広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

(3)風化と記憶のはざまに 広島原爆忌から (福井正之「述懐」より)

        
○8月は暑いだけでなく重い。例年の原爆記念日から終戦記念日に至る一連の流れ、がである。
68年も経っているのである。マスコミは「風化させてはならない」と例年と同じく語り続ける。そして世代交代という次のぺ―ジを示すのである。
しかもマスコミは「記念式典」の前に、「原爆忌」というタイトルを付けている。
なるほど原爆の犠牲者からすればこれは「68周忌」ということになる。ちなみに先日の広島について目を引いた今年らしい記事タイトルを上げてみる。

・広島、被爆68年、核廃絶と平和誓う 原発是非言及せず
・被爆女性「献水」半世紀 遺志受け継ぐ
・インド下院、核廃絶声明を採択 広島原爆の日に合わせ
・吉川晃司さん、イマジン独唱 原爆の日に被爆ピアノの伴奏で(註、広島マツダ球場にて

「原発是非言及せず」とは、いうまでもなく広島市長による『平和宣言』中の福島原発被災者への支援表明に関わる部分である。さらに本題の原爆被災について私は死者のみならず、生者についての以下の内容が改めて目に留まった。

幼くして家族を奪われ、辛うじて生き延びた原爆孤児がいます。苦難と孤独、病に耐えながら生き、生涯を通じ家族を持てず、孤老となった被爆者。
「生きていてよかったと思うことは一度もなかった」と長年にわたる塗炭の苦しみを振り返り、深い傷跡は今も消えることはありません。
生後8カ月で被爆し、差別や偏見に苦しめられた女性もいます。その女性は結婚はしたものの1カ月後、被爆者健康手帳を持っていることを知った途端、優しかった義母に「『あんたー、被爆しとるんねー、被爆した嫁はいらん、すぐ出て行けー』と離婚させられました」。
放射線の恐怖は、時に、人間の醜さや残忍さを引き出し、謂れのない風評によって、結婚や就職、出産という人生の節目節目で、多くの被爆者を苦しめてきました。(8/6MSN産経ニュース)

私に経験がないということが絶対的に作用するだろうが、これは大変なことだったと思わないわけにはいかない。
他方、私の念頭にあったのは、こと<ヤマギシ被害―加害>の問題では<すべて自己責任>という考え方と感じ方にかなり出会ってきたが、こういう場合はどうなるのかという疑念だった。
論理のみを辿れば被爆者といえども<責任>があり、すべてを受容し<被災者なりの幸福>を追求すれば達成可能ということになりそうである。
そういう人は絶対いないと断言できないものの、おそらくその主張は非難轟々の対象となるだろう。ならば自己責任とは被災の程度問題だということになるのだろうか。

普通に考えれば、被爆者が実際の傷のみならず、心の傷に苦しんできたことは絶対的な事実であり、そこに<差別>の問題がからんでくる。これらについて、かれらが<怨恨>や<被害者意識>を抱いても何の不思議も感じないし、その問題性を問える人はいないだろう。
そこに国家は一部責任を肩代わりし、<事実としての被害>の尺度から不充分ながら被曝認定による救済を実施してきた。
関係者によっては抵抗がある言い方だろうが、「ヤマギシ被害者」といえども同じ論理下にある。ちがいは自己責任という発想が多くなされやすいことと、ヤマギシ当局が些少ながら生活援助金という救済の一端を担ってきたということである。

もちろん被爆者とは比べようもなく小さいが、「ヤマギシ被害者」も<村>離脱以降多くの不条理にぶつかってきた。子どもらも含め就職や再就職に当たって、履歴書の記載に悩まなかった人はほとんどいなかったであろう。
私は自分の無知もあって当初自分の前歴を隠さなかったことがある(小説「面接」参照)。
その結果があまりにも歴然としていたために、私は「謂れのない風評」を怖れ、そのことを隠し通してきた。
このHPに実名を公開するに至ったのも、ようやく最終退職以降である。いうまでもなくそれくらいヤマギシの世間的な評判は悪かったのであり、それによるわれらへの差別は未だ続いているであろう。

話を少し飛躍させるが、このことの消極的解決法は世間の記憶から、ヤマギシのことが消えていくことである。そして十数年経って、それがある程度は進行しているのではないかという感触もないわけではない。いいかえれば「風化」してきたのである。
私ら関係者の<心の風化>も伴って。この流れを肯定するなら(否定のしようもないが)、変に昔のことをつつきだして世間の評判にしてほしくない、という考えも少しは耳にする。
ヤマギシ本の出版などとんでもないということにもなるかもしれない。もっとも私のHPだのは高が知れた超チョウマイナーだし、例のヤマギシ当局鳴り物入りのバックアップがある村岡ヤマギシ本でもどこかで評判になっている形跡は聞かない。

その積極的解決法は・・・いうまでもなくヤマギシの評判を高めることしかない。評判はしばしば外見的になりがちだから、結論的にいえばかつてヤマギシに関わりのあった一人一人がその体験を梃子として、自らの価値を高めることしかないと思う。
いいかえれば前回触れた「『人として』の意味」に重なるもの、おこがましいが私なりに言わせていただくなら「普通に生きることも含めての人間的価値」を高めることにある。その道を歩みつつある人々や次の世代を知らないわけではない。そしてそれは確実に子どもらにも伝えられていくのである。

欲をいえば、その理想のひとつは山岸巳代蔵さん構想の理念を根幹とした現代的な「実顕地」を再建(あるいは<新建>か)することにあるかもしれない。
私はその道をすでに断念しているが、ひょっとして今も何ごとかを期して現ジッケンチに住む人々の中から、あるいはS市に在る人々から、私などが想像もできない新しい芽を育てつつある人もいるかもしれない。人間の無限の可能性について、私はそれほど悲観的ではないと思える節もある。

その次の世代へという観点から、広島の子どもらの『平和への誓い』を改めて味読してみた。

――68年前の今日、わたしたちのまち広島は、原子爆弾によって破壊されました。
 体に傷を負うだけでなく、心までも深く傷つけ、消えることなく、多くの人々を苦しめています。
 今、わたしたちはその広島に生きています。原爆を生き抜き、命のバトンをつないで。
 命とともに、つなぎたいものがあります。
 だから、あの日から目をそむけません。
 もっと、知りたいのです。被爆の事実を。被爆者の思いを。
 もっと、伝えたいのです。世界の人々に、未来に。――

ぞくぞくとするものが背筋を走った。あえて子どもらには失礼だが、原爆被災という今や全世界公認の特別世界から選ばれた、優等生たちの検閲上の作文だという皮肉はないわけではない。しかしあの日から被爆者当人はもちろん、家族も、周囲の関係者も、行政機関も、多くの無関心や風化と(自らの心内の風化とも)たたかいながら、ここまで、次の世代までも、このように発表できるまでにつないできたのである。
その子どもらが「だから、あの日から目をそむけません。もっと、知りたいのです」という言葉を<吐ける>ということは、いかに公設の行事の一環だとしても、そこにヒロシマの人々が育んでいた環境と精神の質が、言霊として表れていると感ぜずにはおれない。

当然この思いは、私ら親子のことにも反射してくる。ヤマギシ体験者の親たちが体験してきたあの日々のことを、子どもらはどのように表現するだろうか、ということである。
ヒロシマとは抱えてきた問題や状況、時空は明らかに異なるから同列に考えることには無理があることは当然である。
その理想にもかかわらず<村>を離脱した親や大人たちが、ジッケンチに対して抱き続けてきた批判や反発やその意識的沈黙や あるいは解消・昇華は、さらにそれら全体についての心の風化現象が推移していった過程も、特に伝えようとしたもの以上に子どもらに伝わってきているはずである。

そのなかで子どもらはジッケンチのみならず親自体への、非難や反発や同情や了解のカオス的混交の中で、大人になりつつある。
そして私は未来のいずれかの時に、子どもらが親以上に立ち直って、前向きに自らの人生の1ページとして、<あのこと>を表わす時代が来ることを期して夢想する。
そのために為すべきことがあるということ、(口幅った言い方だが)親自身の生き方があるということ、さらに具体的には何よりもあの広島の子どらのように「――もっと知りたいのです」という欲求が子どもらの心底なものとして芽生えたときに、正しく正確な情報を伝えられる私らであるだろうか。

今もって大人である私ら自身が自らの体験してきた<あのこと>について限られた断片的情報しか知らない。だから「あの日から目をそむけません」「もっと、知りたいのです」という広島の子らの希求は私自身の希求としても今も残存すると感じる。
しかし今はそのことを、あの黙祷のように心に刻むだけである。・・・そしてまた、いつもは見過ごしてきたこの<原爆忌>が、今年は何故かくも身に沁みるのか、怪訝にも思っているのである。
(2013/8/10)