広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

ジッケンチの学育を考える②(福井正之記録⑦)

※これは、「試論―実顕地とは何だったのか、1」「試論ジッケンチとは何だったのかⅡ」2009)の第3部として書かれたもので、別の論考でも再々取り上げている。前半部分は「ジッケンチの学育を考える①と重なるので割愛する。

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◎<試論>ジッケンチとは何だったのか   

  第3部 <ジッケンチ学育>外論     

○世間から見た「ヤマギシズム学園」の特異性

(前半部分略)

 そういう親自体の人生コースの変更という特異性の前にはもちろん、親たちをそうなるべく<魅了>した学園自体の理想性があったことはいうまでもない。ただその限界と現実実態の暴露は、ジッケンチの自壊を招くきっかけとなり、同時に学園自体をも衰退させていった。  

  この稿はその衰退過程から叙述をはじめ、「学園とは何であったか」についてその一端を考察してみたものである。ヤマギシではあくまで「実顕」であり、実行であったろうが、そこを<実験>として見直す余地もありうるかもしれないという思いで。ということは私の、学園や幼年部についての基本的な評価としては、ヤマギシの組織・路線批判(既発表)を前提として、「マイナス面もあったにせよ、評価すべきこともあったのではないか」という忸怩たる観方になる。よってその幼年部の実態から入り、ついで高学年の子らを対象とする学園全般へと進めていく。

A、幼年部編

(1)幼年部 親から離れる長さの特異性
 学園の親から離れた環境での子どもらの集団合宿生活という点では、たしかにそれほど特異なものではない。ただその合宿が小学校入学1年前の5歳児から始まるということは、ほとんど他に類例を見ない特異なものだろう。それがヤマギシズム学園幼年部だった。

 幼年部の核心となる「蝶よ花よといじめない」とする発想、考え方、実践は子どもらの生育にきわめて重要である。社会性や生活力を育てるにあたって、ハードルを設定し、群れの力を活かそうとすること、そういう子ども集団の存在と健康正常な規則的日常生活は、現在でも子どもらの生長にとって不可欠の要素であると考えている。その点ジッケンチは自然環境はもちろん、農村の村社会的環境、施設、スタッフも含めそれなりに優れた環境を用意できていたと思う。そのためには親の囲い込み性格と家庭の閉鎖性からの解放(「子放し親放れ」)が必須の条件となる。

 しかし他方では、あんなにも長期間(5歳の1年の間、親に会うのはほぼ3か月間隔)、親から離れる必要があったかどうかについては、今の私はいささか保留状態にある。理想的にはもっと間隔が短くても良かったと思うが、全国展開等の実際的な必要からその線に落ち着いたと思う。ただ、私には当初それほどでもなかったいくつかの問題点を感じるようになってきたということである。そのことをふり返ってみれば<よくぞやれたものだ>という感慨を禁じえない。

 それは一つには、いわゆる<母子分離トラウマ>的な一般からの危惧(次節で取り上げる)を引き出しやすいことであった。ただその本格的な流れはほぼ1995年以降であり、幼年部創設期の85年頃は、乳幼児子育てを支配した母子密着スキンシップ感覚からの危惧が主であった。その母子分離への漠然とした不安からすれば、すでに乳幼児とはいえないにしても5歳児の子離しは驚くべきことであったろう。

 だが5歳の親離れ生活はいわば幼少の母子密接必要時期(女性就業の観点から異論も多いようだが、いわゆる3歳まで)を越えており、離別についての周到な配慮があれば基本的には可能であると今も考える。

 また実顕地ではもっと短期ではあったが就学準備的な合宿があり、幼児を農繁期の必要に応じて預けあったりする「どの子もわが子」的な一体感覚が育まれていた。それが断行可能とする一つの大きな根拠となっていた。

 私は幼年部1期生から村内メンバーの里親をつけることにこだわってきたが、それが不要とのちの年度からどこかで(私は初期を除いて運営面にはタッチせず、広報拡大が主であった)決められたときに感じた少しばかりの落胆と危惧を記憶する。もちろんそれによって何らかの問題があったと聞いたわけではない。

 二つ目には、子どもの生長の観点とは別に、親・家族のありようとして、あれだけの長期間5歳児が母親から離れていることが望ましいといえるかどうかという問題がある。5歳児が家族の一員として親や周囲からさまざまに学び、影響を受け、家族の一役を果たすということ。また逆にその姿を通して、親(特に母親)が慰藉的な影響のみならず、親としても生長しながら子の真近での<生育の証人>となることの意義は、決して小さいとは思えないことである。

 私がそう考えるに至ったのは、血のつながった実親の(子どもを一生引き受けようとする)誰にも代わりえない力や役割の大きさについてだった。それは私自身がジッケンチを離れ、生活の状況がどうなろうと、わが子の総てを引き受けていこうとする本能的といってもいい姿勢から感じてきたことである。(もちろん昨今の育児放棄のような様々な条件によって、実親のすべてがその役を担いうるわけではない)。

 そして本来はその<放し任せる親>と<引き受ける親>との対等一体の親愛関係こそ、幼年部成り立ちの真実があった。にもかかわらずジッケンチの優位性を前提に実親の役割を事実以上に軽視し、ジッケンチ「親」(=係り)はその限界を謙虚に知って「身代わり」をやるという考えは乏しかったのではなかろうか。またかれらを実親以上に素晴らしく思い思わせること、そこに当時の私の活動の一つの役割があったと認知する。

 といっても、そのような母子分離への不安や<生育の証人としての親>という観点を超えて「子放し」が断行されたのは、子どもの生長への強い期待からであった。たとえ他人任せであってもこの1年の子どもらの経験は、幼少年期のみならず一生を貫く宝となるであろうと。私自身の当時のイメージでいえば<幼年部効果>は「おふくろの味」が一生続くように永続的なものと考えており、相当な期待感を抱いていた。

 しかしその<成果>を一応表面的に確認できるのは、親が参画せず地域に戻った子どもらの場合、せいぜい1,2年のことではなかろうか。もちろんこれは生活習慣や健康面の育成の面、さらに物事への意欲、対人的社会性等であって、精神の深層領域で何が刻印されたのかはよく解らない。

 私自身は幼年部1期生が高校生くらいになる状態まではある程度聞いてはいるが、これも数少ない伝聞情報であり、組織的な調査による確認がなされたわけでもない。したがって基本的には成育過程の様々な環境変化によって<幼年部効果>は相殺されていく部分が大きかったのではないか、と推測する。その点私は同調の人々への期待を裏切ってきたと承認する。

 もっとも幼年部が設立時には阿山だけだったのが、豊里をはじめ各実顕地で軒並み設立されていったのは、当時の実顕地のみならず親、会員、支持者たちの熱狂的というべき教育理想主義の高揚からであった。もちろんそれには学園での子どもらの育ちが、確認され伝播されていったという<実>があったと信じたい。

(2)幼年部 <母子分離トラウマ>について
私のなかではジッケンチ離脱前の時期から、前述のいわゆる<母子分離トラウマ>的情報が次第に増えていった。それは同時に、ジッケンチへの密かな疑惑が次第に嵩じつつあった時期でもある。

 いわゆる「心のケア」「カウンセリング」「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」という言葉や考え方が世に本格的に広がり始めたのは、1995年の阪神・淡路大震災以降のことであるらしい。戦争、災害、事故、暴力、虐待等の強烈な被害体験(虐待に近い母子分離も入るだろう)によって、不眠、悪夢、フラッシュバック、鬱状態が被害者を苦しめるとされる。

 たぶんこの時期が10年早かったならば、幼年部創設は困難ではなかったろうか。

 私は始めは批判的であり、「何でもかんでもトラウマ(心的外傷)ということになれば、それこそ事故や大災害に遭ったら病人だらけではないか」という思いをもっていた。また実親から死別その他の理由で、離れて施設に収容されている子どもらは、みな精神的疾患を抱えているのか、という疑問もあった。

 しかしそれは素人感覚的なものであり、裏付けとなる理論に出会うことはなかった。世は教育界、マスコミをはじめ「心のケア」「心の教育」大盛況であり、したがって逆に、私は離脱前またそれ以降も「もしかして子どもらや家族に取り返しのできない過誤が起こっていないか」という危惧や自責の念を抱えることになる。

 それ以前は幼年部出発直後、甘えが出て戸惑ったということについての若干の対応があったと記憶するが、基本的には危惧めいた心配はなかった。それでも上述のトラウマ情報以降は、当の5歳児の生育が、どの程度青春時(あるいはそれ以降)まで持ち越すのか、についてプラス以上にマイナス情報に関心を寄せるようになった。ただその情報も特になく、こちらの渉猟も数少なくて、その限りでは乳児・幼少期の母親の育児放棄、虐待に近い対応によってトラウマに至る、という特殊な事例以外には接してはいない。

 しかし、やはり幼児期の親子分離はたとえ年長とはいえ、青年期も見据えた長期のデーター収集による研究と慎重な配慮が必要だったのではないかと考えてしまう。親子関係の微妙な深甚さは、発達心理学や精神医学等の関連科学では未だ解明されていない部分もあるようだ。

 ともかくマイナス情報に限らず、幼年部といういわば画期的試行(どころか実行)について、それに必要な事後追跡調査を私自身が実施しようとしていなかったのは、残念でもあり、いささか唖然としてもいる。その真実を探ろうにも当時のジッケンチの変転は激しく、全体としてあまりにも忙しすぎたというしかない。

 ただ<村>離脱数年後、この背景にある<トラウマ>ないし「PTSD(心的外傷後ストレス症候群)」なる考え方には批判的な学者もいることを知った。その「『心的外傷』ではなく『できごと』」という考え方を知って、私は目が開かれる思いがした。

(注)「PTSDは、極度に衝撃的な場面に遭遇することによって発症すると理解されている。しかしじつは、衝撃的な体験をしたあとの『人間の関係』に問題があって、それが症状を強める場合が多いのではないか、とわたしは思えてならない。そのことはあまり論じられていないと思う。災害や事件そのものだけが症状を引き起こすように考える人がほとんどだ。災害や事故そのものの衝撃を否定するものではないが、そこから二次的に派生する周囲の無視や差別や裏切りなどに苦しみ、しだいに症状が深刻化されることがあるのを見落としてはならない。」

「(大戦時の子ども時代6人きょうだいのうち4人を失ったO氏は、その体験はたしかにトラウマと言えるものであったとしつつも)『しかし幸いにも心のケアを合理化した専門性に踏みこまれることなしに、自分で生きていくことができた。心のケアは、人を一方的に切開する口実を与えるものではないか』と。O氏が『幸いにも』と語るのは、被った不運を『心の病』というレッテルによって取り扱われずに、人生に起こった忘れることのできないつらいできごととしてみずから引き受け、生きてくることができたとの意味であろう」

「PTSD概念は、人が大きな衝撃を被ったとき、精神がどのような状態に変化し、いかなる苦痛をもたらすものであるかを明らかにした。それらの体験から生まれる知を、誰もが共有すること自体は大切である。ただし、それらをラベル化し治療論と結びつけ、専門家が抱え込むことには問題がある。そのとき体験や知や関係性つまり生活が、日常の暮らしから治療の資源へと切り取られ、人は他から癒されるべき受け身な存在に陥っていくからである。」(小沢牧子「『心の専門家』はいらない」洋泉社)

(3)幼年部出発監督による作品『アヒルの子』について
 2010年秋、私はたまたま幼年部出身監督によるドキュメンタリー映画「アヒルの子」を参観する機会を得た。そういうことが起こりうるなんて私には驚くべきことで、まさかと疑いながらも、来るべきものが来たという、おののくような気持ちで映画館に足を運んだ。映画作品を観覧するという通常の目的とはまったく別に、幼年部出発10年後の現実に直面するために。

 映像で私は20歳過ぎの元幼年部生の何人かに、初めての対面をしたのである。どのような過去があったにせよ、今や母親にもなっている彼女たちはそれなりに普通の健全な生活者として、その頃のことについて闊達に語っていた。

 それ自体は幼年部についての記憶に基づく当事者の貴重な証言であり、直接幼年部の育ち全体の当否について評価を下す資料とはいえないが、幼年部についての公開された稀で重要な資料といえるものだった。

 その中で、一応私の期待に反した事例を挙げると、オネショの記憶がかなりのマイナスイメージとして残っていたとは予想外だった。現場では「オネショ研」などで注意深く観察、研鑽していたという記憶があったから。ただ幼児期の子どもらの生活環境は当然にも伸び伸び楽しいものと期待されるが、生活訓練の場合は必ずしもそうはならない場合もあっただろう。普通の保育現場ではどうしてもしつけ的(場合によっては懲罰的な、あるいはそれを避けての家庭任せ)要素が入ってくるが、幼年部最大の強みは、そこに群れの暮らしによる相互啓発という方式を使えることだった。ただそれが何らかの事情で充分機能せず、例外的に強いしつけの必要が生じ、そのマイナスの印象のみ強烈に残ったということなのかな、と想像してみるしかなかった。

 次いで問題のトラウマについては、この作品を貫く主題となっており、監督であり、主人公でもあるOさんは、思春期に「自分が何者か分からない」「自分はいつ死んでもいい無価値な人間だ」と思ってしまう存在になったことで悩み苦しんだ、ことがモチーフになっていた。その理由として「幼年部入学で親に棄てられた」「だから棄てられないよう『いい子』を演じてきた」という。

 それに対する私の感想は、お父さんの言葉「お前がそんなトラウマを抱えていたとは知らなかった」、あるいはお姉さんの「ずっとお前の好きなようにやってきたんじゃないの」という感想に近いものだった。しかしOさんが両親と「対決」する凄まじさから、その決意というか覚悟は並々のものではないことが伝わってきた。

 ここで焦点となるのは「親に捨てられた」ということであって、厳密にいえば幼年部自体がトラウマの対象になっているわけではない。ただ主人公には幼年部時代の記憶はないということだが、そこが「捨てられた」という記憶が焼付くだけのおぞましい場であったのであろう。

 こういう記憶がある程度予想されるのは、たぶん親との別れ際に子どもらが思い余って泣き叫んだことが浮かぶであろう。親にとってもこの場面はつらい。また残念ながら、幼年部という環境が淋しく厳しく辛い場所だったという印象とくっついていたかもしれない。しかし当時私たちたちは、そうはならないよう細心を尽くしたことだった。

 そうなるとすればそこはしつけの問題以外に、あの大部屋の中での日常が必ずしも楽しいばかりではなかった、ということかもしれない。そこでの子ども同士の競争や衝突は避けられないことであり、その際失意を感じた子への(仮親である)係の配慮や思いやりから漏れた子もいたかもしれない。

 さらに学園数が増えるとともに、少ないスタッフが大部屋で一度に子どもを観れるという便宜が先行していなかったであろうか、気になるところではある。

(自注)大昔、感動をもって読んだニイルの著書(「問題の教師」等の「問題」シリーズ)の中で、うろ覚えだが、たしか幼念後期の子は「大部屋にあっても、必ず特定の自分だけの隅とかコーナーに愛着する」という記述があったように記憶する。ニイルはその部分を肯定的に論じていたと思う。それは生長の過渡に当たっての個室的なものを伴った過去への名残なのか、あるいは個室的なものへの不可避的な欲求なのか? 

 しかしどうも一年間ずっとそうだったとは考えづらいと思う。映画でも示されていたが、残されたビデオでの子どもらのあの笑顔、それに描かれた絵が太陽と花とニコニコ顔。逆にいったいあれは何なんだ、という違和感もあるかもしれないが、あれも子どもらの日常ありのままの天真を映していて、決して当時の<いいとこ撮り>ばかりではなかったと思い返すのである。それも当事者としてのバイアスがかかった視点ということを留保するとしても。

 ともかく今となっては私にはその“真実”は不明というしかない。

 ともかくこの作品の主人公は、「いつ棄てられるかわからない親への不安」のために自殺までも思いつめた、ということ。その苦しみの背景に幼年部があったということは、私には重く残った。

 さらに作品は「5歳時の記憶の空白を埋める」として、幼年部卒業生や実地を通して検証する流れになっており、それを通して示された幼年部への評価は多くはマイナスのイメージであった。もっともこれについては「やっぱりそういうことなんだな」という私の<もしや>という内奥での暗黙の予想を追認するものだった。

 そこにこのような、あるいはこれ以上の多くの問題が残されているとすれば、どういう形になるか分からないが、当事者の一人として私自身自己批判を免れることはできないし、またそのつもりもない。つくづくあまりにも遅すぎて申し訳ないと思う。

 現在の私は、幼年部は参画者の子弟にとってはそれなりに可能かもしれないが、必須的に必要かどうかはわからない。一般の子どもらについては(親の参画が前提でない限り)幼年楽園村で充分だと考えている。

 一般の幼稚園・保育園では、短期幼年楽園村的な「お泊り保育」がある程度実施されているし、父母からの要望もかなりあるようだ。これはいうまでもなく暮らしを通してのしつけが、お泊りの場合やりやすいからである。幼年楽園村は当然にもそのためのノウハウを用意できるだけの蓄積があったと思う。

B、高学年編
(1)試された<生きる力>
 ついで高等部など高学年の子を対象に考察する。これについては一度参画した親がジッケンチを離脱し子を伴って旧世間に戻ってきた場合、そこでぶつかったさまざまな困苦や発見についてまず述べてみたい。というのはそれまで通過してきたジッケンチ(=<村>)の環境や教育が、親子や家族のありように結果的に何をもたらしたかを、明らかにするヒントになりうるからである。

 ただこういう離脱者同士の私的な情報は極めて乏しい。地域である程度のヤマギシ会員組織が残っておれば多少の情報は集約されるであろうが、ここでは大半は自分の家族プラスその周囲の情報に限られる。ただまさにその一家一家の状況こそ交換不能な切実さを持つ。したがって以下は私の家族の場合とその周辺の伝聞情報に基づく。それは普遍化しにくいものもあるが、共通のものもあるはずである。

 中卒以上の大半の子どもらはジッケンチを離れて以降、親同様自己の生活基盤確立を最優先しなければならなかったろう。かれらを待っていたのはほとんどパート仕事だった。当然学歴のことを意識したはずだ。<村>の学園卒では資格は取れず、中卒のままだった。その学歴差は<村>で漠然と想定していたよりは、かなり大きいものだったはずだ。

 これは学育理念に基づく<実学>尊重の気風と、子どもらも親と同様その将来を<村>に託するという前提で学歴のことは軽視していたことによる。また高校以上の外部教育機関に子どもを送り出すという発想は、初期は別としてきわめて乏しかった。したがってこのような家族子弟の大量離脱者が出ることは想定外のことだったし、いわば離脱者の自己責任としてジッケンチ当局は対処の意識に乏しかったと思う(現在では、定時制高校への進学を認めているようだ)。

 ここに子どもらのことも含め従来の将来予測とまったく違った事態に直面することで、私はいわば愕然とした。私のいわば誇大な夢想のために、妻や子どもらを巻き込んでしまっただけでなく、私の<拡大>活動によって参画へと導かれ(また離脱に至った)多くの家族に対する慚愧の思いで。

 新しい状況への適応ということでは親同様、子どもらもだいたいは転々としており、私の息子は夜間作業主体のリフォーム屋で働いたり、娘はパチンコ屋で働いたこともあった。つまりなりふりかまわずの実収入本位であり、それもより過酷なパート労働しかなかった。

 親の援助を期待できず、また<村>からの技能学習等への援助は働きかければある程度ないではなかったが、子どもらは基本的には孤立無援だった。

(注)パート労働について、あるブログ(出典メモは散逸)より引用

「マクドナルドで十年修業を積んでも、二ヶ月で覚えたマニュアル以上のことをこなすようにはならない。」スキルアップしない仕事に従事したら、先はない。新しい実質的な能力を身につけていく仕事につかなければ、置いてきぼりを食う。しかし、そんな仕事がどこにある? 誰もが医者や弁護士になれるわけではない。

(中略)美容学校を卒業しライセンスを取っても、それを生かすだけの職場があるだろうか。数十年前に理美容業界は飽和している。(中略)正社員、専門職につけばそれなりのオン・ザ・ジョブ・トレーニングがつめる。仕事の中でスキルアップが図れる。一方はマニュアル段階でストップし、他方は個人に蓄積される生産性は飛躍的に向上する。生産性格差はそのまま収入格差へと反映される。

 まず子どもらがこの直面した状況をどう捉えたか、が大きな問題だろう。普通に考えれば親がジッケンチ離脱前後に囚われた絶望と断念の思いが子どもらにも襲ったであろう。<村>学育生活での不適応に苦しんだ子どもらには村を出るのは希望だったかもしれないが、直面した現実には同じように音をあげたと思う。

 絶望の苦悩は学園や親や周囲への怒りや怨恨にもつながる。それもいつしか断念の諦めに替わる。それも誰にでもあることだが、朝目が覚めれば待っている仕事への条件反射的日常行動が、それらの鬱屈やしこりを次第に沈潜化させていくだろう。ともかくそれで時間は経過する。時間はともかく誰にでも与えられた無償の治癒薬である。

 ただそれだけでは、人は沈黙のまま深刻な状況を容認しえないし、できたとしてもそれはしばしば形だけのものになり、その分自己抑圧をともなう。これは心奥深く格納され、かならずや何らかの機会に噴出せずにはおかないだろう。

 それにしても、(親としての責任を差し置いて少し突き放した言い方になるが)この過程で皮肉なことにかれらの<生きる力>はおそらく遺憾なく発揮されたであろう。

例外や個人差もあったろうが、おそらくかれらは似たような状況に直面した世間の同世代の若者たちよりもずっとたくましく、じたばたしなかったのではなかろうか。またそんな余裕もなかった。それに学園時代の<実学>によって培った肉体労働への対応力・持久力があり、食生活も含めた規則的な日常生活によって形成された頑健な肉体があった。

 それに合宿的生活によって培われた仲間との深い絆的友情の交流がかれらを支えたかもしれない。また<村>での研鑽学育でそれなりに身についた「明るく、楽しく、前向きに」の学育理念が、何がしかプラスに作用し、あの難状況にそれなりの転換・適応を果たしていったであろうとも考えられる。

(2)実学  <作業>はたっぷり、しかし<学>は?  
 ここで少しばかりジッケンチの「学育」目標に立ち入る。その根本は山岸氏の次のような考え方があると思う。私は、それは今でも全く正しいと同感する。

「――皆それぞれの持ち味によって、社会的持ち場や、生き方も異う訳で、自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方をすることが、一生を意義あらしめた事になります」

 そしてこの達成ないしそれに至る過程を前提として、「和と叡智」に基づく次のような連続<知的革命>の世界を構想していたのであろう。

「――各々が持てる特技を練り、知性は知性を培い育て、高きが上に高きを、良きが上に尚良きを希う、崇高本能の伸びるが儘にまかせ、深奥を訪ねて真理を究め――」

 ところでこの「持ち味」ということであるが、いうまでもなく<個性>とつながってくる概念である。その個性・持ち味を見出すことが、ある理念的規範(実顕地では)の下で人としての生き方を身に着けると同時に、子どもの将来・進路にとって不可欠重要な課題となる。

 それには親や周囲からの働きかけもあるだろうが、子ども自体の原動力としてはやはり、もっと面白いもの、もっとより良いものへの好奇心・探究心であり、そのなかにはもちろん人間の崇高本能に連なるものもあるにちがいない。そしてその試行錯誤の過程での対象や人への出逢いが、その内容をほぼ決定付ける。その欲求は当然にもジッケンチの枠を越える。

 昔、北海道試験場にいた頃、幼年大の子らが散歩から抜け出して、牛の蹄鉄嵌めの現場からなかなか離れずしげしげ見入っていた記憶がある。そのような興味津々な出来事が、<村>にはいっぱいあったであろうし、発展とともにその数を増やしていったであろう。

 また学園・学育に付きものの「職場研鑽」も本来はそのような意図のもとに用意されていたはずである。

 ジッケンチでは「実学」が尊重されたが、そこに検討すべき大きな問題がある。いうまでもないが実学は現実の経験を媒介しない、単なる空想に終わらないところに意味がある。ところがそこにカラダのみでなくアタマも働いていたかどうか? それが<学>と<作業>を分ける決定的な分岐点になる。単なる時間待ちのルーテインな作業の連続であれば、それは嫌悪感を累積させるだけに終わるだろう。

 基本的にはこのように考えられるが、例外もないではない。いわば親に強いられ、苦痛に耐えて続行された小さい頃の作業的な営みが、普通にはそこから子どもらを生涯遠ざける可能性が高いが、幸運にも後に生きる例も些少ながら存在する。

 またヤマギシでは教育に対して「学育」を対置するが、その真意はいたずらに「教えないで待つ」を奨めているわけではない。それが成り立つ条件として、子どもらの意欲、仲間の存在が不可欠であり、さらに付け加えればそこに私は<学への企み>というものがありうると考える。

 そこに親や指導者が<企み>を込めて対するとき、もっと多くの生産的な結果を残しうると予感する。伝聞だが、親から小区画の田を任せられ、それを自分で好きなように経営して米を作ってみろといわれ、やってみてとても勉強になったという話である。それに食いついた子どもも大したものだが、親もすごい。そこにはっきりした<企み>があった。

 子どもは自分の好奇心を満たされただけでなく、おそらく体力のみならずアタマもフルに使ったであろう。ジッケンチ農業では体力使用の機会はありすぎるくらいあるが、ヤマギシは「知的革命」というかぎり問題はアタマである。カラダの練磨も必要だが、アタマがどれだけ練磨されるかである。すでに既述の通りだが山岸氏は「知的革命」の一環として「なるべく働かないための研鑽」を勧め、自らの農業を「なまくら農法」と称したことを思い出してほしい。

 余談になるが、私は頭が疲れるのはアタマを使いすぎたからでなく、使えないからこそ疲れるとしばしば実感する。すなわちそれはアタマをとことん使える場面まで事態を切り開けない中途的状態にあるからである。アタマが使うのに値する局面では頭脳フル回転の面白さ真っ最中で、そんなに疲れるものではないし、疲れてもかえって心地よい。その分岐点にほんのちょっとした示唆があればいいし、それができるところに真の教育的リーダーの力量があるだろう。

 こういう企みをもった教育的営み(すなわち真の<学育>)というのは、学校ではあまり体験できない貴重なものだし、実働の場が多いジッケンチは環境としてその対極にありながら、実態はアタマが働かない単純作業先行に陥っていなかったであろうか。それはまた(現在は不明だが)山岸氏の理想に反した大人の長時間労働の反映でもある。

 とはいうものの私も教師経験の端くれとして同情的にもなるが、こういう<企て>を準備するのは容易なことではない。だから学校教師は注入―暗記の詰め込み方式が日常化し、ジッケンチでは習慣的、惰性的な作業が多くなったであろう。したがって教育界ではそういう意図を伴った○○方式が注目される。

 教育界における<実学>に近い試みであった「仮説実験授業」を高等部でも一時やってみたが、おそらく拡大物見せ興業が先行し長続きしなかった。


 ただ人間というものはどんな状況に置かれようとも、自らその状況を認識し比較し、全体像を組み立て、そこに意識的に働きかけていこうとする知的存在である。こういう自ら発する営みは多くの困難を伴うにしろ、その過程は面白く、集中や達成感は心地よいある種の快楽であって、こういう体験が一つでもできればそれはその人の生涯にわたる宝になる。またその宝を見出す過程には、同時に自分の持ち味・適性の発見も伴う。

 こういう<アタマを使う快楽>というのは実学的なものばかりでなく、純粋数理哲学や文学、芸術表現にも必ずあるはずで、ジッケンチのこういう分野への軽視はいかにも「知的革命」の里には相応しくない。現実経営優先の呪縛があまりにもきつすぎたからであろう。

(3)親子関係の修復  <親愛の情>の再発見
 ところでジッケンチを離脱した親子の場合、そこにある種の対立・葛藤が予想されるが、私ども、あるいはその周辺では予想されたほどシビア―なものではなかった。しばらく私たちと同居した娘はいったん学園時代の思い出になると、その係りへの批判的舌鋒は痛烈だった。また母親と何かの件でもめ事になったとき、「可愛い子どもを守るのが、親の仕事でしょ」とズバリ言い切ったこともある。しかし基調はいわば明るく楽しく融和的でほとんど影らしきものはなかった。

 また私たちの離脱よりもずっと以前に<村>を離れ、親とはほぼ絶縁状態だった息子が会いに来たとき、私は彼の未来を奪ったものとして非難・罵倒を半ば期待したが、そんなそぶりは微塵もなかった。

 娘はその持前の性格から友人も多く、学園時代の仲間を私たちの住む海浜でのバーベキューパーテイに時々連れてきていた。そこで私たちはその輪の中での会話に付き合ったが、かれらは娘と同じように楽しくはしゃいでおり、暗い影はなかった。学園生活についは係りへの憤懣は時折漏れるものの、友人間の交流は基本的には楽しいものだったらしい。また親への不満は何も聞かれなかった。中には親の理想への献身を滔々と弁護する子どももいた。

 もちろん例外はあるだろうが、親へのその融和性はどこから来るのか、私はよく解らない。転換もあったではあろうが、それに至るもっと実際的な理由がありそうに思う。

 一つは、ジッケンチ親にはいわゆる思春前期の子どもの反抗期というものに出会っていないという感慨が多いと思う。私は<村>に在ったときは、これを「親離れ・子放し」という学育理念の優位性だと解釈していたが、今は必ずしも釈然としていない。

 たしかに親子が同居しないことで両者の直接的な対立・葛藤は避けられ、子ども同士の横のつながりが深まりやすかったであろう。ただ最初からそういう<壁>がない社会では、子どもらの自立心は本物になっていくのだろうかという危惧が残る。

 ただ子どもらの反抗は、親よりも学園・学育の世話係に向かうということは、その接する時間的な長さからも充分考えられる。実際子どもらの思い出話の中では、世話係への評判は高学年ほど悪くなる。ならば子どもらのこの反抗心は充分正常だと考えられる。それを<壁>として、子どもらが<外>に向かうきっかけの一つになったかもしれない。

 また<村>外で親と接触しだして以降、子どもらはいわばほとんど初めてに近い、家族の輪の中にあるという感覚を新鮮に受け止めていたのではなかろうか。

 実際、<村>にいた時も、子どもらは学園の宿舎で暮らし、月一度ぐらいは親の居室で「家庭研鑽」という出会いの場を持っていた。それはそれで親にはうれしいものではあったが、子どもらにはいわば<権威>的な父親(の私)のお説教で必ずしも楽しくはなかったであろう(テレビやお菓子は別だろうが)。そしてその親の背後には学育理念に基づく<親のあり方>があり、個別の家族よりもジッケンチ全体のことを思う<メンバーのあり方>が張り付いていた。

 ここで改めて「家庭研鑽」という言葉ないし位置づけが気になってくる。あえていえば家族とは「研鑽」もあってもいいが、それも含むもっと広く深い分野である。研鑽とは言語を介した意識的交流の世界であり、皮膚感覚や心情的な触れ合いをベースとする<家族>の世界には馴染みにくい部分だと考える。そしてジッケンチの個別家庭は、学園での集団生活で友だちとの融和的な交流もあるが時にはストレスもひきずる子どもらを、基本的には受容する場であると考えた方がいいであろう。これらは第2部で触れた「対幻想」として括ることができる家族の特異性にも関わる。

 したがって親子の間柄は、親が理念的に<真面目>なほど、あるいはジッケンチとの教条的一体化が強いほど、子の反発を受けやすいようだ。それで家族としてのかけがえのなさをどこかで変質させ、くすんだ部分やぎこちない緊張の部分があったかもしれない。娘からの聞いた<村>在の友人の話では「なぜ(親は学園係に対し)私を助けてくれなかったの」と成人近くになってから、泣きながら母親をかきむしったという。

 それが村から出ることで、個別家族の切実でみずみずしい味わいが初めて蘇ったと感じる。少なくとも私たちの家族はそうだった。親は子どもを愛し抱擁し守ることが当然だという<親愛の情>がどくどく湧き出る。子らの望むことは何でもしてやりたいのだ。そして子どもらもいつしか素直にそれに答えてくるのである。かつての<甘やかす>だの<叱る>だのというあり方(私など、かつては積極的に推奨ていた)なぞどこ吹く風であった。




 それはこれまでのように中途半端なうす情けのような親の愛ではなかった。それも、これまで何もしてやれなかったという親の悔恨と、その何かをしてあげようにも極めて不如意な環境という特殊な状況の中でこそ起こりえたことかもしれない。

 ただふり返って敷衍すれば、この体験は本来の実顕地生活での理想ではなかろうかという気がしてならない。ジッケンチでは「親愛の情」を金科玉条にされたが、それは本来観念でも理念でもない(「潤いのない造花ではない」)。熱くあたたかい空気そのものである。そもそもそのような「親愛の情」を人はどこで感じ、学ぶのであろうか? 

 いうまでもなく、だれにとってもその実親(あるいはそれに当たる人)によって感じられ、学んできたのである。ならば<村>にある子はそれをどこで感じ、どこで学ぶのか? 「家庭研鑽」の場がその最高の場であるはずであった。

 もちろんその場では、親は人生の先輩として厳しく叱ることもあってしかるべきであろう。しかしそれはわが子への絶対愛から発するものであれば、理念や周囲を顧慮したかたちばかりのものになりはしない。それはたぶん親自らを刺し貫いて子に届くものである。

 ジッケンチには理念上<身代わり>はいっぱいいたとは思う。しかしそのような、実親と同体でありうるような<身代わり>は、そんなにいたとは思われない。

 そして現在子どもらはわが家の団らんの中で、昔の学園生活の実態をぼつぼつと語っており、意外な話も多かったのである。それがまたかれらの新たな自己表出の機会となり、親・子ともどもある程度の過去の整理も可能になってきているように感じる。

 つまり十年以上も遅れて子どもらの当時の真相を知るという時間的なずれは、私たち離脱家族にとって宿命的なものであるようだ。<村人>のまま残った家族はどうなのかは知らないが、ジッケンチのある種のソフト化でおそらく私たちと同じ経験をしているかもしれない。(そもそも私がこういうジッケンチ試論をまとめる気になったのも、離脱後かなり経っていると同じ背景によるだろう。つまりそうできる環境が訪れなかったのだ。)

(4)将来志向  終身<村人コース>忌避は自然
 ジッケンチ離脱親子にとって、子どもの将来についてはほとんどゼロから再構築するしかなかった。小さい子の場合はそのまま地域の小・中学校への再入学ということになるが、それ以上になると中卒のまま働き続ける場合が多いだろう。親の方で少し余裕があれば高校入学、あるいは高卒資格を取るための独学ないしスクーリング、また各種専門学校、さらには大学入学のコースをとる子もいる。それらはほとんど強いられた選択であって順当なコースとはいえない。

 他方、かれらがジッケンチにあった頃の子どもの順当なコースとしては、<村人コ-ス>しかなかった。ジッケンチが現在のような壊滅的事態に遭遇しないということを仮定しても、そういうコース選択は正当だったといっていいのだろうか?

 いうまでもないがジッケンチは、その周囲をまったく別の価値観、経済環境、生活環境に包囲された場でありながら、それらと全く独立して成り立つものではない。どこかに接点をもって<外>に依存する必要もあった。教育も基本的には同じである。

 かつて「実顕地にはほぼ二百の職種がある」と聞いて、そこまで増えてきたのかと心強く思った時期もあった。そして実顕地が一つの<社会>を目指す限り、そこに職種に限らず、あらゆる産業、生活、教育、福祉等の組織、施設、各種機関を、実顕地に相応しく組換え取り込んでいくことが<発展>のかたちだった。

 ところが高学年に上がるとともに、子どもらは<村>外の世界に興味を持ち出す。これは学園・学育でのテレビ禁止等の抑制の必要につながってくるが、それをもってしても容易に抑えきれない強力・自然な欲求になる。これはいうまでもなく始めっから勝負が見えている。係りや親の禁止的対応はかえって反発とストレスを増やすだけになり、それが親の大量離脱以前に<村>育ちの子どもらの外への流出につながっていた。

 ただヤマギシの場合幸運だったのは、かの「はれはれ運動」が極めて効果的に事態を切り開いていた。この運動の中心にあった若いリーダーたちは外部学生から構成されており、かれらが展開したのは私にはヤマギシ理念新解釈によって躍動するルネッサンスに見えた。若者の外部流出が鈍化し、<村>外から内への逆流が始まっていた。これがのちの学園高等部創設への原動力になっていった。

 すなわち子どもらの心を捉えたのは、やはり<面白いもの、カッコいいもの>であったのだ。力による禁圧でなく文化力というべきものが、最終的には大勢を制するのである。それが大自然との共生の営みとしての農的生活への好奇心を引出し、その多くの工夫改良の可能性の発見、さらにその生活表現としての学園の合唱・演劇などに引き継がれていった。さらにそこから大学部創設や若者の<村>への参画の動きまで登場した。

 ところがこの流れが制度化され、経営持続の日常性に組み込まれていくや、再び重苦しい雰囲気がよみがえる。そこへタイミング悪く集中したのが例のマスコミ大攻勢だった。再び若者の<村>外流出が勢いを取り戻す。

 この流れにはいくつもの要素が複合している。

・ジッケンチに魅力がない
・農業に魅力がないとする社会的な趨勢
・いったんは<外>でやってみたい、あるいは「遠くに飛びたい」という青春期固有の生理的な本能(きわめて精神的でもある)
・ジッケンチのそれなりに多い職種であっても、子どもの能力・資質上どれも適合不能で<外>にそれを求めざるをえない場合

 親や大人たちにとって、<外への魅力>の多くは虚飾に満ちた幻想であり、当然にも危惧を抱く。これは実顕地が<正常>であるかぎり基本的には正しいと思う。

 <外の自由>とは、<村>のように直接的には強いられないが、労働者自らの自発的装いのもとに蟻地獄のような現代資本主義特有の<穴>に落ち込んでいく<自由>を意味する。特にその状況は先述のパート労働において顕著である。それは私たち離脱した親たちが、共通に直面した現実であった。もちろんそれを突破する可能性はないわけではないが、それこそほんの一つまみの運と才能に恵まれた特別な人のみであろう。

 ただそれも、いったんは外に出てみて納得するまでは解らない。その時ではもはや遅いのである。大学部・参画へとつながった少数の子どもらを除いて、多くの子どもらがろくな社会的職業的な訓練もなく、ジッケンチ・学園を離れ、かなりの辛酸を経験させてしまった。それで仕方なくジッケンチの社員に舞い戻った親や子どもらもいるだろう。

 アメリカの共同体の中には、子どもらをいったん外に出して実体験させ、また戻って来れる仕組みがあるらしい。たぶん現在のようなある程度ソフト化された(あまり実情は知らないが)ジッケンチには、そのような試みは可能だと思える。

 これはかなり必要な試みであることは、うちの娘のように「ここも嫌いじゃないし、野菜のお世話も大好き」といっていた子どもらが一定層居たはずだと思えるからである。青春時、「今ここある、その外遠く」への切実な希求や憧れがない青年はいないはずはない。これは誰にでもある青春時(に限らない)につきまとう<自分探し>の衝動から発するものであり、自分にとって異質な他者や世界と出会うことによってしか満たされないものであろう。

 逆に思い起こせば親たちだって、かつては外への試行錯誤の果てにヤマギシに出会い、いわば心置きなく参画したのであるが、子どもらはこれから同じその途上(方向は違うが)に立とうとしていたといっていい。親にできたことが子どもにできない、というのはある意味ではフェアーではない。

 またそのかなり際立った能力、資質、体質によって<村>外に進路を求めた方が良いケースもかなりあったと思う。その点ジッケンチ内でどの程度知られていたかはわからないが、山岸氏の子息が氏の熱心な援助のもとに高名な画家になられたそうである。親から見て(また別にわが子とは限らないが)、芸術的ないし知的な才能ある子どもらを<外>に出して教育・援助したいだろうし、また実顕地としてそうすることは理念上何ら問題はないと思う。

 また逆に特殊な障害のある子どもらを<外>に託すことも当然のことであろう。ところが一般メンバーは<村人コ-ス>にあまりにも固着化して、そのような発想すら無理・論外として考え及ばなかったのではなかろうか。

 人は何を成すべく余儀なくされているか――そう、誰でもない彼しかなしえない課題を求めて人は放浪する。
(第3部了)2010/12