広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

(4)忘却願望と記念碑 第18共徳丸から (福井正之「述懐」より)

              
○広島原爆忌の前日5日、宮城県気仙沼市長が打ち上げ漁船「第18共徳丸」の保存断念を表明していた。
それは私には、おそらく広島の子どもらが、その『誓い』において述べた心と対極にある決断だと感じた。くり返すが、そこにはこうあった。<――だから、あの日から目をそむけません/もっと、知りたいのです。被爆の事実を。被爆者の思いを/もっと、伝えたいのです。世界の人々に、未来に/>

その市長の決断の背景には、遺構として残そうとした市長とはちがう気仙沼市民の意向があった。
賛否を問う市民アンケートでは「保存の必要はない」が68.3%に上り、「保存が望ましい」(16.2%)「船体の一部や代替物で保存」(15.5%)を大きく上回った(各紙8/6)。
そこになにがあるのか。市の意見聴取によれば主な反対理由は「震災の記憶をよみがえらせる」「保存費用への心配」などにあるらしい。
私はそれを残念に思うし、それだけでは納得できないものが残る。それ以上の詳しい内容は今のところ知りえない。ちなみに、その外部からの保存肯定論とその反対の市民多数派同情論の並列した部分は以下のようである(毎日新聞8/6地方版)。

「『え、解体決定ですか? 惜しいなあ』と驚くのは埼玉県の男性(70)。この日は岩手県陸前高田市の『奇跡の一本松』を見た後に訪れ、『津波被害を後世に伝えるには、これだけの船がここまで運ばれてきた事実を形として残す意味は大きい』と力説する。一方、名古屋市から来た女性(71)は『被災者の方にとっては、この船を毎日見るのはつらいことかもしれませんね』と話した。」

それに震災遺構として「連日ツアーバスが集まる目玉スポット」という<観光>要素も無視できないはずだ。それも含め私には正直、この「毎日見るのはつらい」というのは解るようで解らない。いうまでもなく私は外にあって心理的な距離が遠いからである。他方「被災の結婚式場 業者が保存方針 南三陸町」(8/7東京新聞夕刊)別の事例もある。

ともあれ外からの一般的な<理想論>と現地・現場との意識の乖離は、いろんなケースにままあることだが、この真実を読み解くのはとても難しい(あるいは逆にとても単純かもしれない)と思う。特にこの場合は身内の死者のことが絡むからである。今も多くの行方不明者がいるかもしれない。思い出したくない、忘れたいこともままあるであろう。そこには他から触れてほしくない、すこぶる個人的な、あるいは家族的な事情があるかもしれない。

そこいらを私の乏しい想像力でもう少し考えてみる。災害に限らず人が日常的に平穏、安泰でおれない状況というのは、生きるための本質的な要件を欠くことになる。身近な人の通常の死も人の心をかき乱すだろう。だから生者の安穏は第1義であるとまず考える。
ただそれをのみ求めると(こういう表現は飛躍かもしれないが)<生者のエゴ>とはならないのだろうか? もちろんこの生者と死者を対比する考え方は、科学的にはどれだけの根拠があるのか不明だが、人の心情ないし心理科学的には相当大きな必然性、ないし絶対性すらある。そこに弔うとか祀るとか、記念碑、記念行事、墓地参拝とかの要素が登場してくるのであろう。

その両者はどちらも欠かせないはずである。ただ時期的・時間的、距離的にウエートのかかり方が異なってくると考えられる。気仙沼市民はその<現地・現場>の人であって、その遺物・遺品に関する感覚は私らの想像以上に微妙繊細であると思う。
そのような苦痛が癒されるには相当長い時間がかかりそうだし、それが「思い出」に化すまでは極力「思い出したくない」であろう。そういうことではいつも行事の度にマスコミ等で呼号される、記憶の<風化>は逆に必要なのだと考えてしまう。

時間的にはそうだが、私は空間的に次のようにも考えてみた。
――とはいえ四六時中 それに直面できるほど人は強くはないだろう/ならば ときどき思い出すだけでもいいのではないか/だからそれら記念碑は 墓碑と同じように 忘れないためではなく/ふだんは思い出さなくともよいように 作られたのであろう(断章ノート)

災害とは少しニュアンスが違ってはくるが、<不祥事>的な事故となってくるとどうなるか。
ここでようやく本題に入るが、いわゆるヤマギシの不祥事と考えられる学園暴力、その他の事態はいくつかあろうが、これらについても忘却を望む気持ちとその風化を危惧する気持ちの両方があるであろう。
こういう場合は、どうしても被害者―加害者の双方が対峙する場合が多い。いわゆる普通の自殺であれば、家族はその事実を極力周囲に対し秘すであろう。その衝撃や悲しみも含め、ともかく外から構ってほしくないのである。この気持はおそらく気仙沼市民に近い。

ところがいじめ自殺や過労死等のことになると、公開したくない内情をさらしても対象当局の責任を問いたくなる。保障問題が絡んでくるからである。そこでいつまでも当局が対応しない場合は被害者は事の<風化>を怖れるし、加害者の方は世間の<忘却を>望む。
ところが中には当局が早手回しに、巨額の補償を約束してその事故全体を秘匿することはできないことではない。それは当局の利にかなっているだけでなく、余計な内情を知られたくない被害家族にとっても助かるからである。
したがってそれは<表>に出ない。ヤマギシの場合はそういう可能性も仄聞しないわけではない。


いうまでもないが、それはそれでいわばその狭い範囲での一件落着であり、<小さな幸福>に資する。私ももしそういう被害者の立場にあるならば、生活困窮の度合いに応じてその類の救済を避けえないだろう。
しかし私はヒトのDNAの総合は、長い目で見て多くの不合理な揺り戻しを経ながらも「勧善懲悪」に向かうと信じる。それが理想というものの根幹(「懲」は一考するにしても)にあるはずである。少々おふざけになるが、なにゆえ人々はあの『半沢直樹』にかくも狂喜するのか?!

私などが関わった学園入学―親の参画―その離脱という事態はかなりその不祥事の引き金になっていたと自認する。ただそれは組織の一員としての行動であり、そこにその組織構造・体制の元締めたる指導部当局が存在していた。
それへの鬱屈した嫌悪感と自己凝視の必要から私は参画を取り消した。したがって当初はヤマギシのことは「思い出したくない、忘れたい」の状態だったが、自己嫌悪は残り、それが<自責の念>、自己批判、さらに当局批判へとつながっていった。


その心情の一端は以下のようである。
――なかでも忘れたいが 忘れることが許されていない と感じることがある/人々を不幸に陥れたかもしれぬ 自分の過ちについてである/それはなんとか記録され 遺すべきだ と命じるものがある/でもそれは 遺されても わが羞恥の記念碑となるのであろう(同上「断章ノート」)

この「許されていない」ないし「命じられて」という感覚は、いわゆる宗教的召命観にも似ているが、私の単なる実感にすぎない。それをまたずっと<自責の念>とも思い、いわば私に執念のように取りついてきた。「心の自由」という人間本来のありようからすれば、何ともいびつで不自由な自縄自縛状態といえるかもしれない。そのことは旧友からも指摘され、大いに納得したこともある。

しかし私のなかにすっきりできないで残存するものがある。それは簡単にいえば<目的を持つ>とか、<テーマを抱く>ということと、<自縄自縛的な執念>とのちがいということになろうか。それは形の面ではほとんど見分けがつかないことも多い。だから自分では自由な選択のように思っていても、そこに何か不自由なものが取りついていないかどうかの吟味が必要になってくる。
ふりかえれば被害者意識払拭のテーマはその分岐点を見極めるのにずいぶん役立ってきた。その点「自責の念」という表現はずいぶん誤解を招いてきたと思う。<自分を責める>ということでなく<自分に責任がある>という意識だと今は考える。もちろん<自分を責める>ということは、大いなるきっかけだったことは否定できない。

その流れからして、私はあのヤマギシに関する記憶は風化させたくないし、極力情報を公開し、あの事態の原因、背景を究明すべきだと考える。
その理由や思いを時折断片的には綴ってきたが、何度もくり返す。それはいわゆる私怨によってヤマギシの解体を望むものでは全くなく、ヤマギシの理想を惜しむからである。ならば現ジッケンチに再参画して活動すべきかもしれないが、そのような運動分野は自分の任ではないと考えてきたし、さらに状況的にはもはや<新しい葡萄酒は新しい革袋に詰める>時期に来ているように感じる。

そのためにも失敗の記憶は「失敗学」的に再構築し、後世に残すべきである。
それが新たなヤマギシの、ないしヤマギシ的な試みへの「記念碑」となりうるだろう。
おそらく理想の構築は、失敗から深く学び、始めた方が堅実であると考える。理念は要らないわけではないが、抜け道や隙間のない堅牢な理念というものは、実際にはあまり役に立たないで、上げ底・隔離空間で人を縛る方に使われやすいと思う。
(2013/ 8/18)