広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎「心あらば愛児に楽園を」

〇「心あらば愛児に楽園を」は『ヤマギシズム社会の実態』(通称「実践の書」・青本)にある言葉で、その書は山岸巳代蔵の代表的な著作で、参画者にとって、ヤマギシ会に深く関わって人にとって、もっとも馴染みのある本だと思う。

 本書は、養鶏をはじめ実際家としての生業から見つけ出した、山岸の考える理想社会(ヤマギシズム社会)の構想やその実現方法を、包括的に、具体的に、初めて正面から発表したものである。極めて短時間のうちに綴られた未完成のものであるが、青年期に構想しその後再検討を加えてきたものが端的に提案されている。

 また、ヤマギシ会の入り口である「山岸会特別講習研鑽会」(特講)の唯一のテキスト・研鑽資料として使用され、今もなお「ヤマギシズム特別講習研鑽会」において使用されている。

『ヤマギシズム社会の実態』は、「解説ヤマギシズム社会の実態(一)」、「知的革命私案(一)」、「知的革命の端緒・一卵革命を提唱す」の三論文からなる。
 その三番目の最後の論考として「二 本旨 心あらば愛児に楽園を」がある。

〈「二 本旨 心あらば愛児に楽園を」
1 源泉の涵養
 いま日本は精神的に物質的にまことに乏しいです。
 この日本を最も豊かにするものは、人間の持つ知能であり、一人の知恵は世界一の日本にするかも知れませんし、決して奇蹟でも僥倖でもありません。その知恵は何処にあるか、何処かにあっても引き出すことが出来ずじまいになるかも知れません。(中略)

 その構想計画のうちには、重要にして一日たりとも忽せになし得ないもののみではあるが、私は国民全般の福利を普遍的に増進する、今日の重要施策と同時に、今一つ、今ただちに着手しなければならぬ、基本的重大方策があることを強調したいのです。
 今日の問題に忙殺されている中にも、明日の破綻防ぎ、光彩輝く将来を画策・施工しておくことで、今日は苦しくとも、むしろそれに総てを賭ける方が、賢明だと信じています。私は、今日はどうにか生きて働けてさえあれば辛抱し、今日に於て明日のために勉学し、十年後のために果樹の種を下して肥培し、百年、千年後のために植樹を行い、道路・水路の整備を強行し、明日・次代の児孫の豊かさを念うものです。

 自己の延長である愛児に楽園を贈ることは、間違いのない真理であり、自分に尽す結果になり、今日自己一代の栄華や、自己の子孫のみのために囲いの中に営み貯える、いつ侵され崩れるか図られぬ不安全さを思えば、ひとと共に力を合わせて行い、みな血の繋がる人間同属の児孫の幸福のために、致すことが真実です。〉

 この文章が、一週間の特講の最後の方で読むことになる。
 特講で一週間通して時間をかけてとことん考える、自分一人でも考えるし、他者とも一緒に考える。男女性別・年齢・育ちの異なる人々と、徹底的に話し合う体験を通して、様々な人々が密室的なそれでいて親密な空間で寝食をともにし、一週間何でも出し合える気風の中で、徹底的に話し合いを続けていくと、係りも含めて参加者同士の一体感が深まっていき、自他の隔たりが薄れていく。

 ものの見方・考え方が、従来は自覚のないままキメつけた判断で見ていたことが、はたしてそうなのか、本当はどうなのかというように、物事を根底から検べる「けんさん」及び「幸福研鑽会」の楽しさ、厳しさ、大事さを味わうことになる。

 それと共に、独特なテキストの本意が親身に入ってくるようになり、「心あらば愛児に楽園を」にインパクトを覚える。

 むろん、特講の進め方やテーマなどは、開催時期によって違ってくるが、その目的や全体の枠組は一貫して同じ質のものが流れていると思われる。
 また、その捉え方は一人一人違うものだと思う。
 ここでは、特講、研鑽学校などの研修部門に携わった私の体験から述べてみた。

 こうして、ヤマギシ会の趣旨「われ、ひとと共に繁栄せん」に共鳴した山岸会会員となる人も多かったと思う。

 私の推測になるが、「心あらば愛児に楽園を」が新島淳良氏による幸福学園構想につながり、そこからヤマギシズム学園が生まれたと思っている。
(※ヤマギシズム学園は、初期の構想とは甚だ違った展開をすることになるが、ここでは触れない。)


 参照:鶴見俊輔「ヤマギシカイとヤマギシズムについて」(一九九五年一一月)
 私はヤマギシカイの本部に行って、七日間のけんさん(「特講」 のこと)を受けた。
 テキストがわたされ、それをめぐって、自分の考えるところをただいってゆくうちに、はなしはぐるぐるめぐるという、めずらしい形のあつまりだった。人間は自分の底に、他の人と一緒に助けあって生きてゆこうという気組みをもっている(それは私の中にもある)。それをどうあらわしてゆくか、そのうちに、どこかで道からそれてしまうのだ。スターリンにしても、なみはずれた体力にまかせて、家庭で皿をあらい、掃除をすることを日課とし、その上でスターリン言語学の論文を書くようにしたら、彼の持つ天分を、圧制にふりむけることなしに、共産主義の成就のためにつくすことができただろう。言語によって命令することに終始すると、無害な活動に終らない。とざされた大学をつくるのも、圧制の準備になる。
ヤマギシカイにおいては、その可能性はどのようにふせがれているのか。

 ヤマギシカイについて知ってから四十年、その会員とつきあいをもつようになってから三十年以上もたっており、その間、二度、ヤマギシカイの本部に行った。とにかくつづいているというのが事実であり、何よりも、この事実が重い。

 ソ連という共産主義国家はレーニンという最初の指導者がつくり、その国家はスターリンの独裁のもとにおかれた。ヤマギシカイは、これをはじめた山岸巳代蔵がなくなってからすでに一世代をへた。その間に何度も、中央の管理を受け持つ人の交替があった。これまでのところ権力者の固定をふせぎ得たことは、ひとつの達成である。同時にけんさんという集団会話の入り口を示すテキスト以外に、一つの固定したテキストをもたず、このテキストで対話をはじめると、相手の言うことをよくきく、怒りのトゲをぬいてきくということをとおして、七日間の対話をともにできる。この方式が、とざされた体系をつくることからかろうじて、この集団を今もまもっている。その中心には、山岸巳代蔵が戦争中自分の内部にかくしていた「ダレノモノデモナイ」という理念が生きている。

 シャカムニがあらわれる前に、無数のブッダが世界にはいた。
 おなじように、山岸巳代蔵の前にはいくつもの村があり、その村にはヤマギシズムと相通ずる理想があった。それをうけついでヤマギシズムがあらわれたのであろう。村を、欧米の近代文明よりもおくれたものとしてとらえる明治以降の日本にも、この理想はなじまないし、米国による敗戦と占領以後の日本にも、この理想はなじまない。しかし、原爆をつくって脅迫する国家制度をうけいれ発展する近代に対して、どのように対してゆくかの根拠地をここに求めるためには、山岸巳代蔵の戦中の理念をうけつぐことが、今も大切であるように私には思える。
(『山岸巳代蔵全集 第二巻』所収)

◎守下尚暉『根無し草』のコメントから②

〇守下尚暉『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』を紹介したとき、元学園生から養鶏書にある記事の写真とコメントをいただきました。

〈 生魚屑養鶏を排する理由
 生魚屑につきましても、農業養鶏では、無代で庭までそれを運んで貰っても「使うな」と強調していることは、飼育羽数が五〇〇羽未満の人が多く、労力と技術の点から、他の重点作業と生活時間を尊重する理由からで、一家の主人がそのような小利のために、他の作業・全体の経営・社会人としての責任に支障を及ぼさないよう、また主婦が日々その管理に忙殺されて、一家の生活が疎かになるなれば、賢明な行き方とは云えません。人格完成のために、勉学途上の青少年の貴重な時間を、毎日の残菜・生魚屑集めに空費する等は、目に見える肉体は大きく伸び、金銭は積まれても、目に見えぬ尊さが備わらないなれば、人間としての生き方を忘れた、迂闊な歩み方であることに気付きます。青少年は体の錬成と、読む・聞く・見る・試みる、即ち培う時代で、奪ってはならないです。〝一人の頭脳は百万人に幸福を齎すもの〟です。生魚屑を用いて一日一回給餌の方法もあり、その方が数回給餌よりも成績はよろしいが、ちょっと技術が要り専業家向きで、この方法については山岸会専業養鶏編で述べることとし、ここでは農業養鶏向きの事項のみ採り上げましょう。〉

 これは『山岸式養鶏法・農業養鶏編』の「八 農業養鶏には」の「生魚屑養鶏を排する理由」の文章である。

 元学園生からのコメントは次のようなものです。
〈T・Y:私はあまりヤマギシズムについては詳しく知らないのですが、この著者(守下尚暉)の方に養鶏書? とか言う本のある一節を写真で撮って送ってあげました。著者の方も当時見たことも無いとのことで無知やったと言ってましたが、その部分を当時本人が知っていたら、当時のヤマギシがちゃんと素直に学園で顕していたら、学園と言うもの、青年期の時間も違っていたと言っていたのかもと。
少なくとも創設者の理念にはちゃんと書いてあったのに、そういう要素が、子供たちに感じられなかったというのが、残念なように思います。〉


『山岸式養鶏法・農業養鶏編』と『ヤマギシズム社会の実態』は山岸巳代蔵の初期の著述になる基本的なもので、参画者にとって、もっとも馴染みのある本だと思います。

 T君がこのような箇所に注目していることにビックリするとともに、守下氏にこの記事の写真を送ったことに、この積極性はすごいものだと思いました。
 おそらく、参画者の多くはこの記事のことをちゃんと読んでいないと思います。

 本書にある〈人格完成のために、勉学途上の青少年の貴重な時間を、毎日の残菜・生魚屑集めに空費する等は、目に見える肉体は大きく伸び、金銭は積まれても、目に見えぬ尊さが備わらないなれば、人間としての生き方を忘れた、迂闊な歩み方であることに気付きます。青少年は体の錬成と、読む・聞く・見る・試みる、即ち培う時代で、奪ってはならないです。〝一人の頭脳は百万人に幸福を齎すもの〟です。〉

 このような文章を読むと、今回は守下著のことで学園に焦点を当てましたが、実顕地も初期の構想とは正反対のことをしていたんですね。その延長上に学園問題があると思います。

 この文章の少し前に次の記事があります。
〈「余剰労力と人間生活」
 長男は二三才で力もあり、体が頑健ですが、田畑や鶏に手を触れさせません。それは可愛いから楽をさすためではなく、息子には息子としての一番大切な生活があるからです。子供が遊んでいるから、蝗採りや草刈りをさすではいけないと思います。それは教育の重要性を考慮に入れて、家全体としてどうか、その子供の生活にどういうことになるかを考える必要があり、老人等もこの世へ働きに生まれて来たのだ、死ぬまで働くのだ、と云う人もありますが、それはその人の自由意志にありまして、主婦を一家の道具視するものと同じように、本当の生活を忘れた考え方だと云えます。〉


 山岸巳代蔵は、このような表現は基本的な両書に限らず随所に触れていて、この角度から青少年がどのように育ったらいいと想っていたのか、山岸の思想を考えるうえでも、見ていこうと思っている。

◎守下尚暉『根無し草』などについてのコメントから

〇守下著『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』のことをFacebookに取り上げたとき、同じころに育った元学園生からいくつか疑問も含めてコメントをいただきました。
 さらに、参考になるかとも思い、学園に触れた故吉田光男さんの論考「元学園生の手記を読んで」を紹介したところ、いろいろな反響がありました。

 当ブログは、理想集団がどのように変容していったのか、様々な視点から考察することで、今後に生かしていければいいかなと考えています。
 特にヤマギシ会、実顕地が力を入れ、異様な展開をしたヤマギシズム学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返ることは大切で、その意味合いにおいても守下著『根無し草』やそれに関してのコメントで、いろいろな方が、考え、思うことを寄せることで、様々な角度から焦点があたり、過去のことを現在につなげるのは,このブログの目的の一つであり、その一部を上げておきます。


「元学園生のコメントから」
T・Y:正しいと思われることを言うのは気持ちのいいことなんだけど注意しないといけないんでしょう。正しいっていうのが 語弊があるのなら 全人幸福って感じ?
 これは この組織に限らず 世界や社会の幸せを訴えたり、良いことをしていると思われる他の組織についてもいえることで 人間は間違いやすく 普遍的に同じ失敗もする。
 ひょっとしたら 戦中、戦後の日本も似たようなものやったのかもしれない。もっとちゃんと 感じていることをオブラートに包まずに後の世代に伝えていたら 良かったのかもしれない。自分が撃った鉄砲の流れ弾で、埋めた地雷で亡くなった被害者がいるかもしれない・・・と思うとぞっとするけど 自分の家族をまもるため・・・・・に。
 組織が大きくなればなるほど 気をつけないといけないということなんでしょうね。

 おはようございます。でもあそこで学んだことも多かったことも事実です。
 後悔は無駄だと言う人もいたり、しますが、少しの後悔と沢山の反省はより良い人生には必要なのかな? と思ったりもします。

K・N:学育部とかもあったかと思うが。おかしな考えも公意となり。半ば強制的でもあった。
 当時の本庁メンバーからさえもその後の反省を聞いたこともなく、山口さんがこうして振り返ってくれることは、気持ちの整理もついて嬉しいことではあります。
 当時から壮大な社会実験だと思って参画したつもりであったが、軌道修正も難しい組織だなとも思った。
 矛盾したこともかなりあった。まあやっぱり本庁の偉そうにしていた人の責任は重大だと思う。
 失われた命もけっこうあり、続く影響もあり。私の一生にもつきまとうことのようだ。

 誰かが、とんでもないことを言って、別の人が、それは違うこうじゃないか、また別の人が、いやいや2人とも全然違うわ!、それぞれの思うところを出し合い、足し合い、とんでもないことの正体が何となく探り出していけるのが、楽しかった気がする。
 最終の方では、誰かの考え、本庁の考え(黒幕😱)の考えに依存する、指示を仰ぐってのがあったんじゃないの? いやあったと思う。どこで話し合っても本庁に確認するってのが多過ぎたわ。そしてその場には本人不在でね。まあ当初からそこは崩壊していた部分なんだと思うが。

 誰もが何かに操られていたような。誰もが傷ついたのかと思うが。当時、どういう気持ち、どんな背景があったのか知りたい。
 今も許せないと思う人も多いことだろうが、赦すことも必要のように思うし、当時の反省は必要だ。

H・W:今でも学園生時代での反省した事柄を覚えています。反省をしないでいたら又同じことを繰り返すのでは…と、思うのです。
 山口さんがこうして出してくれている事は自分にとってとても大きな事です。吉田さんの読ませてもらって、当時のこと思い出されます。
 本当にどうだったんだろうと振り返ってみたいと思いますね。

 常々学園、学育で育った人達は心に何らか傷があるのを感じていました。鬱病になっている人が何人もいたりと…。話を聞くたびに憤りを感じたり。
 当時主力でやられていた人の発信としては山口さん福井さんしか知らないです。
 みなさんどの様に思われているのか知りたいと思っています。


H・S:当時を生きた学生として中高と色々、ありましたが恨み言は言いたくないので言いませんが一つだけ。中学の係の事は一生忘れないと思います。まさに動物実験でしたね。


「学園以外の方からのコメント」
K・H:吉田光男さんの手記、初めて読ませていただきました。シェアさせていただいて、何度も何度も読ませていただきます。

H・M:学園に限らず、結局のところヤマギシズム実顕地構想全体が、「こころの解決」より「形に依存」することが原因だったと私は反省しています。幸福社会という架空の極楽浄土のような理想をかかげ、それを正しいとして、時間軸を未来に逃避し「いつかそうなる」と、理想を追っていました。平和の為に戦争をするのと同じ発想です。
 こころの解決も理想社会も「今ここ」でないと意味がありません。だって、本当に実在するのは、今のありのままの自分だけです。社会とは人のことで、最小単位の社会が自分のこころの世界です。人を変えることができないなら、自分のこころの解決が何より肝心なことだと思うのです。
 私はヤマギシズムに出会って、本当に多くのことを学びました。自分の原点だと今でも思っています。私は仏教の世界に帰って、私も含めたすべての生命の幸福を願う、慈しみのこころを育てながら、ブッダの瞑想を実践して暮らしています。こころの解決は、結果ではなくその姿勢にあります。おなじ志の人といるとそこに、柔和な社会が努力せずともあらわれます。
 40歳の頃、実顕地で暮らしていて「これは間違いだ」と静かに気づきました。不思議なことに同じ時期に、因果具時の如く、多くの人が目覚めはじめました。実顕地を離れて鈴鹿に集結したころが懐かしく思われます。そこにも、こころの解決に中心を置く人と、寄らば大樹の陰のように、形に惹かれる人があらわれます。
 憧れた無所有社会は、自分のこころにあります。我利我利の生存欲をありのままに見て、何だ生きているってその程度のことかと見て、生存欲から離れることも難しいとは思いません。一切の理想を追わないと、ありのままが自分の理想と合致します。私は支配者ではないのです。


「わたしからの返信」
・自分のやれることとして、実顕地や学園のことを過去のこととせず、現在の問題として考えていくことやっていこうと思います。その意味でも、今回のいろんなコメントは励みになります。

・どんなことも失敗や間違いはつきもので、たえず見直し、軌道修正が必要だと思います。また、そのことをきちんと振り返ることが大事だと思っています。

・「あとは研鑚しておくよ」という反応が多かったですね。要するに本人たち不在で、上のもの指導者に決めてもらいましょうというような、本来の「研鑽」になっていないことですね。学園生活では頻繁にあったと思います。

・そんなこともあったなと、簡単にやり過ごすことはしたくないです。現実に犠牲になった人はいるのですから。

・ある会員さんから中等部のある人について「その人の名前を聞くと、胸が張り裂けそうで一杯です。」という投稿がありました。

・今回は守下著のことで学園に焦点を当てましたが、実顕地も初期の構想とは正反対のことをしていたんですね。その延長上に学園問題があると思います。

・このようにいろいろな方が、考え、思うことを寄せることで、あることが様々な角度から焦点があたり、またそれぞれに還っていくような気がします。
 過去の事を振り返るのは大事だと思いますが、注意する必要もあり、躊躇するものもあります。どちらにしても自分にとっても誰にとっても、何かいまに繋がるものがあればいいかと思っています。

〇守下尚暉『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』を読んで④

〇ヤマギシ会は、戦後生まれた共同体として、全人幸福社会の実顕を目指し、無所有・共用・共活を標榜する「実顕地」を各地に展開し、一個人や一家族を越えた一体生活(「財布ひとつ」の生活)体として、農業・畜産・林業を中心とした生産活動を行って、発足後60数年になるが、売り上げ規模では農事組合法人としてかなりのレベルにある。
 また、紆余曲折しながら総参画者も数千人を数え(半分以上離脱している)、その理想に共鳴するかなりの数の会員有志を生み出している。

 ひとつの大集団の「社会実験」として観た場合、ある種の可能性を感じさせるものもいくつかあるが、おかしなことも数々していた。中でも奇妙なのは、およそ1980~2000頃まで続いたヤマギシ学園の展開である。
 むろん、その頃のヤマギシ会、実顕地が力を入れ作り出したものであり、実顕地の持つ体質や構造と切り離すことはできない。

 本書は、1989~1992年(15歳~18 歳)まで学園・ヤマギシ会で育てられた実体験を基にしたノンフィクションで、同時にその過酷な学園生活の中で、上のものに反抗をしない従順に生きてきたところから、自分の足で立ち考える、ひとりの青年の成長物語になっている。

〇本書から当時の学園の実態を簡単にみていく。
▼その頃の学園の方針を実現させる為には何をやっても赦される。
〈『ヤマギシズム学園高等部』では、世話係の言うことが絶対で、何でも「はい」で実行することが求められました。逆に、世話係の言う事を受け入れられないワガママな生徒には低い評価が下され、学園生活における様々な面で冷遇されてしまいます。そして迎えた小さな恋の破局と、世話係による折檻と監禁。〉

▼学園生を実顕地に相応しいものにしようと世話係の意のままに扱おうとする。
〈『他に求めず、他を責めず、全体が良くなることを思って、自分がやる』
 それは予科生の頃、『核研』で出されたテーマだった。
 でもヤマギシは、全体が良くなる為に個人を犠牲にしている。
 そもそもヤマギシの言う全体って何だろうか?
 全体なんて言葉を使いつつ、実はマギシという組織が良くなる事を優先してるだけなんじゃないだろうか。〉

▼研鑽と称して、それらしい理屈を並べて一方的に押し付ける。
〈(人に見て貰って、用意して貰った場所で、ただ思いっ切りやるだけ。そんなヤマギシの生き方は、とてもラクな生き方じゃないかな)
 適性は、人に見て貰って見出すもの?
 用意して貰った場で、ただ思いっ切りやるだけ? それがラクな生き方だって?
 全然ラクなんかじゃない!
 そこにボクの気持ちなんて無いじゃないか!〉

 さらに、母親との対話を見ていると、本人から世話係と同じように見えてしまった。
 また、両親が参画してきて、これはきつかったと思う。しかしながら、このような親はいたかとも思うが、本書を読む限り、私にとってはこのような親がいたのは、少しいぶかしく感じた。
 わたしが知っている親御さん、特に会員さんは、当時の実顕地の方針には熱心であったが、ご自分の子供については愛情あふれていたように思う人が多かった。

 以上のことから次のことを思う。
・実顕地参画者は、ある程度熟慮して、自分の意思でその理想に共鳴し集まってきて、そこを構成する一人ひとりはさまざまな特色があった。
 ところが親に連れてこられた、自らの意思で選び取ったわけではない多くの子どもたち、成長段階にあり、これからいろいろなことを身に着けていく子どもから見たら、実顕地・学園の学育方式が一枚岩のごとく立ちはだかっていた。

・ヤマギシ学園は、教え育てる「教育」ではなく自らが学び育つ「学育」として子どもたちを見ていこうという目標で始まったが、その頃の学園の方針は甚だかけ離れてものとなっていた。
 また、その頃の学育方式は、一人ひとりの違いを認め、個性を伸ばすということよりも、ひたすら学園の方針にかなう子を育てようとしていたのではないだろうか。

・当時の学園世話係の少なからずの人は、反抗的であろうとなかろうと、どの子にも、ひとりひとり精神的な人格者として見ることをしなかったのではないだろうか。
 私から見たら、取り立てて悪意のある人は少ないように感じていた。だが、本書に出てくるような傾向の人が少なからずいて、しかもその頃の学園を仕切っていたのではと思う。

・各種研鑽会が行われていたが、その研鑽がヤマギシズムが目指していたものと真逆のことをしていた。
 ヤマギシ会の初期の頃に作成した『百万羽子供研鑽会』では次のようになっている。
「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます。」

 その意味では、三重、四重にもわたるおかしなことをしていたともいえる。
 本書のあとがきで次のことを述べる。
〈『ヤマギシ会』は全人幸福親愛社会の実現という綺麗事を唱えていますが、その理想を子供に押し付けるあまり、人を好きになる事の意味、人間の根源的・本質的な欲望や汚い側面に蓋をし、私が受けた性暴力を含むイレギュラーな出来事を直視しようとしない、未成熟な社会なのです。それでいて、『研鑽会』によって真理の核心に迫ったつもりになってしまう。自分が間違っているかもしれない。と思うことが正しいと信じている。即ち、自分が間違っているかもしれない。と思っている自分は正しい。となる訳です。少なくとも、私が居た頃の『ヤマギシ会』はそうでした。当時まだ未熟だった私は、そのまやかしを信じていたのです。いま思えば、すぐにでも警察に駆け込んで、社会に助けを求めれば良かったと思いますが、そんな引き出しなど、当時は思い付きもしませんでした。〉

 おそらく、当時の学園出身者にそう捉える人も多いかと思う。そのように思わせる実態があったと思う。
 むろん、本書は当時そこで育った著者から見た、一つの断面ではある。「あとがき」は苦しい思いをしつつ書き続けた、著者としての「ヤマギシ会」「学園」に対する見解である。

 わたしの子どもや著者と同じ頃学園にいた数人とも交流していて、「特殊な体験をしたと思っている」「あれはあれで面白かったよ」「あれは酷かった、許せない」「思い出したくもない」などいろいろ聞く。それぞれの今現在のものの見方が反映する面もあるだろう。
 わたしが聞く限り、学園出身者の少なからずの人が、特殊な環境の中で仲間同士の結束・連携などにより、たくましく育っていることを知ることもある。一方、当時の学園のやり方に耐えられなくて自殺した子を産みだし、いまだに悶々としている人も少なからずいると聞く。


〇おしまいに
 現在のヤマギシ会、実顕地についてはよく知らないが、それなりの評価している研究者もいるし、その入り口である特別講習会も続いていて、熱心な会員さんもいる。また一度離脱した人が戻っているケースもある。
 わたし自身今でも現実顕地で活動している何人か親しくしているし、何人かの会員さんとも交流している。

 ②で触れたように、戦後生まれの共同体として、数々の興味深い試行錯誤もあり、ヤマギシズム学園などおかしなことも数々行われ、その影響の大きさを鑑みて、理想集団がどのように変容していったのか、様々な視点から考察することで、今後に生かしていければいいかなと考えている。

 また、「ヤマギシ会」に限らず、独特の理想を掲げた集団、組織が、原初の方向性から極端に逸脱してくるのはよくあると思う。
 指導的立場や経験豊富な人など、影響力の強いリーダー、それに賛同する人たちに支えられて、組織の精神的な風潮になっていて、一個人としてはいろいろな考え方はあっても、一つの組織として、周りを組織の思い描くように、構成員を思い通りに動かそうとする組織ぐるみの思いが気風になっている、当時のヤマギシズム学園のようなケースもある。

 特に「世界に唯一の学園」と銘うち、あれほどわたし(たち)参画者、会員、活用者、そして一部教育関係者の期待を集めた学園が、このような内実のものであったことを、過去のこととせず、現在の問題として考えていきたい。

 学園や実顕地本庁の打ち出す方針を「任し合い」というある場合には無責任のもとに、おかしな兆候を問うことなしに無条件で信じ込み、自らの頭で考えようとしない、主体性のない自分たちの生き方をこそ、深く自省することを大事にしたい。

 その意味で、本書は著者の当時の視点で思いや考えを丁寧に書き綴ることで、ヤマギシズム学園の実態がまざまざと描かれていたし、成長物語としても興味深い。
 著者ともども、学園出身者が、そこであったことを正視しつつ、今後に生かしていくことを願っている。


 改版作業をする中で著者は次のことを述べる。
〈しかし今回、『根無し草』の改版作業を進めていく中で、私はこの作品を、初めて「普通 の物語を読むような感覚」で読むことが出来ました。言葉にすると変ですが、要するに「おもしろい」と思えたのです。自分の自伝を「おもしろい」だなんて、おかしな事だと思いますが、自分の自伝という枠を離れて、より客観的な視点から『根無し草』を読めるようになったのだと思います。〉


【参照資料】
※(2016・3・16)のブログ「集団のもつ危うさについて」のなかで触れた「ヤマギシズムの本質を探る」(『ボロと水』第1号)に掲載された鶴見俊輔氏の発言から。

鶴見:「集団には集団の限界がある。集団は自然に集団の暴力性ってのを持ちやすいんだ。つまり強制するっていうかな。集団の多数による強制って、出ると思う。そうするとね、考え方の枠が決まっちゃうの。ちょっと違う考え方をしようとする人間を、何となく肘を押さえる形になって危ないんだ。それはね、その集団のいき方は間違いだっていうふうなことをいい得る強い人間をつくらなくなってしまうわけよ。だから集団だけに固執するとすればよ、だんだんとより多くの集団である国家に閉じ込められちゃってね、国家が「中国と戦争しよう。これが自由のためだ!」といえばね、集団だけに慣らされた人間はね、山岸会員であっても、のこのこと一緒にくっついていくような、去勢された人間になっちゃう危険性がある。」 

W:「でも個人の意志が尊重されればね、集団であっても別にかまわないと思う。」

鶴見:「そのところは、とても、非常に難かしいねえ—-」
「集団は集団で暮らしている中に限界があるので、個人でなければやっていけないような、つまり、集団から離しちゃう個人というのを、繰り返しつくって、個人でも立っていけるような人間っていうのを、繰り返し突き放してやっていかなきゃ—-。春日山でしか生きられないように人間になったら、危ないわね。これは結局ね、日本の政府に飼い馴らされちゃう。」
「だから個人にも限界があるわけ。集団にも限界がある。そういうふうに両義的にとらえて欲しいんだな—-。」
「だから原則はいいんだ。このテキスト(『ヤマギシズム社会の実態』)に書いてある限りは原則ってあるんだ。だが実際問題の運営でいうとね、研鑽会でもさ、やっぱり多数の暴力っていうのか、やっぱり、各所に現れてきているね。」

・「研鑽のよって立つところ」
鶴見:「ひとりで生きられない人間が、こう、たくさん寄るとねえ、そこに集団の暴力性が出てきますねえ----。」
「そういう人間ってのはねえ、他の個人より多く狂信的でねえ、「この意見は決まった。正しいんだ!なぜ分らんのか」と、いたけだかになる形の人が多いんですよ、それは。威張り返るってのは大体そうですねえ。自分の考えを自分でやるという、こう考える人間ってのはねえ、そういうことを普通はしないもんなんですがねえ----。(中略)
 集団が一枚に固まっちゃったら、もう集団そのものが自滅しますよ。そういう問題があるわけ。だから、集団をつくろうと思ったらどうしても、こう、個に返すということを、繰返し繰返し突き放してやっていかなきゃあ----。そうしないと普通、集団の自己陶酔が始まるんですよ。」
(「ヤマギシズムの本質を探る」『ボロと水』第1号、ヤマギシズム出版社、1971より)】

◎守下尚暉『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』を読んで。➂

〇「自分の足で立ち、自分の頭で考える」
 ②で次のことを書いた。
〈人が生きていくときに、考えたり問い続けたりすることは大切にしたいと思っている。それに先立って「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことは必然的なことである。〉

 だが、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことは、よほどの自覚がないと難しいこととなる。
 私は実顕地で、やらされているとは思ったことはなく、結構自分なりに考えてやっていたなと思っていましたが、調べていくと、自分の頭というより「ヤマギシ」の頭で考えていることも多かったと思う。

 人は誰でも、その時代、社会状況、身近な環境の影響を受けながら、考え方、感性などを培い身につけていく。その自覚の中で、特にこれは大事なことだと思うことは、まず今の自分の見方はどうなんだろうと一旦留保しながら、問い続けることを大切にしたい。
 厳密にいうと、さまざまな影響を受けながら、自分の考え方を育てていくので、自分の頭で考えるといっても限界があるが、そこを自覚する必要があると考える。


 当時のヤマギシ会、実顕地に限らず政治結社、宗教団体、特定の団体など、その社会でしか通用しない、独特の言葉を多用する。広げれば、テレビやインターネットや本や雑誌や広告などで語られる少なからずの言葉・表現にはそのような要素が含まれている。

 私はヤマギシズム実顕地に2001年まで25年余暮らしていた。その集団内でよく使っていた表現、他ではあまり使わない独特の言葉を、説得的な言葉として、あるいはその言葉を使えば伝わるのではないかと「お守り言葉」のようなものとして使い、その言葉、表現の一つひとつを吟味することなく、自らの感性に照らすことなく、安易な使いかたをしていた思いが残っている。

『ヤマギシ会』の活動に傾倒している参画者も会員たちも、自分の頭で考えているというより、ヤマギシ独特の思い方、言葉の選び方をする人が多いし、言動もそこで取り入れられている方式でやりがちである。学園世話係はその頃の学園の気風にそまった頭で思いを巡らしている人も多かったと思う。
 本書を読んでいると、思い当たる世話係も多く、あの人がどうしてこのようになったのかと不可解に思うし、やるせない思いになる場面もある。


〇本書から、世話係とのことは②に書いたので、ここでは親、同期生に絞っていくつか見ていく。

 独特の高等部生活に適応しようと懸命に取り組んでいた著者にとって、四カ月に一度三泊四日の「家庭研鑚」(それぞれの実家に帰り親と過ごす)は、ゆったりくつろぎ、以前の友達と交流できる機会で楽しみにしていた。ところが、それどころではない次のような展開となる。

 ヤマギシの広島支部は、高等部生が『家庭研鑽』で帰ってくる日程に合わせて、地域の子供が集まる『はれはれ集会』を企画し、苛酷なイベントと化していた。
〈ヤマギシの活動に傾倒する地元、広島支部の大人達は、広島県出身の高等部生に並々ならぬ期待をかけていた。もちろん、お母さんも、その例外じゃない。教育に行き詰まり、子供の心の荒廃が叫ばれていたこの時代において、親や先生に一切反抗しない高等部生の存在は、まさしく希望の光だったのだ。当時、ヤマギシズム学園の勢いは凄まじいものがあり、 その存在自体がヤマギシの活動の原動力になっていたと言っても、過言ではなかった。〉

 また、実家に帰っての母との会話で、疑問や悩みを打ち明けても学園世話係と同じようなヤマギシ流の言い回しがでてきてうんざりしていた。
 お母さんはいう、〈「そもそも、イヤイヤながらやらさている、ということ自体が、本当は無いんじゃないかしら?
 だって本人が行動をしてるってことは、それは既にやりたくてやってるって事なんだよ」
 その理屈は、ボクも『研鑽会』で何度か聞いたことがあった。行動している以上、それは誰かにやらされている訳ではないという、まるで詭弁のような理屈である。〉

 本科の10月の『家庭研鑽』はいつもと違った。
母:「今までの『家庭研鑽』は、いつもイベントばかりで慌ただしかったから、これからはそういうのじゃなくて、ちゃんと親子でしっかり話が出来る時間をつくろうか、って事になったのよ。もともと『家庭研鑽』って、そういう趣旨のものだから」
本人:「なにそれ? 今更すぎるんだけど。それなら最初っからそうして欲しかったよ」
母:「研鑽会って、そういうものなのよ。これでやろう! でやったあと、やってみてどうか? と振り返る。そうやって研鑽会を重ねていく事で、少しずつ真理に近付いていくんじゃないの?」
本人:「それじゃ、あのめちゃくちゃ忙しかった『家庭研鑽』は一体なんだったの?」
母:「その時はそれが一番良いと思ってやってたのよ。今はまだ過渡期なんだから、昔は良いと思ってやってた事も、やっぱりヤメようかと研鑽会で決まったら、スパッとやめる。それが、ヤマギシの考え方でしょ?」

 本科の2月に、両親が実顕地に参画するという本人にとってどうしようもない喪失感におそわれる。その後の村での「家庭研鑚」で本人の切実な思いをだす。
本人:「ボクは本当は、尾道の家でお父さんとお母さんに待っていて欲しかった。なんでいきなり参画しちゃったの? 一言なにか言って欲しかったよ。お兄ちゃんには言ったの? お兄ちゃんは参画することについて、何か言ってた?」
 といい、さらに問い続けると次のような反応が返ってきた。
母:「生意気なこと言うんじゃない! 親の生き方に、子供が口出しするものじゃないよ!
 参画するのに、なんでナオキさんの許可を得なきゃならないの!
 これはお父さんとお母さんが決めた生き方であって、ナオキさんには関係ない!」
 
 それに本人は、趣味として書いた小説のことで、ある学園世話係に「オラ、いつまでもくだらない事してないで、早く農場に行け!」とすごい剣幕で執拗に制裁されたことと同質のものを感じ黙ってしまった。
 要するに両親は、なにを話しても、相手の切実さをまったく受けとってなく、ヤマギシでよく聞かされる定型的な言葉しか返さない、自分の言いたいことだけをいう、その頃よくいた学園世話係とダブって見えた。
 むろん、熱心な会員さんにはさまざまな方がおり、一人ひとり違いがあるが、彼の親と同じような傾向の人はいたような気がします。

 そして、「全人幸福親愛社会の実現。その理想の為に、ヤマギシの村に参画する生き方を選んだ」という両親に、以前に書いていた『カドルステイト物語』の中に登場する、とある人物のセリフを重ねていた。
〈自分の身近に居る大切な人を護り抜き、幸せな生活を営む事。それを世界中の人が体現すれば、そのとき自然に、理想的な世界が生まれているのではないでしょうか? 自分の身近な者の幸せを蔑ろにしてまで、遠い他者を慈しむような行為は、偽善ではないかと思います。自分の身近に居る大切な人を幸せに出来ている人物こそ、遠い国の名も知らぬ誰かを救う資格があるのではないでしょうか。〉


 ヤマギシ社会では、幼年期から親子分離を標榜していて、その延長で幼年部、学園体制を作ってきた。「子どもは群れで育つ」といいつつ、親子関係の微妙な深甚を探ろうとしていなかったと思う。一人ひとりに合わせた親代わりの人もなく、無責任体制で対応していた。
 ある時期、学園のテーマとして「子どもを叱る」があった。最近の親は子どもを甘やかすばかりで、叱ることができない。叱ることのできる親になることが大切だという趣旨であった。学園で研鑽したことは、絶対なものであると捉える会員さんも少なからずいたと思う。

 また、本人の苦い思い出としてこのようなこともあった。
 予科生の秋になり、中学の頃からの友達ユウジが「ナオキ…… 一緒に高等部、辞めようぜ」と言われたとき、次のように対応する。
本人:「ユウジ、それは考え過ぎだって。そういうのは自分の見方ひとつで、どんな風にでも変わるものだよ?」
ユウジ:「ほらー、ナオキも世話係と同じようなこと言うのな。だからもう、オレにはムリだわ」
 ボクが何か言っても、それはユウジの耳に届かなかった。むしろボクが言葉を発すれば発するほど、ユウジにとって逆効果のように見える。〉
考えられる思考力を総動員して何とか引き留めようとしたが、結局ユウジは高等部を辞める。

 その時は、それ以上考える余裕がなかったが後から次のように思う。
〈ボクはこの時、自分の言葉がユウジに届かないような錯覚を覚えていたけれど、実はボクの方が、ユウジの言葉の意味を、ちゃんと自分の頭で考えようとしていなかった。〉

 世話係や母親との対応とは別の意味で、仲間との事件、行き違いは何ともならない苦悩があった。
 一方、仲の良い友達や同期生もいて、そのことが学園生活を続けられる原動力にもなっていた。

〈ボクが精神的に追い詰められても、何とか持ち堪えれているのは、間違いなくヒロキとマサルのおかげだった。仲の良い友達が居て、共通の楽しみがあるというだけで、なんとかボクは腐らずに踏ん張ることが出来た。〉
〈高等部生活も三年目に突入し、いま居る四期生男子部のメンバーは皆、入学から半数近くもの生徒が退学させられてもなお生き残っているという、その実績だけは伊達じゃない。あのヨシオも含めて、基本的にみんな真面目で、かつ、一癖も二癖もあるメンバーばかりだっ た。 そこには「馴れ合い」とか「足の引っ張り合い」と言ったものとは一味違う、生き残るための知恵とも言うべき、奇妙な仲間意識と共生関係が生まれていたのだ。〉

 専科に入って北海道への『学究旅行』で作った四期生ソング『Let' s Begin(さぁ、始めよう!)』は仲間から才能が豊かと絶賛され、とりわけ印象に残っている。
〈「お前、マジですげぇわ! ぜったい才能あるって!」
どの同期生も、蟠りを全て超え、みんなが本当にこの曲を気に入ってくれて、喜んでくれていることが分かる。ボクにとって、それは何ものにも代えたい喜びだった。 そうだ! ボクは、こういう事がしたかったんだ! 世話係に褒められなくても、認められなくても、四期生のみんながボクのことを認めてくれて、喜んでくれれば、それが一番じゃないか!〉
〈才能とは、元々備わっている個人の資質 だと、ずっと思い込んでいた。でも、それは誤りだった。才能は、人から認められて、初めて才能に昇華するのだ。〉

〈世話係のウチダさんは言っていた。(お前には才能なんて無い) たしかに、ボクには才能なんて無いのかもしれない。
 自分にしか出来ない事なんて、結局なにも無いのかもしれ ない。 でも、何もしないまま人生を終えるのは、もっとイヤだ! このまま何もせずに、死んでたまるものか!〉
〈人の役に立つことを、自分の喜びにする。それはヤマギシでよく聞かされる、教訓的な言葉である。でもそれは、やせ我慢をする事じゃない。四期生ソングを作って皆が喜んでくれたみたいに、自分がやりたい事をやって、かつ人の役にも立てたなら、それが最高じゃないか。
 だとすれば、ボクはヤマギシの村から出て行かなきゃならないだろう。〉

※四期生ソング『Let' s Begin(さぁ、始めよう!)』
『飛び立とう! 限りのない世界へ。 
 ボク達の舞台は、この地球!
 まぶしく輝く陽 の光を追って、 どこまでも走り続ける。
 吹き抜ける風が語りかけてくる。 今こそ飛び立つ時さ!
 さぁ、蒔こう! 天地に恥じぬ種を、この腕で!
 やがて集う世界中の子達を思い描いて』 

参照:◎説得的定義と「言葉のお守り的使用法」と実顕地(2019-04-16)
(つづく)

〇付記
 本書を読んでいて、世話係に思い当たる人がいて、あの人がどうして、という場面がいくつか出てくる。
 アウシュビッツの経験を問い続けたプリーモ・レーヴィに、「ありとあらゆる論理に反し慈悲と獣性は同じ人間の中で同時に存在し得る」(『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日選書)というような表現がある。ごく普通の人たちがナチス体制を支えていたとの記述がいくつか見られる。
 同時代日本では、B29による空襲の戦下、各地焼野原の状況の中で、「鬼畜米英」の頭で竹槍訓練に励んでいた人が多くいた。私たちの父母、祖父母の世代である。

 自分自身を振り返っても、様々な面があり、〈善・悪〉あわせ持っていると思っている(なにが悪でなにが善であるのかはいい加減な面があるが)。その自覚のもとで、少なくても「悪」の面を他に及ぼすことだけは避けたいと願っているのみである。
 ここで課題にしたいのは、同じ人間が、どのようなときに「善性」が働き、どのような経緯で人を思い通りに制御するような「悪性」のようなものが色濃くでてくるのか。その態度はどのようにできてくるのか、その頃の自分にも引き付けてじっくりと見ていきたい。

◎守下尚暉『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』を読んで。②

〇私の知る限り、ヤマギシズム学園高等部に在籍していた生徒が、当時の実態をありのまま書き綴った書籍は、本書しかないと思う。また、青少年の成長に欠かせない大事なテーマがあるとも思う。
 まず何よりも、著者が大変な厳しい思いをして過去を振り返り書き現したことで、明日に繋がる大事な経験になることを願っています。そして、今後の作家としての活躍を見守っていきたいと思っている。
 当ブログは、特異な共同体として数々の興味深い試行錯誤もあり、おかしなことも数々行われ、その影響の大きさを鑑みて、理想集団がどのように変容していったのか、様々な視点から考察することで、今後に生かしていければいいかなと考えている。
 特にヤマギシ会、実顕地が力を入れ、異様な展開をしたヤマギシズム学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返ることは大切で、その意味合いにおいても本書は第1級の資料になるのではないかと思う。
 その学園を産み出したヤマギシズム実顕地で、25年以上暮らし、その頃中心になって活動していた私から見て、この作品から感じた、考えたことを書いていく。


〇大雑把に本文を参照して著者の中学三年生から学園高等部での生活を見ていく。
『ヤマギシ会』の活動に傾倒している母親の影響で、「楽園村」「はれはれゼミナール」など参加していて、中学三年生の夏に「学生特講」「進路ゼミナール」などで、親しい友達も増え、高卒の資格を得られない無認可の高校だと告げられていたが、「実はそんなに好きじゃないけど、お母さんがそこまで喜ぶのなら」と、学園高等部へ進学する。
 その頃の著者は「ボクにとって、王様の言うことは絶対だった。王様に逆らうなど以ての外。十四年間生きてきた中で獲得した、ボクなりの処世術だった。」と、周りから良い子、やる気のあるように見られるように演じていたという。見方を変えると反抗を好まない面もあったようだ。
 その頃、『ヤマギシズム学園高等部』の子供達は、親や先生に一切反抗せず、何でも素直に「はい」で実行する理想的な子供として話題になっていた。

 高等部新1年生(予科)の四期生は百一名。食事は昼と夜の一日二食。二人で一枚の布団に入って寝なければならなかった。気の合った数人と隠れて『テーブルトークロールプレイングゲーム』をするぐらいで、三百六十五日、いつも朝早くから起きて日が沈むまで農作業に勤しむ暮らしであった。
 農作業は真面目に取り組んで、そのうち「エリート・男子部」と「落ちこぼれ・その他」と区分けされ、著者は世話係からも認められ、「エリート」になっていた。
 恋愛なし、個別研、係の説教・殴る蹴る、友だちの退学など、数々の疑問を抱えながら、王様には決して逆らわないという生き方は、言い表しようのない不自由さを伴うものであるという事を、少しずつ理解し始めた。

 そして次のようなことを思うようになる。
〈何が起こっても明るく前向きな『はれはれマン』
 屈強な体と優しい心をあわせ持った『男らしさ』
 どんな時もハキハキ取り組む『覇気のある子供』
 そして完全無欠な『ヤマギシズム学園高等部生』
 ヤマギシで語られる色んな理想やその人間像。それらを実際に演じていく中で、ボクは既にどこまでが演技で、どこからが本当の自分なのか。自分でもよく 分からなくなっていたんだと思う。〉
 一方、次のことも思う。
〈高等部では世話係の言うことが絶対だ。誰も、世話係に対して意見できる生徒なんて居ない。きっと世話係には、ボクの考えも及ばないような、なにか深い意図があるに違いない。いつからかそう思うことで、世話係の理不尽にも納得するようになっていた。〉
 それでもエリートであり続け、模範的な学園生で構成される「核研」のメンバーであった。予科が終わるころは、男子部の生徒52名のうち、本科(2年生)に進級できたのは36名だった。

 本科生(二年生)になり、秋ごろ思いもかけないような事件が起こる。世話係に相談してもあまり受けとってくれないように思い、世話係との間に距離を感じるようになり、さらにさまざまなことや疑問に遭遇し、いろいろなことに身が入らなくなる。
〈ヤマギシは、互いに他人のことを思い合う事で成り立つ社会じゃなかったの?
 本気で他人の事を考えてくれる人間なんか、どこにも居ないじゃないか。口では理想を語っても、結局外の社会と本質は何も変わらない。
 誰もボクを護ってなんかくれなかった。最後にボク を護るのは、ボクしか居ないんだ!〉
〈この人はちゃんとボクの話を聞こうとしてくれていない。何を言っても自分の取り組み の問題にすり替えて、跳ね返されてしまうのだ。 この人には、ボクの本当の気持ちなんて 伝わらないし、本当の気持ちを打ち明けられない、とボクは思った。〉
 さらに、世話係から次のようなことも言われる。
〈ハッキリ言うけど、お前には才能なんて無い。お前はもっと現実を見た方がいい。自覚しろ、お前は無能だ。お前がそんな事やらなくても、お前のかわりなんて幾らでもいるんだぞ〉

 そして、〈何もかも何もかも嘘くさく感じてしまう。自分が思い描くヤマギシの優等生を 演じ続けるのに、ボクはもう限界を感じていたのかもしれない。でもボクには、もうどうする事も出来なかった。〉となる
 2月に入り村人の『愛和館仲良し研』で、両親の参画を知る。
〈どうしようもない喪失感。なにもかも失くした脱力感。一番底で安定する心の拠り所を、 ボクは失った。もうボクには、帰る家がなくなってしまったのだ。
 帰る家を失った今、高等部を卒業したボクは、何処に行けば良いのだろうか。家も無い。親も居ない。学歴も無い。お金も無い。〉
 専科生(3年生)に進級できたのは、わずか二十八名だった。

 専科に入って夏の終わりの北海道への『学究旅行』(修学旅行)で作った四期生ソング『Let' s Begin(さぁ、始めよう!)』は仲間から才能が豊かと絶賛され、次のように思う。
〈才能とは、元々備わっている個人の資質 だと、ずっと思い込んでいた。でも、それは誤りだった。才能は、人から認められて、初めて才能に昇華するのだ。〉
 そして次のような決意を固める。
〈ボクは高等部を卒業したら、参画せずにヤマギシを出る。その為には、 あと半年以内に、 具体的な計画を立てなきゃならなかった。〉

 新年になって、高等部・大学部生全員の「全体研」で、ある事故を知らされる。「この件について噂話を流したり、憶測で変に話を広めたりしないように! 以上!」というような説明があり、あっけなく終わる。先に夏でも、二歳の乳児が脱水状態 で死ぬという事故があり、その時も詳しいことは知らされず、当日の新聞もおいてなかった。その時も教えてくれた、村で働いている社員さんから、学園の『中学生女子、飛び降り自殺』の事実を知る。
 卒業まじかになり、ある女子とのささいな手紙のやりとりで、執拗な地獄のような折檻があり、一週間二十四時間ずっと小さな部屋に閉じ込められるという、肉体的な苦痛以上にキツイ、監禁による精神的な苦痛を受ける。

 そして卒業時に次のことを思う。
〈自分を護る為には、誰かとぶつからなきゃいけない。ボクはもっと、自分の我を通せば良かった。それは、我執を捨てる事を是としているヤマギシの考え方に、真っ向から反するものだ。でも、そうしないと、 ボクはボクを護れない!
 ボクは決意した。こんな村、絶対に出ていってやる!
 そしてボクは気付く。そうか。これが、志を立てるという事なんだ。ボクは今、初めて志と呼べるものを立てたのかもしれない。自分の意志で決定し、その意志に従えばいい。
『王様』には逆らわない? いや、違う。これからはボクが、『王様』になるんだ!皮肉なことに、 ボクはこの瞬間、男らしい覇気を身につけていた。故郷を失ったボクの長い旅は、たった今、始まったばかりだ。


〇 このように要約してきて、図式的に次のことを思う。
 15歳の処世術として身につけてきた、長い者に巻かれろしきのイエスマンで、波風の立たないように生きてきて、おそらく周りから素直な良い子のように見られていたと思う。
 そして、大変な苛酷な思い出したくないような高等部生活体験から、自分の足で立ち、自分の意志で動いていく、明日につながる覇気を身につけていた。

 ヤマギシ学園は、教え育てる「教育」ではなく自らが学び育つ「学育」として子どもたちを見ていこうという目標で始まった。
 その頃の学園は、もっともらしい理屈を並べ、ひたすら世話係の意向に合わせ恣意的に子どもたちを動かし、それに従わないと説教・殴る・蹴るなど執拗な折檻に及ぶこともあった。
 当時の学園世話係の少なからずの人は、反抗的であろうとなかろうと、どの子にも、ひとりひとり精神的な人格者として見ることをしなかったのではないだろうか。

 押さえておきたいことは、実顕地参画者は、ある程度熟慮して、自分の意思でその理想に共鳴し集まってきて、そこの経営理念のもとで、一つになって取り組んでいたことでは構造としては同じような面があるが、そこを構成する一人ひとりはさまざまな特色があった。

 ところが親に連れてこられた、自らの意思で選び取ったわけではない多くの子どもたち、成長段階にあり、これからいろいろなことを身に着けていく子どもから見たら、実顕地の学育方式が一枚岩のごとく立ちはだかっていたのではないだろうか。
 そのような学育方式でも、ある程度こなしていけた子にとっては、その子の持っている力やその他の要因で、ある種の逞しさを身につけた人もいるが。

 しかし、その学育方式についていけなかった子に対しては、あまりにも非道なためなおしや、ここにいる資格がありませんなどの切り捨てが安易に行われていた。そのことで押しつぶされ、いまだに悶々としている人も少なからずいる。


〇自分の足で立ち自分の頭で考える。
 人が生きていくときに、考えたり問い続けたりすることは大切にしたいと思っている。それに先立って「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことは必然的なことである。
 特に、中高生から成人にかけての年代にはもっとも身につけたいことだとも思う。
 その上で、あることに集中することや優れた指導者についていくことはあるとしても。

 1歳半の孫の育ちを見ていて、多くのことを親など家族に支えられて育まれていくが、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことをおさえ、ひとりの精神的な人格者として、そして「心をもつ者」として見ることが基本になると考えている。

 そのことは、乳幼児期に限らず、人が生きていくことは、数多の人に支えられ、見守られながらも、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」人同士のお互いの相互作用によって生き・生かされてきたのだと思う。

(つづく)

◎書評:守下尚暉『根無し草: ヤマギシズム物語1 学園編 Kindle版』を読んで①

〇ブログ「広場・ヤマギシズム」の記事(◎ある投稿から、ヤマギシズム学園問題に触れる・2017-01-24)に、守下尚暉さんからコメントをいただきました。
 
 そこに、ヤマギシズム学園高等部を卒業した四期生の学園生で、1994年に村を離れ、今はインディーズ作家として本を出版しているとあり、『根無し草: ヤマギシズム物語1 学園編 Kindle版』の紹介があり、すぐに読みました。
〈本書は、その学園を卒業した著者が、当時実際に経験したことを未熟な少年の視点から描いた、真実の物語である。〉とあります。刊行は昨年のことです。

 Kindle版は初めて利用しました。少し戸惑いもありましたが、すぐにわかり、読み始めたらとまらなくなり、悲しい思いを感じながら一気に読みました。

 一読して次のことを思いました。
・よくこれだけのことを書き、また文章も伝わってくるものがあり、そのことに感嘆を覚えます。当時の厳しい辛いことを書くことは、大変だったと思います。

・私の子供たちや、元学園生や学園世話係をしていた友人からいろいろ聞いていていました。そのことも含めて、当時の学園の実態がまざまざと描かれていたように思いました。

・「あとがき」に〈今の私ではなく、当時の私の視点を大切にしました。四十代になった今の私の思いや考えは一旦棚に上げて、十四歳から十八歳の頃の私の視点で、その愚かさや未熟 さも含めて、当時の思いて、当時の思いや考えを丁寧に書き綴る。そうする事によって、当時の『ヤマギシ会』の実態がより鮮明に浮き彫りになり、読む人にも分かり易くなるのではないか。そう考えたのです。〉とあります。

 これは大事な視点だと思います。それもあるのか、当時の学園の実態が余分な解釈を入れず、率直に現れていると感じました。
 さらに、15歳から18歳までの多感な時期、特異な体験の中で、自分の足で立ち考える、ひとりの青年の成長物語になっているとも思いました。

・本文の中から。
〈『他に求めず、他を責めず、全体が良くなることを思って、自分がやる』
 それは予科生の頃、『核研』で出されたテーマだった。
 でもヤマギシは、全体が良くなる為に個人を犠牲にしている。
 そもそもヤマギシの言う全体って何だろうか?
 全体なんて言葉を使いつつ、実はマギシという組織が良くなる事を優先してるだけなんじゃないだろうか。〉
 など、素直な思いが紡ぎ出されていきます。

・「あとがき」に次の言葉があります。
〈それは、自分の心を深くえぐり取るような、非常につらい作業でもありました。正直に申し上げると、私は自分の人生を狂わせた『ヤマギシ会』に対して、強い嫌悪感のような並々ならぬ思いを抱いています。そんな私にとって、この本を書くことは、相当な覚悟を決める 必要がありました。実際、執筆作業は捗らず、書き始めてから完成まで実に三年もの年月を 費やしました。
 記憶に時効はありません。
 執筆中、当時のことを鮮明に思い起こしてしまい、何度も涙を流したものです。これは むしろ、私にとって忌まわしい記憶。本当は誰にも明かしたくない過去 でした。〉
 
 私の知る限り、ヤマギシズム学園高等部に在籍していた生徒が、当時の実態をありのまま書き綴った書籍は、本書しかないと思います。

・本書は、題材としては特異な学園での体験をもとにしたノンフィクションですが、青少年の成長、成熟にとって欠かすことのできない大事なテーマがいくつかあること、描写力など、かなり水準の高い作品だと思いました。
(つづく)
 

(51)問い直す⑩「特講」がこれまでとちがって観える(福井正之)

※ 旧友からのFBへの投稿に「自分が何者であるのか?どのように生き死を迎えるのか…?という問いに揺らいでいる」とあった。私は久しぶりに自分の<同類>に出会ったようで心強かった。同時にこの問いかけへの私の思索は、まだ中途であることを思い出した。
 
〇くり返しになるが私の論考では、ヤマギシ批判=自己批判テーマがメインではあるが、同時に<自己存在観>に関わるテーマを交錯させてきた。その発想は私の表現では、以下のようになる。
 〈社会を変えようとするなら自分が変わること/しかし今は自分を変えようとは全然思わない/その前にもっと自分を知りたいのだ/自分を知るとは/たぶん自分の変わらないところを/明らかにすること〉
 そこで私は、自分自身の生い立ちや親との関係、自分の理念的なものへの関心の深さ等に着目してきた。いいかえればわが人生について「問いかけ」始めたのである。その中での最大の気づきは「自分がしたいことをはっきりできない子どもは、たぶん本質普遍性や理念に向かうのではないか」という認識だった。これはかなり以前から意識してはきたが、表現としてはムラ離脱以降である。それは自分の欲望や欲求への屈折した態度の結果であり、生き方として決して肯定できるものではない。このことは同時に子育て、学育面にもかかわってくる重要なテーマだと考えている。
 同時に気になり始めたのは、私自身の「特講」体験のことだった。それもこれまではその〈「一体」「無所有」等の真理・真実性への導入的研鑽〉という意識だったが、このところ特講こそ「自分を知る」上でかつてない機会だったのではないかと感じ始めている。

 ちなみに吉田光男さんも手記の中で、何度か自分の特講体験に触れている。
「人間は観念の虜になりながら、自分が観念に縛られていることに気がつかない。私にそれを気づかせてくれたのは、特講である。これなしに自分が自縄自縛に陥っていることに気づくことはなかったかもしれない。私にとって、特講で何かが変わったとか、何かが明確になったというものがあったわけではない。が、すごく楽になったのである。何かが外れたのである。その時はよくわからなかったが、後で考えると、自分の観念の枠組みがストンと外れたのだと思う。途端に世の中が明るくなり、誰とでも仲良くやれそうな気分になった。ものすごい開放感である。」(「わくらばの記」59p)

 その印象は私もほぼ同感である。あの解放感や高揚感もわりと鮮明だが、当時のメモにも触れて新たな発見もあった。私に何かを呼び覚ましたのは以下の部分である。
「ベラベラとしゃべっていたおれは自分が恥ずかしくなった。いわゆるインテリ(教師、学者の卵など)は、これまでとは逆転してどちらかといえば劣等生のようだ。よくしゃべったが、それはひたすら実質のない煙幕をまき散らしただけだった。逆にこれまで沈黙していた人々(農家の親父、自殺未遂の少女など)は、後になるほどその本領を現し始めた。この人々は、血肉化された体験のみを彼ら固有の言葉で訥々と語り始めた。今度は先行するおしゃべりたちが沈黙し何事かを考え始めるのだった。」

 いうまでもなく<怒り研>の場面だった。現在の時点で考えれば、ここで取り上げているのは参加者の「自分への問いかけ」の真剣さだった。その観点では私は劣等生だったのである。自己顕示と韜晦をない混ぜた日常的なおしゃべりの次元で参加し、そのうちこれはなんか<集団的セラピー>の一種かもしれないなどという批評に終始し、その場の渦中には参加していなかったと思う。それが変わったのである。かれらによって私は、人が腹の底から発するもののリアリティーというものを明らかに感じだしたのだ。

 これはまさに「教育者が教育される」場面であり、私自身が「学育」者である言葉を実感した最初の体験だった。「自分を知る」という観点でこの場面を想い浮かべると、そこにあったのは「なぜ私は腹が立つのか」あるいは「そこに残れるか」という自分自身への真剣な問いかけだった。その姿は「自分を知る」ために「われに向き合っている」一人ひとりの存在であり、その微妙な重要さは「一体とは」「無所有とは」という理念的な真理・真実への直接の問いかけではなかったことである。したがってその帰結として生じたのは「自他融合と心的自由(事実と思いの分離)」の心地よさ、解放・高揚感だったのだ。

 そして私が参画を決めた根元的動機は、まさにその心地よさにあったと思いだす。しかし参画して以降、最初に感じた違和感は、ここはどうも特講で体感した世界とちがうのではないか、だった。どこまでも「なんでや」と問いかけ続けられるような研鑽機会はまずなかったし、それに代わる研鑽学校なるものは、どこかお勉強的な学習が多かったのである(自らも係機会の多かった吉田さんはそれへの危惧を随所に表明されている)。それこそ今にして思えば「けんさん(真なる研鑽)」喪失の兆候だった。

 今ふり返るにその違和感こそ、実顕地変質へのたしかな兆候だったのだ。その手掛かりを見失った私(ら)を待っていたのはもうくり返すまでもないだろう。参画以降、仲良し・親愛の自然な心情がいつの間にか実感を失い、「ねばならない」信条と習慣に変質していく。その流れを見れば、イズム理念への傾倒よりも、その真実性への絶えざる(自他への)「問いかけの連続」にこそ真価があると感じる。理念を信条化していくことは、決して理念の正当性を保証しない。逆に理念のドグマ化、宗教化を結果する。

 私の特講受講は1973年のことであり、ざっと三十数年も前のことであるが、特講というものがこのように見えたのは初めてのことだった。そしてこのことは当然ながら、この間「自分はこの世界の中で何者なのか」と問い続けてきたことと直通してくるのである。ただそれはどこまでも孤独だったし、特講は集団だった。しかし特講は「孤独な自問者」の集合であって、集団内の交流に直接の意味はないと思う。あるいは自己研鑽者のその営みのままの集合体といってもいい。
 とはいえ私の特講参加の主たる動機は、やはり「「自分とは何者なのか」から発していたはずだった。
2017/7/26

参照:◎吉田光男『わくらばの記』(5)(2018-03-22)

◎一人ひとりの主体性のある一体とは

※一人ひとりの主体性のある一体について、二つの論考から

〇「吉田光男『わくらばの記』(2)」から
〈1月29日〉
『1937』の中で、辺見庸氏は、堀田善衛の『時間』を引用しながら、南京虐殺の死者について、死者の数が問題なのではなく、一人ひとりの死が問題なのだ、と強調している。一人ひとりの死が、10万なり20万なりに達したのであって、一人の死は10万分の1、20万分の1のものではありえない、と。死者の一人ひとりには、その人だけの人生があり、物語があるのだ。

 私たちはよく数、数量を問題にする。しかし、一人ひとりの死は、そしてその人生は決して数に還元することはできない。
 それに関連するかどうか、村の暮らしの中でよく「みんな」という言葉が使われる。
「みんながやるからできます」というテーマとか、「みんなの力を一つにして」とか。

 しかし、「みんながするからそうする」という生き方は、本当に主体的な生き方なのだろうか。この考え方は、もしかしたら自分を放擲して付和雷同、ロボット的な生き方に転落することではないか。「お手てつないでみんな一緒」というのは、一体の生き方と同じなのだろか。

 10年ほど前に、村人の一人と話をしていて、何回かこんなやりとりがあった。
「みんなそれが良いって言ってるぜ」
「みんなって誰や?」
「みんなってみんなよ」

 そのうちに、自分だけがみんなから外れているような気分になって、黙ってしまった。しかしこの「みんな」という言葉は曲者である。うかうかすると、自分も他もごまかされてしまう。

 山岸さんは、こうした「みんな」の寄る一体を「便宜一体」と言い、「便宜一体」は何かあればすぐ崩れる、とも言っている。


〇「『わくらばの記』に触れて」から抜粋
 吉田光男さんの日録に取り上げている「みんな」については、その人の主体性が全く感じられず、吉田さんの違和感も当然だと思う。
 この事例や私の体験から、その頃の実顕地について、一人ひとりの主体意識の欠如、喪失という視点から、その内実をみていくこともできるような気がする。

※広辞苑などの辞書でみると、次のようになっている。
「主体」:自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。
「主体性」:自分の意志・判断で行動しようとする態度。
「主体的」:ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。

 ヤマギシズム生活の理念に共鳴して、それぞれの主体性をもって参画した人たちだが、そこでの暮らしを通して、自己の主体性にもとづいた意志や判断よりも、組織の方向性に導かれ、影響されていた人も少なからずいたのではないだろうか。

 特にヤマギシズム実顕地は、かってない社会の標榜のもとで、独特の言葉遣い(理念)、対話形式(研鑽)、生活様式(提案と調正)、運営方法(任しあい)などが独特のものであり、それに慣れるにしたがって、自己の主体性にもとづいた思考方法というよりも、組織の志向性にあうような感性、考え方にそまっていく面もあっただろう。

 そこから、Yさんの事例にあるような、「研鑽会で決まった」「みんながそういっている」「村ではこうしてきた」のような表現がうまれる。

  自己についての自己とともに社会に対する自己という面があるので、ある程度周りの状況にあわせていくことはあるだろうが、実顕地のような特殊な運営方式と生活形態で構成された集団では、よほどの自覚がないと、組織に対する自己と自己にとっての自己が混然としてくる。

 あわせ方は一人ひとり異なっているが、疑いの目を挟まず短絡的に組織の掲げる方針にあわせて、あるいは組織がもつ気風の「いきほひ」(次々と賛同者、参画者が増えていくこともあいまって)に押されて、だんだんと組織べったりの人間になっていく人もいただろう。
 だが、その頃の実顕地がどうあろうとも、自己の主体性をないがしろにしたのは、自分自身だと思う。

 どこまでも主体的であろうとしていた人たちもいただろうが、だんだん息苦しくなってきて、そこから離れたり、Yさんのように違和感を覚えつつ向き合い続けていたりしているひともいるが。

 私のことを振り返ると、自分特有の見方や感じ方を、主体性をもって表現する場合でも、どこかで実顕地ではこのように考えている、このような方針であるのではないかなどの声に、多かれ少なかれ左右されるものがあったと思う。

 さらに問題になるのは、自らの主体性とは関係なく親の意向で村に来た子ども達、学園生たちに対して、一人ひとりの主体性を豊かに育むことの重要な時期に、それぞれの主体性をそぎ落とし、実顕地の方針(中心になって進めている人たちの方針)に相応しい人へと無理強いをしていたことが、徐々に明らかになってきつつある。

参照:◎吉田光男『わくらばの記』(2)( 2018-02-01)
   ◎『わくらばの記』に触れて(2018-02-04)

◎(50)問い直す⑨一体ならぬ同化、ひっかかりの我執化(福井正之)

〇時に回り道することもあるが、私にとっての焦点は変わっていない。「問い直す⑦<自発的自己抑制>の構造」の中で取り上げた問題意識をさらに私なりに深めておきたい。例によって吉田論考からの引用である。

〈(前回紹介した資料の最後)「――しかしこの自立がないところに同化はあっても一体はない。つまり個のないところに私意は存在しないし、したがって公意も存在しない。私意尊重公意行も成り立たない」(113p)を承けての次の段落。

 〈ヤマギシの中で私意の表明を妨げていた言葉に「ひっかかり」と「我執」がある。……これ(ひっかかり)は誰にでも起こりうることで、それが物事を考える出発点になる。しかし村では、ひっかかることはこだわることであり、良くないこととされてきた。こうした先入観の下では、自分の思い悩むことなどはとうてい出すことができない。それは解消されずに個人の内部に蓄積されることになる。そしてひっかかったり、こだわったりしたことは、我執として否定されてきた。そうなると自分が一番思い悩み、考え、解決したい問題が、闇に葬り去られることになる。本当はそのひっかかりこそが、研鑽さるべき最大なテーマの筈なのだが……。2000年問題以降、ずっと悩み、考え続けてきて、ようやく悩みひっかかることこそが、自分が真正面から取り組むべきテーマなのだと気づくようになった〉(113~114p)

  あのマスコミ指弾の大波の下でも当時の村人の日常は決して重苦しかったわけでもなく、日常的な明るい語りや笑顔はそのままだったであろう。しかし今思い返してみれば、吉田さんの言われる「同化」という指摘は微妙で大事な部分を浮き彫りにする。一体というより、日常的な集団<同化>の姿は一見明るかったのではなかろうか。しかしこの同化の明るさの背景に進行していたことは、そんな生易しいことではなかった。

<上下階層化>はさらに強固に確立され、実はメンバー同士の横の付き合いが何となく憚られるもの、いいかえれば一列横のつながりが次第に解体しつつあったのである。それは吉田さんの「会員時代よく会っておしゃべりしていた女性たちが、参画後は会ってもお互い素知らぬ顔して通り過ぎる、といった光景がよくみられた」(30p)という印象とも符合する。いいかえれば「けんさん」による心の肝心な部分を交流し合える機会のない関係の実態は、どこかでそれとはない孤独感を漂わすことになっていたのではないか。

 こういう部分について山岸さんは何か言及していることはないのか? ムラ出後、私は改めてその個所を発見したように思ったのは青本の以下の部分だった。

「……万一不幸と感じる事があるなれば、それは何処かに間違いがあり、その間違いの原因を探究し、取り除くことにより、正しい真の姿に立ち還ることが出来るのです。幸福が真実であり、人生はそれが当たり前のことであって、不幸は間違いです。」(8、幸福一色 快適社会)

 もうすでに暗記し続け、今でも思い出すあの部分である。いったいこの文章は何のためにあったのか? まったく寺の坊さんがその中身も顧慮せず経を誦するように、覚えていただけだった。しかしこの文章の現実の効用は、表面下でメンバー個々の不幸感を抑圧するように作用しただけではないのか。その「原因を探求」するという方向とはまったく逆に。というのは、山岸さんは「不幸は間違い」と断定しながら、決して「不幸と感じる」こと自体を否定していないのである。

 にもかかわらず多くの人は「不幸と感じる」なんてそんな人はこの「幸福一色快適社会」に居るはずがないと、かぶりを振ったであろう。そして多少のひっかかり、こだわり(それこそ不幸感の始まりといってもいい)があったとしても、それは良くない恥しいことだとみなしたであろう。おぼろげながら私のなかでもその記憶が甦ると、涙が湧いてくるくらい滑稽に感じる。 

 しかしこれは笑い事ではない。このことは「私意」形成の(同時に「けんさん」の)大前提となる自分の内面を探る自己観察、自己凝視を、何となく悪いことをしているようで無意識に避けようとする自己規制を生じる。しかもイズム信奉に真面目な人ほどそうするだろうし、それができないとついつい自分を嫌悪し否定することもないとはいえない。そのように思い当たってきたそのことを私は「自発的自己抑制」と命名せざるをえなかった。このことは極論すれば、自己内面、本心、本音の喪失にまで帰着しかねない。そこまでは行かないにしても、その貧弱化は避けえなかったであろう。 

 外界への無関心、自己内部への沈潜という営み・生き方も社会的には充分ありうるし、文学などという営みはそのことを不可避とする。しかしわれらが生き過ごした、ああいう<同化必須「けんさん」不能>の近接集団は、学園生も含め、読書や文学ないしその他の内面表現不毛の環境になり果てていたのである。にもかかわらず、その学園生の中から密かに読書を継続し続け素晴らしい表現者になりえていた人が存在していたことは、唯一の救いである。それはいかに抑圧しようと挫けない人間精神の強靭さを表して余りある。
2017/7/10

参照:◎吉田光男『わくらばの記』(8)(2018-05-03)

◎過去は同時に未来および現在であり

※過去を現在および未来に生かすことは、このブログの趣意であり、吉田光男『わくらばの記』も随時触れている。それに関してのいくつかの視点を見ていく。

〇吉田光男『わくらばの記』(2)から
 〈1月26日〉
 未来は過去から照射するしかないと思うのだが、そのことと過去にこだわる、あるいは過去にとらわれるということとどういう関係にあるのだろうか。

 恐らく「こだわる」ことは、過去を調べることをやめ、固定化することだろう。そしてその固定化した過去に自分がとらわれ、身動きができなくなる状態を指すのだと思う。

 だから、未来を照射しつづけるためには、過去を調べることをやめてはならない。繰り返し繰り返し調べることである。

 〈1月27日〉
 未来は過去からしか照射できない、と書いた。よく研学などで「いま、いま、いま」ということが強調される。「直面している今から逃げてはならない」という意味で、これは正しい。しかし、その「いま」をどこから考えるかといえば、過去の経験や知識から得たもので考えるのである。だいたい「いま」という時の流れを切り取ることなどできない。切り取られた「いま」は、時の流れとしての「いま」ではなく、観念がとらえた近過去の映像である。

「いま」を強調することで、過去に目をつぶり、歴史を忘却することは許されない。

 安倍首相が、「過去を未来の子供たちに残さず、未来志向の世界を構築する」などとバカげたことを言っている。慰安婦問題を無かったことにしたり、金でケリをつけておしまいにしようなど傲慢も甚だしい。

 ヤマギシでいえば、1980年代以降の急拡、そして急速な縮小、そこにいったい何があったのか、なぜそうなったのか、そしてその時私たち一人ひとりは何を考え、どう行動したのか、繰り返し繰り返し考えてゆく必要がある。そこにしか未来に生かすべき教訓はないのだ。

  
〇吉田光男『わくらばの記』(9)から
 (5月×日)
 昨日、KTさんから手紙をもらい、村の歴史の中でこの歴史をつくってきた一人ひとりには、語りつくせぬほどの重い体験があることを感じさせられた。しかし、それらが少しも記録されることなく、忘れられ消滅してしまおうとしている。残っているものがあるとすれば、それはいわゆる“ハレハレ”の公式的発言の記録で、発言者の人間味を少しも感じさせることがないものばかりだ。

 振り返ると、村には書かれた歴史の記録がない。数年前にやっと年表が作られただけである。なぜ歴史が書かれないのか。それは恐らく、村が無謬性の神話に捉われているからではないかと考えられる。しかし、一つの集団がいつも正しく誤りのない歴史を刻んできたなど、とうてい言えるものではない。歴史を書くということは、自分たちの正当性を主張するためではなく、自分を正直に振り返り、そこから正しからんとする次へのステップを見出すためである。

 歴史が書かれないもう一つの理由は、「歴史は今、今、今の連続であり、過ぎ去った過去はテーマにはならない」とする考え方である。確かに私たちにとって、「今」こそが問題である。それは間違いのないことではあるが、その「今」は過去の蓄積の上に成り立っており、当面する「今」が未来を動かす出発点になるということを忘れてはならない。「今」をどう見るか、それにどう対処するかは、過去の反省や検討、未来への展望なしには出てこない。これがないと、私たちは目先の現象だけに一喜一憂するその日暮らしの生き方しかできなくなる。

 しかし、歴史をまとめるということは大変な作業である。それを可能にする人材も資料の蓄積もない。むしろ今やるべきことは、一人ひとりが辿ってきた自分の個人史を書いてみることではないだろうか。村の歩みのひとこまひとこまで、自分が何を思い何を願って行動したか、また今それをどう思うかについて、正直に書いてみる。そうした個人史、自分史の蓄積が、村の歴史なのだと思う。

〇吉田光男『わくらばの記』(19)から
(3月×日)
 朝日新聞掲載の片山杜秀氏の文芸時評を読んでいたら、次のような言葉にぶつかった。
「近代西洋思想は進化や発展や成長のことばかりを言いたがり、過去よりも未来に高い値打ちを与えたがる。しかし、過去も現在も未来も、結局はそれを考える人間の意識の中にしか存在せず、意識は常に現在進行形なのだから、過去と未来という一緒にならぬはずの時間は現在の意識の中で重なる。そういう時間を一所懸命に区別しようと思うことがおかしい」
 進化や進歩や成長がかなり疑わしくなった今では、この言葉はかなり納得できる。ただ今回この言葉に注目したのは、先月書いた老蘇についての私の見方が、やや偏っていたのではないかと思わせられたことである。つまり、「年をとるまでに自分の内部に蓄積(内化)したものが少ないか無に等しい場合は、老蘇としての生き生きとした人生は送れないのではないか」と書いたことだ。
 内化したものの質や量が、人によってそれぞれ違うことは当然だが、それが少ないとか無に等しいなどとは言えないのではないか。人によってそれぞれの経験があり、記憶・思い出がある。その過去の経験・記憶・思い出を今に蘇らせ、それが自分の人生にとって何であったのかを見つめなおし、残された人生に活かす。こうして、過去は現在の中で未来と重なることができる。ここに老蘇の生き方を可能にするものがあるのではないだろうか。
 ただ、過去を過ぎ去った昔の出来事として固定して動かすことができなければ、それは古びた日記帳のようにただ朽ち去る以外にない。介護にとって一番大事なことは、身体的なケアとならんで、この心のケア、過去を今に蘇らせることを、老蘇自身ができるように手助けすることではないかと思った。

〇記憶の掘り起こし方
 ここでは、自らの体験を語るときの、その記憶の掘り起こし方について考えてみます。その人が自己同一性を保っていられるのは、心身のもっている自伝的な記憶によるものです。
 それは、想起する際の対人的、社会的、文化的文脈によって容易に変容し、再構成されます。その記憶のいくつかは繰り返し想起され、その人のもつ気持ちや価値観に添った形で書き換えられます。つまり、単なる事実としての記憶ではなく、現在の自分に納得するように解釈し意味づけられた物語ともいえます。

 この辺りのことについては、5月14日のブログの中で、精神分析家のJ・ラカンの「わたしを他者に認知してもらうためには、わたしは『かってあったこと』を『これから生起すること』をめざして語るほかないのである。」などに触れてあります。
 しかし、過去の出来事をありのまま正確に語ることは無理であるし、その必要性はあまり感じません。
 私たちが心地よく生きていくうえで必要なのは、過去の事実の正確な掘り起こしではなく、現在への適応と、将来への展望に役立つように願っての過去の記憶の再構成です。
 
 また、真摯に振り返っている限り、もとの情報と違ったものになるわけでなく、現在のその人にとっての過去の事実認識だと思います。(※意図的にあるいは無意識的に事実と全く違ったことを語ってしまう人もいます。)
 そのためにも、自分について振り返って書く(語る)ときに、①自分の記憶が不確かであるという自覚、②自分のしていることを客観視していくことの誠実さ、③多くのものごとには、光と影、表と裏、メリットとデメリットがあり、多角的に見ていく複眼的視点が大事になってきます。
 記憶には、すぐに想起できることもあり、普段は無意識の領域に潜んでいて、あるとき突如思い出したりします。体験をじっくり書く(語る)ときの面白さは、そのようのことの出会いにもあるといえます。

〇ブログ『ひこばえの記』「前未来形で自分の過去を回想する」)から
 多くの人にとって、過去のつらい出来事や思い出話を語るとき、「過去におきた事実」をありのままに語ることはできないだろうと思っている。意識的か無意識的であるかは、人によって違いはあると思うが、現在の自分に納得できるように、あるいは、そのように思いたいように語っていることもあるだろう。

 相談など自発的に人に聴いてもらうとき、関係のあり方により多少の違いがあるにしても、その話の聴き手に「自分はどういう人間だと思ってほしいか」を願っている。話を聴き終わった時点で、聴き手からの人間的な理解や信頼や愛をめざして、人は自分の過去を語り出すことも多いのではないだろうか。私自身を振り返っても同じようなものだと思っている。

 精神分析家のJ・ラカンはこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」と説明している。

「前未来形」というのは、「明日の午前中に私はこの仕事を終えているだろう」「四月に私は介護職についているだろう」という文型に見られるような、未来のある時点において完了した動作や状態を指示する時制のことである。

「わたしを他者に認知してもらうためには、わたしは「かってあったこと」を「これから生起すること」をめざして語るほかないのである。

 わたしは言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。わたしの語る歴史=物語のなかでかたちをとっているのは、実際にあったことを語る単純過去ではない。そんなものはもうありはしない。

 いま現在のわたしのうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のなかで実現されるのは、わたしがそれになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来なのである。」
(J・ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領域」、『エクリ(Écrits)』。『コミュニケーションの磁場』内田樹訳より)

 だがこれについては、多かれ少なかれ誰にとっても抱えている限界でもあり、これを自覚していることが大切だと思う。
 語りに限らず自分のことを表現するのは、過去の体験や最近の出来事を振り返り、今の自分に引き付け他の助けを得ながら、結局は、何とか人に理解してほしいと願い、これからもっとより良く生きようとする希望があるからだろう。

参照・当ブログ◎吉田光男『わくらばの記』(2)(2018-02-01)
  ◎吉田光男『わくらばの記』(9)(2018-08-13)
◎吉田光男『わくらばの記』(19)(2019-04-09)
・ブログ『ひこばえの記』◎前未来形で自分の過去を回想する(2018-05-14)
 

◎(49)問い直す⑧<オールメンバ―研>の行動について(福井正之)

〇先回クレーマーのことを取り上げたのは、確かに現在の必要からであった。これまでわがパート職場でかなり面倒だったクレームの主要問題が今春一挙に解決し、あれっていったい何だったのと見直す余裕が生まれた。そのことを私なりに整理しておきたくなったのは、なんといてもあんなのは二度とはごめんだというシビアーな印象が残ったからである。

 ところでそれについてのコメントに返事を書いているうちに、私の意識は一挙に2000年のヤマギシ時代に逆行してきたのである。

 さよう、あれこそはこの駐輪場クレームの数百、数千倍に匹敵する巨大クレームであった。あのマスコミ、反対派をはじめとした大小様々な批判、非難、抗議の火炎に包囲されながら、ムラの対応はほとんど無策とは言わないまでも、とった措置はかえって火に油を注ぐものでしかなかった。いわば<外部クレームに対する逆クレーム>はほとんど不発だったのである。その中ではマスコミ各社への反論電話、投書が主たるものだったが、ただそれ以外でやはり蘇ってくるのはあの反対派への直接の働きかけだった。

 それはたしか<オールメンバ―研メンバー>の総決起的研鑽会で決議されたことである。私もそこに参加して「おいおい、そこまでやることなのか」と半ばおののきながら、みなといっしょに手をあげていた記憶がある。「無理暴力を通さずに、智恵と理解の研鑽で」の言葉は今も直蘇ってくるくらい骨身に沁みていたはずであった。だが、そこではそれに反することを決行することに賛同していたのである。しかし私にできたことは、新聞社支社に出向いて抗議の意思を表明してくることしかなかった。その後、この流れによる反対派(元村人)への直接の暴力行使で、マスコミに取り上げられたケースがあった。

 このことについて私は以前にも触れていると思うが、ここ1年くらいではHPでの「反転する理想」のテーマの中で書いた。特に告白的というわけでもなく、私に関わる事実として。この<告白>云々をもう少し突っ込んでおくと、この事実はたしかに私にとって<黒い汚点>であるにもかかわらず、これまで少しあっさりしすぎていたのではないか気になっている。事実遇った過誤はあれこれ躊躇してもしようがないという思い、あるいは平気を装っているのかもしれない。私の長い孤独がそれを当たり前にしていたとも思う。

 こういう突っ込みが私に中に生まれたのは、いうまでもなく吉田光男さん語録『わくらばの記』にある「問いへのさらなる問い」に触発されてきたからである。同じあの場に居合わせた人は私だけではない。かれらはどう考えているのか。そのことについて公表できる人だけでなく、いない人もいると思う。私が公表できるのは、自分では一応誠実だと考えてはいるが、そのことについてなにがしかのシビアーな理由を抱えて、沈黙せざるをえない人もいるかもしれない。いわばそうした全体がこの事件の全情況であり、同時にこのことへの究明への糸口になりうる。

 そして今回のわが職場でのクレームのことである。私はいささかナイーブになっているのかもしれないが、妙に因縁的な感覚に襲われる。この駐輪場でのクレーム事案にぶつかっていなければ、私はこの場でオールメンバ―研のことなぞ書かなかったであろう、と。それも普通なら過去のそのこと自体から直接書いていたはずだが、今回は私の目前で経過していた<現在>が過去のあの事態を呼び寄せたという感覚がある。

 私自身はそれほど違和感があったわけではないが、「過去との対話」は一貫して私のメインテーマであった。しかしいうまでもないが、現実は進行する現在の波が過去をどんどん遠ざけていく。この必然的な困難のただ中で過去に照準を合わせ続けることは、ある意味で普通ではない。しかし私のレベルでは到底及ばないことだが、例えば日中戦争時の戦場の実態究明を今も続けている人の存在とその意義は、単なる歴史研究以上の計り知れないものがあると考える。

 ところが今回はいささか趣を異にする。起こったのは目前の現実が過去に直通したこと、それはいいかえればあの過去の事実は現在に類似したモデルを持ちうるということ(あるはその逆)でありうるかもしれない。私がその現在について考えたことは、私自身の「正しさへの感度」がいかに弱いかという発見だった。あのクレーマーたちがぶつけてくる熱い主張にいわばヘドモドしていたのである。雇用者としての「立場」もあったにしても、それを超える。 

 そのことを私はまず同僚からも感じられる「見え透いた〈正しさ〉には必ず〝裏〟があると思う習性」として押さえてみた。それはしばしば何もしないことの言い訳につながる。さらにこれに関連する、「正しさ」理念よりはずっと内発的な「心の真実」(レアリティー)に依拠してきた、これまでの私の思考習性を意識している。そしていまそれらに加えて2000年当時のあの時の<躊躇と随順>(「無理暴力を通さず・・・」に反することへの躊躇的賛同)が蘇るのである。

 いわば、あれは「不都合な真実を隠蔽するために」「目的のために手段を択ばない」決意の表明だった。そのことについてわずかに私が容認できるのは、貧苦のためにそうせざるをえない場合である。ムラを出て以降それに近い状況に見舞われなかったとは言わない。しかしそこまで追い込まれてはいなかった。しかしあの決意が生じた時点ではだれも飢えてはいなかった。

 それならばなぜ? それでも絶対に守り抜かねばならなかった理想があったから? そこまで画き得ていたならば私のあの躊躇は何? しかしおそらくそこまで画き得た人がいたはずである。そして私はその彼に最後は従ったのである。

 これまで考えたことの繰り返しかもしれない。しかしどこかで考えたことのない新たな片鱗に触れるかもしれない。ともかく「問いへのさらなる問い」に向けて考え続けることを已めるわけにはいかない。2017/7/1

◎私意尊重公意行➂(鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法」など)

※「私意尊重公意行」に限らないが、実顕地の「機構と運営」に関するヤマギシズム独特の言葉について、鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法」などから考察する。

【説得的定義と「言葉のお守り的使用法」と実顕地】から
〇鶴見俊輔氏の考察に「言葉のお守り的使用法」があります。
「言葉のお守り的使用法とは、人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場を守るために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事の上にかぶせたりすることをいう。このような言葉のつかいかたがさかんにおこなわれているということは、ある種の社会条件の成立を条件としている。もし大衆が言葉の意味を具体的にとらえる習慣をもつならば、だれか煽動する者があらわれて大衆の利益に反する行動の上になにかの正統的な価値を代表する言葉をかぶせるとしても、その言葉そのものにまどわされることはすくないであろう。言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとり能力がひくいことと切りはなすことができない。」とし、お守り的に用いられる言葉の例として、「民主」「自由」「平等」「平和」「人権」などを挙げている。(※『鶴見俊輔集3 記号論集』筑摩書房、p390)

 ヤマギシズム)実顕地でいえば、「研鑽、一体、調正、本当の仲良し、~が本当、私意尊重公意行、理----」などがあります。その言葉をお守りのように身につけることで、あたかも自分が体得しているかのように錯覚し、その言葉や表現を用いて論をたて人々の説得の道具にするような使い方をしている人、が少なからずいたのではないかと思っています。

「研鑽」の限らず、その頃の実顕地は説得的な「お守り的言葉」の使用に闌けていたと思います。その言葉の一つひとつを吟味することなく、自らの感性に照らすことなく、安易な使いかたをしていた。むろん私も例外ではありません。

 このことは特定の理念を掲げた集団にはよく見られることで、その集団内でしか通用しない言葉で語りがちになります。学術分野、健康分野、教育分野などにも感じます。

 鶴見俊輔は『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』の解説で、〈「説得的定義」とスティーブンスンの呼ぶものは、数学や自然科学にも少量ふくまれており、社会科学や歴史学においてはさらに大量、そして日常生活で使われる言語では野ばなしで使われている。政治や広告では、説得的定義の本領が発揮される。〉と述べています。

 「説得的定義」「言葉のお守り的使用法」は、その頃の実顕地を語るための一つの視点になると思っています。また、情報化の激しい現社会の留意しておきたい課題だと考えています。

【指向性の強い観念と実顕地のこと】から
〇次に、実顕地の目指す方向への強い指向性のある言葉として、「提案と調正」「私意尊重公意行」という運営の根幹となる表現に触れる。
「私意尊重公意行」は実顕地独特の言葉である。
 おそらく、理念提唱者の山岸巳代蔵がそこに込めた意味合いは、一人ひとりの意思を尊重し、研鑽の持続で、公意(だれもが納得するような一致点)を見出し、まずはそれで実行し、さらに繰り返し研鑽で確かめつつ、よりいいものを見出していこうという意味あいである。

 その言葉は山岸自身の問題意識を背負っていると思われる。その発した言葉の奥底の心や問題意識まで迫っていかないと、その隠された大きな意味をとらえることが出来ず、浅薄なとらえ方に陥ってしまう。実際このようなことを実現するのは容易ではないと思う。

 私が所属していた頃の実顕地では、個人の意思は一応大事にしますが、実顕地のあるべき方向で、それに相応しい人たちで考えるので、その判断に任せて、出た結論に従ってください。というような感じだった。

「提案と調正」も、共に同じ土俵でとことん話し合い検討するというよりも、提案する人と調整する人とにくっきり分かれていて、結局は調整する人にお任せするというような「調正」の意味とかけ離れたものとなっていた。

 このようなことになっていたのは、専門分業の「任し合い」という考え方もあるだろう。
 他の部門の人たちの言動について違和感を覚えても、ことさら異を唱えることを控える。あるいは、何か深い考えがあってそうしているのだろうと、実顕地の目指している方向や中心になって進めている人たちへの根拠のない信頼などが、「任し合い」の負の要素を引き出していたと思われる。

 また、自分たちはかってないような素晴らしいことをしているという根拠の全くない倨傲などもあり、実顕地独特の観念にくもらされて、個人的な感覚や感情による違和感を覚えたとしても、積極的にとことん疑問を解消しようとしない体質もあったのではないだろうか。
 勿論すべての人には当てはまらないが、特に積極的に運動を進めていた人、調正を担っていた人に、目立つ傾向であったように思っている。私のことを振り返っても。

 実顕地について述べてきたが、理想を掲げた集団や政治結社の多くに、あるいは「反戦使い」にすら、多かれ少なかれ共通した体質を感じるときもある。特に大声で自説を叫んでいる人を見ると、いたたまらない気持ちが出てくる
 その組織特有の表現、言葉を使うことによる、意識、認識過程の変容と、それに伴って、その組織の進む方向に合わせたような感覚になっていくこと。
 ことさら「正しい、本当の、真の」というような表現を多用し、その集団独自の表現が目立つと、内容を吟味する前に嫌な感情が出てくる現在の自分がいる。

参照・本ブログ◎指向性の強い観念と実顕地のこと(2015-09-28)
・◎説得的定義と「言葉のお守り的使用法」と実顕地(2019-04-16)

◎私意尊重公意行について②(山岸巳代蔵伝から)

〇『山岸巳代蔵伝 ―自然と人為の調和を―』12章から
 ここで、思想的な集団における総意の形成について考えてみる。
 ある種の思想的な集団にとって、組織の活動の広がりにともない、一人ひとりの自由意志力による総和というよりも、管理維持的な要素や能率的な欲望が色濃く出てくるようになる。
 そのことから、特定の力のある人が運営面において影響力を発揮するようになり、その体制が固定化していくと、推進的な立場の人が自説補強的思考法になり、その組織の方針を徹底化しようと、他者を従わせようとするし、構成員自らもそこに合わせるような傾向も出てきがちになる。
 また、それを批判する人々による権力闘争的な動きも出てくる。結局、組織の方針に合わない人が排除され、ますます、その組織の現状維持的な体制が強固なものになっていく。
 そうすると、意識的にも無意識的にもそのようなベクトルが強く働くようになり、この傾向が特定の人だけではなく、組織を維持する全体の気風にまで発展するようになる。そうなってくると、一人ひとりのもっている活力がそがれ、ひいては組織全体の活力が失われることになる。思索というのは、常に、現状の枠組に収まりきれないところから芽生えるのである。

 山岸の提唱した「私意尊重公意行」という理念がある。
 事件後の『ハイハイ研鑽について』の中で、次のように述べている。

「固定不動の教義によらないで、みんなの意志を織り込んで公意志を見出し、それをまたみんなで改めて進展していく――公意に絶対服従」、「公意は個人の意志の集積であり、個人の意志によって変更できるものである」

 この論考では、「少数の異見こそ大切に」とか、「多数の暴力」の危うさが語られ、組織・機構のあり方が論じられていて、興味深いものがある。
 だが、みんなの意志をどのようにして総意にしていくかの方式が、特定の人たちに委ねられているとしたら、排他的になりかねないと思う。

 吉本隆明が、『中学生のための社会科』の「国家と社会の寓話」の中で、ヤマギシ会についても触れていて、そこで「自由な意志力」と「公共性」について言及している。
「個々の『自由な意志力』の総和をのみ『公共性』と呼ぶ。『自由な意志力』以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念はダメだ」とし、現代社会はどこかに高度な管理システムを含んでいて、そのことは不要なのではないが、「被管理者の利益と自由の最優先」の原則が貫かれていることが肝要であるとしている。

 私も大よそこれにくみするし、山岸の観方にも重なってくるものがあると思われる。
 高度管理技術が普及した社会で、国家や地域社会に限らず寡民による小社会でも、その公共性をどのように形成していくのか。管理側が政策決定して住民が従う方式ではなく、そこで暮らしている人々の自由意志力によって総意が形成されていくための方式はどうあったらよいのか。また、個々の自由意志力を優先するとは、「公の意志」とはどういうことなのか、などの究明・実践が現代社会での大きな課題となっているのではないだろうか。

◎私意尊重公意行について①(『わくらばの記』から)

※先回福井正之さんが言及している「私意尊重公意行」はヤマギシズム独自の表現で、おそらく山岸巳代蔵が産みだした言葉だと思う。そして、実顕地の機構と運営の中でも根幹をなす考え方と思っている。そこで「私意尊重公意行」について、しばらく取り上げていこうと考えている。
 まず、吉田光男『わくらばの記』から見ていく。

.〇吉田光男『わくらばの記』から
〈3月26日〉
 確か「中日」の論評だったと思うが、内山節氏が「公」という考え方が今の時代に必要だと書いていた。ちょうど私自身、「公」の思想について考えていた時期だったので共感を覚えた。

 ヤマギシではこの「公」の思想は出発当初から大事にされてきて、研鑽学校では「私意尊重公意行」がテーマとして用意されてきた。だが、2000年以降、このテーマに違和感が生じてきて、一部には公然と反対の声を上げる人も現れ、何となく中心テーマになりにくいような感じになってきた。その理由は、「公意」というものがその時々の実顕地の方針に合わせることだとする雰囲気があったためではないかと考えられる。鈴鹿問題や裁判問題を通じて「公意」を「押し付け」と受け取っていた人たちが結構いたのである。

 しかし、本来「私意尊重公意行」という考え方は、そんなものではないだろう。このテーマを考えるさいの重要なポイントは、「公」と「私」の関係をどうとらえるかにかかっているように思う。つまり、「公」と「私」を対立概念としてとらえるか、共通概念としてとらえるか、である。

「私意尊重」というのは、一人ひとりの「私」が納得しないうちは「公」が成立しないということである。だから山岸さんは「一人でも反対のあるうちは結論は出さずに次に持ち越す」と言っている。

 しかし、実際の運営上では、大多数が賛成し少数の反対者があった場合に、「みんなが賛成しているではないか」と有形無形の圧力がかかる場合が多かった。「それが調正所の方針だ」とか「研鑽部の誰それがそう言っていた」とか、そう言われるとそれに賛成できない自分はイズム理解が浅いのではないか、とかえって自分を責める方向に向かってしまう。自分の「私意」を自分自身が尊重しないことにもなる。振り返ると、そうした動きに私自身が陥ったり、逆にその動きを推進していたのである。これは戦中の「滅私奉公」と同じで「私意尊重」ではなく「私意抹殺」につらなる。

 本来のヤマギシの「公」は、あくまで「私」を尊重し生かすものでなくてはならない。「公」と「私」は対立するものではなく、「私」がやがては「公」に高まり、それに含まれるようになる。もともと「公」とされる考え方も、最初は誰かの「私意」にすぎなかったものが、同調する人が増えて「公」になったのである。その意味で調正所の見解といえども、それは調正所の「私意」に過ぎない。研鑽を経て「公意」にまで高める努力を怠ってはならないのである。

 しかし、日々動いている現実の活動体にあっては、何日もつづけて議論に明け暮れるわけにはいかない。そこで、「とりあえずこれでやってみて、その結果をまた研鑽しよう」と、一時保留を含む公意が成立することになる。だから、「公意」といっても絶対的なもの、永続的なものではなく、たえず振り返り、反省、検討を加えるべき対象である。

 山岸さんは、公意に関して次のような発言を残している。

「公意そのものが、いい加減なものだとしてかからんと、危ない。……『まあまあ』で『せめて』というのが入るのやぜ」

 公意は参加者全員の一致によってのみ成立するのである。しかし、その一致が雰囲気に押されたものであったり、多数に呑み込まれて成立するものであったりする場合もある。あるいは、単に反対でないというだけのものかもしれない。だから、山岸さんはこうも言っている。

「意見が違うならば、なおさら寄って話し合う。しかし同意見の時は、なおなお注意する。みんなの意見が一致した時は最も注意すると、こうなるのと違うやろか」

 研鑽学校のパネルの最後には、「公(おおやけ)に生きる私の生き方」というテーマがあった。ここでいう「おおやけ」は、実顕地での思考・行動様式としての「公」というだけでなく、社会全体、世界全体を通じての「公」であって、人間の人間としてのあるべき生き方・あり方を意味するものと思われる。内山節氏の言う「今の時代に求められる公」とは、そういうものではないかと思った。

〈3月27日〉 
 昨日は「公」と「私」について考えたが、もう少し蛇足を加えるならば「公」と「私」は相互に移行したり転化したりするものだと考えられる。例えば、戦中の「滅私奉公」などという当時の公的スローガンは、今では一部ウルトラ右翼以外には見向きもされない。逆に敵対思想として摘発された個人主義が、公的思想として支持されている。

 このように「公」と「私」は時代状況によって変わるものであるが、いかなる時代にも変わらぬものが「公(おおやけ)」という考え方・生き方ではないだろうか。磯田道史氏の『無私の日本人』を読んでいると、そんな感じがしてくる。

〈4月27日〉
  前に私意尊重公意行を考えたところで、私意の尊重がないところに公意は成り立たない、と書いた。しかし、私意が尊重されるためには、私意というものがはっきりと成立していなければならない。当りまえの話ではあるが、いつ、どこでも、自分の意思・感情・欲求等を自由に表明できるかと言えば、事はそう簡単なことではない。村の歴史、自分の来し方を振り返ると、特にそう思うのである。

「こんなことを言ってはまずいのではないか」
「流れに逆らうようだから出さんとこう」等々。

 こういう自己規制のようなものが働いて、自分の意見を出さないことがずいぶんあった。これは私だけでなく、多くの村人の心理を捉えていたように思う。だから、どの研鑽会もいわゆる公式発言が多く、中身の乏しい面白くないものになっていたのではないか。

 これは一人ひとりの問題でもあるが、根本は自己規制を促すような村の気風の問題である。調正所を中心とする指導部門が、テーマを通じて「これが正しい考え方だ」と方向づけると、どうしてもそれに沿って考えようとし、本心とは別の意見を出すことになる。個の自立が妨げられ、それをまた一体と勘違いしていた。しかし、個の自立がないところに同化はあっても一体はない。つまり、個のないところに私意は存在しないし、したがって公意も成立しない。私意尊重公意行も成り立たない。 

〈4月28日〉
 ヤマギシの中で私意の表明を妨げていた言葉に「ひっかかり」と「我執」がある。
 まず「ひっかかり」であるが、自分の中に何か納得できないことや疑問などが生じて、それが解消されない状態、それが「ひっかかり」であろう。これは誰にでも起こりうることで、それが物事を考える出発点になる。しかし村では、ひっかかることはこだわることであり、良くないこととされてきた。こうした先入観の下では、自分の思い悩むことなどはとうてい出すことができない。それは解消されずに個人の内部に蓄積されることになる。そして、ひっかかったり、こだわったりすることは、我執として否定されてきた。そうなると、自分が一番思い悩み、考え、解決したい問題が、闇に葬り去られることになる。本当はそのひっかかりこそが、研鑽さるべき最大のテーマの筈なのだが……。

 2000年問題以降、ずっと悩み、考え続けてきて、ようやく悩み、ひっかることこそが、自分が真正面から取り組むべきテーマなのだと気づくようになった。これを研鑽態度の問題や我執外しといったことに解消することはできない。それは、研鑽のないごまかしの世界に人を導くことになる。なぜならそれは、ひっかかっているという自分の事実・実態を認めないからであり、事実・実態を認めないところに真実はないからである。

参照:◎吉田光男『わくらばの記』(6)(2018-04-03) 
◎吉田光男『わくらばの記』(8)(2018-05-03)