広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎調正機関に参画することについて

 ※今回は参画という角度から、実顕地のことをみていく。

〇1958年の『百万羽』の設立から始まった参画者は、1961年4月に、参画者の本財(人)及び雑財を調正する機関としてヤマギシズム生活中央調正機関が発足し、その一員となる。

 参画者の条件として、次のようになっている。
イ 山岸会の正会員であること(未入会者の入会歓迎)。
ロ 参画者全員の認定に従うこと。
ハ いささかの私心なく、いつでもどこでも研鑽によって行動できること。
ニ 参画後は参画者のいかなる処置にも感情を混じえず従うこと。
 すなわち万一の場合は妻子、親子別居または離別しても終生この仕事に没入できる人であることの心構えを必要とし、最悪の場合に立っても、ますます一体行動の実践ができる人であることが強く要望される。したがってさきに述べたように労力・技術・頭脳・財力のすべてを出し切って参画することを絶対条件としている。しかもそのきびしい行動の根底に流れるものは真実の愛情であり、その実践であることを強調する。

 その人的条件は、「百万羽科学工業養鶏参画認定申込書」の内容となる。これは後に、ヤマギシズム生活実顕地への参画申込書の内容にも重なってくる。


 1975年に参画した私の場合、独身で財産らしきものもあまりなく、調正機関誓約書の内容も全くといっていいほど気になることはなく、気楽な感じで参画希望し、受付も調正世話係から、本当の社会づくりを進めたいならば中央調正機関へ、楽しく暮らしたいなら実顕地調正機関へと言われ、違いがよく分からなかったが中央調正機関参画を選んだ。
(※1976年、実顕地調正機関参画に一本化された。)

 初期の頃は、山岸巳代蔵の思想や養鶏法に共鳴し、主に農民の一家揃っての参画者が多かったが、山岸会事件や山岸巳代蔵没後からしばらく、社会一般的にはそれほど知られていなく、参画者も若者が多かったように思う。

 そのこともあるのか、参加受付に限らずその頃の北試は牧歌的な雰囲気があり、後の実顕地が注目されるようになってからの厳しい参画受付様子とは違っていた。

 その後ヤマギシズムに関心を持つ人も現れ、1960年代後半からは、全国学園紛争を経験した青年やコミューン志向の若者たちの参加者が増え続けた。そして、自家製の生産物を一般消費者に供給し始め、その品質を支持する人々を母体とした活動が全国的に広がっていった。
 
 また、新島淳良などの著名人が参画し、幸福学園を立ち上げ、教育や子育てに関して提言を行うようになり、楽園村運動や非認可のヤマギシズム学園(幼年部から大学部)を設立することになる。それに着目する学者、研究者も少なからず現れた。社会的に活躍していた三十代~六十代の人たちの、一家揃っての参画も目立つようになり、子どもを学園に送る親も増えていった。



 参画について、初期の頃はよくわからないが、私が知る限り次のような経過をたどる。

 何かの契機でヤマギシ会に関心をいだき、まず特別講習研鑽会(以下「特講」(その期間は1週間[7泊8日]で,一生に一度しか参加できない。)に参加し,そこに興味を覚える何かがあれば、次にヤマギシズム研鑽学校(以下「研鑽学校」)に2週間(14泊15日)入校し,ヤマギシズムとは何かをある程度体得し、共鳴する人は参画を希望する。

 参画申込書には,「私,及び私の家族は,最も正しいヤマギシズム生活を希望しますので,ヤマギシズム生活実顕地調正機関に参画申込み致します。」との記載,出資明細申込書には,「私は終生ヤマギシズム生活を希望しますので,下記の通りいっさいの人財・雑財を出資いたします。」との記載があり,誓約書の内容は次のようなものである。


【「誓約書」
 私は,此の度,最も正しくヤマギシズム生活を営むため,本調正機関に参画致します。ついては,左記物件,有形,無形財,及び権益の一切を,権利書,証書,添附の上,ヤマギシズム生活実顕地調正機関に無条件委任致します。
 一 本財
 身・命・知・能・力・技・実験資料の一切
 一 雑財
 田畑・山林・家・屋敷・不動産の一切
 現金・預金・借入金・有価証券・及び権益・位階・役職・職権等の一切
 一 しかる上は,権利主張・返還要求等,一切申しません。
 一 以後,私は調正機関の公意により行動し,物財は如何様に使用されても結構です。
 一 調正機関の指定する研鑽学校へは何時でも無期限入学致します。】


 その内容をじっくり読んでもらい、説明し、疑問を覚えて参画取り消しをしても一切返還しません、とはっきり伝えていた。その覚悟のうえで受け入れ可能と考えていた。
 その過程で、やめる人、こちらから断る人もいて、最終的に少なくなった。

 また、そこで参画に至らない人も、一定期間熟慮したり、家族と話し合いを重ねたりすることで再度研鑽学校に参加し参画を希望する人も多い。
 その後、参画受付けがあり、最終的に参画を許可される人は少なくなる。

 また、参画手続きをしたにもかかわらず、様々な事情でそのまま来ない人もいた。
 なお、参画取消して離脱した人にも、嫌がらせをしたり、特に何かをしたりはしない。

 ただ、道義的にもヤマギシ会の理想から考えても、ある程度そこで暮らしていた離脱者が新たな暮らしができるように配慮することは必要であり、課題があると思っている。
 
 ヤマギシ会とヤマギシズム実顕地は別の機関であることに注意する必要がある。
 特別講習研鑽会を経て、その趣旨に賛同した人がヤマギシ会会員であり、その中から、財布一つの「一体生活」をするために、家も財産も放して「参画」した人とその家族から構成される機構が初期の『百万羽』であり、後に生まれたヤマギシズム実顕地である。
 つまり、「参画」とは『百万羽』や「ヤマギシズム実顕地」の一員となることである。

 会員さんの中には、参画を希望する方も多くいたが、いろいろな事情でそこまでは至らない人もかなりいた。
 その中には参画者以上に実顕地のことを考えている方や魅力のある人もいて、その人たちによって、ヤマギシ会運動が支えられていた面もある。


 わたしは1990年前後からしばらく参画受付けの世話役をしていた。
 受付世話係は人事面と経営面に担当が分かれていて、私は人事面を担当していた。

 もっとも気をおいたのは、ヤマギシ会の理想に共鳴し、世間一般とは甚だ異質な無所有一体の暮らしをやっていこうとする意欲があるだろうかということ。

 私が参画したときは、新たな世界に飛びこむような境地もあり、意欲にあふれていた。同時期に参画した仲間にもそれは感じた。
 ある程度期間をかけ、熟慮したうえで参画に至るわけで、私のような独身者はかなり気楽だったとはいえ、共鳴して、ある種の希望をいだいて参画した。

 むろんそのような人もいたけれど、実顕地がある程度注目されていて、ここで暮らしたら何とかなるだろうとか、我が子をここで育てたいとか、中には駆け込み寺のように思っている人もいて、参画受付は厳かに進めた。

 割合すぐに特講などで感じたことと実際のことに疑問を覚え、見切りをつけた離脱者もかなりいるなか、そこで25年ほど暮らし、うすうす疑問を感じる時もあったが、何らかの遣り甲斐、可能性を感じていたからである。

 その後疑問を覚えて離脱したが、間違っていたこと、反省することは多々あるとしても、ある程度自分なりに考えていたので、そこにいたこと自体はあまり後悔するものはない。

 大人が実顕地に参画するときは、偏った情報であれ、状況は様々だが、大方は一人ひとりの熟考の末参画した。どこかの組織のように、強引にだまして連れてこられたというより、調べる期間が長くとってあり、それぞれが選択して参画してきた。

 ところが学園生の参画については、熟慮も何も、高等部をでたら参画するのが当たり前に扱っていた。そのように願っていた〈村人〉も多いのではないだろうか。

 ほとんどの子は親にともなって連れてこられたか、あるいは熱心な会員さんに勧められて学園生になった人たちである。

 一応参画の研修期間(2週間研鑽学校)を設けて、誓約書も読み、一人ひとりの意思を確かめてはいたが、娘によると、〈村人〉になる手続き、学園生活の延長ぐらいに思っていて、参画したとか取り消したという感覚が全くないそうである。

 私も参画受付を担当していたので、その経緯はある程度掴めているが、娘と同じような感じで手続きしていた人も多かったと思う。

 なかには、〈村〉を離れて、独自の道を歩んだ人もいるが、およそ8割近くの人が参画の手続きをしたのではないかと思っている。なお、娘と同期の人60人程のうち、現在も〈村〉で暮らしている人は2人だけだといっている。
          ☆
【参照】
 ※わたしが1975年に参画してまもなく、友人の裁判のこともあり北海道試験場から出稼ぎという形で首都圏の山岸建設に出向していたときがある。
 その時に一緒に暮らしていたメンバーに、後に宗教学者として著名になる島田裕巳氏がいた。氏はときおりヤマギシに関しても触れていて、その著もよく読んでいた。以下は2013年に発表したものである。

▼【ヤマギシ会はまだやっていた】島田裕巳 アゴラ編集部(2013年02月17日)
《ふと、ヤマギシ会はどうなっているのだろうかと気になった。ヤマギシ会は、日本で最大のコミューン、共同体であり、理想社会の実現をその組織の目的としてきた。創立は1953年のことで、ちょうど今年で60年になる。

 私は、大学時代にヤマギシ会に関心をもち、宗教学のゼミでの調査をきっかけに、近づき、その運動に共鳴して、メンバーになったことがあった。今から40年近く前のことである。ヤマギシ会の共同体で生活していた期間は7カ月と短かったものの、その後も、ヤマギシ会を出てきた人間たちが中心になった、共同体つくりの運動に参加し、そのあいだはヤマギシ会ともかかわりをもった。

 当時のヤマギシ会には、学生運動に参加した経験をもつ若い人間が多かった。ヤマギシ会は、1959年に「ヤマギシ会事件」を起こし、世間の注目を集めたが、それによって危険な団体とも見なされ、一時、運動は停滞した。ところが、学生運動崩れが多数参加することで、60年代の終わりから70年代のはじめにかけて、ユニークな運動体として注目を集めたのだった。

 ただ、当時は、急激にメンバーが増え、しかも出入りが激しかったことから、組織は安定せず、方向性も定まっていなかった。生活も貧しく、私が住んでいたところも、工事用のプレハブを安く買ってきたようなもので、冬の寒さをしのげるようなものではなかった。

 私が抜けた後、ヤマギシ会は、農業産業の方向へ大きく舵を切った。若いメンバーは、朝から晩まで熱心に働くようになる。そして、都会の主婦層から、ヤマギシ会の農場で生産される卵や鶏肉が自然で安全な食品ということで需要が生まれ、共同体の規模は拡大していった。

 とくに、日本がバブル経済に突入した80年代半ばから、農業産業としてヤマギシ会は大きく発展し、その勢いはバブルが弾けても衰えなかった。もっとも拡大した1998年の時点では、全国に39箇所の「実顕地」と呼ばれる共同体をもち、メンバーの数は4400人にも達した。毎年5月には、生産した食品をただで来場者に食べさせる「春まつり(名称は年によって散財まつり、タダのまつりなどに変わった)」を行い、そこには10万人もの人が訪れた。

 日本でも、農業の協同化の必要性が説かれ、それによって経済効率を高めていくことが不可欠だと言われてきたが、なかなかそれが実現しなかった。ヤマギシ会は、「無所有一体」という理念を掲げ、私的所有を否定して、メンバーに給与を与えない仕組みを作り上げることで、その課題に一つの答えを与えた。拡大の続いていた時代には、社会的に多くの注目を集め、マスメディアでもさかんに取り上げられた。

 ところが、急激な拡大はひずみも生む。ヤマギシ会の共同体のなかで、子どもに対する体罰が行われているなどとして日弁連などによる調査が行われ、その事実が明らかになることで、ヤマギシ会は社会から激しいバッシングを受けることとなった。それは、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こってから、それほど経っていない段階でのことで、ヤマギシ会はオウム真理教と同様に危険なカルトであると見なされたことも大きかった。

 国税局による税務調査で申告漏れが指摘されたり、脱会者が次々と告発本を出したことも大きく影響した。それによって、ヤマギシ会は大打撃を受け、生産している食品が売れなくなるという事態に直面した。こうしたヤマギシ会の盛衰について、私は『無欲のすすめ』(角川oneテーマ21)という本に書いたこともある。

 大きく発展していたり、事件性があれば取り上げられるが、バッシング後のヤマギシ会については、ほとんど報道がなされなくなり、社会的な注目を集めることもなくなった。私のところにも情報が入らなくなっていた。それで、ふと、ヤマギシ会のことが気になったのである。

 その後、たまたまヤマギシ会のメンバーと会う機会があり、現状について尋ねてみたところ、この3月にヤマギシ会の現状を含めて紹介した本が出ることを教えられた。それは、村岡到氏の著作『ユートピアの模索―ヤマギシ会の到達点』(ロゴス社)という本である。著者は社会主義者で、その観点から、ヤマギシ会の歴史と現状、そしてその意義について論じている。

 この本を見ると、ヤマギシ会の規模は最盛期の半分程度になったものの、依然として農業産業として健在であることが分かった。『週刊東洋経済』が昨年「農業で稼ぐ」(7月28日号)という特集を組んだとき、農事組合法人のランキングを載せていたが、ヤマギシ会の豊里実顕地(ヤマギシズム生活豊里実顕地農事組合法人)は第2位にランクされていた。しかも、もう一つの拠点である春日山実顕地(ヤマギシズム春日農事組合法人)もランクインしており、両者を合わせれば、ヤマギシ会は日本一の農事組合法人である。

 ヤマギシ会の現状について評価を下すには、その実態を見定める必要はあるだろう。しかし、ヤマギシ会が農業ということを核にすえていることは、組織としての最大の強みである。最近では、実顕地で行われる「朝市」なるものに一般の人たちが集まるようにもなってきているらしい。ネットショップも開いており、ヤマギシ会と社会とは食品を通してつながっている。

 ヤマギシ会に入ったメンバーは、私のように脱退しなければ、生涯実顕地のなかで生活する。80歳になると、「老蘇」というグループのなかで悠々自適の生活を送るようになる。そこには、老後の不安はない。さまざまな点で、私たちは今一度、ヤマギシ会のあり方に注目する必要があるのかもしれない。
(島田 裕巳 宗教学者、文筆家 島田裕巳の「経堂日記」)》

◎「広場・ヤマギシズム」の役割。(村岡到『ユートピアの模索』に触れて)

〇2017年12月にブログ「広場・ヤマギシズム」を立ち上げた。
 それは、ヤマギシのことを考えていける一つの広場と思っている。また、後の研究者などに繋げればいいかなと思っている。

 戦後生まれたコミュニティー・共同体の規模、現在まで続いている継続年数、農業法人としての活動もかなりの実績をあげている。また、多くの人に様々な影響を与えた、ヤマギシ会活動の入り口である「特別講習研鑽会」(特講)も海外から参加者が続いている。

 理想を掲げたヤマギシズム運動、実顕地の影響の大きさを考えると、第三者的な視点による研究、真っ当な批判の類は、はなはだ少ないと思う。そこで、関心を抱く人や研究者などの究明や学びに役立つような資料集・記録集などをつくれないものかと思っていた

 今の社会状況からも、実顕地・ヤマギシ会は、共同体として様々な角度から考察していくに値するものがあるとも思っている。

 長年そこで暮らし、進めてきた自分としても、それについて発信していく役割があるのではないかと考えている。

 記録するに際しては、間違っているところヘンなところと同時に、面白い試みや可能性を覚えるところにも焦点を当てていく。

 ある理念を掲げている共同体や組織であろうと、無為の地域社会であろうと、人は何らかの集団社会の一員であり、そこのあり方を考えるうえでも、参考になることもあると思っている。

 いずれにしても、過去の間違いを学びほぐして、明日、次代につなげていくのが記録を残していく肝心なところだと思う。

 そして、しかるべき研究者による見解も、その見方に疑問を覚えるところがあるとしても大事にしたい。
          ☆

 2013年に村岡到『ユートピアの模索―ヤマギシ会の到達点』が出て、現実顕地の構成員やヤマギシに関心のある方に注目された。

 その著について、ブログに次にように書いた。
《著者は2012年、ほとんど知らなかったヤマギシ会と初めて接点を持つ。実際に実顕地を何度も訪ね、そこでは、現在の資本主義日本では考えられない生活を実現していることを知ったことが本書を書く契機となる。その特徴を五つにまとめている。

・お金のためではない働き方を実現
・お金を使わない〈無所有〉の生活
・農業を土台とした共同生活を実現
・子どもの創造性を生む〈学育〉
・高齢者の生活・医療を完全に保障

 著者が、五〇年に及ぶ社会主義をめざす実践を支えた思想に立って、本書を書き綴ったことが特徴である。

 しかし、触れた時間の短さのこともあるのか、多くのことを現実顕地で活躍している人への聞き書きによるものであり、当時の実顕地の長所が前面にでていて、その陰の問題点がよく考察されていない印象がある。
 
 さらに、山岸巳代蔵およびそこから生まれたヤマギシ会は独特のものであり、それまでの社会主義思想などだけではよくつかめないと私は思っている。

 その頃の実顕地をよく捉えていると思う反面、そうだろうか? と思うことの多い一書である。》
 ※村岡到『ユートピアの模索―ヤマギシ会の到達点』(ロゴス、2013)


 2000年前後に、疑問を覚えた人たちによる多くの離脱者を生み、実顕地でもいろいろな見直しがされたらしい。以前ほどではないが、その後も一部には注目されている。

 村岡氏が本書を刊行した2013年にも、実顕地の規模は最盛期の半分程度になったものの、依然として農業産業として健在であり、『週刊東洋経済』「農業で稼ぐ」(2012年7月28日号)という特集を組んだとき、農事組合法人のランキングを載せていたが、ヤマギシズム生活豊里実顕地農事組合法人は第2位にランクされていた。

 実顕地在住の友人によると、最近ますます勢いをなくし、参画者もほとんどいない状況で運営の根幹である「研鑽方式」もおざなりになっているらしいが、農業関連の共同体としてそれなりの実績をあげている。

「付記」
 村岡到氏から『ユートピアの模索 ヤマギシ会の到達点』を送っていただき、実顕地のことなどについて、いくつか気になるところに触れてお礼の手紙を送った。
 その内容は【◎ヤマギシズム実顕地について思うこと(2015-05-28)】に記載した。

 項目は、(一)山岸巳代蔵とヤマギシズム運動、(二)「けんさん」とヤマギシズム特別講習研鑽会(特講)の考察、(三)さまざまな理由で実顕地から離れた子どもや、参画を取り消した人への配慮、(四)大量の実顕地離脱者と、その頃の経緯、とつづく。
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参照:村岡到『ユートピアの模索──ヤマギシ会の到達点』へ、共同体やヤマギシ会に関心を寄せるある研究者による書評があり、それをあげる。


▼村岡到『ユートピアの模索──ヤマギシ会の到達点』 書評:黒田宣代
《【誕生から60年、「ヤマギシ会」は、今】
「ヤマギシ会」が今もなお、「ヤマギシ村」という実験地を存続させ、その中で村人が集団生活を営んでいるという事実は画期的なことである。

 世界には、イスラエルの「キブツ」やアメリカの「アーミッシュ」のように様々な共同体が存在する。そして、日本にも過去に、武者小路実篤が創った「新しき村」など、共同体建設への試みは少なからず存在してきた。共同体建設とは、いわば「ユートピア」への希求である。
 本書は、こうした「ユートピア」を探し求めてその地を創造する人びとが、実際に我が国、日本に現在も存在していることを著した、いわばドキュメント作品である。おそらく、著者、村岡到氏は、その生活に遭遇したことで、驚き、感動し、その地で暮らす人々を描かずにはいられない衝動が走ったのだろう。

 村岡氏がペンをとらずにはいられなかった「ユートピア」とは、通称「ヤマギシ会」と呼ばれる共同体である。「ヤマギシ会」は、一言で説明すれば、財布を一つにした集団生活を半世紀以上にわたり実践し、「農事組合法人」として存続している割合大きな集団である。全国に二六カ所・一五〇〇人が参加しているという。特異な生活形態から、おのずと様々な問題――男女・親子・家族関係や教育・仕事・権力など――が生じているものの、常に「研鑽」という話し合いの場でその解決策を探っているという。

 ところで、「ヤマギシ会」を記した図書は、これまでも少なからず出版されてきた。例えば、脱会者がこれまでの生活を振り返っての日記風のものや、ルポライターが「ヤマギシ会」の裏の顔をクローズアップし、終始、非難の嵐で書き綴られたものなど三百数十冊に及ぶ。「ヤマギシ会」自身の出版物を除けば、これまでの図書は総じて「ヤマギシ会」を酷評するものが多いと言える。

 こうした中で、本書はどちらかといえば、「ヤマギシ会」にエールを贈る姿勢に立つ著書と言え、近年、出版されたヤマギシ会関連図書とは一線を画す。コインに表と裏があるように、個人や集団においては何に照射するかによって酷評と称賛は入り混じる。本書の意義は、これまで世に出た作品とは違った視座を持つところに意味があるのではないかと思われる。
 本書の構成は、ユートピアの大切さ/安心元気な高齢者と子ども楽園村/ヤマギシ会の現状/時代の要請に応えて急成長/〈学育〉の挑戦とその弱点/創成期の苦闘/奇人・山岸巳代蔵の独創性/成長が招いた「逆風」/生存権保障社会の実現/ユートピア建設の課題と困難/青年たちの声、という各章からなっている。

 私は今から二〇年ほど前に「ヤマギシ会」を研究対象としてフィールドワークを試みたことがある。当時、大学院生であった私は「日本の共同体」の存在に興味があり、三重県、和歌山県、熊本県にある「ヤマギシ村」を訪ね、そこに住む人々の生活や意識を調査した。当時の「ヤマギシ会」は、「お金の要らない村」あるいは、「幸福一大家族」と言ったキャッチフレーズとともに、メディアにもよく取り上げられ好評を受けていた。しかし、「オウム真理教」や「統一教会」などの宗教団体による刑事事件や詐欺的事件がニュースとなって、世間を騒がせると、一転して「ヤマギシ会」も上述した新々宗教団体と同一視され、「マインドコントロール」や「カルト教団」というキーワードのもとに、「ヤマギシ会」バッシングが始まっていった。私は、二〇〇六年に『「ヤマギシ会」と家族』(慧文社)を著した。

「ヤマギシ会」は宗教団体ではない。上述したように「農事組合法人」としての集団である。しかしながら、独特の哲学(理念)をベースとした生活形態を持ち、日々「研鑽」を重ねていくという姿勢が宗教的な団体と変わらないとして誤解を生んでいる。
 本書は、「ヤマギシ会」が誕生から六〇年経った今も、顕在し、多くのバッシングにさらされたにもかかわらず、村人がしっかり生活しているということを証明した。これまで世界中に創られた多くの共同体が、いとも簡単に自滅し、その跡形もないほどに忘れ去られていったという歴史の中で、「ヤマギシ会」が今もなお、「ヤマギシ村」という実顕地を存続させ、その中で村人が集団生活を営んでいるという事実は画期的なことである。

 しかし、私たち自身の生活の中に理想と現実があるように、「ユートピア」的な世界を創りあげようと立ち上がった「ヤマギシ会」にも、例外なく称賛と酷評は存在する。思想的に受け入れられない、あるいは賛同するといった賛否両論は、「ヤマギシ会」がこれからも共同体として存続していくなかで、批判され、あるいは受容されつつ、日々「研鑽」されていく運命にある。

 村岡氏は、五〇年に及ぶ社会主義をめざす実践を支えた思想に立って、本書を書き綴ったと言える。それが著者の色である。そしてまた、本書は、村岡氏が、「ヤマギシ会」と出会い、付き合って(関わって)きた時間を考察すると、ともすれば、長所しか見えてこない蜜月期に書かれたものであるといっても過言ではないだろう。ハネムーン旅行から帰国したカップルが将来に希望をもち、相手を褒めあうように、著者の視点が「ヤマギシ会」を恋人のように見つめているような雰囲気が随所に感じられる。したがって、本書を読んだ「ヤマギシ会」の脱会者や一部のセミナー参加者に一抹の不安や違和感を抱く人びとが現れることは禁じ得ない。どう読むかは、読者自身の思想にゆだねられることだろう。

 私が本書に出会ったとき、表紙のイラスト、色使い、デザインから、今にもその表紙に陽が差し込み、新鮮で澄みきった空気とともに、のどかで温かい、どこか牧歌的なイメージが湧き起こったのを覚えている。装丁は著者の妻だという。これが、著者である村岡氏の「ユートピア」としての現在の「ヤマギシ会」への「まなざし」なのかもしれない。

 本書は、「ヤマギシ会」の生活の実態と理念を明らかにし、それを「ユートピアの模索」として考察している。その努力は、現代日本の政治・経済・社会づくりを振り返る意味で有意義であると言えるだろう。現代に生きる共同体の「存在証明」を知る上で考えさせられる一冊である。
(黒田宣代『「ヤマギシ会」と家族』著者「図書新聞」2013.6.22号に掲載)》

◎「ひとつ」という見方。

〇先週、1976年実顕地本庁のもとに強力に一本化されるようになった後の、実顕地の変容について記録した。強力に一本化することの弊害について、別の角度から見ていく。

 実顕地では、「何々一つ」の表現がよく使われていた。
〈財布一つ〉〈実顕地一つ〉〈一つの社会〉、大袈裟になると〈世界にただ一つの真実の学園〉と言うこともあった。

 ヤマギシズム運動では自然全人一体の見方など「一体」という表現がよく使われる。
 それは、「ひとつ」という指向性の強いことば、典型として「財布一つ」という実顕地づくりの根幹をなす方式につながり、多くの参画者の心構えにもなっていた。

 5年前、長年実顕地で活動し、その後離脱していた10人ほどの仲間と寄る機会があった。また、そこで活動していた青年、今では40代半ばで活躍している人たちも来てくれて、それぞれの現況や当時の実顕地についての思いを聴かせてもらった。

『僕らがイズム運動で一番大事にしてきた、「ひとつ」とか、「研鑽」とか、もっともそれを実践すべき時に、それをやらなかったことに対しての残念さがある』というような真摯な問い掛けが、当時は青年だった人からでて、そうできる役割についていた私には課題として残った。付随して「ひとつ」という表現について考えてみた。


 2016年10月、吉田光男さんは『わくらばの記』で次のことを述べている。
《先日、ある実顕地のメンバーと話していて、気になることがあった。彼は「最近は村人テーマの〈実顕地一つ〉の資料で研鑽しているが、どうも意見が出しづらい」というのである。彼の言うには、何か〈こうすることが実顕地一つなのだ〉と決まったものがあって、それと違うことはなかなか言えない雰囲気なのだというのである。これは、私にも経験があるのでよくわかる。自分もそんな雰囲気に委縮したり、自分からそうした雰囲気づくりに貢献したりした苦い経験がある。しかし、もうとっくにそんな経験は卒業していなければならない。

 ここで考えなければならないと思うのは、〈実顕地一つ〉のテーマが意味することの中身である。つまり「実顕地は一つである」ということなのか、あるいは「実顕地は一つにならなければならない」ということなのか。もし、後者であるとすれば、今は一つでないから一つを目指していこうということになるし、前者であれば、いろいろ意見の違いはあっても一つの中の多様な見方であって、違いは豊かさを表すだけで対立にはならない。この「一つである」ことなのか、「一つになる」ことなのか、ということの違いは、決定的に大きい。

 そして私たちが目指したいのは「一つである」あり方である。「一つである」から何でも言える、何でも聞ける、「誰もが思った事を、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、又は誰の発言や行為をも忌憚なく批判」できる、そんな社会づくりである。

 言葉で言ってしまえばこんな簡単なことなのだが、実際にそうなっていかない原因はどこにあるのだろうか。恐らく、方向や事柄を一つにしようとする側にも、それに委縮したり反発する側にも、一つでないものが介在しているからではないだろうか。特に「正しいもの」「本当のもの」を自分(たち)の考えや行動の原理としている場合は、それを他に押し付ける危険が大きくなる。強制力を働かせることも起こりうる。そうして作られた流れや空気が、人を押し流してしまいかねない。

 いま大切なことは、「実顕地一つ」の研鑽を、「事柄の研鑽」から「あり方の研鑽」へと変えていくことなのではないだろうか。(連載『わくらばの記』(14)(2018-11-04))》
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 ヤマギシの独特の理想に共鳴して参画した人たちがある方向性のもとに、〈一つ〉のあり方を目指すのは、ある意味当然である。

 しかし、組織は人の集まりであり、共鳴して参画したとはいえ、一人ひとり考え方の違いがあり、意見の相違点も生まれる。その違いが組織を動かす大きなエネルギーになることがある。

 また、今進めている方向性そのものを改めて見直す契機にもなる。そのために一本化するには、それに対して検証機能が絶えず働いていることが大事である。

 そのため、山岸巳代蔵は組織の生命線として「けんさん」方式を考えて、それに即して実顕地づくりがされていった。

「けんさん」方式の要点は、どこまでもキメつけないで、あらゆる社会通念や権威などにとらわれず、本質を探究し続け、最も深く真なるものを解明し、それに即応しようとする考え方、生き方ということになるかと思われる。

 そして、山岸巳代蔵の描く研鑽会のエッセンスを次のように表現した。
【4 感情を害しないこと
 いかなる場合にも絶対腹をたてないことと、暴力を用いないことになってありますから、何を言われても悪感情を残さないこと、それから、誰もが思ったことを、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、または誰の発言や行為をも忌憚なく批判します。
 政治批判も、人格批難(同席者の)も、差支えなく、そんなことで弾圧したり、腹を立てたらおしまいです。

5 命令者はいない
 特別人間や、神や、仏は仲間入りしていませんから、ある人を盲信し、屈従迎合しないことで、偉い人のお説教を聞くのではなくて、お互いの持っているものを出し合って、自分達で共によく検討し、一致点を見出し、実行に移すのです。提案はしますが、個人の意志により命令する者はいないのです。人間の知能を持ち寄れば、神や、仏とやら云う仮名象徴態や、絶対者がなくとも、人生を真の幸福にすることが出来ます。(『ヤマギシズム社会の実態』「第二章構成 一幸福研鑽会」より)】


 したがって〈財布一つ〉で実顕地が運営されていくにあたって、原則としては、その実顕地の参画者構成員の「けんさん」によってなされていく必要がある。

「けんさん」方式が形骸化していったことが、実顕地のおかしくなるもっとも大きな要因であったと思っている。

 しかし、実際のところ一部の人に任されていくのだが、そのための工夫として「自動解任」「長を置かない」「私意尊重公意行」など考えたが、先に触れたように、指導的立場の人の固定化もあり、一部の特定の人たちによる操作的調整という面が強くなり、本来のねらいから逸脱した形骸化したものになっていく。

 このことは、機構運営の柱である「私意尊重公意行」の「私」と「公」のあり方、「集団」と「個」の関係につながり、ヤマギシに限らず、共同体やある集団における、大きな課題となると思う。


「付記」
 5年前、長年実顕地で活動し、その後離脱していた10人ほどの仲間と寄る機会では、一本化された後の実顕地について、いろいろな話が交わされた。

 そのことは、2015年10月に、当ブログ「気が置けない仲間との交流(1)⑵⑶」に記載した。
         ☆

 【参照】
▼「けんさん」が生命線
「全部ではないが、ヤマギシズムの基本となるものが研鑽である。研鑽は話し合いだけではなく、理論、方法、実践の一貫したもので、生活即研鑽である」として、『正解ヤマギシズム全輯』の構成は、第一輯に「けんさん・もうしん」の項目を考えていて、「出版計画打合せ」に〈本題 第一章 けんさん〉が書かれている。その抜粋を見ていく。

《この研鑽というのは、過去の文献だとか、実績だとか、それぞれの人の考えだとか、教書、指導書、研究発表などを基本としてやるのでない。間違いないものとキメつけて、それから物事を判断するものでない。哲学とか科学とか言われても、みなそれぞれ決定した、動かない基本体系を持ったもの。それを持たないもの……。
 研鑽は学問と違う。
 こう一応定義をしても、そのもの、キメつけたそのものでない。文字でも、言葉でも、学問でも、実験も、それらは含まれるが、そのものでもない。一応は定義づけても、それは一応であって、絶対間違いないと、不動のものとキメつけて変わらないもの、変えようとしないものでない。やはり、真に正しいことを期すために、どんなに真に正しいと思われることでも、立証されたから間違いないとか、正しいとか思っても、それは一応の段階的正しいとするもので、やがては正しくなかったという結果になるかも分からないとするもの。したがって、これで間違いないとキメつけた最終のキメつけでなく、一旦最終的な、変わらないものと思っても、なお間違いかどうかの検べる余地の残されたもので、どこまでもどこまでも、間違いあるかもしれないとして検べようとする観方、考え方、とり方、実験、また実験等を通して検討する、正しいかどうかを究めていく。実験に出たからといって正しいとキメつけない観方、考え方である。
 これが正しい、間違いない、真理だというものによって安定確保を求めようとする考え方からすれば、でなければ、不安定だとする考え方としてキメつけて動かない考え方には、実に不安定で、掴まえどころがないような、頼りなさを感じるものである。例えば、適切でないかも分からないが、これが正しいという理は分かっていても、正しい測定が出来ない。正確な場合もあるが、これが正確だとキメつけ、科学的に調べた、物理的に調べたといっても、これが絶対と言い切れないものである。
(『全集七巻』「編輯計画打ち合わせー本題第一章 けんさん」より)》


▼『ヤマギシズム社会の実態』「第二章構成」(1954.11.25)
 第二章 構 成
 一 幸福研鑽会
1 幸福研鑽会とは
 幸福一色の理想社会を実現さすために、幸福研鑽会を設けます。そして、幸福は何処にあるやを見つけ出し、近隣・同業の反目をなくし、親愛・和合の社会気風を醸成し、何かしら、会の雰囲気そのものが楽しくて、寄りたくなるような機会ともします。

2 出席者は
 この研鑽会には誰でも出席できます。
 年令・性別・性格・知能・思想・人種・国籍・学歴・研究部門・職業・党派・所属団体・宗門・官公民・役務・階層・地位・貧富・好悪感・理論及び実現に対しての賛否の如何にかかわらず、助産婦も僧侶も、大臣も乞食も、みな同格で出席します。
 ただ狂人・妨害者は寄れないことと、伝染のおそれある悪疾患者等は、別の機会を造って開きます。

3 研鑽事項は
 ここでは人類幸福に関する凡ての事柄について研鑽します。人間性・生命・遺伝・繁殖・健康・人格・本能・感情・思想・欲望・学問・教育・技芸・宗教・家庭・社会・経済・物・人種・国境・法律・制度・政治・慣習・風俗・美醜・善悪・互助・協力・取与・闘争・暴力等、及びその他百般の事項について検討し、真実のあり方と、その実現について研鑽するのです。

4 感情を害しないこと
 いかなる場合にも絶対腹をたてないことと、暴力を用いないことになってありますから、何を言われても悪感情を残さないこと、それから、誰もが思ったことを、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、または誰の発言や行為をも忌憚なく批判します。
政治批判も、人格批難(同席者の)も、差支えなく、そんなことで弾圧したり、腹を立てたらおしまいです。

5 命令者はいない
 特別人間や、神や、仏は仲間入りしていませんから、ある人を盲信し、屈従迎合しないことで、偉い人のお説教を聞くのではなくて、お互いの持っているものを出し合って、自分達で共によく検討し、一致点を見出し、実行に移すのです。提案はしますが、個人の意志により命令する者はいないのです。人間の知能を持ち寄れば、神や、仏とやら云う仮名象徴態や、絶対者がなくとも、人生を真の幸福にすることが出来ます。
 人間のうちにも、特に秀でた知能を持っている人もありましょうが、それもその人個人が築いたものでなく、幾代かの人間の因子の離合と、環境を与えた人達の集積の露面に過ぎず、その人のみが偉いのでなく、人類の知能の高さを示すものです。
 過去の人達が積み上げて出来たものを、自己の代で停滞・消滅ささずに、次代の繁栄・前進への素材として、よりよきものに練り固め、周囲及び後代へ引き継ぐことこそ生きがいというべきです。自分一人で大きくなったように、威張ったり、自慢したり、人に命令したりせず、現在以後の人々のために、最大効果的に役立たすことを研鑽するのです。これが自分を大きく生かすことにもなります。

6 たやすく寄り合える場所で
 人はみなそれぞれに忙しく営んでいますから、しかも直に目に見えない、或いは直接腹の太らない事には寄り難いものです。利害が直接影響する事は、小さい事でも、重大関心を以て目を光らせて臨みますが、間接的な事や、無形的な事となると、何倍か大きな酬いのある事でも、案外他人事のように自分に不親切で、誰かがやってくれるくらいに冷淡で、欲の無いこと、浅いこと、そして、つまらん、忙しいと、一日を惜しみます。
 しかし、これが今の社会普通人の考えであってみれば、今のところ仕方ないから、せめていつでも容易に寄り合えるよう、なるべく近い所で、小地区研鑽会を開きます。小地区で解決できないことや、他に広く関係のあることは、大地区研鑽会へ持ち出します。

7 日と時間は
 日や時間を定めておくと、いちいち日取りの打合せをしたり、通知を出す必要もなく、年中の日程が組みやすく、会の日を忘れなくなり、また他の研鑽会にも出席したり、他地区からの参加にも都合がよく、後にたびたび変更しないよう、支障のない日を選定します。
 幸福研鑽会は、立ち話や、中腰では、店を拡げたばかりで、結論が出難いようですから、心を落ち着け、寛いで、相当時間を長く取れる時刻が好都合です。もし時間中に結論が出ない場合は、次回まで持ち越すことで、軽率な解決は、かえって紛糾の原因になることがあります。
 主婦や、学生や、時間勤務者の出やすい時刻となると、なかなか一致し難くなりますから、あらかじめ月によって、午前・午後・夜等に時間を摩らして取り決め、出席する人も、その日程時間に合うように、日常のプランを組みます。
 私は四五農法と呼んでいますが、商店も、主婦も、早く一週に四十五時間勤労で、世界水準の生活が出来るよう、能率を高める研鑽をして、時間計画を樹て、月一回くらいは研鑽会にも出席することです。出不精の人でも、出かけると出やすくなり、出るから進歩改善されて、時間的余裕が出来て、なお出やすくなるものです。
 四五勤労とは、世界標準労働時間を意味するもので、必ずしも四十五時間が理想でなく、これは今日の標準であっても、将来はますます短縮され、一週十時間か五時間くらいの労働で済まされるようになりましょうし、またそうするための研鑽にも力めます。「働くことは人の本分」とか「労働は神聖なり」と教えていますが、牛馬や機械で出来ることを、その何分の一か何百分の一の能力で、それらに代用して人間が働いたり、頭をちょっと一回だけ働かせておけば、いつまでもどんな省力でも出来ますのに、研究もせず、そういう仕事で額に汗して働いたからとて、神聖でも、尊いことでもないでしょう。なるべく働かないための研鑽をしましょう。

◎「われ、ひとと共に繁栄せん」から「われ、実顕地と共に繁栄せん」へ

〇前のブログで次のように書いた。
〈1976年になって、中央試験場は春日山実顕地、北海道試験場は別海実顕地の名称になり、実顕地本庁のもとに一本化されるようになり、試験場機能は衰えていく。
 これはヤマギシ会の歴史における、大きな転換点の一つで、これ以後、研究機能や組織の在り方を考える検証機能は急激に衰えていく。〉

 それについて思うことを述べる。
 まず以前のブログで、実顕地調正機関に一本化され、山岸巳代蔵が描いた試験場機能が衰退していくことに触れた記録がある。
【ヤマギシズム実顕地について思うこと】から、その一部を抜粋する。

▼(山岸巳代蔵は)生涯に亘って試験・研究、ときには試行・錯誤の連続生活だったと思います。資質としてどこまでも試験・研究の人であったと思います。青年時の偶発的な出来事からはじまる養鶏業時代から、伊勢湾台風で和田義一に見出され引き出される出会いから、やがて山岸会創設となり、「争いがなく、ひとりも不幸な人のない社会」という遠大な目標を掲げ、「特講」開設、『百万羽』展開、柔和子との取り組み(柔和子というそれに耐え得るような伴侶を得て)など、壮大な実験・研究をたゆまず続けました。

 1961年になって、山岸巳代蔵の思想や山岸会の運動に共鳴した人たちの中から、実顕地が誕生することになります。これは私の見解になりますが、実顕地造成に伴い、山岸は四大機関によるヤマギシズム運動の展開という構想を描きました。すなわち、自分の観念にとらわれず自信のないお互いになってどこまでも「けんさん」のできる人になる研鑽学校、あらゆる角度から実験・研究を繰り広げ様々な方法を探求する試験場、金の要らない楽しい村で暮らす顕現体としての実顕地、そして、ヤマギシズムを広く知らせる山岸会活動。この四機関は相互に重なりながらも、他に置き換えることの出来ない独自の活動目標があり、横一列の関係で、それぞれの機関が充実してこそ、ヤマギシズム運動が展開していくと考えたと思います。

 山岸自身は、その構想の実現に向けて身体の衰弱にもかかわらず、体力の許す限り各種の研鑽会に出席していましたが、これからという局面の1961年5月、59歳のときに亡くなることになります。その構想を受けて、主に山岸の身近にいた人たちによりヤマギシズム運動が展開します。

 1958年の『百万羽』の設立から始まった参画者は、1961年4月に、参画者の本財(人)及び雑財を調正する機関としてヤマギシズム生活調正機関が発足しました。私は1975年北海道試験場での研鑽学校受講後すぐに参画しました。その時に試験場の総務の方から、革命を目指すなら中央調正機関に、実顕地で仲良く楽しく暮らす方を選ぶなら実顕地本庁に参画手続きをするようにとの説明があり、中央調正機関に参画して北海道試験場に配置になりました。その後一年も経たないうちに、参画者の受け入れは実顕地本庁に一本化されました。この辺りの動きは、参画したての私には皆目わからなかったです。

 そのような流れのなかで、試験場や研鑽学校の機能が実顕地造りの傘下におかれるようになりました。このことが良くも悪くも山岸の構想とは違ったものになっていったと思います。本来すべての事柄、人々に対応するべく世界に開かれた試験場、研鑽学校が、実顕地が栄えるためのもの、現実顕地の体制にふさわしい人になるためのものとなっていき、実顕地の各機構や運営も実顕地の基盤がより強固になることに力を入れるようになっていったと思います。1976年12月には北海道試験場(北試)は別海実顕地となり、1961年3月に春日山実験地から名称変更したヤマギシズム世界実顕中央試験場は春日山実顕地に変わりました。


 その後次第に、試験場機能は乏しいものになっていったと思います。養鶏部門をはじめ産業部門で、何人かは熱心に取り組んでいたようですが、全体の気風としては、山岸が描いた本来のあり方からすると中途半端なものになっていったと思います。1991年になって、本来の体制にするため、改めてヤマギシズム世界実顕中央試験場発足となり、その後案内板なども設置されましたが、はかばかしい動きにはならなかったと思います。

 山岸没後から私が参画した1975年ぐらいまでは、一部に注目している人はありましたが、社会一般的にはそれほど知られていなく、農業を基盤とした自給自足的な生活形態で、経済的な基盤も整っていなかったです。そこでまず、実顕地造成における足元からの基盤づくり、特に生産物拡大など経済的な面に力を入れたのではないかと思います。

 1960年代後半から様々な分野からの青年たちの参画者が増えてきて、1973年末からはじまった生産物供給が軌道に乗りはじめ、楽園村運動などで注目されるにつれて参画者が増え続け、組織も大きくなっていき、経済的な基盤も強固になっていきました。それに伴って、研鑽会、機関誌、各種通信物などで村人の意識を高めていくようなことも活発になっていきました。

 それと同時に、実顕地の組織と運営も一人ひとりの自由意志力による総和というよりも、管理維持的な要素や能率的な面が色濃く出てくるようになり、特定の力のある人が運営面において影響力を発揮するようになりました。また、村人たちの多くも、その人たちに委ねるというような傾向もありました。

 組織の規模が大きくになるにつれて、管理的なシステムを整えていくことは欠かせないと思います。そのために「自動解任」「長を置かない」「総意運営」「私意尊重公意行」など、不完全な個人による支配や固定化しない組織・運営のあり方として考え出されたものです。しかし、真摯に自覚する人もいましたが、指導的立場の人の固定化もあり、一人一人の自律的な「けんさん」によるものというより、むしろ一部の特定の人たちによる他律的、操作的調整という面もあり、本来のねらいから逸脱した形骸化したものになっていきました。

 研鑽会も各種開催されていましたが、一人一人の可能性や「けんさん」する力を培い育てるという面もなくはなかったですが、実顕地や各専門部署のあり方の体得といったような意味合いも強かったと思います。

 私自身も村人たちもそれぞれの役割に専念していれば、実顕地が益々栄えるというような、思い込みを抱いていた人も多かったのではないかと思います。結局,力点が「われ、ひとと共に繁栄せん」から「われ、実顕地と共に繁栄せん」に変わっていったように思います。
          ☆

 組織は人の集まりであり、当然考え方も違いがある。意見の相違点や別の価値観も生まれる。その違いが組織を動かせる大きなエネルギーになることがある。

 それなりに信頼されている会社などには監査役がいて、大きく内部監査と外部監査がある。内部検査にあたる人は、あくまでも「第三者」としての独立した立場に立つことが求められる。そのため、特定の部門での権限を持っておらず、組織的にも精神的にも客観性を保てる人材が選ばれることが多い。

 一方、外部監査は組織とは利害関係のない外部の専門家によって行われるものであり、一定規模の企業では実施が義務付けられている。また、会社の事情をよく知らない外部の人間が行うため、より客観的な評価がしやすいというメリットがある。

 上記のことは、会社の場合も大事だが、ある程度の規模を抱えた組織には欠かせないと思う。独特の理想を掲げた実顕地のようなところは、監査役に限らず、その在り方や方向性について見直ししていく研究機能や検証機能は特に大事になる。


 その意味合いにおいて、初期の頃、試験場や研鑽学校を実顕地とは別の独立した機関としたのは卓見だと思う。

 試験場で試験研究されたその時々の最先端をたえず実施する機関とされた実顕地も、当初は各地に顔の見える範囲のこじんまりしたで集団で、その構成員の「けんさん」というか「話し合い」によって運営されていた。実質どこまでやれていたのは分からないが。

 次のことを思う。
 実際に活動している人たちと距離を置いた別の人、グループがあり、そこで「果たしてそれでいいのか、方向性はどうなのか」との検証機構がいるのではないか。

 実顕地本庁のもとに一本化してから、実際に中心になって実顕地を推進している一部の人たちが、その必要性を考えたとしても、限界があるのは当然である。

 ここでは一例として「ヤマギシ」にとって基幹となる養鶏に関して、養鶏にも携わったこともある吉田光男さんの記録があり、それを紹介する。


〈実顕地急成長時代の経営重視の中で、試験場は無くなり、研鑽学校も実顕地に吸収され、ヤマギシズム社会構成の3機関が、実顕地一つに統合されてしまった。
 このように、試験場が無くなり本庁養鶏部に一本化されることによって、経営だけが重要視され、飼育に関する技術的な検討、研究、試験が行われなくなり、飼育者は日常作業を通じて感じた疑問や感想を深める機会が無くなってしまった。

 ただ、技術的な疑問や考えを個人レベルで解決しようと思っても、それは思い付きの範囲を越えるものではないし、かえって混乱を招くだけだと思う。今それだけの人材がそろうかどうかは別として、試験研究に関心のある人が3人以上寄って、実顕地から一切の制約を受けない飼育試験に取り掛かれるとしたら、試験場再興への足掛かりが得られるのではないかと思ったりする。〉(連載『わくらばの記』(13)より)


 しかも、実顕地本庁のもとに一本化した上に、それを担う人が特定の人たちに固定化された。
 その頃、海外の実顕地に行った人が、どこの実顕地に行っても、特定の人が推進している豊里実顕地がモデルになり、肝心のところが金太郎飴のような一律さを覚えると言っていた。

 実顕地を本庁のもとに強力に一本化するというのは、「管理、効率、合理化」などには、一見都合のいいもののようだが、「親亀こけたら、みなこけた」になりかねないもので、危ういものでもある。

「けんさん」を、運営の生命線とする実顕地生活において、「果たしてそれでいいのか、方向性はどうなのか」などの検証機構や試験・研究機能が、実顕地から制約を受けない機能として働いていなかったのは、当時の実顕地がおかしくなっていった一つの大きな要因と思う。

 
「付記」
 1998年11月、大きな影響力を持っていたS氏が亡くなり、同時期に定期的に開催されていた研鑽会で、現実顕地のしていることはおかしいのではないかと、今の実顕地を根底からつくりかえねばならないという強い要望がある一方、今の実顕地のよさを守りながら、徐々に変えていこうというような人たちも出てくる。

 1999年3月、実顕地から試験場、研鑽学校を切り離しそこ独自の活動をするための数名の新配置がある。わたしは研鑽学校配置となる。

 その後、研鑽会で今の実顕地を否定するような動きが活性化し、そこに「村から街へ」行った人も参加し、その動きに共鳴する人も増えていった。そして、現実顕地を否定する研鑽会はよそでやってくれとなり、多くの人が実顕地を離脱し、鈴鹿市などへ行った。

 ※その経緯は当ブログ「◎2000年の実顕地からの大量離脱について①②」に記録した。

◎〈だれのものでもない〉(「金の要らない楽しい村」考⑤)

〇山岸巳代蔵の思想の根を簡潔に表現すれば次の数語になると私は考えている。
〝共存共生の世界〟
〝だれのものでもない〟
〝だれが用いてもよい〟
〝最も相合うお互いを生かし合う世界〟

 これは1960・1・30の日付となっている『正解ヤマギシズム全輯』草稿の「正解ヤマギシズム刊行に当たりて」にある言葉である。山岸が1959年7月の山岸会事件以後、警察に出頭する1960年4月までの間に書き綴ったもので、すべてが草稿段階のものであり、生前には発表されなかった。

 初期の頃のヤマギシの生活体、「村」づくりに、「特講」を経て思えた〈われ、ひとと共に繁栄せん〉や〈だれのものでもない〉が息づいていたと思っている。

〈だれのものでもない〉の意味するものは誰でもわかる平易な表現で、ことさら取り上げることでもないと思うが、特講の所有など研鑽して、ものの本来のあり方を観ていくと、どのようなものでも、自分の思いがどうあろうとも、この世界のすべて「だれのものともいえない」となっていき、特に印象に残る言葉となる。

〈だれのものでもない〉を突き詰めて考えていくと無所有、無我執につながっていく。
〈共存共生の世界、だれのものでもない、だれが用いてもよい、最も相合うお互いを生かし合う世界〉から、これまで触れてきた現ヤマギシズム実顕地の財布一つの「無所有共用共活」の仕組み及びそれに付随する「終生生活保障」のシステムが生み出されていったと私は思っている。

 それと、無所有、無我執などの理念を、論理的に突き詰めていくよりも、参画するに際しての特講、その後の「村」の実状に触れて、身体的な実感を得ることの体験が大きい。そのときに、〈だれのものでもない〉が参画者の意識下に「言霊」のような働きをしていたのではないだろうか。

 村人一人ひとりをみたら、どの理念も曖昧な人が多いかと思うが、これは弱みでもあるし、強みでもある。知ることと骨身に沁みることには大きな溝がある。

 日常的に体験する、基本的な食べることをはじめ、共用共活の生活形態の中で、《村では、衣食住すべてはタダである。無代償である。------誰のものでもない、誰が使ってもよいのである。みなタダで自由に使うことが出来る。〉など無所有の考え方が、理念の積み重ねではなく、生活実感から覚えた人も多いかと思う。


 1961に始まった実顕地とは、中央試験場などで試験研究されたヤマギシズムの考え方・具現方式を実際に顕す地ということである。つまり実顕地は完成されたものでも独立したものでもなく、試験研究されたその時々の最先端をたえず実施することによって、ヤマギシズム社会へ進む前進無固定の社会構成の一機関と構想されている。

 それは、いくら理念を説き、研鑽を重ねても、どうも分からない、通じないという人にも、目に見える形で本物を示して、「ああ、これだったのか」と誰もがじかに触れて分かる、生き方の提案であった。

 ところが1976年になって、中央試験場は春日山実顕地、北海道試験場は別海実顕地の名称になり、実顕地本庁のもとに一本化されるようになり、試験場機能は衰えていく。

 これはヤマギシ会の歴史における、大きな転換点の一つで、これ以後、研究機能や組織の在り方を考える検証機能は急激に衰えていく。

「だれのものでもない」については問題ないが、「だれが用いてもよい」については、さまざま工夫がいり、「私意尊重公意行」「自動解任」や「提案と調正」など機構と運営の柱とされてきたが、徐々に「研鑽運営方式」とともに形骸化してきた。
(※この辺は大事なことなので稿を改めて触れていく)

 それでもいろいろ課題はあるが、「無所有共用共活」の仕組み及びそれに付随する「終生生活保障」のシステムは今でも続いているのではないだろうか。
          ☆

参照:二つの資料から
▼鶴見俊輔は「ヤマギシカイ」の中心には、山岸巳代蔵の「ダレノモノデモナイ」という理念が生きている。として全集二巻に「ヤマギシズムの可能性」という文章を寄稿している。

ヤマギシズムの可能性 
《ダレノモノデモナイ」
 人間というのは、〝私〟そのものが一個の箱の中の自我というものではないわけで、自分の中に社会があって複合なんです。〝私〟なんてよく考えてみれば分からないでしょ。つまり、自分の顔を自分のものだと思っているけど、実は自分の顔は自分のものじゃないんですよ。自分の顔は自分が見たことないんですから。鏡に映るのは左右逆なんですよ。ちがうんですよ。だから自分の顔を知っているのは他人なんです。だから自分そのものは誰のものでもないんですよ。
 だけどね、いろんな約束がありまして、自分ということが〝ある〟としておいて、法律なんかをつくるのはとても便利で、それはそれでなかなかいいところがあるんですよ。それを完全に否定してルールをつくれるとは思えないんです。〝ある〟というのは一種の虚構なんですよ。〝ある〟として、いろんなものが作られていく。だけど〝ある〟っていうのが究極かというとそうでもないんだ。
 それに、誰のものでもないという領域は常に人間の中に昔からあって、農業になるといくらか所有が出てくるけれども、山から枯木でも採ってこなければ煮炊きなんかできないんだから、誰のものでもないという共有地というものはあったでしょう。これは入会権の問題なんだけれど、中世にも近代にもあったということから逆に掘り起していって、今も、誰のものでもない領域を大切にしようという動きがある。これは日本史でいえばまったく新しい領域なんですよ。あらゆるものを誰かのものとしてきちんと区画していくという考え方から離れていく。
 ヤマギシ会が中心の観念として「ダレノモノデモナイ」という考えを置いたってことは、なるほどと思いましたね。いま新しく開拓されている日本史の道と響き合うものがある。まったく前衛的な道なんですよ。》


▼作家・小沢信男は朝日夕刊の文化欄に、「一語一会 だれのものでもない」というタイトルで、特講に参加したときの様子と自分の特講に対する印象を次のように書いている。

《「たしか東京オリンピックのあった年だから、三十七年も昔のこと、山岸会の特別講習会に私は参加した。農業を基盤とする山間の共同体に、一週間泊り込んだのだった。洗面所の歯磨きチューブを置いた棚に、こんな小さな張り紙があった。『だれのものでもない』。なんだいこれは。いかに無所有社会とはいえ朝からお説教かい、反発をおぼえたが、そのうちこれが可笑しみになった。だれのものでもない歯磨きチューブから、朝ごとに必要量を消費して、口のまわりを白くしながらニヤニヤ笑えた。現にいまでもこうして思い出せば、愉快をおぼえる。あの小さな張り紙だけでも私はなつかしい里だ。一週間のうち、初めの三日は腹を立てていた。徹夜で討議したはてに、最初の答えと同じ結論になったりする。あいにく私は町場育ちで気が短い。が、根は愚鈍につき、ようやく気づいた。目から鼻へ抜けるのが理解ではないのだな。だれのものでもないとは、私有の否定だけではなくて、共有でもないのだな。たとえばの話、地球の皮、太初このかたこの地べたが、ほんらいだれかのものであるはずがない。と思えば胸がせいせいしませんか。その私有を忽ち正当化する理論があるならば、眉に唾をつけておこう。私有を廃して国有にしてみても、しょせん五十歩百歩だったという実験にも八十年はかかるのだものね。人間の命もまた、国家や組織や会社なんかに所有されるものではない。とは、こんにちだいぶ自明の理になってきた」
(朝日新聞夕刊2001年8月1日付)》

◎資料『金の要らない楽しい村』「総論」から(「金の要らない楽しい村」考④)

〇「金の要らない楽しい村」考②で紹介した「研究家・実行家に贈る言葉」に続いて「総論」がある。これは(未完)になっている。

▼《「総論」
 人間は考え過ぎる。
 複雑に考え過ぎる。
 二つの課題を同時に考える時に複雑になり、考えることはよいのであるが、考えられない頭で、二つ以上を複合して考えようとするところが、過ぎた考えに陥る原因をなす。
 何かを考える時、単純に分離・分析して、考える焦点を一つに簡素化して考えていくことである。
 自分の観念や、他の観念等を混線しないよう。特に新しいことを考える時に、自分の古い考え方や学説などを混入しないことである。
 今まで食べたことのない新しい物を味わう時に、過去の何かから類推したり、想像・予測したり等、先に味わった味を舌に残して、或いは辛い、甘い、スッパイなどの想像したりしないことである。
 全く新しいものは、味わってみなければ解らないものであり、素直に味わってみることである。
 味を混入しないで、単純に個性の味を味わうこと。

 金が要らない楽しい世の中に世界中がなると聞いた時、複雑に考えれば、到底不可能だと頭ごなしに否定する人もあるかも知れない。これは何かの考え方を入れて、複雑に考え過ぎているのではなかろうか。
 軒端のスズメや、菜の花に舞う胡蝶でさえも、金を持たないで、何らの境界も設けないで、自由に楽しく舞い、かつ囀っている。権利も主張しないし、義務も感じていないようだ。
 能力の秀れた知能を持っている人間が、なぜ囲いを厳重にし、権利・義務に縛られねばならないだろうか。

 金の要らない楽しい村では、衣食住すべてはタダである。無代償である。
 この村にある米も衣服も、必要に応じて、必要なものが、欲しいだけ、タダで使える。魚も果物も自由に店先から取って、欲しいだけ食べられる。テキでもフライでも鰻丼もむろんのこと、酒は飲み放題、高級茶菓子も意のまま。住むのに都合の良い家、住みたい家へ、どの家ででも起居できる。
 元来誰のものでもない、誰が使ってもよいのである。みなタダで自由に使うことが出来る。
 当り前のことである。
 誰一人として、権利・義務を言って眉をしかめたり、目に角立てる人はいない。泥棒扱い、呼ばわりする人もない。
 労働を強制し、時間で束縛する法規もなく、監視する人もない。
 寝たい時に眠り、起きたい時に起きる。
 したい時に出来ることを、楽しく遊んで明け暮らす、本当の人生にふさわしい村であり、やがて世界中がそうなる。

 私達はその方が良いと思うが、そして本当だと思うが、どうだろうか。これを嫌う人があるだろうか。一人一人に聞いてみたい。静かに考えてみたいことである。それを嫌う人があるなれば、その理由を聞いてみたいものである。
 もしこういう暮しがしたい人があるなれば、真面目にやってみられることだと思う。
 恋愛・結婚も相合う人と結ばれ、自由で無理のないもの、またそれを助勢する完全に近い施設・機関が活動する。  (未完)》
          ☆

 山岸は所有欲を、権利・義務という近代の人間社会を構成する一つの大きな概念にまで
及んで、それが人と社会に、ほんとうの自由をもたらすものではないとした。

 現在の私たちは、所有権をもっとも基本的な権利の一つとしてとらえている。
西欧近代になって焦点をあてられてきた「所有」の考え方は、自由処分権や可処分権という法律の概念として考えられてきた。したがって、自分だけではなく他者の承認も必要とするようになる。一方でこの考え方が、個人の自由や独立の基本にもなった。

「自分のことは自分で決める」権利があると確認することが、個人的自由の出発点にある。そこから、何かに対して所有権をもっていることが、「これは自分のものだ、だから自分の意のままにできる」となり、「自分の了解を得ずには、勝手に他者には使わせない」と考えるようになった。所有権というのは利己的、排他的になるのである。

「だれのものともいえない」ものが自然界・地球上にはいつもあって、人間の叡智を結集し、どういうふうにそれを使うかを考えていくことが、いつの時代にも問われている。

 自己決定論など個人的自由の問題と絡んでくるので複雑化しているが、「自分のことは自分で決める」権利を殊更振りかざすことで、結局、個人としても社会にとっても行き詰っていくものとなる。所有権が現代社会の基底にあるので、機構・制度云々には様々な課題があるとしても、「自己決定権」とともに根本的に考えていく必要があると思う。
          ☆

 1961年1月に、実顕地第一号として、兵庫県加西市にヤマギシズム生活北条実顕地が誕生。その後、各地に実顕地が次々と誕生した。

 規模はさまざまであるが、初期の頃から「金の要らない楽しい村では、衣食住すべてはタダである。無代償である。」という各「村」の実態があった。

 ほとんどの村人は「特別講習研鑽会」(特講)を経て参画している。
 その中で「所有」の研鑽がある。

 私の体験によると、各自の貴重品やお金を目の前に置いてもらい、「それは誰のものですか」と問いかけ続ける。物それ自体と各自の思いとの分離から、ものの本来のあり方を観ていくと、自分の思いがどうあろうとも、「だれのものともいえない」となっていく。

 また、「自他一体」の研鑽で「自分とは何か」、「私の成り立ち」などのテーマで考える。みんなと共に自分の成り立ちを考えることを通して、自分と他者、社会との絡み合いを考えるようになる。

 そして一週間を通して、人と人とはその立場や経歴、年齢を超えてどこかで解け合えるものだという実感を得て、山岸会会旨の “われ、ひとと共に繁栄せん” を、そうだよなと思う人も多いかと思う。私の場合はそうだった。

 むろん、特講のテーマや進め方に疑問を覚える人も少なからずいる。そして、その趣旨に共鳴した人が会員となり、その中の一部のひとが、やがて参画し村人になる。

 その後、実際の「村」づくりに際して、〈誰のものでもない、誰が使ってもよいのである。みなタダで自由に使うことが出来る。当り前のことである。誰一人として、権利・義務を言って眉をしかめたり、目に角立てる人はいない。〉などの「総論」や、この頃発表された山岸巳代蔵の著述などを参考にして「村」づくりを展開して来た。

 ただ、ヤマギシズムの入口である「特講」で理解したといっても、各自が無所有の理念を体得したわけではないが、「金の要らない楽しい村では、衣食住すべてはタダである。無代償である。」との「財布一つ」の社会機構は、村の屋台骨として形成された。

 また、農業など第一次産業を基盤とした自給自足的な生活と、各構成員の働きはその「村」成果であり、個人宛に報酬として戻されるということは起こらない形態であることも大きい。

 初期の頃、生活水準は一般社会に比べると低かったかもしれないが、生き生きと暮らしていた人が多いと思う。徐々に、構成員の働きと生産物の拡大などにより、かなり水準が高くなったあとも「財布一つ」の「無所有共用共活」の形態は揺るぎのないものになっていった。

 実顕地の方向性に疑問をいだいても、「村」でとれた農産物の豊かさを味わい、お金の介在しない村の暮らしに、ある種の限界はあったにしても、基本的な衣食住などにおいて、各自が考えることもなく、気楽に過ごしていた人が多いのではないだろうか。

 その意味で、ヤマギシズム実顕地の前提に無所有を置いたことは、きわめて重要なことである。しかし、仕組みとしての無所有と、各人の心の内における無所有とは必ずしも一致しない。仕組みの面からのみ無所有を強要しては窮屈でやりきれないが、といって欲望のままに所有を放置すれば、共同性は崩れてしまう。

 ここ辺りが仕組みの上で大きな課題となり、さまざま工夫をしていたが、構成員の総意というよりも、任された特定の人たちにより決められていき、しかも固定化していった。

 そのような問題もありながら、規模が大きくなり産業形態も多岐にわたっていき参画者も増え、その働きにより「総論」にあるようなイメージとは随分違ってはいるが、現ヤマギシズム実顕地の運営形態に「財布一つ」の「無所有共用共活」の仕組み及びそれに付随する「終生生活保障」のシステムを見ることができる。

 ただ基本的な衣食住などがある程度整っていても、何のために生きて、働いているのか、そこに生き甲斐を感じなければ、ただの味気ない人生になる。

 現に、実顕地に共鳴し参画した数多の人が、さまざまな疑問を感じ離脱している。


 亡くなられた吉田光男さんは、山岸巳代蔵の描いた理想とは甚だ異なったものになった現実顕地にいながら、そこを問い続けていた。そして、次のことを述べる。

《〈2017年2月×日〉:実顕地に参画して一番感じたことは、これまでのサラリーマン生活と違って、ここではお金のために働くことがない、他と競争して地位・名誉を競うことがない、何時から何時までという時間に縛られることがない、ということであった。

〈無所有〉〈無中心〉〈無重力〉〈無時間〉〈権利なし〉〈義務なし〉〈賞罰なし〉……こういう言葉を聴くとその奥深さに心うたれる感じがした。だが、実際の生活の中で、これらの意味するものを探り深めることはなく、日常に流されていった。

 今これらの言葉の意味するものを、もう一度問い返してみると、ここには資本制社会での労働を乗り越える大きな可能性があるように思う。例えば、自分にこのように問うてみたらどうだろう。

「自分は何のために働いているのか」――
「何を目指し、何を目的に働くのか」――
「働くことを通してどんな人間関係・社会関係を築こうとしているのか」――

 この問いに“正しい”答えがあるわけではなく、自分の中でこの問いを問い続けることが大事なのだと思う。それをなくすと、ただ何となく惰性で働くことになって、集卵や餌やりの単なるロボット的作業者になってしまうか、売り上げの多寡を競う商人になってしまう。もうここには働く喜びはなく、労働という外化を通じて内化するものもない。

 私たちは、ヤマギシズム実顕地という山岸さんが残した恵まれた環境の中にいる。これを生かし切ることができるかどうか、あるいは資本主義体制の一般社会の中に拡散させてしまうかどうか、今その岐路に立っているように思われる。よく「拡大」がテーマになるが、何を、どこを、拡大しようとしているのかわからないことが多い。しかし、もしこの働くということの意味を実顕地が問い続けることができるとすれば、世の多くのサラリーマンや労働者に、「一緒に考えてみませんか」と呼びかけることができる。拡大というのは、単に特講に来ませんかというのではなく、今一般社会で人々が何に当面して苦しんでいるのかを探り、それを共に考える姿勢をまず村人自身がつくることから始まるのではないだろうか。》(吉田光男『わくらばの記』(18)(2019-03-05)より)

 病状の悪化がすすむなか、吉田さんはこの2月に、いろいろな角度から働くとは、労働とはどういうことかと考えている。

 わたしは、働くとは生きることと重なると考えていて、狭い意味の対価労働と一線を画するものと思っている。
 稿を改めて考えていくつもりである。
          ☆

 参照:ブログ・日々彦「ひこばえの記」に、【「働く」ことの本質は「贈与すること」(内田樹の「働くとはどういうことか」から)】を掲載した。面白い見方で一部抜粋する。
 https://masahiko.hatenablog.com/entry/2020/08/20/000000

《「働く」ことの本質は「贈与すること」それは人間の人間性をかたちづくっている原基的ないとなみである。》
(中略)
《労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。
 報酬はつねに集団によって共有される。
 個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。
 個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。
 だから、労働集団をともにするひとの笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない。
 これは子どものころから家庭内で労働することになじんできている人には別にむずかしいことではない。
 みんなで働き、その成果はみんなでシェアする。働きのないメンバーでも、集団に属している限りはきちんとケアしてもらえる。
 働くというのは「そういうこと」である。》
 (内田樹の研究室「若者はなぜうまく働けないのか?」2007-06-30より)

            •  

◎「ヤマギシズム生活実顕地」構想(「金の要らない楽しい村」考➂)

〇この論考は山岸巳代蔵の構想「金の要らない楽しい村」について様々な角度から見ていこうと思う。

 各種の問題はあるが、一つの社会実験として見た場合、現ヤマギシズム実顕地の「無所有共用共活」の仕組み及びそれに付随する「終生生活保障」のシステムが、会発足から60年以上たった今でも続いている実態は、現社会において、あるいは共同体の在り方を考える時に、貴重なヒントがあるのではと思っている。

 そこで25年余くらし、ある時期中心になって活動していた私の課題として、ささやかながら、その一端を提示できたらと考えている。


 山岸巳代蔵の養鶏法や稲作が注目され、1953年山岸会が発足し、1956年には特別講習研鑚会が始まり、初期はほとんど農民だったが、その他の支持者も増えていった。
 1958年に、『百万羽(科学工業養鶏)』及び「ヤマギシズム生活実践場・春日実験地」を設立し、「無所有・共活」の一体生活を開始した(後のヤマギシズム実顕地の萌芽となる)。
 1959年に、死者を出すことになった山岸会事件がマスコミを賑わせることになる。
 1960年4月、山岸巳代蔵は、『声明書』を発表して自ら警察に出頭する。
 そして、山岸巳代蔵は運動の渦中から一時的に離れることになり、結果として、著作に専念できる時間が持てるようになる。この時期の著作は、未発表のものや草稿段階のものを含めて、かなりの量に及んでいる。

 そして、1960年0年5月に、「ヤマギシズム生活実顕地」構想の第一弾と言うべき、『金の要らない楽しい村』、『ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況』の二編を書き上げる。

「ヤマギシズム生活実顕地」は、春日実験地のように家屋敷を売り払って一ヶ所に集合する形態でなく、現状そのままで生活そのものを一つにしていく、財布一つの金の要らない楽しい村の試みであり、この頃から「ヤマギシズム生活実顕地」への動きが各支部間に広まり、1961年1月末に、実顕地第一号として、兵庫県加西市にヤマギシズム生活北条実顕地が誕生。その後、各地に実顕地が次々と誕生することとなる。

「金の要らない楽しい村」執筆の一年後、山岸巳代蔵は5月10日に死去するが、後の実顕地の屋台骨としての「無所有共用共活」の仕組みは、この著を端緒に、いくつかの論考がもとになると思っていて、それを見ていく。

 それに伴って山岸(本会のことはヤマギシと表記する)の人となり、思想にも触れていく。また、山岸について今まで述べたことを見直しして改訂していく。
           
            ☆
〇このブログは様々な角度からヤマギシズム実顕地、学園や山岸巳代蔵などに焦点を当てながら記録している。また、ヤマギシの変遷を語るいくつかの論考も度々触れてきた。
 改めて、この論考を書くに際して、いくつか挙げる。

▼吉田光男『わくらばの記』
 2016年、食道癌で入院することを機会に、自分が向き合いたいテーマを『わくらばの記』に書きはじめた。84歳になっていた。それは次の記録から始まる。

《『1★9★3★7』はずしりと重い。しかし、逃げるわけにはいかない。これを読むと、自分が書いている「学園問題」についての手記は、チンケで底が浅く、とうてい書き続けることができなくなった。もっと自分に向き合わなければ、書く資格も意味もない。
 辺見庸は、「なぜ」と問うことを続けている。物事の重要性は、説明や解明にあるのではなく、問うことであり、問いつづけることの中にこそ存在する。説明、解明、解釈、理論づけ、……それらはそれ以上の究明を放棄するときの弁明にすぎない。終わりのない過去を、つまり現在に続く過去に区切りをつけ、ごみ袋に詰めて捨て去るときに用いるのが、説明であり解釈である。説明の上手下手は、ごみ袋が上物か屑物かの違いにすぎない。》

 本書は「問い続ける」ことが基底音になって、ヤマギシのことなどに触れていく。ヤマギシ内部にあった人の心の記録として、とても優れたものである。
 私が編集して自家版をつくり、当ブログに〈連載『わくらばの記』〉として記載した。


▼村岡到『ユートピアの模索―ヤマギシ会の到達点』(ロゴス、2013)
 著者は2012年、ほとんど知らなかったヤマギシ会と初めて接点を持つ。実際に実顕地を何度も訪ね、そこでは、現在の資本主義日本では考えられない生活を実現していることを知ったことが本書を書く契機となる。その特徴を五つにまとめている。
・お金のためではない働き方を実現
・お金を使わない〈無所有〉の生活
・農業を土台とした共同生活を実現
・子どもの創造性を生む〈学育〉
・高齢者の生活・医療を完全に保障
 著者が、五〇年に及ぶ社会主義をめざす実践を支えた思想に立って、本書を書き綴ったことが特徴である。
 しかし、触れた時間の短さのこともあるのか、多くのことを現実顕地で活躍している人への聞き書きによるものであり、当時の実顕地の長所が前面にでていて、その陰の問題点がよく考察されていない印象がある。
 さらに、山岸巳代蔵およびそこから生まれたヤマギシ会は独特のものであり、それまでの社会主義思想などだけではよくつかめないと私は思っている。
 その頃の実顕地をよく捉えていると思う反面、そうだろうか? と思うことの多い一書である。


※ 黒田宣代『「ヤマギシ会」と家族 近代化・共同体・現代日本文化』(慧文社、2006)
 本書は1994年から約10年間にわたる黒田氏の研究成果をまとめたものである。「共同体」と「文化」という広範で曖味な言葉の概念・定義を整理し、諸外国ならびに日本における主な共同体の歴史と生活を文献より得られた情報により述べ、共同体の具体例として、ヤマギシ会の実態調査(特別講習研鑽会や各実顕地への参与観察、脱会者対象の調査票調査)を通して、ヤマギシ会が1980年代に急速に成長を遂げた背景を探り、ヤマギシ会が実現しようとした現代型の共同体の達成と限界について述べたもの。
 どうかなと思う見解も多々あるし、明らかな見当違いも見受けられるが、このような研究書があるのは面白い。


▼鶴見俊輔の論考
 このブログでは、山岸巳代蔵の思想に注目し、終始その運動に関心を寄せてきた鶴見俊輔のヤマギシズム関連の論考を度々取り上げている。
 特に印象に残るのは全集二巻の「ダレノモノデモナイ」について述べたもの。

《【ヤマギシズムの可能性(1996・11『けんさん』インタビューより)】
「ダレノモノデモナイ」
 ------ヤマギシ会が中心の観念として「ダレノモノデモナイ」という考えを置いたってことはなるほど思いましたね。いま新しく開拓されている日本史の道と響き合うものがある。まったく前衛的な道なんですよ。〉

〈今、ヤマギシ会は着実にいくつか成功を収めている。だけどね、成功は失敗の母、逆手をとられないように注意しなくては。ヤマギシ会がここまで来たのは、最初に頓挫してほとんど潰れかけたからでしょう。それを噛みしめることが重大なことで、あの大失敗が私をヤマギシ会へ引き寄せたのであって、成功が私を引き寄せたわけではない。それぞれの失敗は必ずきっかけになる。全体の成功したものの上にのっかってやったとしたら、これはまずいんじゃない?
 これは二一世紀に大きな影響を与えるんじゃなくって、人類絶滅までには相当影響があるでしょう、重さを増していくでしょう。そういう考え方に立ってやっていくのはいいと思うね。〉

 山岸巳代蔵が独自で覚えた直感と飛躍に、呼応するかのように鶴見氏の論考も魅力ある。
「ダレノモノデモナイ」が山岸巳代蔵の根っこにあり、そこからさまざまな村の機構が産みだされていったのではないかと推測している。
 まだまだ紹介したいものも多々あり、順次取り上げていこうと考えている。


▼最近ある友人から次の便りがある。実顕地の行く末のことを真面目に考えていて、親しく交流している。

《生活の元となる産業は徐々に縮小していますので経済的基盤は当然のこととして弱体化しこれから成長していく話はどこからも入っては来ません。参画者は殆ど無いに等しいですから実顕地の人材は高齢化し全平均は70を超えたと聞いています。人々はそれぞれの私意が第一に尊重されるので大変ご気軽に暮らしています。私も大変気楽です。2000年前と大きく変化した点です。
 しかしながら他に何が変わって実顕地でのやりがいや考え方の進歩といえるものがあるかと問われたらば、多分無いと言うよりも退歩していると言いたくなります。その理由としては第一には2000年以前のことについての反省が村人間でなされなかったことがあり、第二に村人の研鑽嫌い(研鑽できない)が大きいです。・・研という名の研鑽会の名称のものは多いですが、ほとんど放談会であると言いたいです。仲良しとは言いますがそれも自分たち実顕地メンバ-だけのことであり、近隣の人や事についてすら義務的には感じても関心を持つ事はないです。仲良しについても研鑽を積まねば世界には通用はしないでしょう。》

 むろん人によって、いろいろな見解はあるだろうが、実顕地在住の友人から同じようなことを聞くこともある。

 また、「私も大変気楽です」とあり、吉田光男さんも食道がんを抱えながら、自由に読んだり書いたりすることに専念できる実顕地の環境に感謝していたが、「終生生活保障」のシステムが整っているからだと思う。


 しかし、このシステムはこれまで参画した人の働きによって蓄えた財産によることが大いにあり、次の世代への適切な引継ぎがないと、先細りになるおそれがある。

 いずれにしても、知り合いの方も多い高齢者たちが、気楽に過ごしているのを聞くのはうれしい。


 村岡氏は『ユートピアの模索』でこの辺りのことについて氏なりの問題提起をしている。
『今日の時点で、ヤマギシ会として独自に活動する意味・目標・理念を鮮明にするためには、巳代蔵いらいの歴史と伝統のなかで、何が一貫して貫かれていて、また今後も堅持すべき理念・目標なのか、逆にどこを変化・改変してきたのか、すべきなのかを篩にかけて検討・研鑽する必要があるのではないか。部外者の私が立ち入るべきではないが、私にはそう思えるのである』(p176)

 相互扶助と相互規制の拡がりをもたないそこだけで成り立っているような共同体でいくのか、独自のルールに基づく「金の要らない楽しい村」を目指し、それに付随して、「親愛の情に充つる安定した快適な社会を人類に齎す」というヤマギシズム運動をしていくのかに道は分かれていると思う。
 いずれにしても、そこで暮らす構成員によって選択していくことだが。
           ☆
 
 参照:〇『山岸巳代蔵全集』「第三巻について」抜粋
 一九五六年一月に「山岸会特別講習研鑽会(特講)」が始まり、それを受講した会員が増えるにしたがって、山岸会の支部は全国に広がっていった。特講は、関西地方では連続して開かれ、関東地方でも開催されるなどの活況を呈し、受講者は一九五七年だけで二千五百人を数えるまでになる。
 特講の拡大に伴い、運動の方向も様々な広がりを見せ、現状そのままでの理想社会実現を目指す一体経営的な試みも、和歌山県有田郡下六川や山口県大島郡など各所で起ってきた。

 そうした中、一九五八年三月に「山岸会式百万羽科学工業養鶏(百万羽)」構想が発表されると、各地で中心的に活動を行っていた会員たちが続々とそれに参画、七月には三重県四日市市赤堀で創立総会が開かれ、八月から三重県阿山郡春日村(現伊賀市)に「ヤマギシズム生活実践場・春日実験地」が造られ、参画した有志会員による「一体生活」が始まった。 
 山岸巳代蔵自身も、特講の連続開催や、「百万羽」の建設活動に深く関わっていた。同時並行で、愛情問題の探究にも携わっており、そういった多忙の中にあったためか、この時期の山岸の著述は非常に少ない。「百万羽」構想に関するものも、講演記録や座談会記録があるのみで、まとまった著述はない。したがって、「百万羽」関係で本巻に収録したものは、主に『快適新聞』に発表された記録類である。
「百万羽」建設の最中、一九五九年四月一五日、山岸は『真目的達成の近道』を発表し、「急進拡大運動」を会に向けて提案した。そして、一九五九年七月に「山岸会事件」が起る。

 これらの運動や事件の事実経緯や、その意味については、本巻に収録した山岸の著作や、巻末に収録した試論を参照していただきたいのだが、結果として、山岸巳代蔵は運動の渦中から一時的に離れることになった。
 そのことで、山岸は著作に専念できる時間が持てるようになり、この時期の著作は、未発表のものや草稿段階のものを含めて、かなりの量に及んでいる。本巻では、それらのうちから、当時発表された『愛和―山岸巳氏からの第一信』、『山岸会事件雑観』の他、生前には発表されなかった『第二信』や『正解ヤマギシズム全輯』草稿の一部(没後に「ボロと水」に掲載されたもの)、『盲信について』を収録した。
 一九六〇年四月、山岸巳代蔵は、『声明書』を発表して自ら警察に出頭し、その後三重県津市に移った。そして、この頃に、「ヤマギシズム生活実顕地」構想の第一弾と言うべき、『金の要らない楽しい村』、『ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況』の二編を書き上げることになる。
(以下略)
 二〇〇五年三月 山岸巳代蔵全集 刊行委員会

◎資料『金の要らない楽しい村』「研究家・実行家に贈る言葉」(「金の要らない楽しい村」考②)

〇金の要らない楽しい村

《金の要らない楽しい村》は、一九六〇年五月に三重県津市において山岸巳代蔵によって口述され、中村美須枝と大江博が筆記したと伝えられている。
 この資料は、〈山田村の実況〉と共に、ヤマギシズム生活実顕地をつくろうとする人達の研鑽資料として使用された。一般に公開されたのは山岸没後で、『ヤマギシズム第九九号』(一九六一・一二・五)と『ヤマギシズム第一〇二号』(一九六二・一・五)に、
〝ヤマギシズム生活の具現方式 金の要らない楽しい村 月界への通路の一コマ(山岸巳代蔵著・未発行)より〟として、二回にわたって掲載されており、『山岸巳代蔵全集(㈢」への所収は、それを底本にした。
 ここでは、その中の「研究家・実行家に贈る言葉」を掲載する。
         ☆

研究家・実行家に贈る言葉
 この著書は教書ではない。否、この著書に限らず、私の過去、言ってきたこと、書いてきたこと、行ってきたことすべて、及び今後のすべての言行のいずれも、みな教えるものではない。全部研究家の参考資料として提供し、それの取捨選択・実行に至っては、各々の自由意志に俟つものである。
 その時その場に於ける私の思ったまま、或いは自分で気づかないままに表現されつつある、一応の部分的現象にすぎないものである。やがて私の思う記録、〝月界への通路〟の一端として『正解ヤマギシズム全輯』の草案を取りまとめ、各輯ごとに分類し、人間生活はもとより、宇宙万般の現象界・無現象について、私の感ずるままに縦横に書き綴り、大衆の前に贈りたいと思って、今それにすべてを賭けている。

 しかし思うに任せないことは、今の環境条件下、心身の不自由さから、それの中断状態のやむない事情にあり、私が今日まで受けた過去、現在の人達、及び大自然に応える日の遅れることに重荷を感じ、無為に生命の燃焼し終る時に近づきつつあることを惜しむ。
 この著書は目下の世界情勢を考慮し、明日を待てない緊迫さを感じ、身心憔悴の中で心せくままに、全輯の中の一節を抜粋・省略して記述したもので、粗雑なことおびただしいものがある。
 私を生み、育み、注ぎ込まれたものが活かされるのは、これからだと思う。
 もし世に何ほどか役立つなれば、私を活かし、使われた方がいいと思う。
 真正、最良を目指し、それを検べ、探究し、一刻の停頓なく、希望に満ちた前進一路、過去・現在を知り、将来を創造する歓びに生活する今日只今、即ちみな仲良く、楽しく、豊かに、今日より明日、明後日と、展けゆく将来を創設する今日の歓びの中に、現在只今も、正常・健康の中に浸って生活する一コマ一コマの連続であろうとするもの。
 明日の幸福は、今日の歓びの中から生まれ出るもの。
 もし、今日只今が正常・健康でないなれば、速やかにそれの原因を検究して、その間違いの部分を発見し、即刻それの解消を図ることである。
 悲しい今日の中から楽しい明日は生まれない。今日は物が足りなくて、身体に汗しても、やがての物心の豊満、健康・正常のための、今日只今の心の世界は、歓びであり、生き甲斐に生きるものである。
 ヤマギシズム生活は、本当を目指して、只今も本当であろうとし、歓びの中に、理論研鑽・方法研鑽・実行研鑽の、正常・健康の連続生活を謂う。

 本著『金の要らない楽しい村』の著述にあたって、本当は理論、理念から説きおこし、現象面について書くのが順序であるが、今の著者の体力的・時間的事情もあり、それは『正解ヤマギシズム全輯』によるとして、ここでは読まれる人達にまわりくどさを感じささないために、形態面について、大衆向きに著すことにした。
 だがこれは最終段階の出来上がったモデルではなく、真理、真実、最良を目指しての、まだまだこれからの段階にあり、未熟・不完全な前進段階の一コマであることもちろんである。
 来る日も来る日も研鑽を続けて、改良に改良を加え、幼稚なものを完全へ育て上げていこうとする生長期のものである。
 その研鑽改良も著者一人よくするところでなく、各々が、世界の全智、全能、実蹟を取捨選択し、みんなで育て上げていくもので、明日も、今日この著書に盛られた型を踏襲するような、進歩性のないものではない。
 みんなで創案して、よりよく、より本当へ、みんなで改良していくものである。
 これは繰り返して言っておきたいことで、著者自らも、なお改良を続けていくものではあるが、それに依存しないで、各自、自らが改良・実行していくことである。
 教書でないと書いたことは、あくまで教えるものでなく、従い習うものでなく、どこまでも、考えるための参考資料に過ぎないという意味である。

 現在の世相では、本書の文字を読める人は多いだろうが、これを読み得ても意味を読みとれる人は少ないだろうと思う。
 まして本書に盛られた具現方式を、即実行、具現できる人は、その境地に入った、よほど進歩的で、世界の先端をいく、革命意識に燃える、まれに見る人達に於てのみなされるであろう。だが、この空想とも一般に笑殺されるであろう、実は実現容易な理想境〝金の要らない楽しい村〟が、地上の一角に一点打ち立てられる時、それを見、聞き、伝えた世界科学者達の研究課題になり、人間の本質、社会のあり方等について、関心を寄せられる人々の注目が集まり、実行家の続出することは、火を見るよりも明らかである。
 世界の各地・各所に、〝金の要らない楽しい村〟が続々と打ち立てられるであろうし、こうしてこれらが相関連的に、燎原の火のように世界中に燃え拡がり、急速に全世界が風靡されることを拒む何ものもなくなる。
 初めは荒唐無稽、夢物語と嘲笑している古い社会通念・常識観も、事実の前に、いつの間にか新しい事態の中に立っている自分を気づかれることであろう。
世界第一号を打ち上げる人は誰だろうか。
 それに続く人は誰々だろうか。やりたくない人、やれない人は、やらなくてよいことであり、またそういう人達ではやれないことでもある。

『金の要らない楽しい村』という著書名も、ただそれは一端の、一部の表現であって、この真意・実質は森羅万象総てに関する深いものであり、世界革命を誘発する口火を切るものである。
 金の要らないということは、通貨やチケット・権益・契約・義務・所有観念等、有形・無形の一切の枠から解放された、真の自由の天地であり、旧来の法律・制度・習慣・通念が、根本的に真のあり方に立脚した、全人類が想像だに成し得なかった、最も進歩的な、文化的な、物理・心理の粋を集めた、哲理顕現の世界であり、またそれなるが故に実現も容易なはずである。
 本当のものは難しいものでなく、間違った考えに彷徨している間は、本当の答は出ないもの。理数究明的に、一点の狂いのない答が出るはずである。
 規模は小さくても、本質的なものが一ヵ所できれば、後は誰が勧めなくてもみんな見習う。
 世界中から観に来て、世界中に拡がる。
  ──一九六〇年五月──
           ☆

『金の要らない楽しい村』の「研究家・実行家に贈る言葉」は、執筆当時の山岸巳代蔵の状況とその執筆の動機が語られている。その一年後、五月一〇日に死去する。享年五九歳。

 短い文章だが、晩年の巳代蔵の特徴が現れているのではと思う。
 つづけて未完の「総論」が述べられ、「金の要らない楽しい村」のイメージが簡潔に語られる。

 もう一篇(金の要らない楽しい村)ヤマギシズム生活実顕地〈山田村の実況〉で、このように実顕地はできるのではないかと、三七五戸の山田村のことが小説仕立てで書かれている。
 最期に調正機関に触れるなど具体的に描かれている。

 順次、掲載していこうと考えている。併せて山岸巳代蔵の思想に触れていく。
(続く)

◎「金の要らない楽しい村」について➀

〇《金の要らない楽しい村》は、一九六〇年五月に山岸巳代蔵によって口述されたものを起こした資料の題名である。この資料は、〈山田村の実況〉と共に、ヤマギシズム生活実顕地をつくろうとする人たちの研鑽資料として使用された。
 これがヤマギシズム社会・実顕地のキーワードの一つとなる。

 これからしばらく、この資料の原文を紹介し、それが後の実顕地にどのように取り入れられ、変容していったかを考察していく。

 さらに,現社会で面白い実践をしている共同体、相互扶助的地域社会もいくつかあり、そこの気風や特徴を、変容した現実顕地と対比しながら、その可能性を探っていきたいと思っている。
        
        
 その中で、意欲的な教育共同体を繰り広げている「凱風館」の内実は、共同体を考えるときに、とても参考になると思っている。その成り立ちや内容について内田樹氏が『ローカリズム宣言』など度々触れていて、その考え方などを参照していきたいと思っている。

 この教育共同体は「凱風館」に共鳴することを一つの条件とする特殊なものではあるが、それ以外は自由な気風が漂っているのを感じる。この自由さが、共同体のもっとも大事なことではないだろうか。

 なお、共同体について、ブログ・日々彦「ひこばえの記」にいろいろな角度から述べている。その中から、【「相互扶助的共同体」が成り立つ気風】の一部を紹介する。
           ☆

〇2011年に大学を退任した内田樹は神戸に「凱風館(かたくなな心を開く広場)」を開いた。それは合気道の道場であり、住まいでもあり、「私塾」でもある。同時に三百人の「相互扶助活動」のハブともなっている。
  

〈先行世代から受け継いだものを後続世代に引き継いでゆく、そういう垂直系列の統合軸を持った相互扶助・相互支援的な共同体が、もう一度、たとえ局所的にではあれ再建されなければならないと思います。その共同体の最優先の課題は、子どもを育てること、若者たちの成熟を支援することです。〉(『街場の共同体論』p200)と述べている。
 

『ローカリズム宣言』では凱風館のことについて次のように記録している。

〈メンバーそれぞれが、自分の持つ特技や情報(※農漁業、育児、IT,医師等)によって共同体にサービスを提供してくれます。そうやって凱風館では、実に活発な交換が行われています。でも、そこには貨幣が存在しない。凱風館で行き来している財貨やサービスは、これらを市場で購入しようとすれば、それなりの代金を支払わなければならない質のものです。でも、ここでは貨幣は用いられません。受け取ったサービスに対して自分がいつか、自分が得意とする分野の仕事で「お返し」をすればいい。そういうルールになっている。貨幣が動かないので、凱風館で行われている経済活動はGDP的にはゼロ査定されます。------- 

 凱風館が小さいなりに非市場経済、非貨幣経済の場となりえているのは、ここが教育共同体だからです。〉

 
 続けて次のことを述べる。
〈私たちが享受しているもの、この社会制度も、言語も、学術も、宗教も、生活文化も、すべてが先人からの贈り物であって、僕たちが自力でつくり上げたものなんか、ほとんどありません。ですからこれをできるだけ損なうことなしに未来の世代に手渡さなければならない。贈与を受けたものには反対給付の義務がある、そのルールを内面化したもののことを人間と呼びます。商品と貨幣のやりとりというスキームでしか人間社会で起きていることの意味を考量できないものは、厳密には人間ではないのです。人間にしか共同体はつくれない。だから、現代日本では地域共同体も血縁共同体も崩壊したのです。〉(内田 樹『ローカリズム宣言』より)

 
  先人から渡されたものを次の世代へ、仲間から提供されたサービスを、出来る機会が来れば、自分の得意技やできる範囲でお返しする。凱風館はこの気風が当たり前のように根付いているのだろう。

 本書では他にも,岐阜県中津川市の自治体の「人口3000人の村で27軒の飲食店がつぶれない」などの実践例や群馬県上野村で暮らしている内山節氏の村づくりの思索を援用しながら論を進めている。

 〈ローカリズムとは何かというと、自分たちの生きている地域の関係性を大事にし、つまり、そこに生きる人間たちとの関係性を大事にし、そこの自然との関係を大事にしながら、グローバル化する市場経済に振り回されない生き方をするということです。

 ここが自分たちの生きる世界だという地域をしっかりもちながら、そういうローカルな世界を守ろうとする人々と連帯していく。(内山節『ローカリズム原論』p106)〉
 

「相互扶助的共同体」には乳幼児もいるだろう、病気、高齢などによりほとんど寄与できない人もいるだろう。

 また、人間が集団として生きて行くためになくてはならぬもの、自然環境(大気、海洋、河川、湖沼、森林など)、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網、電気ガスなど)、制度資本(学校、医療、司法、行政など)は、機能停止しないように定常的に維持することが最優先される。

 そういうことも含めて「相互扶助的共同体」が成り立つには、その規模によるがさまざまな英知を結集する仕組みがいる。

 そこには、そこで起こることは「私たち」のことだと思える一人称複数的な主体がある程度いることが欠かせない。

 いずれにしても、贈与と反対給付のルールを内面化した人たちや気風があることが、大きいのではないだろうか。 

◎「わくらばの記」-吉本隆明との対話から(2016-09-18)の再録。

※25日に掲載した【◎私のこと、このブログ「広場・ヤマギシズム」のこと。】に関連して4年前に書いた記事を再録する。

 この記録は吉田光男さんの「わくらばの記―病床妄語」に触れて述べたもの。

 1990年頃のヤマギシ学園は、推進メンバーたちが描く理想像から独特の学育方針を打ち出し、それに合わせて、一人ひとりの違い、異質性を見ようとせず一律的に子どもを扱っていた世話係が少なからずいたと思う。ヤマギシズム学園が始まったころは、そうでもなかっただろうが、徐々にその傾向が強烈なものになっていた。

 しかも、多くの子が、その理想に共鳴した親に連れてこられた子どもである。

 この人らによって、後の体罰、個別研など数々の問題を起こした学園の一つの大きな要因をつくったと思っている。むろん、「任し合い」という体制でそれを支持していた私をはじめ、多くの村人がいる。 

           ☆

〇《「病床妄語」〈2016年1月31日〉

 文章を読んでいて書き手の心が感じられないものは、読み続ける気がしなくなる。多くの解説書の類がそうだし、身近なものではSさんの文章がそうだ。

「けんさん」紙(山岸会の機関紙)に連載されたもの、またそれを一冊にまとめた『贈り合いの経済』もその一つだ。西欧の哲学者・思想家からの引用などもあって、私の理解を超えることもその理由になっているのではあるが。

 この本の中で私が最も疑問に思ったのは、「吉本隆明氏との対話」のところである。昔、Sさんたちが吉本さんを訪ねた時に交わされた会話の中身であるが、吉本さんの本から引用すれば、次のような内容になっている。

 

【「数年前(1990年)、偶然に伝説されていたユートピア山岸会の会員と出会って話を聞く機会があった。これはいい機会だとおもって、聞いてみたい関心のあるところをたずねてみた。その肝要なところを記してみる。わたしが知っているのは山岸会がまわりを一般社会に囲まれたユートピアだということだけだった。

質問(吉本)もし会員のなかの若い女性が現在の優れた流行の服装(たとえばそれしか知らないからコム・デ・ギャルソン)を着てみたいと望んだらどうするのか。

答(山岸会の会員)もちろん係りが望み通りのものを求めて着てもらう。欲求はすべて叶えられる。
〈わたしはゼイタク品だからダメという答えを予想していた。〉

質問(吉本)それぞれの会員はユートピアに叶うためにどんな等価労働をしているのか。

答(山岸会の会員)自分の得意な労働をすればよい。掃除が得意なものは掃除、洗濯の好きな者は洗濯、大工仕事の得意な者は大工といった具合だ。
〈それでは等価労働にならないのではないか。たぶん経済的に成り立つには主催者は別の等価原が要るはずだ。〉

質問(吉本)もし会員の子弟が特殊な分野の勉強がしたくて一般社会にしか教えてくれる先生や専門家がいないので、そこで勉強したいといったらどうするのか。

答(山岸会の会員)そんな子はいませんよ。
〈なぜという疑問を感じたが、会員も反対の意味で疑問を感じたらしい。)

質問(吉本)自分の欲しいものは自分で購入したいからその額のお金を渡してもらって買いに行きたいと求められたらそうしていいのか。

答(山岸会の会員)係りがいて要求通りのものを必ず購入してくれるのだから不必要です。
〈わたしは一般社会に囲まれたユートピアにとってこれは重大なカギだなと感じた。】

 

 以上は『中学生のための社会科』(市井文学社、2005)から引用した「山岸会との対話」の項の全文である。『贈り合いの経済』の中でSさんは、吉本さんの質問に答えたのが自分であると書いている。

 この対話の中にはさまざまなテーマがあると思うが、ここ十数年学園問題を考えてきた自分にとっては「そんな子はいませんよ」という一言は特に大きな問題として響いてくる。

 学育・学園の歴史の中では、「そんな子はいない」どころか、事実としてたくさんいたのである。吉本さんと会った頃にそう考えていたとしても――

 私を含めて多くの人がそう考えていたことは間違いない――今の時点で本を出すとしたら、それについて今どう考えるかを明らかにする必要があるだろう。ところが、この本では一言もそれに触れていない。私にはまったく理解できない。

 

(2月1日〉
 ところでSさんの「そんな子はいませんよ」という答えが事実に反していたことは、だれも否定できないだろう。問題は「そんな子はいない」という考え方の中に、何が潜んでいたのか、そしてそこからどんな考え方が芽生えてしまうのか、ということである。

 そんな子はいない→そんな子はいてはならない→そんな子の存在は許されない。

 こうして次第にエスカレートする強制力容認の考え方が生まれてくる。私たちはこうした誤った見方・考え方から、子どもたちに無言の圧力をかけ続けてきた。学園の世話係りの多くが、子どもたちに直接の暴力を振るったことも、後になって次第に明らかになった。子どもたち一人ひとりの違いを見ようとせず、子どもを一律に扱う学園のあり方の根っこの部分に「そんな子はいない」という考え方が潜んでいたことを深く反省しなければならない。》
——–

            ☆

 ある期間わたしは、実顕地で若者たちに関連した役割についていた。また青年年齢に達していた学園生の参画手続きをしていた。

 その頃の私は、学園生、学育の子たちに対して実顕地を担う人材になったらいいなと思っていて、そのように進めていくようなこともしていた。それに関して今からみると、恥ずかしいお粗末なことをしていた自分もいる。

 当然だが、子どもたちは多種多様な感じ方をしている。
 村(実顕地)ではとてもできそうもない勉強をしたり専門を究めたり、自分の興味のある道に進みたい人、あるいは,とてもではないが村でやれなくなったり、早くここから逃げ出したい人、いろいろな人がいた。また一般の社会へ向けての就職や生活拠点を得るため、私と一緒に動き回った若者も何人かいる。一方、その当時の実顕地に魅かれて、村に参画した若者も増えていたが。

 私事になるが、学園の大学部に入ってすぐに資格がないということでやめることになった娘に、村を離れて一般社会でやったらいいと思うよと働きかけ、村で生まれ育ち、仲間たちとの暮らしが気にいっていた娘だったが、考えた末に村を離れ,そこからの新たな暮らしがはじまった。

 私の中では、村でやれたらいいなと思う気持ちもある一方、自己の青年時のことを振り返っても、若い時期に様々な社会体験や多種多様な人との出会いをしたらいいなとも思っていた。ただ、そのようなことを積極的に進めようとしなかった自分ではあるが。

 

 Sさんの2014年出版の著書の「そんな子はいない」について、Yさんから聞いたとき、唖然としてしまった。『中学生のための社会科』を以前読んでいた。その会員たちは随分いい加減なことを言っているなとは思ったが、その箇所にはあまり注意を払わなかった私がいる。

 一つひとつみていくと、当時の実態とはかけ離れたことをさらりと言ってのけている。
「欲求はすべて叶えられる」「自分の得意な労働をすればよい」「「そんな子はいませんよ」」「係りがいて要求通りのものを必ず購入してくれるのだから不必要です」。かけ離れているというよりも嘘である。

 山岸会について真摯に問うている吉本氏に対して甚だ失礼であり、現状をそのまま出すことでお互いの意見を交わすことが、会員の求める「(対話)研鑽」の基本である。それと真逆のことをしているのだ。

 

 そのこと以上に私が訝しく感じたのは、明らかに虚偽とわかることを、十数年後に臆面もなく自著で、そのときの質問の答に対して間違っていたことへの訂正や反省など全くなく、思い込みの言説の紹介を交えて、かなりの頁数を重ねて「吉本隆明氏との対話」を繰り広げている著者の精神構造だ。

 ここでもっとも問題にしたいのは、「そんな子はいない」という見方である。他の答えにもいえるのだが、「すべて」「必ず」など、ものごとのもつ多様性、異質性をそぎ落としみていく俯瞰的な第三者的な語り口である。
 Yさんが分析しているように、これは「そんな子の存在は許されない」につながる全体主義的な思考である。

 親族たちはほぼ全員、アウシュヴィッツで殺害されたが、戦時捕虜の身であるがゆえに生還したエマニュエル・レヴィナスは、それぞれ異質な者たちの存在、関係を、上から俯瞰して取り扱うような第三者の思考を「全体性の思考」だとした。「存在が俯瞰可能な仕方で実存するのは全体性においてである」と。

 アウシュヴィッツに限らず、そういう全体性の思考は、特異性をもつ一人ひとりの人間を、置き換え可能な存在とみる「根源的不敬」な視点であり、それと絶縁することをレヴィナス思想の根幹に据えた。

「そんな子はいない」と俯瞰的に言い切るS氏からは、一人ひとりの特異性を持つ子どもの顔が一切浮かんでこない。しかも、明明白白の虚偽である。

 吉本 隆明は、北山修との対談集『こころから言葉へ』(弘文堂、1993)で、家族に替わる実験的な共同生活、共同育児の話題から次のように山岸会に触れている。
「子どもが外の世界に出てゆこうとするのは当然あるだろうと思うので、そしたらどうするんですか、と言うのに対して、自由にさせるという答えを期待していたんですが,そうではなくて、『そんなことは言わない』というので、その点は疑問に思ったんです」

 これについてもS氏の2014年刊行の著作の中で触れている。外の世界に出てゆこうとする子どもに対して、「そんなことは言わない」とはどういうことだろう。

 そんなことは言わない→そんなことを言う子はおかしい→そんな子はいてはならない。とならないだろうか。 

 

参照:◎吉田光男『わくらばの記』(3)(2018-02-17)

◎私のこと、ブログ「広場・ヤマギシズム」のこと。

〇5年前に始めたブログに、ヤマギシ関連のことを述べると、そういうお前は何なんだと言われることもある。
 これまでも断片的に触れているが、簡単に私の来し方、主にヤマギシとの関わりを振り返る。といっても記録を残していなくて、曖昧な記憶を頼りにしている。

 1947年、福島須賀川で生まれた。通俗的な言い方になるが、小さい頃ことばがまともに喋れなかったことを除いて、ふつうの家庭環境でふつうに育った。両親や叔母には、よく見守っていてくれたという思いがある。

 18歳頃、社会的な問題に関心を寄せ、しばらく三里塚の援農支援に加わり、その後何かを求めて、沖縄各地に放浪していた。

 その後、釜ヶ崎で暮らしていた1975年27歳の時、特別講習研鑽会(特講)に参加、続いて北海道試験場(北試)の研鑽学校に参加、すぐに参画した。その頃の北試に魅力を覚えたのが大きな理由の一つである。
 北試では、主に分場の姉別農場で酪農に従事していた。

 その頃、ヤマギシは有精卵をはじめ、ミカン、豚肉などの供給活動が始まり、北試では肉牛部門をたちあげ、牛肉を供給に乗せようとの機運が高まり、私に声がかかった。

 関東方面で屠場、肉卸などを手掛けていた肉屋に見習いを1年程して、ヤマギシの牛精肉部門を立ちあげたときは、30歳になっていた。

 その後20年程、牛精肉部門を中心になって担ってきた。
 実顕地の経営にとってかなり大きな部門となり、さまざまな役割についたが、そこにもっともエネルギーを注いだ。実際に牛の解体作業に携わったのは、ゆうに1万頭を越えているだろう。


 1987年から10年程、豊里実顕地の人事として活動した。実顕地全体の「本庁」の人事にはなっていない。

 そこで、その頃実顕地全体の中で大きな影響を及ぼしているS氏や同じく学園に大きな影響を及ぼしているN女史などと、よく一緒になった。

 人事の中では主に、新参画者の受け入れ、「予備寮」の世話係、その頃増えていた青年の受け入れ、「青年研修所」の世話係をしていた。

 その後、「振出寮」の世話係、学園でやれなくなったいわゆる実習生の世話を、妻としていた。
 また、「村」を辞めたくなった子どもの受け入れ先、就職先を一緒に尋ねたりしていた。

 私の子ども3人とも、「学園でやる資格はありません」「ここではやりたくない」とのことで早くから「村」を離れているが、私の中では「村」でやれたらいいと思う反面、いろいろな人と出会い、さまざまな体験をすることが大事と思っていて、「学園でやる資格はありません」といわれた子に、それなら外でやろうと、知り合いのところに連れて行った。
 その後、機会を作っては、受け入れ先の挨拶も兼ねて、子どもと会っていた。

 1997年、振出寮から戻った真夜中に倒れて、そのまま2か月程入院した。主たる病因は肺気腫。

 それ以来、豊里人事を外れ、やがて牛精肉部門を後任に引き継ぎ、研鑽学校(主に振出寮)だけにして、宿舎も研鑽学校のある「村」に移る。
 2001年に参画を取り消し、離脱した。

 なお、牛精肉については全面的に、予備寮、振出寮については、アドバイスは受けたが、最終的にはそのとき精一杯自分なりに考え、中心になって行っていたことで、人がどのように感じようと一切反論しようと思わない。

 離脱後は、新聞の配達業務をしながら、同じころ離脱した仲間といろいろ模索していた。

 割合すぐに、介護支援の仕事につき、その職場には男の介護士は私一人で、困難な事例にあたる人などはよく回ってきて面白かった。

 しばらくして、重度心身障害者支援、養護学校などに関わるようになり、その後、二人暮らしが難しくなった90歳過ぎの妻の義父母と暮らすようになった。

 一方、2003年から『山岸巳代蔵全集』の刊行・編集委員として8年程関わったことにより、ヤマギシズム運動、実顕地の経緯について、「あれは何だったのか」「その時の自分はどうだったのだろう」と自分の課題として考えていた。

 また、元の親しい仲間と会うと、その頃の話になることが多かったが、そのよう事を話題にする人も少なくなっている。


 義父母が亡くなって、家の整理をして、当地に越してきたのは5年前。
 それ以来体が思わしくないこともあり、収入のある仕事についていない。
 また、ブログ「わえいうえを通信」は、その年に入って始めていた。

 最初は何もかも一緒に記載していたが、3年前から、日々の暮らしで考えたことと、ヤマギシ関連を分けて記録している。むろん厳密に分けることはできないが。

 今の私にとって、日々彦「ひこばえの記」は、日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだしてゆくことの妙味を大事にしているブログと思っている。

 ここにきて、二人目の孫の誕生、二歳近くの孫の成長、親しい人の困難な状況や死が続いていること、私の難病の症状が進み妻の支えがないと暮らしていけないことなど、生きて死んでいくこと、夫婦とは、家族とは、それを支える社会とはなど、とりとめもなく思っている。

「広場・ヤマギシズム」は「ヤマギシ」に関心のある方、研究者に参考になればいいという位置づけで、責任というか、実顕地が変質していた渦中に、中心になって進めていたものとして、『山岸巳代蔵全集』の刊行・編集委員として関わったことなどにより、記録に残しておく自分の役割はあるのではと思い、随時書いている。
            ☆

 わたしの好きな哲学者に鶴見俊輔がいる。このことは鶴見氏だったらどのように見るかなと、度々ブログに取り上げている。その中から、次の記録をあげる。

《マルクス主義というのは、You are wrong でしょ。あくまでも自分たちが正しいと思っているから、まちがいがエネルギーになるということがない。
 しかし、思想の力というのはそうではなくて、これはまちがっていたと思って、膝をつく。そこから始まるんだ。まちがいの前で素直に膝をつく。それが自分のなかの生命となって、エネルギーになる。
(略)
「私はI am wrong だから、もしそれらから「おまえが悪い」といわれても抵抗しない。この対立においては、結局決着はつかないんですよ。私がYou are wrongの立場に移行することはないし、You are wrongは私の説得には成功しないから。」
(鶴見俊輔『言い残しておくこと』(作品社、2009年の第二部「『まちがい主義』のベ平連」))

 
 鶴見氏の「I am wrong」の心意気にはとても及ばないが、心に置いておきたいと思っている。

◎(付)「息子の時間」を読んで。(福井著『「金要らぬ村」を出る…』より)

※本書は「手記」のようだと考えるし、著者は誠実に書いていると思うが、誠実であろうとなかろうと、実際にあったこととはずれてくる。少なからずフィクショナルな要素も入ってくるかもしれない。
 ここでは、あくまで作品に描かれたことに即して見ていこうと思っている。


 本文は《自分の息子が自分の思い描いていた像とはまったく似ても似つかない存在に育っている、と気づいたのはいつの頃だろうか? 》との書き出しから始まる。

 これは息子との交流の物語であるが、語り手のとらえる理想社会の変質にも抱いた感情であり、物語の前半では、息子との行き違いと同時に、理想社会のこと、その変質がきめ細かく語られる。

 本作は、語り手「おれ」が理想を覚えてG会に一家を連れて参画した時の小さな息子が高校生になったとき、G学苑になじまないまま、Gの「村」を出ることになった。

 おれは、G学苑幼児部の創設の方にも奔走していて、息子が「村」を出ることに危惧をいだいて、長い説得をするが、息子は「おれはここでやっていけん」とぽつりと云う。それでまたおれの長い語りがはじまるのだった。つまり平行線が数日続いた。息子は、親の描いた理念の世界とコトバでは届かない、自分の未だコトバにならない世界を呼吸し始めているようだったとおれは思う。結局息子は「村」を出ることになった。

 ところが、一七歳の息子と会ったとき、仲間や寄る辺となる、ある家庭などにより快活に育っているのを見て、対等に向き合い、息子の存在感を覚えるようになり、自分の子供時代から青年期への成長を振り返ることで何かしら同質のものが流れていることを感じるようになる。

 一方G会は、おれがかなり長い間、かってない理想社会への大壮挙と思っていて、そこに自由で平等な社会の雛型を見ていたが、組織が巨大になる同時並行に、そこも序列化とトップダウンの管理社会を形成して大きく変質していった。
 指導部の選任・解任も形式化し、衆知を集めるとされた研鑽会も整理・専門化され、全体で運動のビジョン、路線について論議すべき場がもはやどこにもなかった。

 そしてそこを離脱することになる。

《 おれには「村」の内情が、蓄財へと結果する無限運動に従属しながら、そのことに無自覚な「理想に燃える」働きアリの巣に見えてきた。公開された情報のもと、理想への沸騰する想像力を村人挙って集中する機会があれば、たぶんちがって見えたことだろう。しかしそれを喚起したかつての理念は、もっともらしい宗教教義か、こじつけに、威容を誇る大食堂や生活施設はただの金に任せたガラクタに変わった。
 なんのせいか、はたまた誰のせいか不明だが、見た目の壮大さに反比例してなにかが停滞し鬱屈していた。おれは呼吸困難を覚え、ともかく一息つきたかった。当時企画された都市居住の村外活動はおれには格好のはけ口となり、それに乗って「村」を離れた。そこで元村人たちとの遠慮のない交流に触れ、それによって得た少しばかり多様な視点と置かれた距離によって、かつての疑惑は確信に近いものに変わった。その後、しばらくして参画も取り消した。》

 
「村」離脱後になって、「親」として息子と、より「純粋」に向かい合うことになったと思う。そのことを実直に赤裸々に明かしながら、臨場感のある描写は心に迫ってくる。


 ここでは後半の「村」離脱後の印象的な場面を見ていく。

〇息子の「街の親」
《自分らの生活に余裕がないのに、妻は息子に些少の金品を贈り出した。息子がフリーターの暮らしを続けていたということもある。その最初が布団だった。電話での息子との話から、「村」を出たときに持っていった布団をぼろぼろのまま使っているらしいと推測したのだ。これまでなにもしてやれなかった、という自責の感情が彼女から溢れ出すようだった。あったかいすよ……、息子は素直に感謝の弁を伝えてきた。》

 それからしばらくして息子と「村」で出会うことになる。息子たちが東京で世話になっていた岩城さん一家がG会に参画していて、その岩城さんが肝臓ガンで病没した。

 岩城さんはG会のいわゆるシンパで「村」と行き来があり、「村」の学育にいて街に出ていた仲間がよく集まっていて、その子どもらの世話をなにかと心がけていた。

《おれたちは大阪から、息子は東京からM県の「村」の葬儀に参列した。もはや短髪の普通の勤め人の姿だった。
「いや、もうロックどころでなくなってきたすよ」と息子は苦笑した。ご多分に漏れず生活に追われ出しているようだ。息子はお通夜で缶ビールを祭壇に捧げた。村人は酒タバコをやっていなかったから、それは目立った。岩城さんと一緒にビールを酌み交わした街での思い出があったからだろう。翌日息子は一緒に世話になった若者とともに棺を運んだ。その印象はおれには鮮烈だった。》

 この場面はとりわけ印象深い。
 疑問を覚えて離脱したおれたち夫妻、学苑に馴染まなく高校生のときに「村」から出た息子、岩城さんに世話になった元学苑生の若者たち、その人らを温かく包み込む「村」の気風がふつふつと伝わってくるような場面だと思う。

 お通夜で、酒タバコをやっていなかった村人の中での祭壇に捧げた缶ビール。元学苑生の若者たちによって岩城さんの遺体が入った棺が運ばれた場面は読んでいても映像がまざまざと浮かんでくる。


〇離脱親元にやってきた息子
《(二十九歳の》彼は意外なほど冗舌な一面も見せたが、反面なにをするでもなく沈黙したまま狭い台所の椅子に腰掛けたまま過ごした。瞑想しているか、ぼんやりしているか分からないたたずまいで。
――おまえはなにをするでもなくどこへ出かけるわけでなく、ようそんなにじっとしてられるなあ。
――そう、そうなんすよ。こうしてるのが好きなんすよ。いろいろ聞こえてくるというか、聞いてるというか……
 不意に息子の過去の姿が蘇ってきた。あのバス停で、なにをするわけでもなくぼんやりと地べたを眺めていた息子が。》

 息子中学生の時の、バス停での場面でのおれの思いは次のようなことだった。
《おれは、なにをするわけでもなくここに座っていた息子の時間を思った。それはぼんやりととりとめのない時間以外に考えられなかった。えらいボーとしたやっちゃなあという印象だった。》

《あの時には気づかなかったが、息子のそのいわば覇気のなさは、環境にがんじがらめにされた諦めによるだけではなかったのではないか。
 おれは街に出て仕事を探し始めた時、面接の結果を待ちながらまったくなにをすることもなく日を送らねばならなかったことがあった。------なにをするか考えるのにも疲れ本やテレビにも飽き、ぼんやりしてまったく時間の流れに身を任せていた。いわば自己を放擲していた。

 空に漂う翩翻たる雲を眺め、近くにあった沼の風に揺れる波形を眺め、彼方の高速道に渋滞する車の遅々とした動きを眺めていた。いつしか夕日が沈み、辺りが暗くなっているの気づく。こういう時が経つのを意識しなかった時間、そのことでかえって、ああ「時間」とはこういうものかと感じる。すなわち無為の充実とでもいうものを、その時になって初めて知ったような気がした。
 その瞬間瞬間に、おれの感官の奥深くに感応するなにかで時が止まり消える。そしてそのなにかとともに流れ漂いどこかに運ばれていく感触。それは微かで取り出すことも滅多にできないが、その感覚を手がかりに外界を把握し、自分なりの世界認識が広がっていきそうな気さえしてきたのだ。》

 このような無為の充実を味わうことにより、次のような述懐をする。

《そうか、おれは若い頃あまりにも学ぶこと、すなわち外から知識や情報を吸収することに走ってきたのではないか。振り返ってみれば、こういう「ぼんやり」はおれの中高校生時代には知らなかったものだった。たぶんおれには受験勉強があり、暇があったら英単語を覚えるという脅迫観念がおれの生活を支配した。
 その後の学生運動も教師生活も、暇があればなにかをやっていなければ気が済まない半生を過ごした。「村」での生活も基本的には意識生活の連続、一日二四時間全てに理念、イズムを顕わす生活だった。G会の「進展合適」の理念は本来自然適合性を指していたのだろうが、「成るのではなく為す」「合うのでなく合わせる」という方にウエイトがかかっていた。》

 本文から私が思うのは、理想社会づくりに燃えていた頃の息子への見え方に対比して、そのようなことがなくなった離脱後のおれの息子への見え方が、極端に違っていること。
 
 また、高齢になっての離脱後の厳しい状況であることゆえか、G会にとどまらず現社会の「する、なす、進めること」に力点を置く傾向を問いかけるものになっている。

 それにしても息子の「ぼんやり」は、どのような「時間」なんだろう。
 また、本書全体にも言えるが、この辺の描写の確かさ巧みさを思う。


〇息子の境地
 本作は親子との短い会話のやりとり、それについての親の感慨が語られ、随時心に留まったエピソードが入り、「息子の時間」「ぼんやり」「悠揚な言動」などが語られることで、前半部分の重苦しさが、後半はのびやかになってくるような気がする。

《そういえば二、三日前にも、あれっと怪訝に思った息子の物言いがあった。妻はなにかのきっかけで、おれの薄くなった髪や顔の皺やシミをからかった。
――なんか汚くなって、もっと昔はいい男だったのに。契約違反よねえ。
――そんな云い方するもんやないすよ。人生の風雪に刻まれた勲章なんすよ。
 妻もちょっとあっけにとられて、へーおまえ面白いこと云うねえ、というしかなかった。しかしおれは、父親としての自分を許し認めてもらったようでうれしかった。同時にその物分かりのよさ、さらにはそのGイズム的な発想(あるいはその歪曲)が少し気になった。》

《もっとも息子は、少しばかりおれに同情し、人間老けてくるとそうなるという世間知を婉曲に持ち出しただけかもしれない。息子も「村」を出て十年以上たっているから、音楽のメッセージその他によって自ら思想形成してきた部分も大きいだろう。

――おまえにとってもう「村」は過去のものだと思ってきたが、そこで身に付いたものもかなりあるんか。
――あんまり意識したことないが、なんかあるやろ。なんせポン友のほとんどは昔の学育もん、すよ。なんか切れない。今のシャバはおれらに生き辛いところがある。だからついつい寄るんすよ。おれは結婚しとらんが、子どものいるヤツは子どもを育てるならやっぱあんな環境がいいというの。

――へー、昔は「村」の方が生き辛いと思って外に飛び出したんやろ。
――そりゃあ出てみて分かることもある(と息子は言う)。おれもずっと住むならかなわんが、一時的ならあんなところもあっていいと思う。親父たちがそこへ行こうとした気持ちは分からんでもない。》

「学育もん」というのは、「村」での学育は、小学校就学一年前から親から離れて合宿生活をやる寄宿生活体というものだった。そこで、育ち合ってきた仲間たちのこと。

《息子は別にG会の理念を身に付けているというわけではない。ただ親から離れた子ども集団の寄宿生活で身に付いたなにかがあるようだ。そこで教育され仕込まれたものではなく、いわばワルガキ同士寄った解放感と連帯感のなかで培われてきたなにか。それが彼のいう「学育もん」という呼称にこめられた共有感覚なのだ。世間での波風多い体験がそれを郷愁のように析出したのだろう。おれは自分の学生時代の、寮生活のことを思い出していた。個室などはない五人部屋だった。おれが対人赤面症と吃音を克服したのは学生運動だけでなく、あの寮での仲間たちとの親密な暮らしがあったからだ。》


 最期は、岩城さんの葬儀で、「村」で借りた式服を着ていいなと思ったこともあるのか、おれたち夫婦と息子とで式服を買いに出かけた場面で物語は終わる。

《おれも試着をして鏡の前に立ち、外に出ると妻は上から下へとじろじろと眺めた。
「馬子にも衣装、カンリインさんにも衣装、まっいいか」
 息子は云った。「オヤジ、サマになるじゃん」
 その声はなんの屈託もなかった。そう、サマになるか。おれはなんとなく安堵し嬉しくなった。サマにならない人生のささやかな慰めだった。それでも息子は少しばかり照れていた。もちろんおれも相当照れていた。ヘンな親子だと思った。》


 本作は新刊『「金要らぬ村」を出る…』に添えて、掲載された。
 よく取り上げられる諺にベンジャミン・フランクリンの『時は金なり(Time is money)』があり、現社会での時間論では、かなり社会への影響があるし、一人ひとりの意識の上でも根強いのではないでしょうか。

 だが「時間」は、過ごし方により豊かにも貧しくもなる。「時間」の持つ豊饒さや奥深さを考えると、本来的にお金には換算できようのないものと考えている。
  
 本作の一つの大きな特徴は、息子のゆったりした「時間」が描かれ、そこからかもしだされる悠揚とした言動により、期せずして、現社会で根強い「時は金なり」の社会観をはじめ、現社会の「より早く、便利、効率的」に価値を置く傾向を問いかけるものになっているように思う。

◎ある夫婦の物語。(福井著『「金要らぬ村」を出る…』より)

〇本書を通して、私の関心は大きく二つある。
(1)ヤマギシズム社会の『金の要らない楽しい村』、実際の「村」のなかでは、お金のやり取りが介在しない暮らしと、「村」離脱後の何事もお金=賃労働を考えざるを得ない暮らしとの違い。

(2)ヤマギシの「村」にいる時と離脱以後の世間での暮らしで、家族、親子、人と人の関係などが、どのように変化したのか。
 むろん、一人ひとり「村」での生活でも、離脱以後の世間での暮らしでも、大きな違いはあるだろうが、私が知っている範囲のことを通して見ていく。

 私の場合もっとも大きな変化は、自分の足で立ち自分の頭で考える「自律性」のある暮らしになったこと。それに付随してある種の解放感を味わった。

「村」では、自分なりに考えてやっていたつもりだが、たえず「ここでは」どんなふうに考えるかなと思いをはせる、「他律性」のある暮らしであった。
「村」の規模が大きくなるにつれて、他律的な色合いが濃くなっていった。

 個人はもちろん、小さな家族であろうと共同体や大きな集団だろうと、人と人の関係は「自律性」のある個人が主体性に他との調和をする「自立性」のある人になって同格で関ることが基本となる。家族から大集団まで貫く大切なことだと考える。

 特殊な共同体を考えるとき、「一つの大家族」というような比喩で語られる。
 だが、規模が大きくなってからのヤマギシの「村」の中では、家族のつながりはとても薄く、各種手続きをはじめ、衣食住のことを専問分野の人の「任し合い」で、ほとんどのことを、個々人として「村」の一員として向き合う暮らしである。

 一方、世間の暮らしにおいて、特に厳しい生活状況の中では、多くのことを夫婦で向き合うことになる。あまり厳しい状況とは思わなかった、私たちもそうであった。

「村」では「ここでは・われわれは」の中での「わたし」であり、世間の暮らしでは「わたし」と「わたしたち夫婦・家族」が密接につながっている。
         ☆

 〇本作『「金要らぬ村」を出る…』から主に夫婦の触れ合いを通してみていく。

※本書は「手記」のようだと考えるし、著者は潔く素直に書いていると思うが、著者が誠実に書いていようとそうでなかろうと、実際にあったこととはずれてくる。無意識にフィクショナルな要素も出てくる場合もある。ここではまず、あくまで作品に描かれたことに即して見ていこうと思っている。


『「金要らぬ村」を出る…』は、20年献身的に打ち込んできたJ会(※ヤマギシの「村」)に疑問を感じて離脱した後の、何事もお金=稼ぎを考えざるを得ない暮らしの実際を描くこととともに、家族との関わり合いや仲間たち(といってもあまり接点のなかった)との心温まる交流を通して、次なる明日に向けるようになっていった。という作品ともいえる。
  

 本作は主人公の置かれた簡単な状況の導入から始まり、二「アリとキリギリス」で夫婦の触れ合いが描かれる。

《「もう気が付いてもいいでしょ。いつまで好き勝手にキリギリスやってるの。わたしはもういやだよ。老後に備えて、いまからなら間に合わないかもしれないけど、まだ働ける間はアリさんにならないと」
 こうまで言われてしまえば、おれは生返事を決め込むわけにはいかない。手を止め靖代の方に向き直った。
「おまえはそういうが、人間はただのアリのまま死にたくないというへんな生き物でもあるんだよ。自分のやりたいことをやって死ねるなら本望だ。あの童話に間違いがあるとしたら、あまりにもキリギリスを哀れっぽく描きすぎることだ。ほらあのタイタニックの楽団員たちは、船が沈没する寸前まで楽器を放そうとしなかったじゃないか」》

 という大人げない理屈を並べる夫(主人公)と、実生活に根付いた奥さん(靖代)のやりとりから始まって、次の展開になる。

《「よく言うよ! いちばん寒がりでいちばん大食いのあんたが。おまけに昼日中から呑んでるじゃない。男なら女房子どもに心配かけないようにしてよ。それができないあんたのために、なんで私がご飯つくらにゃあかんの。人間やりたいことだけやってたら生きていけないんだよ」

「やりたくないことはやらんでいいよ。飯ぐらいなんとかするわ……」
「ほんとう? あんたそんなこといっていいの」》

 実生活の厳しさを感じながらも、自分の夢を追い続ける主人公と、実体に即して的確に生活者として困難を乗り越えてゆこうとする妻・靖代の葛藤が続く。


 三「前史」で主人公はこのように語る。
《私のなかに意味不明の余白が広がり、総括・反省への飢渇が前進への欲求にブレーキをかけ始めた。この二〇年はいったいなんだったのか? 共同体Jへの自分の献身はなんだったのだろう、それにどんな意味があったのか?
 これまではJで救われたと思ってきたが、考えようによってはそこで人生を棒に振ったといえないこともない。なぜJ会はこんなことになってしまったのか? 勧誘してきた同調者、追随参画者への、さらに係暴力が問題となった子どもらへの自責感、自己批判も含め、J会の総括、すなわちその<裏切られた革命>について様々な問題を考えざるをえなくなった。》

 また、四「村から町へ」で次のことが述べられている。
《私はいったんは自ら放棄していた読み、かつ書くことを必死に始めようとした。本は高価で買えなかったが、幸い街には図書館というものがあった。それは実は整理総括の欲求を越え、なにかを必死に取り戻そうとしたともいえる。これまではタブーとして蓋をして失われ、忘れてきたこと、やりたかったことが渦巻いていた。》

 まだこの頃は、生活の厳しさ以上に、上記の思いでいっぱいだったのだろう。


 この物語は、主人公の「私」の語りで展開する。
 妻とのギクシャクした関わり合いにおける感情の変化を赤裸々に明かしながら、臨場感のある描写が続くが、妻・靖代の存在が物語の深みを添えている。

《私がムラを出て四、五か月経った頃、ムラを離れた仲間たちと連絡が取れ始め、有志による〈淀川グループ〉と名づけ、それぞれの暮らしや老後などを忌憚なく話すようになり、私はこの楽しさ懐かしさはなんだろうと訝んだ。そして、それぞれに口座番号を知らせ合うようになり、時々互いの口座に正体不明の金が振り込まれた。
 それは娘がムラを出て転がり込んできたばかりの後で、その送金に私は感動したが、靖代は「なんかママゴトじゃないの」と笑った。》

 この娘の同居、その屈託のない存在は、この一家にある種の明るさをもたらした。


 このグループとの老後の暮らしを語るなかに、「しかし靖代のなかにはなにか堅固なものがあると思う。もう三十年以上も一緒に暮らしながら、私にもよく分っていない。」との書き出しのJ会離脱前のことが語られる。

《私は共同体にいる間何度か、靖代の深層にあるその堅固な常識的エゴイズムを崩そうとした。やんわり批判したつもりだが、彼女はとことん責められたと感じたのだろう。それは私への靖代の根元的な不信感を引き起こし、いまに至る後遺症になっている。》

 ここでは、靖代のことをよく分かっていないのに、根元的な不信感を引き起こすようなことを何度もする主人公の傲慢さを感じる。 

 本作では主人公が靖代をどのように見ているのかと思いながら読んで、どうも一面しか捉えていないように感じた。
 私は、厳しい暮らしの中でしたたかさに生きている靖代の存在により、一家を生活面でも精神面でも逞しく支えているとみている。


 懇請していた「村」からの援助金への話に絶望した主人公と靖代の会話がある。

《「結局はもっと稼げということやろ。なんとかするよ」
「そんな言い方をされると私一人が悪いみたいね。私は必死に働いてるのよ。あんたのように余裕なんかないよ」
 私は黙っているしかない。靖代のこの街に出てからの必死さというものを知らないわけではない。彼女は私と同じくハローワークに並ぶ苦労も、金銭のやりくり参段も二〇年にわたって知らなかった。彼女の街暮らしへの無知からくる不安と心労は、どちらかといえば気楽、無頓着な私の想像を超えていたにちがいない。》

 そして、ニューヨークの世界貿易センタービルなどへの連続テロ攻撃事件の翌朝、靖代は次のようにいう。

「よーし、私も決めた。あんたたちが、好きなことをやるなら私も好きにしていいのね。今日から私はあんたたちのご飯を作らないから、洗濯もしないから! それからあんたは頼りになれないから、お金も別々にするからね!」

 その後、それぞれが適当に自炊し、主人公のわびしい食生活が続く。


 ある日、グループから「どこか二人で温泉旅行に行ってきてよ」という内容のFAXと、かなりの額の金が振り込まれていて、山陰方面への夫婦温泉旅行となった。

 十三「〈新しい街〉とやさしさの磁場」で靖代から声がかかる。
《「混ぜご飯を作ったけど食べたけりゃ食べていいよ」
 炊飯器から立ち上る煙は、鰻のにおいを漂わせていた。お前の料理がなくてもへいちゃらだよ、というポーズをとり続けてきた私もこれにはイチコロだった。

 しばらく口ごもったあと、靖代はなにげなく訊いた。
「ハイウエーの集金の仕事って大丈夫なの。排気ガスがもうもうとしてるし、これからは吹きっさらしで立ちんぼだよ」

 私が勤務している警備員の仕事は来年三月で契約切れだった。
「あんたは肺が弱いんだから無理せんとき」
 鰻のにおいといっしょに吸い込んだなにかで胸が蒸せた。そして目元が熱くなった。靖代の優しさを感じたのだが、ただそれだけではないような気がした。

 私は思う。ふだん疲れ固まっている私はそんな涙もろくもないし、やさしくもない。もう歳で涙腺が弱くなったせいだろう。ただなにかに触れたような気がする。やさしさの磁場というのか。それはたぶん悲しみと不幸の場に虹のように架かり、触れるとやさしさが吹き出す。やさしい人に育たなくとも、やさしい人になろうと取組まなくとも、やさしい人になれと強持てに迫らなくとも、その場に触れたらだれでも吹きだすやさしさ。やさしさがないのではない。たまたまそういう場に出会わなかっただけかもしれない。》


 日々の暮らしの中で、いろいろな人との触れ合いで、「やさしさの磁場」をビンビン感じるようになっていったのだろう。この辺の巧みな表現は、本作の醍醐味である。

 読み応えがあったという私の妻は、この場面に限らず本作を通して「靖代さんは偉いね、このような状況下での踏ん張りに、したたかな意識を感じる」などという。「私だったらこのような亭主(主人公)についていけるだろうか」ともいう。

 十四「生活援助金受領」では「J会」から主人公一家への援助金の受領の話があり、「終章 漂泊へ」となる。

 娘さんは関西空港発の旅客機でデザインの勉強をしにアメリカにいき、主人公夫妻は六九歳まで勤務できる「夫婦住み込みマンション管理員」の職が決まり、今夜の天王寺発の夜行バスで湘南に向かう。


《「あの子はたしか窓際だったよね。今どの窓にいるんだか……」と靖代は旅客機の窓の一つ一つを覗うように見るが、この位置からは人が居るなんの痕跡も見えない。
「いやあ、こっちのことなんかさっぱり気にしてなんかいないやろ」そう、私ら親なんかふり返るな、子どもはそれでいいのだ。

 ほどなく飛行機はとぼとぼと頼りなげに動きだし、滑走路に入り始めた。いったんそこに入った飛行機は、先ほどとは打って変わって雄叫びを上げて飛びかかって行く巨獣のように、轟音を上げて白い路を驀進した。雲は夕陽になぶられてオレンジ色に発色し、そのなかを飛び立った飛行機は白銀色に輝いた。そしてたちまち空の彼方に消えた。
 やおら私たちは展望台から降り始めた。幻想を抱くことがなければ、これからの私たちを待つのは<今浦島>の死ぬまで続く漂泊の旅だろう。たしかに《淀川》グループとは切れるが、あそこはメンバーの紐帯や組織が至上の場ではない。私には各人が自分の道を見出す過渡の場であってよかったと思う。後は残ったメンバーが決めることだ。
 私は娘の出発を見送り、自分たちもここに新たな出発の時を刻みたいとねがった。》

 ここは、主人公たちの息吹がふつふつと描かれていて、印象的な場面だ。ここでとりわけほっとするものを感じ、明日につながる「私たちの漂泊へ」の旅立となっている。


 ここまで主語はほとんど「私」で、靖代の発言や、何か説明するとき「私たち夫婦・一家」という使い方もあるが数少ない。

 後半に少し見受けられるようになるが、この終章にきて、「私ら」「私たちを待つのは<今浦島>の死ぬまで続く漂泊の旅だろう」「自分たち」という表現など続く。

 十二「夫婦温泉旅行」あたりから、主人公中心の物語から夫婦、家族の物語になってきているように感じ、また、主人公の実生活者としての成熟をも覚えた。

◎福井著『「金要らぬ村」を出る…』の感想文。

〇新刊福井著『「金要らぬ村」を出る…』の書評をブログに掲載した後、著者からある人の新刊感想文の連絡を受けた。
 それは心にしみるような感想と文学的な観点のある文章で、私の書評にはないものだった。

 私の書評は、素直な感想というより本書の背景となる考察から簡単な紹介というもので、この新刊感想文を読んで、再度本書に向き合うことになった。


 また、昨日読み終えた妻の読後感を聞いてみた。
 妻は前作『追わずとも牛は往く』については、それほど評価をしていなかった。
 
 新刊本の妻の感想は、総じて言葉遣いや描写力の確かさを感じ、伝わってくるものがあり、とても読み応えがあったという。

 私よりも文学作品に造詣が深いこともあり、それについてどうかと聞いてみたが、どうしても、奥さん、娘さんや文中に出てくる人に「今どうしているのかしら」など、気がいってしまいがちになり、いろいろと事情を知りすぎているゆえ、一つの作品として見るのは難しいという。
  
 もう一つの短編「息子の時間」については、16歳で「村」の学園を辞めさせられて、その後町工場で働くことになった自分の息子とダブってきて、身につまされるものがあったそうだ。
 
 私は、妻以上に事情や作品の経過を知っているので、かえって一つの作品として見るのは難しい面もあるかもしれない。
 本書の作品としての深みや面白さをまだまだ掴めていないと思っている。

 だが、人によってその作品から受ける印象はさまざまで、心にしみる箇所もいろいろだ。
 一人ひとりの持つ見方には限りがあり、他の人の感想に触れて、その作品の見え方が深まっていく面もある。

 作品は刊行したら、あとは読者が膨らませ、広がっていく。その意味でも他の人の感想から刺激を受ける醍醐味、面白さがある。
 
 私としては、同時期に限らず離脱した仲間、そこで過ごした元学園生、現実顕地のメンバーがどのように感じるのか、それ以上に、そのへんの事情を知らない読者が作品としてどのように思うのかはとても関心がある。
               ☆
 
 著者から連絡受けた、新刊感想文の観点は特に印象に残った。 
 
《旧友NI氏より、今回の新刊についての書評をいただいた。同じく旧友K氏(1作目の編集担当)を通してかつての同窓生に届いたものを再転送します。

【福井大兄の本、しばらく前に届いて読了してたんですが何か「読んだよ」と言えないまま一週間がたちました。内容が少しつらかったし、ヤマギシ退会して随分立っているのに前作もそうだが今回も時間がかかっていて精神的なくくりも大変だったろうなと、安易な感想はダメだよって感じでした。なまじ福井さんを多少知ってるからいけませんね。

 最後の飛行場見送りの場面が一番印象的です。お嬢さんも含めて、寂しさと悲しみと、少し光射す希望の揺らぎ見えるフィナーレでほっと慰められました。言葉も文体もいいですね。全編の思いがここにつめられたと思いました。

 それにしても「村」を出て「新しいまち」に向かった仲間たちの人の好さはどこから来るのだろう。小さなかたまりは出来てもコミュニティがないと社会は成り立たないしねえ。自立共助かあ。その後のみんなはどうしてるかなあなんて思わせられます。ふつうのフィクションではそうならないけどね。いいおみなの多恵子さんはどうしただろうね。福井さんが美浦の村長室に来てくれたのは三重の実顕地でリーダー的に頑張っていたときだったな。生き生きして見えましたね。様々な世界、いろいろな人生選択、今作も貴重な記録文学と思います。

「追わずとも・・」の方が物語性はあったと言えますね。ページ繰るのたのしみだったから。デモ今回も労作ありがとうです。続編もありですね。皆で待ちましょう。
 お元気でまた。 福井さんによろしく  NI生】


(福井記 NI氏への感想)
 NI氏からは前作「追わずとも牛は往く」で実に繊細で心温まる書評をいただいた。それ以来の付き合いどころか、実はずっと札幌の大学寮からのつながりがあった。当時彼はランボーの愛好者でフランス語でそれを読んで見せる根っからの詩人だった。私がヤマギシに入った頃は彼はすでに田舎村の村長に収まっていた。それでも時折「図書新聞」にも寄稿する読書人でもある。

 いうまでもないがその精神の痕跡はずばり、最後の飛行場見送りの場面に現れる。ぼくのこの書のモチーフはいうまでもなく、「金要らぬ」であり、「ただ働き」の世界であって、これまでの広報もあくまでその部分を前面に掲げた。しかし彼のこの指摘によって、私にまざまざと蘇ってきたのは、あの夕陽に燃えながら飛んでいった飛行機の場面だった。つまりこの新作は、あの映像から起爆しあの映像で終わる。そのぼくの心中を彼は詠んで見せたのである。そういう意味で彼は典型的な文学者だといっていい。

 このことはぼくがこれまで私記だ、手記だ、ノンフィクションだなんて区別だてしてきたことが宙に飛ぶ。それはそれで否定できないが、同時のその書き出しの発端となる衝迫には何かしら特別の感動や感激を伴うものがあるらしい。それが「文学」だというなら何も否定することはない。

 その観点もあるのだろうが、そのあとで彼が取り上げる作中人物の捉え方が極めて的確であることに驚く。そこには私がなんとか描こうとした作中人物が生きて動いていたのである。

「(あの)仲間たちの人の好さはどこから来るのだろう」

「その後のみんなはどうしてるかなあなんて思わせられます。ふつうのフィクションではそうならないけどね。いいおみなの多恵子さんはどうしただろうね」

 ほんとうに短い文章の一説ながら、ずばりと心に刻まれる。さよう、この頃の皆は今どうしているのだろう。ぼくはずっと長いこと会えなくなった彼らと再会したくて、この本を書いたといってもいいのである。
(ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(84)から)》

 なお、ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(85)に、新刊感想②が掲載されている。
  http://okkai335.livedoor.blog/

◎福井著『「金要らぬ村」を出る…』の書評①

〇新刊の書評に入る前に、私が思っている、福井氏の来し方に触れてみる。

 人はある時、心が躍る出来事に出会う。その「虹」のようなものに劇的な感慨を覚えて、その人の生き方につきまとうことがある。

 あるいは、ある出来事と遭遇することで、その後の生き方を左右された人も少なからずいるだろう。

 1941年生誕の福井氏にとって、初期のヤマギシ会の北海道試験場との出合いはそのようなものだったのではないだろうか。

 彼は大学卒業後、北海道東部で高校教員をして、1960年代の学生運動の挫折を引きずりながらも、理想の教師たらんと日夜励んでいた。その時分に出会ったのが北海道試験場である。

 そこは理念の頭でっかちの学生運動とは違って、日々の暮らしに根ざした、一個人や一家族を越えた無所有の一体生活(「財布ひとつ」の生活)体として、ひとりも不幸のない「金の要らない楽しい村」の理想を実践していた。何よりもそこに暮らす人たちに魅力を覚えた。

 1976年35歳の時、彼は妻と子供二人を伴って、そこに丸ごと参画した。

 そこは、後の名称もヤマギシズム実顕地となり、参画者や共鳴する会員も増え続け、組織の拡大が進むにつれ、初期の頃に持っていた理想が変質していき、特に大きな期待をもって始まった学園運動が数々の人権問題を起こすなど、2000年頃、疑問を感じた人による大量の離脱者を生み、60歳を迎えようとしていた彼もその一人だった。


 氏の場合は、この度の新刊『「金要らぬ村」を出る…』に描かれているように、世間での厳しい生活に追われつつ、20年以上暮らしたヤマギシのことを、「あれは何だったのか」と思う日々だった。

 一方、「何が本当に必要なことなのか」「自分とは何者か」「俺は何をしたいのか」と、先人たちの知見を参照しつつ、数々の論考を自身のブログに発表していた。
 また、自分なりの「ヤマギシ総括」の意味合いもあったのだろう、詩や小説の試作に書き現すことをしていた。

 この辺りのことを、福井氏の処女詩集「今浦島抄」の一部を見ていく。この詩集は2011年に書いたもので、ヤマギシの「村」を離れての感情、思いが切々と描かれている。


(詞 集 <今浦島 抄> 番 一荷より)
・私の思想<自分の住む所には自分の手で表札をかけるに限る 精神の在り場所も、ハタから表札をかけられてはならない。石垣リん。それでよい>(石垣りん)

ところが住むところには同居もあれば貸室もあって
他人の表札が下がっている場合がある
貧乏でやむを得ずそうしていることもあるが
身を隠すために好んでそうしている場合もある
私は
その主人に相共鳴したばかりでなく
さらに一体化せんことをねがい
自分の表札を外した
その方が大きな目的だったし
また安楽だったのだ
それは精神にとって、つまり“私の思想”にとって危機なのだといつしか思うようになった<大事なのは他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ>(村上春樹)

“私の思想”とは
どうもその小さなことに関わりがあるようだ
でもこれまで<他人の頭で考えられた>ことが
いっぱい詰まっていて
それ以外のことはぼんやりしている
そのなにかが蘇るために
貧しく不安多くともあえて別居し
いまだなにもない小さな部屋の表札に
番正寛と記す

・自分を知りたい
社会を変えようとするなら自分が変わること
しかし今は自分を変えようとは全然思わない
その前にもっと自分を知りたいのだ
自分を知るとは
たぶん自分の変わらないところを
明らかにすること
これまであまりにも当座の必要に合わせて
色々なことをやりこなしてきた
「何でもやれる人」を目指して
結局自分が何をやりたいのか
自分にとって何がかけがえのない仕事なのか
さっぱり分らなくなっている
精神といい自我という
それらはなにゆえに
かくも執拗に問いかけてくるのか?
お前はなにもので
お前の本当にやりたいことはなにか、と
たとえ生活や生命が十二分に満たされても
満たされずうごめくそれら! 
             ☆

 組織を離脱した以後、自分で考え、自分で目標を定め、自分で行動を選択する「自律的」な暮らしの中で、厳しい生活にも関わらず、喪失感とともにある種の解放感を味わっていたと思う。

 ところが、体罰などの学園の問題が顕在化するにつれ、学園運動につながる幼年部拡大を担当していたこともあり、自責感の強い自己批判の重い日々に陥っていく。

 その後の時間の経過もあり、徐々に重いくびきが溶解し始め、世間での暮らしや仲間との出合い、さらに理論書や文学作品などにより、ささやかながら「自己肯定感」を覚えるようになっていた。
 同時に自己のこともヤマギシのことも、負い目のつきまとったところから客観的に見られるようになる。


 そして、70代半ば過ぎの2018年になって、初めての刊行作品『追わずとも牛は往く』の自費出版に結実した。
 本書は、著者の40年ほど前の1976年から2年程の「北海道試験場」(「北試」―ヤマギシ会)の体験をふまえ、書き進められた記録文学である。
 エピローグの『ヤマギシズム実顕地』での著者の体験の20年余にわたる総括部分は、ある程度「実顕地」を知る人にとっては、簡潔にまとめてあるように思う。
 本書の特質として、ヤマギシの生活体に関するおそらく初めての文学作品となるだろう。


 新刊『「金要らぬ村」を出る…』の本作は、20年以上献身的に打ち込んできた実顕地(※ヤマギシの「村」)に疑問を感じて離脱した後の、何事もお金=賃労働を考えざるを得ない暮らしの実際を描くこととともに、家族とのギクシャクした関わり合いにおける感情の変化を巧みな文章でつづり、以前の「村」での仲間たち(といってもあまり接点のなかった)との心温まる交流に、離脱前の「村」には感じられなかった親身さを覚え、彼の活力を孵化させ次なる明日に向けるようになっていった。
 また、20年以上暮らしたヤマギシズム社会(「金要らぬ村」)とは何だったのかと問うことになる。
 とても読み応えのある作品に仕上げられている。


 もう一つの短編「息子の時間」は、著者が理想を覚えてヤマギシの「村」に一家を連れて参画した時の小さな息子が高校生になったとき、「村」になじまないままそこを出ることになった。ところが世間で、ほとんど父親とは関係なく、息子は生き生きとはつらつと育っていた。
 著者は「村」離脱後になって初めて「親」として息子と「純粋」に向かい合うことになる。そのことを実直に赤裸々に明かしながら、臨場感のある描写は心に迫ってくる。
(つづく)