドでいい 自分の全身を振り絞って  打てないところはそのままに
クエスチョンの酩酊も ピリウドの安息も  きわどく避けながら


・<転 位>いまのままでよい
あそこで―――わたしの転換が変わりばえしなかったのは 
どう視点や眼鏡をかえても 見ていたのは同じ穴蔵の同じ風景 
おまけに幸福一色の世界に居るはずと思い込んで
いちまいの風の不安や ふとよぎる徒労の感覚も 
すべて間違いとして抹消してきたようだ
そのうちわたしの感情の配線がそれを感じないように
無意識の訓練を積み重ねてきたのかもしれない
だからわたしの不幸感の片鱗でも  敏感にキャッチし目をそらさないこと
そしてまず私の全感情を肯定してみること


・私の思想<自分の住む所には自分の手で表札をかけるに限る 精神の在り場所も、ハタから表札をかけられてはならない。石垣リん。それでよい>(石垣りん)


ところが住むところには同居もあれば貸室もあって
他人の表札が下がっている場合がある
貧乏でやむを得ずそうしていることもあるが
身を隠すために好んでそうしている場合もある
私は
その主人に相共鳴したばかりでなく
さらに一体化せんことをねがい
自分の表札を外した
その方が大きな目的だったし
また安楽だったのだ
それは精神にとって、つまり“私の思想”にとって危機なのだといつしか思うようになった<大事なのは他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ>(村上春樹)


“私の思想”とは
どうもその小さなことに関わりがあるようだ
でもこれまで<他人の頭で考えられた>ことが
いっぱい詰まっていて
それ以外のことはぼんやりしている
そのなにかが蘇るために
貧しく不安多くともあえて別居し
いまだなにもない小さな部屋の表札に
番正寛と記す

※以下は「回顧―理念ある暮らし、その周辺』(9月6日)〈「今浦島抄」から わが初発の感覚と認識〉参照。

◎「〈在ったこと〉を〈無かったこと〉と為す」について

〇回顧―理念ある暮らし、その周辺』2019年07月08日投稿の〈在ったこと〉を〈無かったこと〉と為す」は中国の天安門事件に触れながら、実顕地の在り方に触れていく。

 そして次のように論を展開する。
〈かつて私もある集団(学園)に属し、「学生たちに暴力を振るったのではないか」とマスコミに連日責められたことがありました。私はその集団の理想とリーダーたち(私もその近くの一人)を信じていましたから、そんなことはあるはずはないと抗議しました。
しかしのちにこれも《在事を無事と為す》事件の一つと知ったときは愕然としました。そのリーダーたちはそこでは賢く誠実で人々の模範となるような人々であり、多くのお世話もいただきました。それ以来、かれらから、またその集団から離れ、私自身を責めるしかありませんでした。かれらは理想を守るためにやむなくそうしたんでしょうが、組織は一時的には守れても、理想は守れたのかどうか?〉

 このブログは、時空遍歴2014/6/8記載だが、最後に註として今時点の見解を添える。

〈もっともこの後の流れ、その規模の大きさとその深刻さは想定外のものでした。私はその体罰の深刻な実態を最近ようやっと「三重県アンケート」で知りえましたが、それらはもうすでにかなり既知化されており、つくづく自分の孤独を感じたものです。改めて団体や組織が「組織上の秘密に」に拘ること、そこに自分たちの生活防衛の生命線があること、さらにその家族や個人の防衛まで付きまとうこと、そのことをまざまざ知らされています。この部分を取り上げるのは青年の幼い血気にすぎないかもしれない。それだけ私は恵まれた位置にいたのかもしれない。しかしここでも取り上げることはやめるわけにはいかないと今も思う。〉

 それについて、実顕地に所属しながら 一貫して、山岸巳代蔵およびヤマギシズム運動が目指したものからみて、現実顕地がおかしな方向に進んできたことを、忌憚なく問い続けている吉田光男さんの当ブログ「吉田光男『わくらばの記』(9)」の記事からコメントを寄せた。

〈振り返ると、村(ヤマギシの村)には書かれた歴史の記録がない。数年前にやっと年表が作られただけである。なぜ歴史が書かれないのか。それは恐らく、村が無謬性の神話に捉われているからではないかと考えられる。しかし、一つの集団がいつも正しく誤りのない歴史を刻んできたなど、とうてい言えるものではない。歴史を書くということは、自分たちの正当性を主張するためではなく、自分を正直に振り返り、そこから正しからんとする次へのステップを見出すためである。

 歴史が書かれないもう一つの理由は、「歴史は今、今、今の連続であり、過ぎ去った過去はテーマにはならない」とする考え方である。確かに私たちにとって、「今」こそが問題である。それは間違いのないことではあるが、その「今」は過去の蓄積の上に成り立っており、当面する「今」が未来を動かす出発点になるということを忘れてはならない。「今」をどう見るか、それにどう対処するかは、過去の反省や検討、未来への展望なしには出てこない。これがないと、私たちは目先の現象だけに一喜一憂するその日暮らしの生き方しかできなくなる。
  
 しかし、歴史をまとめるということは大変な作業である。それを可能にする人材も資料の蓄積もない。むしろ今やるべきことは、一人ひとりが辿ってきた自分の個人史を書いてみることではないだろうか。村の歩みのひとこまひとこまで、自分が何を思い何を願って行動したか、また今それをどう思うかについて、正直に書いてみる。そうした個人史、自分史の蓄積が、村の歴史なのだと思う。〉

参照①:「吉田光男『わくらばの記』(9)」(2018-08-13)
②:「言葉のお守り的使用と三重県アンケートとヤマギシズム学園について」(2019-04-28)

◎『回顧―理念ある暮らし、その周辺』について

〇今年7月から福井正之さんが、それまでのブログ『わが学究、人生の機微」を中断し、新たに、『回顧―理念ある暮らし、その周辺』として再開しました。
 その経過は、2019年07月06日掲載の「ブログ再開の弁」に書かれています。

 現在まで45編の記事があり、㉜~㊳まで「わが初期ジッケンチ論」、㊴~㊸まで「幼年部」について述べています。

 当ブログでは、ヤマギシズム運動のさまざまについて私の見解を述べるとともに、吉田光男さんや福井さんに呼応していきたいと思っています。

 なお、福井さんのブログはhttp://okkai335.livedoor.blog/ で、当ブログからリンクを張っています。

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〇福井さんの新ブログ再開について思うこと。

 連載は2014年6月の「《在った事》を《無かった事》と為す」という福井さんのヤマギシズム運動、具体的にはジッケンチに参画するに至った経緯から始まり、離脱後の生活実感から得た感覚的根拠、ジッケンチでよく使われる、理念、理想、純粋贈与、特講、怒り、個別研などを、離脱後の暮らしの出来事と照らし合わせながら、埴谷雄高、E・ホッファー、ドストエフスキー、プリーモ・ㇾ―ヴィ、イリイチ、石原吉郎などの論考や阿久悠、吉野弘、長田弘の詩にふれながら鋭い考察を加えていく。

 また、日常的に起こってくる、日々の暮らし、友人との付き合い、身内のこと、教え子、老い、死、災害、弔いなどで自分の内面に生じてくる戸惑いなどを含めて語られていく。

 最初のころはブログ「ビジョンと断面」に掲載されていた、2014~16年頃の論考集『時空遍歴』からの再録が主ですが、そこに次の言葉がある。

「時空遍歴」(10)「いつまで過去にこだわるのか―」(2014/8/29)
・「後ろ向きに歩みながら、遠ざかっていく<あの景色>をあれこれ考え記述してきた」
・現在の私は認識の基本軸において、過去は同時に未来および現在であり、その逆も真であることをしっかりと肯定する。
・こうして私はこのページのタイトルを「時空遍歴」と名づけ、そこに過去―現在・未来往還自在の境地を込めたつもりである。
 

◎2000年の実顕地からの大量離脱について②

〇その頃の実顕地の流れ
 1993年にオールメンバー研鑽会が始まる。この研鑽会はSさんが中心となって『実践の書』を資料として詳細に検討しながら進めていく。
 開催する中で、次第に山岸巳代蔵が描いた構想と現状の実顕地が随分かけ離れていったとの認識が強くなっていくような人が出てくる。

 1997年頃になると、税務調査、ヤマギシズム学園に対する世間からのパッシングが強くなり、参画者離脱後の財産返還が裁判沙汰になることが続く。
 1998年になると税務調査による「ヤマギシ会200億円の申告漏れ」などが発覚する。その後、杉本利治氏は病的な鬱状態になり、やがて死去する。

 そのあたりから、S氏の構想に共鳴する人が多くなり、また、「村から街へ」の動きが、大きくうねり始め、街へ行く人が次々と出てくる。
 その後、今の実顕地を根底からつくりかえねばならないという強い要望がある一方、今の実顕地をよさを守りながら、徐々に変えていこうというような人たちも出てくる。
 オールメンバー研で今の実顕地を否定するような動きが活性化し、そこに「村から街へ」行った人も参加し、その動きに共鳴する人も増えていった。

 あまりにも図式的だが、その一連の動きが大量離脱の大きな要因だと思っています。そこに「村から街へ」行った人たちが、離れてみて実顕地の息苦しさを感じる人が多くなり
 また、従来から疑問を感じていた人が、合わさり、2000年の動きになっていったのではないでしょうか。
 その動きに共鳴した人の中に、今まで各部署で進めていた人が多くいたので、生産職場でいそしんでいた人や地方の実顕地の人はかなり戸惑っている人も多いと思います。

〇脱退者について
 2000年に限らず、北試時代から離脱者はかなりいて、特に家族持ちでない青年たちは、出たり入ったりしたと思います。高等部を卒業した人は、参画といってもよくわからないままの一つの手続きであり、離脱者の数に入らないと思います。
 なお、一連の動きとは関係なく、ある段階で見切りをつけた人もかなりいると思います。

 また、高等部1期生のF一家のように、実顕地に戻った人、K夫妻、M子さんなど、再参画した人もいます。
 ちなみに、S夫妻は、両親のこともあり離脱していないと思います。そのように「村から街へ」の人の中にも、実顕地所属のまま離脱していない人もいます。
 吉田光男さんのように、疑問を抱えながら踏みとどまっている人もある程度います。

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〇関連年表
1993年2月:オールメンバー研開催(2000年2月第34回まで続く)
 世話係として、Sさんが一貫して担当する。
 5月:オールメンバーの誓い(17名の発表)-以後毎年続く1998年まで続く。
 10月:『自然生活』に松本繁世氏「私のみたヤマギシズム社会の実態」掲載。
 この年新参画者348名で過去最高記録

1994年6月:「ヤマギシを考える全国ネットワーク」結成・代表松本繁世氏
 12月:『ヤマギシズム学園の光と影』「ヤマギシを考える全国ネットワーク」編・発刊
1995年1月;「ヤマギシ会」→「幸福会ヤマギシ会」に会名変更
1996年11月:吉田通昌著『循環農業の村から』発刊
1997年9月:「ヤマギシの子供を救う会」活発化。税務調査始まる
 12月:米本和広著『洗脳の楽園』発刊

1998年1月:モデルメンバー研開催(99年11月第12回まで続く)
 4月:ヤマギシ会200億円の申告漏れ(追徴課税60億)
 10月:9月度のオールメンバー研から端を発した「村から街へ」の動きが、10月度のテーマになり、新たな動きへと大きくうねり始め、街へ行く人が次々と。

1999年3月:実顕地から試験場、研鑽学校を切り離しそこ独自の活動をするための数名の新配置。
 この後、上記のメンバーは次第に脱退するようになる。
 7月:実顕地をもたらしに世界中の街へいこう(ストリーム掲載)
 11月:杉本利治氏死去。(税務調査以後、鬱的な状態にあり実務に携わっていなかった)
 12月:気の合う仲間で実顕地を起こそう。国内各地町にも村にも実顕地を(ストリーム掲載)
 12月28日:第33回オールメンバー研(実顕地を離れて活動している22名の参加)

 離脱後、鈴鹿地区で「実践の書」研を継続的に開催。
 そこに、現実顕地の方向に疑問を感じている人や「村から街へ」を行った人たちが次々と参加して、その動きに共鳴する人が増えていく。
2001年:鈴鹿市にかなりの人が暮らすようになり、家族的なコミュニティが確実に広がっていく。
2004年1月:人間社会研究所→2007年・研鑽科学研究所→サイエンズ研究所が基礎となりサイエンズスクール鈴鹿・アズワンコミュニティなど機構が整っていく。

参照:本ブログ2019-08-08記 (43)「問い直す② 2000年頃の私(たち)から」

◎2000年の実顕地からの大量離脱について①

※体調不良で、しばらくこのブログの掲載は途絶えていましたが、少しずつ発信していこうと思います。

〇以前、ヤマギシズム実顕地に参画していた人と交流する機会があると、2000年頃の大量離脱など、「あれはどういうことだったのか?」、と話が及ぶことが多い。
 その頃、推進的に活動し要職にあった私に対し、何があって、何故離脱することになったのかという問いかけもある。
 また、その頃熱心に会員活動を担っていた人にも、同じような問いかけがされることがある。
その経緯を私なりに述べようと思う。

 2000年頃の離脱については、その渦中で動いていたので、ある程度現象的には掴めているのではないかと思うが、その頃参画して活動していた人たち、まして熱心に会員活動をしていた人のほとんどが、まったく訳がわからないのではないかと思っている。

 それは、大きな要因の一つとなった、「オールメンバー研」「社会過程研鑽学校」「実践の書研」などよく参加していた人、その動きに共鳴した人の中に、今まで各部署で推進していたような人が多かった。また、何故そのような人たちが、離脱することになったのか、それらの研鑽会に参加していない多くの人たちにとって不可解だったのではないだろうか。

 つまり、とても大雑把な見方になるが、ボトムアップ式な革命ではなく、一人ひとりの意思が働いていたとはいえ、各部門で推進していたような人による一種の反乱だったのではないだろうか。そこの中で、S氏やそれに同調する人の役割が大きかったが。

 そして、「オールメンバー研」などその研鑽会に推進的に担っていた人の多くが、鈴鹿に流れていき、山岸巳代蔵が描いた構想、本来のモノにしていこうと寄って集まり、そこに「村から街」の人が加わり、鈴鹿コミュニティになっていき、その活動の進展とともに、「ヤマギシズム」や「研鑽」を一切使わない「サイエンズ」になっていく。

 もちろんその動きにより、その頃の実顕地に違和感、疑問、嫌な思いを抱いていた人たちが、見切りをつけ、離脱する大きな契機になったことはあるだろう。
 だが、実顕地そのものの屋台骨は、かなりの影響を受けただろうが、初期の頃の高邁な理想とは違ったものになっていたが、経営基盤はそれほど変わらなかったのではないだろうか。

 参照:本ブログ 2015-05-28記「ヤマギシズム実顕地について思うこと」

(43) 問い直す② 2000年頃の私(たち)から(福井正之)

 先回<真理観>と<自己存在観>という二つの観点について書いた。これは吉田さん日録『わくらばの記』に対する私の最初のとっかかりとしての印象表現ということになろうか。こういう自前コトバやテーマは、私のような不勉強、ボキャブラリー不足の人間が、止むを得ず取らざるをえない手段であることを容赦されたい。まったく足元にすら及ばないで恐縮だが、私の見るところ山岸さんは<造語の天才>だった。

 これは同時に吉田さんと私との2000年ごろの「実顕地」への<残留と離脱>という相反する事実選択の背後にある考え方を指す。私自身がジッケンチに残ることを断念した時点で、吉田光男さんがそのいわば理想形骸化した「実顕地」に留まること選んだという選択のことである。そこには人間個々の人生における偶然と必然性がない交ぜ合った結果としての優先感覚が作用するだろう。そのことに私の後悔はないと思う。しかし吉田さんのその後の取り組みは、私もその場に留まるべきだったかもしれないという可能性を暗示させる。そこにいわば吉田さんの理想に向けての、ある深い人間的力量を感じさせる。その資質は決して偶然ではないと思う。

 そのプロセスを吉田さんは次のように記述する。

〈私にとって一番深く悩んだのは、2000年以降の10年である。これまで村の中心で活躍していた何人かの人たちが鈴鹿に居を移し、新しい運動を始めた。それに伴って多くの人たちが鈴鹿に移動した。私にも講習に参加しないかと何人かから声がかかった。しかし十分納得しないうちに、「ここがダメならアッチがあるさ」と簡単に移り変わることなどできない。村に問題があるとしたら、それはどこにあるのか、そしてそれは何なのかを見極めたいと思った。観念の形を変えてみたところで、中身は変わることはないのだ。〉(64p)


 このイメージは当時「村から町へ」運動で大阪に在住し、その後2度ほど訪れた私の鈴鹿での印象と一部符合する。吉田さんとは時期的にはずれているだろうが、以下は初期の頃の私の印象になる。

〈しかし須山はそこでも以前通りの古式蒼然たるテキストを使った研鑽会の雰囲気、昔のリーダーへの追従的態度や互いの依存・持たれ合いの体質を嗅ぎとると、もうダメだった。人々をアリの集団に変質させたJ指導部の一元的な権力集中から離脱した彼らは、ゼロに戻ったのではないのか?・・・・・・須山は多恵子と違ってそこへ飛び込む気にならず、そのことをさらにまだ整理し得ない過去へのこだわりによって正当化した。〉(番一荷『にわか老後』2005より)


 その後の鈴鹿の動きに対して私は無関心ではないが、この違和感のようなものが解消されることはなかった。特にその運動の一見現代的で華々しい進展とは裏腹に、元ヤマギシの前歴を伏せたような印象がどこか問題を感じさせた。これだと「不都合な真実」を隠蔽してきたジッケンチと同じ轍を踏むことにならないのだろうか、という危惧が残る。

 さらに上の吉田さんの文の直後に示された彼の認識の徹底さに深く共鳴する。
〈――今度こそは同じことはできない、と思ったのである。そして自分の考えてきたこと、信じてきたことが誤っていたとすれば、その誤りを見出すだけでなく、誤りを信じ込んだ自分自身がなぜそう信じ込んでいたのかをはっきりさせねばならないと思った。つまり考えという対象の誤りと同時に自分という考える主体の誤りをも、同時に見出すものでなければならない、と思ったのである。帽子をいくら脱ぎ代えても、頭の中身は変わらない。〉(同64p)


 この「自分という考える主体の誤り」という考え方に至る前に、吉田さんは『山岸巳代蔵全集』の編集に参加できたことが大きかったようである。山岸さんの原稿に何度の直面するうちに、「――自分が固定観念の虜になっていることに気づかされる。自分の考えは正しいと自信のある時は絶対に気づくことはできなかったことだ。人間、時に悩むことの重要性を意識させられた」(65p)とある。

 ところが当時、私はこの吉田さんの正論(現在の私が考えられる)という方向にストレートに進まず、いわばかなり開き直ったともいえる方向に転身していったように思う。いわば理想・理念自体への懐疑、否定から、さらにそういうものに自己呪縛されてきた「自分とはいったい何者なのか?」という模索、いいかえれば<自己存在観>の究明の方向へと。それは私には絶対に避けられない究明ではあったが、のちの<真理観>の正否自体とその自己背景まで立ち戻るには時間がかかっている。(続く)2017/05/16

参照・(連載)吉田光男『わくらばの記』⑸2018-03-22