広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

<まちがいごと>への根本的対処が歴史を変える(福井正之記録⑧)

※これは、2013年に記録した【<ヤマギシ学育>って何だったの?】の中で、元学園生のIさんの手記「ヤマギシで生まれ育って、今、思うこと」を読んで、吉田光男さんが投稿した【<学育><研鑽>の本質から考える】に呼応して書いたものである。

 ここでは最初に、福井氏の論考【<まちがいごと>への根本的対処が歴史を変える】をあげ、後半に吉田氏の論考を掲載する。

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◎ <まちがいごと>への根本的対処が歴史を変える           

元学園生Iさん手記を手掛かりとしたYさんの論考は、いろんな意味で衝撃だった。これは<ヤマギシ学育>に問題を感じ、それをその成り立ちから究明しようとする本格的な正論だったからである。当然、それに相応しい資料と論理的真っ当さと自己批判的心情を備えたものだった。と同時に現2013年の時点で、この論考が何らかの関心を抱く人々(ごく少数であろうが)にとって、どういう位置づけ、意味になってくるのかという、ある種複雑な感慨を抱かせることも否定しえない。その両面に目配りしながら私なりの感想を記したい。

この論はベースとなる「学育」「研鑽」理念について、Yさん自身が体験してきた山岸氏の原典の研究・渉猟からの解明がなされている。私にはこれまでそういう機会も、したがってその方向性も希薄だったから、ある意味では新鮮だった。もっともここで引用されている「子ども研鑽会資料」は実顕地時代に読んでとても感銘を受けたもので、2年ほど前に私なりの総括として「ジッケンチ学育外論」を書く際にも資料として段ボールを探し回ったが見つからなかった。

やはりいいものはいいのである。私は<村>外離脱以降まず自分の感覚とアタマで考え抜いてみるという志向でやってきたが、ジッケンチ論考を書く際にはいくつか山岸さんからの引用をさせていただいた。ただそれらについての長い自己哲学過程の結果として、現在では山岸さんも含めそういう<巨人たち>への依拠は、いわばイデオロギー的理念体系への信仰・盲信につながるという警戒感が強い。また時には<アンチ理念>的発想に流れがちであった。しかし『山岸巳代蔵全集』の編集にも関わったYさんの感想としては「何だこれは、山岸さんの言うことと実顕地でやってきたこととはかなり違うじゃないか」と感じたというのだ。これは只事ではない。

山岸原典と実顕地、学育の実態との違い

私はジッケンチが現在のような<惨状>を呈してきたのは、やはり山岸さんにも責任があることだとずっと考えてきた。いうまでもなく実顕地も学育もずっと「ヤマギシズム」の語を冠してきたのである。それにしても何か違う、特に延々と続いた当時の長時間労働の中でいわゆる青本の中の「なるべく働かないための研鑽」とか「働きすぎる―馬鹿働きを」の記述については将来的夢想ではないのではないかという気がしていた。しかし大筋の流れでは継承されてきたと思い込んできた。それが「かなり違う」というのだ。

そしてY論考を読み進むうちに、現在のヤマギシは学育論、実顕地論とも山岸巳代蔵理念とは異なった何かであり、にもかかわらずヤマギシズムと称するなら、そこに歪曲、捏造というコトバがチカチカしだす。それは原理念からの変節であり、いわば<裏切られた革命>の結果ではないかとさえ思えてくる。すなわち昔、学生運動に関わった頃、ロシア・マルクス主義(スターリニズム)への疑問から、初期マルクスの研究に向かった新左翼の潮流を思い出させた。

おそらく自分たちのやってきたことは、ヤマギシズムの実践どころではなく、いわばそのとんでもないガセネタを真実だと信じ、また人にも信じさせてきただけではなかったのか??  この思いはあれから十数年も経ちながら、改めて私にどうしようもない悔しさ、慚愧、空しさの感情を呼び起こす。

いうまでもないが思想というものは、常に理想を目指す現在・現実との格闘・超克のために、その初発の理念、原思想がその小部分において絶えず改訂・変更されていくことはありうることである。より革命的にないし現実的にという理由によって。そしてヤマギシでその過程に相当する人物は、のちに実顕地建設を領導した「造成派」のS氏だった。しかし、その骨子は本質的に不変であろうし、その点でS氏は山岸さんの後継者であると見做されてきた。しかもその過程はおおよそ理論や路線をめぐる<研鑽>として公開されており、私が参画してしばらく後に遭遇した1980年前後の「中調派」と「造成派」のある種の研鑽<闘争>はそのような印象を強めた。しかし「造成派」が全体を制して以降は、その部分は指導部ないし専門部門に集中され、一般メンバーにとってはその<不可触の聖域>から発せられた決定に沿うか否かだけが問題となってきたのである。

したがってその指導部から時折示される研鑽資料の文書は多くは研鑽部発のものであり、中には山岸さん署名の文書もあった。しかしそこに歪曲や捏造(といってももちろん文書自体ではなくその取り上げ方や部分、頻度において操作的な)があったらしいということは、当時はまるっきり考えられないことだった。実顕地建設から経営面、拡大面、学園建設の成功に次ぐ成功が、その種の問題点から私たちを盲いさせてきたといってもいい。ところがようやっと現在に至って、Iさん手記やYさん論考によって明白に示された現実の事実は全く逆転したものであった。

改めて知る「学び育つ」の根拠と真価

すなわち学育面でいえば、あの学園での子どもらの学びの日々は、「教え育てるのではなく、子ども自らが学び育つ」世界とは対極であり、もちろん全てだとは言わないが、かなりは監禁や体罰等を伴った強制教育の世界であったことである。したがって「先生が言うから、みんなが言うから・・・・・・するから、そのとおりだとしないで考えます」という山岸さんの自主自発の学育論はどこかにあったのかもしれないが、ジッケンチの大勢としてはまさに<画餅>であったと考えざるをえない。それにしても何と遅すぎた認知であろう。

少なくともあの当時、マスコミに<係りの暴力>を告発されるまでは、あるいは告発されてもかなりは、私はそんなことはありえないマスコミの虚偽であり、捏造であると信じていた。また事実あったとしても、それは万やむをえない例外的措置であり、そして学園内での日常の子どもの研鑽会は、あの「子ども研鑽会資料」そのもの、ないしはそのような思いで実践されていたのだと信じてきた。私のように学園の現場傍近くにあって学園の旗振りをやってきた人間でもそうであったから、私(たち)は何と信じやすい愚かな人種だったことか!  また逆にその<現場の真実>を前に何と多くのカーテン、どころか壁が張り巡らされていたことだろう。

少し先走りするが、Yさんの指摘や問題意識はそのような元となる理念と現実との相違に留まってはいない。私などはその発見・解明だけでも大変なことだと思うが、彼は山岸さんの示された学育理念そのものの理想性のみならずその困難性も充分に承知されているのである。

「これは大変大きなテーマであり、世話をする大人の大変な能力と情熱を必要とする。・・・(中略)・・・導くよりも何よりも、世話係はまず子ども一人ひとりを知り理解する努力から始めなければならない。子どもに教えるのではなく、子どもに学ぶことが学育の出発点なのだと思う。しかし、これは口で言うほど簡単なことではない。また、配置で誰でもができることではないだろう。それだけの能力と情熱と感受性を備えていなければならない。学園にはそれをやりぬくだけの人材は用意されていなかった。」

この指摘は厳しく重い。元教育現場からの参画者は少なくなかったが、実際にその実現に向けての方式の解明や訓練がなされたという噂もなかった。私などは外で<仮設実験授業>の洗礼をある程度受けていて、ヤマギシの研鑽方式はそれ以上の実践だと期待して参画した面もあったが、いつしかそれも見失っていた。

しかしこの山岸さん創出の《学育》理念の、現実での実現を目指すならば、まさにこの「子どもに学ぶ」という指摘は真実であろう。私には「子ども研鑽会資料」と再会するだけで感激ものだったが、あのような強制的・暴力的方式をヤマギシ関係者の世界のみならず、将来の日本教育界から払拭させるためには、何を為すべきかの観点が不可欠である。私は別稿で「それら(強制教育)は教師や係や親の、心と行いと言葉が子どもに届かなかったという証左である。それが可能になるのに特別な方法・手段があるとは思えない」と述べたが、この山岸さんの学育論はいかに実現困難であろうと、その深みから放つ光芒には際立った真価があると感じる。

私(たち)の<信じやすさ、愚かさ>について

ただその前に、この現在では信じがたい私たちの<信じやすさ、愚かさ>については、何度も何度も考えてみなければならない。それはまさに次のようにYさんが指摘するような事態であった。

「いや、そればかりでなく、子どもが係に合わせて作文していたように、大人の私たち自身が物事を自分の頭で考えようとせずに、本庁や研鑽部といった指導的役割の人たちに合わせて考えていた。それがヤマギシの生き方であるとさえ思っていたのである。」

この過程は大人の場合、個別研の子どもらのように監禁等の強制によってではなく、ほとんどは自分たちの自発的な意思によってであった。これまで私も何度か言及してきたが、これは「ハイで受ける」「合わせる」などというきわめて面妖なテーマが導入され、それが全体の抗しがたい気風となってきたのである。ここでいう「面妖なテーマ」というのは、これは研鑽の本質とは違うのではないかという私の現在の直感からである。

私は離<村>後、手垢塗れの「研鑽」という言葉の使用を極力放棄し、「自己哲学」という言葉を使ってきた。研鑽という言葉の意味はそのどこかと重なる部分があるかもしれないが、それを改めて定義しなおす資料も失ってきたので、正確に記すことはできない。しかしYさんが、「『子供研鑽会』資料には、研鑽の本質が描かれている」とあるのに深く同感し、その平明な表現に基づいて考える。すなわち研鑽とは、まず「自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます・・・」ということであろう。

「ハイで受ける」「合わせる」というテーマは、おそらくこの「自分の思っている考えをそのまま言って」に抵触し、タブー視される規制要素として働いてきたのではなかろうか。建前上は「研鑽会は何を言ってもいいところだよ」と私も言われ言いもしてきたが、いつしか私自身も研鑽会中は言葉を選び、時折迎合的な発言はするものの、沈黙が増え、真に質したかったことは次第に押し殺すようになってきていた。すなわち自己検閲であり、自己規制である。これはYさんの指摘されるように研讃の本質を見失ってきたということになるが、はっきり言っていったい何を恐れたのだろうか?  

ジッケンチ内のシャバ感覚

そこにはもっと組織体制上の問題があり、そこからYさんが指摘する学園実習生に対する差別意識も出てくるわけで、そこを私なりにもう少し踏み込んでみたい。

話を端的にするために離<村>後の体験から記す。シャバでは職を得ることによって生活の資を稼がなければ1日たりとも生きてゆけないプア層にとって、企業への忠誠などは理念とはほとんど無関係に、失職への恐怖によって維持される。私も職場で道義上いろんな問題があっても、あえて目をつぶって生きてきた。しかしそういうことを想定しなくともいいはずの実顕地で、本心が率直に表明され、究明し合える営みがどんどんジリ貧になっていったとは、ある意味では不可思議極まりない。職も、食も、老後までも保障されているのである。あるいはそれが災いしたのかもしれない。

すでに機構・組織のヒエラルキー体制が確固として確立していた段階で想定されるのは、上から睨まれる、評価が落ちる、研鑽会で指摘される、今の地位を失う、仲間外れにされる、等々であろう。これは確かに役職位置が上位にあった私のなかでも掠めた危惧であったが、シャバのような生活的な実害はない。ただし生活丸抱えの密集集団であるから、それらのリアクションは相当きついだろう。さらにそれを過ぎると実害の領域、他ジッケンチに回されたり、長期研鑽会に半強制的に送られたり、最終的には<村>からの追放が予測された。

その内情はシャバと相当ちがいがあるにしても、会社組織ヒエラルキー下の中間管理職やサラリーマンの感覚とそれほど違いはない。違いがあるとすれば、その体制はどこか「互いに一列横の人として」という理想と抵触するのではないかという疑問がついてまわることであった。組織上の上下関係は専門分業として一応説明可能だが、すでに自動解任が形骸化されている組織では実質<権力関係>に転化しやすい。シャバでの会社や公務員組織では、それを「特別権力関係」と説明し、組織を離れれば市民として対等平等関係だとみなされていた。しかしジッケンチでは経営、生活もほとんど一体的であって、生活面でも権力関係が行使されうる可能性は充分にあった。

またそういう体制に不可避的に生じてくる感覚は、はっきりいってシャバと変わらない優劣の比較感であった。具体的にその一つは指導中枢からの評価をめぐる、他の同志たちとの比較感だった。実顕地成立以前から参画していた私の感覚では人間間の対等・平等感覚にはかなり敏感だったし、そういう気風を受け研鑽会の建前としては「比較なし」であった。したがって比較感についてはおそらくシャバよりは希薄(表面化しないという意味で)であったとは思うが、心内の事実としてそのようなものが蠢いたことがないとは断言できない。それが体制へのウサン臭さと同時に、体制に迎合する自分へのウサン臭さを誘発した。

それと逆の文脈で、下の階層や学園実習生への差別的見方はおそらく充分ありえたと思う。それは私自身が直面した記憶はないが、わが子の学園での評価についてはかなり気にしていた。愛和館仲良し研での合唱で顔を見ないと何かあったんだろうかと心配する心の底で、他の子らとの比較感が走らなかったとは言わない。

自責の念とその行方

私が外に出たのは、ヤマギシ用語の世界に毒され呪縛されてきた<自分本来の言葉と感覚>を取り戻すためだった。ただその前段ではこの種のウサン臭さにほとほと嫌気が差していた。「理想社会」と呼号されればされるほど、私は違和感を覚え、「理想」などない方がもっとスッキリするだろうにと思い出したくらいだった。本来なら、こういう現状とは異なるあるべき理想のビジョンを探りだし、そのためにたたかうべきだったかもしれない。しかし、その方向への気持ちは萎えており、まず一旦この不分明な世界から離れてもっとしっかりした<素地>から考え直してみたい、というのが当時の私の切実な希求だった。

それがヤマギシズムへの挫折感とさらには現在の理想体系一般への疑心につながっていった。そこがずっとジッケンチに在り続けたYさんとは異なった位相、認識になる部分でもあるが、彼の今回の論考の大筋は充分共感共鳴できるものであった。それは私自身関わってきたこの運動・組織の生み出した過誤については、ずっと自責感を吹っ切ることはできなかったためであり、おそらくYさんも同じ思いであったであろう。

この自責感というか責任意識については、どのように考えたらいいのであろうか?  あの過去から遠ざかり、誰もが現在の営みに流れつつある中で、私(たち)だけが特にそのような気質・体質なのだろうかと思わないこともない。それもないとはいわないが、これまで出会い積み重なってきたさまざまな状況が、自分を強いてきたとはしばしば感じることである。自分の意思・意向もあるとは思うが、Yさんの紹介された「親鸞の業縁」というのも実感できそうな気がする。

しかしこの自責感や責任意識は決して私たちだけのものではない。時折メール交換する旧友たちの心情にもそれは窺えるし、投稿は極小だとしても私の超マイナーHPへのアクセスも細々ではあるが絶えたことはない。反対意見の人もあろうが、誰かが同じことを考えているという手応えはある。私(たち)はただそれら心情の代弁的<書き役>であるにすぎないと思う。

とはいえ事の起った時間はあれから十数年以上も前のことであり、そんなこと今さら問題にして何になる、というのは当然自然な考え方であろう。いわゆる人の<生理的時間>の経過としては、当該時点の衝撃が、次第に薄れ、風化し、忘却され、あるいは思い出として昇華していくことを必然としてしまうだろう。またそういう時間の癒し効果に助けられてこそ、人は十全に前向きに生きることができる。したがってその方向で次のステージに移行できた人を私はむしろ慶賀したいくらいだ。

私としても同じように過去の大半をやり過ごしてきているが、ただ自分の立場・役割から関わった過去の過誤についてのみ、その責任は回避できないという思いがあり、その部分での<精神的時間>は止まったままである。もっともそこまでは行かなくとも、その自責感が潜在されたままの方もかなりおられるのではないか。

いわゆる<A級戦犯>について

冗談というより本音に近いが、私はこの学育過誤の問題では<A級戦犯>の一人だと思っている。もちろんトップではなくその後尾において。私は幼年部創設に関わり、その拡大活動を通して参画者の増大に貢献してきた。したがってむしろ中・高等部生に関わる本件の個別研情報の核心部分はほとんど知らなかった。しかしそれらの決定、決済は、私などの背後で学育全般に関わっていた<大物>に委ねられていて、彼らこそ<A級戦犯>だと見做されるべきだろう。といっても同じヤマギシ学育問題に関わってきた者として、私もその責任を回避できるものではない。

その<A級戦犯>という言い方にもう少しこだわるならば、私はYさんの次の認識がもっと身近で、普遍的になる。

「この学園運動のたどった道は、敗戦後の日本の歩みとよく似ている。敗戦の責任を誰もが取ろうとせず、一部に責任のすべてを押しつけて、<我ら民衆は何も知らなかったのだ、騙されていたのだ>と、みんなが善良な市民を装ってきた。」

このセンテンスの全体的トーンとしては<関係者一人一人に責任がある>という考え方がある。いわゆる敗戦後普及した<一億総懺悔>論のように受けとめられないこともないが、体制側の責任逃れによるそれとは明らかに違ったものだろう。ところでその<一人一人>責任論も、私は<過ち>の論理的一般的な結論としてはありうる考え方だと思うものの、やはりその責任には位置・役割のちがいによって軽重大小の差異があるものと考える。むしろここでYさんが考えておられる<学園世話係等に責任のすべてを押し付けている>というところに着目する。

そのことでもっと歴然と感じたのは、以前にもどなたかの投稿で指摘しておられたが、当時事実上、現場のほとんどを掌握・決裁していたはずの旧学育指導部の中心人物が、<理論研鑽部署と現場との“ズレ”>について言及している《村岡著》部分だった。これは私には想像を絶する不可解なことだった。とはいえ、これ以上は個人攻撃と取られても全く本意ではないから控える。ただこの間村外関係者の一般的な「自己責任」論にかなりぶつかってきた私としては、事実としての<被害―加害>構造の中で加害者側もそれぞれの責任位置が特定されることは充分ありうることとして一言しておきたい。

そのことを前提として、時代における民衆一人一人の総意が歴史をつくってきたことを否定する何ものもない。その戦争責任に関わる分野では、A級戦犯のみならず、BC級の戦犯が糾弾された(こちらの方が過酷だった)が、最大の戦犯、すなわち超A級戦犯は天皇だったという認識が当時はかなり一般的だった。天皇は象徴どころではなく、明らかに天皇主権国家の頂点として「大元帥閣下」を兼ねていた。私は新聞写真で「汝臣民飢えて死ね、ギョメイギョジ」という皇居前での抗議デモプラカードをはっきり記憶する世代の一人である。その敗戦時点での天皇責任不問と象徴化への政治的収拾が、歴史的な理非曲直を曖昧にし、その後遺症が今もあちこちで禍根を残している。

<まちがいごと>への根本的対処が歴史を変える

ちなみにハリウッドを代表する映画監督オリバー・ストーンが今夏ヒロシマを訪問しての講演内容を一部引用する(「プラトーン」「JFK」などの監督、最近では「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史」制作)

「第二次大戦で敗戦した2つの主要国家はドイツと日本だった。両者を並べて比べてみよう。ドイツは国家がしてしまった事を反省し、検証し、罪悪感を感じ、謝罪し、そしてより重要な事に、その後のヨーロッパで平和のための道徳的なリーダーシップをとった。(中略)一方、第二次大戦以来私が見た日本は、偉大な文化、映画文化、そして音楽、食文化の日本だった。しかし、私が日本について見る事の出来なかったものがひとつある。それは、ただのひとりの政治家も、ひとりの首相も、高邁な道徳や平和のために立ち上がった人がいなかったことだ。(中略)みなさんに聞きたいのは、どうして、ともにひどい経験をしたドイツが今でも平和維持に大きな力を発揮しているのに、日本は、アメリカの衛星国家としてカモにされているのかということだ。・・・」

国家的な巨大な過誤であるからこそ、それへの対処の違いがかくも大きな結果の違いとして長く尾を引くものなのだ。しかしこれは大きすぎる話ではない。私はYさん同じくこれは明らかにヤマギシの過誤責任問題と同根だと感じる。あのジッケンチ指導部を今でも継続されている諸氏もジッケンチの過去の過誤に対して責任意識がないとは思えない。元村人からの生活面の提案があれば一応対処されてきているようだし、村内における事故、不祥事についても多額の金銭を費やして補償されてきたと推測される。またあの極めて不十分だが批判的な記述も含む「ヤマギシ会の到達点」(村岡著)の出版も容認した(むしろマスコミ広報等で多額の資金援助もしたようだ)。もちろんその主たる動機は組織護持の一念からであろう。

しかしそれらも含め、誰の目にも実顕地の過誤とみなされる事態に対し、一言も彼らの口から釈明らしいものが公表されたことはない。ドイツのように「してしまった事を反省し、検証し、罪悪感を感じ、謝罪し、・・・」というようなことはありえなかった。それらの過誤は公式には一切存在しなかったことになる。それも政治的な配慮を感じるが、およそ思想、理念を扱い、完全無謬であるような運動、組織体はかつて在りえたためしはない。過誤があれば、それらを内部から真摯に研鑽、自己批判し、新たな気風を創出、再生産しながら、後世まで伝えようとしないのだろうか?

少なくともそれを目指す団体なら、沈黙は考えられない姑息なことである。あえて恥ずべきだと言わず「姑息」と言うのは、その沈黙はたかだか<無所有? 資金>が尽きるまでの現状維持からジリ貧、消滅に資するしかなさそうだと思うからである。山岸さんが描いた200年先(いや今では150年先かもしれない)の革命成就への王道は、もはや言わずもがなであると愚考する。(2013/11/6)

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◎元学園生の手記を読んで 吉田光男  
最近、ヤマギシズム学園出身者 I さんの手記を読む機会があった。学園についてはさまざまな批判があり、それが何であったのか実態を知りたいとは思っていたが、断片的な情報がほとんどで、学園出身者の生の声を聞くことはほとんどなかった。 I さんの手記は、私が秘かに推測していたものと一致しており、それだけにこれを学園だけの問題として済ますことはできないと思った。思うにこれは実顕地全体の問題であり、実顕地参画者一人ひとりの問題であり、ひいては教育界全体の問題であるとさえ言うことができる。

手記は、次の一文から始まっている。
「私が小学校4年のとき、一緒に豊里実顕地の学育にいた小学校2年の弟のおねしょがなかなか治らない、ということがあった。おねしょをした朝、弟は真っ裸で学育舎の裏に立たされていて、そんなことが何度もあった。時には、寒い冬の日に、頭から水をかけられていることもあった。私は、すぐ横のニラ畑で収穫をしながら、『また、おねしょしたんだ。かわいそうだな。でも、自分はああならないように、いい子でいよう』と思って見ていた」

次いで、中学・高校の時の個別研の経験を書く。
「高校1年のとき、豊里実顕地の高等部で2週間の『個別研』になったことがある。きっかけは『こういう服が着たい』と詳しく書いて提案書を出したら、買ってきてもらった服がそれと違っていたので、『こういう服じゃない。他のが欲しい』と言ったら『反抗的だ』ということで、そうなった。4畳半の窓のない部屋で、息が詰まりそうだった。トイレにだけは出られたが、お風呂はようやく5日に一回くらい入れただけだった。部屋には布団と反省文を書くための筆記用具や机があるだけで、隣が係の人の控室ということもあって、いつも緊張して座っていた。その部屋は2,3年生の階にあり、変な目で見られていることを感じていたので、トイレに行くのもとても気まずかった。とにかく、気が休まらなかった。『自分は何が悪かったのか』をずっと考えて、反省文を書いていたが、とにかく早く出たくて、『早く出してもらうには、何を係の人に言えばいいのか』とそればかり考えていた」

「その2週間の後、結局、反省が足りない、ということで高等部から追い出され、私は『実習生』になった。実習生は高等部に行っていない子たちの集まりで、村人と同じ空間で生活し、村の職場で働いていた。そこには数人の幼なじみもいたが、私は早く高等部に戻りたかった。『ヤマギシの中で実習生は落ちこぼれのように見られている』という感覚があったし、実際にそういう雰囲気が村にあったと思う」

この「実習生は落ちこぼれのように見られている」というところは、村の大人の一人であり、間違いなくそう見ていた自分の胸にグサッと突き刺さる。

(1)
私が大田原実顕地にいた時、Y子という高等部生が親元に帰されてきた。Y子の父親は、当時、村の流れに沿わないやや異端の人物とみなされていた。私が韓国の研鑽学校に世話係として行っていた時、彼が学育の係の女性を殴りつけるという事件が起こった。下の娘が叱られて泣いているのを聞きつけ、いきなり部屋へ飛び込んで暴力を振るったのである。私は、研鑽学校終了後すぐに帰国するように、との連絡を受け、爾後の収拾に腐心したが、そのしばらく後にY子が帰されてきたのである。当然のように「親が親なら子も子だ」という空気が醸成され、私も深く考えもせずその見方に同調していた。

しかし、事情を何も知らない村人が、年端もいかない女の子を一方的に「落ちこぼれ」と看做すことが、どれほどひどい仕打ちであるか、いま思うと空恐ろしくなる。

当時はそれほど深く考えることがなかったこの事件も、始めは喉元に小骨が刺さった程度にすぎなかったが、年月を経るにしたがってだんだん大きな痛みとして感じられるようになってきた。学園批判が高まったこの十数年来は、自分と自分たちの過ちとしてはっきり認識できる。

今から40年以上前に、見田宗介氏が真木悠介のペンネームで『展望』誌上に、「まなざしの地獄」という有名な論文を書いたことがある。四人を射殺した永山則夫(当時19歳)の生い立ちに触れて、親に捨てられ読み書きも教えられずに、はみ出し者・厄介者と見られてきた少年永山則夫が、周囲の大人のまなざしをどれほど地獄のように感じていたかを見田さんは書いている。

「落ちこぼれ」という大人たちの見る目が、どれほど子どもたちを傷つけるか、傷つける側の大人にはほとんど自覚されることがない。いじめや差別に通じるこの見方、感受性の欠如は、私たちの一体どこから生ずるのだろうか。

I さんは、先の手記の中で「個別研の部屋から早く出してもらうには、どう書けばいいのか、そればかり考えていた」と書いている。それで思い出すのは、やはりその頃よく本庁(あるいは学園事務局であったか)から送られてきた「赤鉛筆」という感想文集である。子どもの感想文に係が朱筆を加え、「ここは良い」、「ここは悪いからこう直すべきだ」等、いちいち指示を赤字で書き加えた文集である。私はこれを読んで「これは何だ、文章のどれもが金太郎飴のようで子どもの本心が少しも出ていないじゃないか」と思ったことがある。しかし、それもそれまでで、感じたことを一歩踏み込んで考えることをしなかった。

村の大人たちが、そういう文章を読んで不思議に感じないのには、それなりの理由がある。当時の私たちは、実顕地の行うことは正しい、学園は子どもの可能性が開花する唯一の楽園である、と信じていた。いや、そればかりでなく、子どもが係に合わせて作文していたように、大人の私たち自身が物事を自分の頭で考えようとせずに、本庁や研鑽部といった指導的役割の人たちに合わせて考えていた。それがヤマギシの生き方であるとさえ思っていたのである。

こうした私たちであれば、指導的な人たちの間で対立・抗争が起これば、何を考えるかではなく、どちらの主張が正しいかと、すぐそちらの方向に頭が行ってしまう。そしてそのどちらかに、自分の考えを合わせようとする。実顕地でやるのが正しいか、鈴鹿へ行くのが正しいか、あるいはこの花ファミリーへ行くのが正しいか……等々。いずれも研鑽の生き方とは懸け離れている。


(2)
話を学園に戻せば、ヤマギシの学育という考え方は、子どもを育てる上でもっとも大事な考え方だと思う。「教え育てるのではなく、子ども自らが学び育つ」ようにする。そのためには大人は、教えない・導かない・枠にはめない・個々の能力が個性に応じて伸びるようにする、その環境を用意し、見守る。これは大変大きなテーマであり、世話をする大人の大変な能力と情熱を必要とする。子どもは一人ひとり違っている。体力や能力が違うだけでなく、何よりもその一人ひとりを形成する心の宇宙が異なっている。大人ももちろんそうであるが、子どもは自分の心の宇宙で物事を感じ取り、理解し、それを広げることも、狭めることも、歪めることもする。大人と違って、子どもの宇宙はまだ柔らかくたくさんの色に染め上げられていない。しかも、個性があって、一律ではない。

こうした子どもたちを世話しようとすれば、大人は自分たちの考えで子どもを律することなどできることではない。導くよりも何よりも、世話係はまず子ども一人ひとりを知り理解する努力から始めなければならない。子どもに教えるのではなく、子どもに学ぶことが学育の出発点なのだと思う。しかし、これは口で言うほど簡単なことではない。また、配置で誰でもができることではないだろう。それだけの能力と情熱と感受性を備えていなければならない。学園にはそれをやりぬくだけの人材は用意されていなかった。しかし、何よりも問題なのは、学園の方向が学育理念とは懸け離れたものになっていたことである。

学育理念について最初に書かれた資料がある。山岸さんが書いたと言われている「百万羽子供研鑽会」という子ども向けの研鑽資料である。その資料は、次の言葉で始まっている。

「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます」

この文書には昭和33(1958)年8月の日付があり、春日山に百万羽が発足した当初、参画者の子どもたち用に書かれたものとされている。ここに言われている「先生やおとなの人」という言葉は、「学園の係や村の大人」と言い換えることもできる。つまり、係の言うことも「そのとおりとしないで考える」ということである。学育や学園という仕組みができる前に、学育の考え方が既にはっきりと示されていたのである。

(3)
しかし現実は、学育とは全く違った指導・育成の方向にいってしまった。おねしょをしたら裸にして立たせる、あるいは水をかける。個別研と称して狭い部屋に閉じ込め、反省文を書かせる。しかも自由に書くはずの作文に「こう書け」と言わんばかりの指示を与える。こうした指示や体罰は、「教えない、自ら学び・育つ」という学育とどこに一致するところがあるだろうか。押しつけ・強制・体罰は、本来ヤマギシズム学育とは無縁のはずである。

「子供研鑽会」資料には、続いてこう書かれている。

「みんながそうだとわかるところまで考えて……その中でそうでないと言う人や、わからないと言う人が一人でもいれば、みんなでもっと考えます。

こういうようにして、一つ一つみんながそうだと言うところまで考え、正しいことを実行していきます。間違っていたらすぐあらためます。

そこで、人がしないからしない、あの人に言われるからしない、あの人がするから自分もする、というのではなく、人のことを言わずに正しく考えて、自分から進んでするのです。

こうして自分自分が考えて、正しいことを実行していくのですから、ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめい考えます」(全集三巻・356頁)


学園問題を論ずるときに、よく学育理念そのものがおかしかったのだ、という人がいる。しかし、決してそうではないだろう。学園のあり方・運営が、学育理念と懸け離れていたことが、躓きのもとになったのだと思う。そして、こうした躓きのもとは、学園世話係や学園事務局だけにあったのではない。本庁をはじめとする当時の指導部門、そしてその方向を無条件で信じ支持して学園運動を展開してきた私たち村人一人ひとりにその大元がある。したがって、“自分は関係なき第三者”という立場を装って、学園世話係の責任だけを追及する人もいたが、そこからは問題の本質が浮かび上がることはないだろう。




しかし、学園世話係の多くが、学園生から恨みをかっていたのは事実である。学園出身者の一部には、仲間同士で集まると、「あいつだけは許せない」と今でも言っているそうである。よほどひどい仕打ちや暴力を振るわれたのであろう。そういえば、学園崩壊が始まった2000年前後に、「あいつが実顕地に戻ってきたらボコボコにしてやる」と息巻く子どもたちがいたと聞いたことがある。その係は実顕地の外に緊急避難して、遂に村に帰ることがなかった。そしてまた、当時の多くの世話係や学園関係者は、いま村を離れている。自分が、自分たちが行ってきた学園運動が何であったのかを振り返ることなしに。これは悲しい。

この学園運動のたどった道は、敗戦後の日本の歩みとよく似ている。敗戦の責任を誰もが取ろうとせず、一部に責任のすべてを押しつけて、「我ら民衆は何も知らなかったのだ、騙されていたのだ」と、みんなが善良な市民を装ってきた。アメリカの原爆投下に抗議もせず、「二度と過ちは繰り返しません」などと、あたかも自分たちが原爆を投下したかのような碑を建てている。要するに歴史に学び、過去を自分の今として省みる力が弱いのである。そして今、再び憲法を改正し、戦争のできる“普通の国”にしようとし、あれほどの災害にも関わらず、原発=核の再稼働に向けて動き出している。

(4)
話を元に戻す。I さんの手記について何人かで話し合っているとき、「学園の係が相当ひどいことをやったのは間違いないけれど、一人ひとりの係を思い起こすと、そんなに悪い人はいなかったね」ということで一致した。普通の意味では“いい人”ばかりだった。そのいい人たちが、しつけと称して体罰を加えたり暴力を振るった。しかも、それが子どものためだと思っていたのである。

人間は観念の動物である。自分が正しいと信ずれば、何を仕出かすかわかったものではないし、また状況に強いられれば、最悪の事態さえ引き起こしかねない。親鸞は『歎異抄』の中で、善悪の基準などあるのではなくて、業縁(ごうえん)がなければ一人も傷つけることがないけれども、業縁がもよおせば「百人・千人をころすこともあるべし」と語り、「われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもふ」自力の考え方を退けている。

私自身はこの親鸞の絶対他力の考え方にそのまま従うわけではないが、予め善悪・善し悪しを決めて、それで事を済ますことはできないと考えている。学園世話係が悪い人だったり暴力的な人だったから、体罰や強制的なしつけを行ったのではなく、それが良いと信じ、それが子どものためなのだと無条件に思い込んでいた結果なのである。ただ、ここには、自分の観念と子どもの心の世界との懸隔、そのギャップを理解し埋めるだけの知性・感受性に大きく欠けるものがあった。そしてそれは、学園の係だけでなく、村人の大半を捉えていた考えであり感覚でもあった。

あれから十数年を経過した今、それでは当時の状況は払拭できているだろうか。できていない、というのが私の正直な実感である。確かに、全体的にソフトになり、「Z革命を私一代で成し遂げます」などと叫ぶ狂信的なムードはなくなった。しかし、その一面、どこか目標を見失った腑抜けた感じがあり、それは自分自身にもある。第一、学園運動が何であったのかを問う研鑽が何もなされていない。過去を不問に付す、そして振り返らない、こうした歴史を省みない生き方からは未来を切り開くことはできないのではないか。

しかし、過去をあれは間違いであった、理念そのものがおかしかった、と一刀両断するだけでは何も見えてこないし、無責任でさえある。間違いだとすれば、自分は、そして自分たちは、なぜ間違ったのかを追究しなければならない。過去に間違いないと信じていたことが間違っているとすれば、今間違っていたと断定する考えが間違っていないかどうか。

(5)
とにかく人間は誤り多き存在である。間違いだらけ、失敗だらけの人生だと言ってもいいくらいの存在に過ぎない。しかし、失敗や間違いは、貴重な財産でもある。そこを振り返り明日の糧にすることでより正しい道を歩むことができる。それには何が必要かといえば、一人ひとりが謙虚になって研鑽生活をする以外にない。「ヤマギシズム生活の絶対条件・生命線は研鑽である」と言われながら、実態は単なる話し合いや打ち合わせに堕していないだろうか。そして妥協や迎合に終始してはいないだろうか。

先の「子供研鑽会」資料には、研鑽の本質が描かれている。

「本当に自分も良くなろうと思えば、みんなが良くならなければ、自分が良くなることが出来ませんから、みんなが良くなることは正しく、そうでないものを間違いとしてきめていきます。そうしてみんながそうだとわかるところまで考えてきめます。その中で、そうでないと言う人が一人でもいれば、みんなでもっと考えます。……

……ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめいに考えます」

実に簡単明瞭に研鑽の本質を描き出している。「先生の言うこともおとなの人の言うことも」、つまり本庁の係であろうと学園の係であろうと、古い参画者であろうと、学識のある人であろうと、「だれの言うこともよく聞き」「ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、一生けんめいに考える」ことが研鑽だと山岸さんは言っている。しかし私たちのやってきたことは、「わからないことをわからない」と言わず、「知らないことを知らない」と言わずに、「あの人が言うのだから間違いなかろう」とか「こう考えるのが本当らしい」と、何となく正しいらしいと推測したものに進んで自分を合わせてきた。研鑽・けんさんと言いながら、もっとも研鑽から遠い生活をしてきたのではないか。学園問題の本質も、結局は研鑽の不在にあったのではないかと思う。

では事は簡単、本来の研鑽生活に立ち戻ればいいだけである。と言いたいのであるが、そうは簡単ではない。山岸会発足から60年、春日山がスタートして55年、その間どれだけ多くの研鑽、研鑽会が行われてきたことか。しかしながら、実顕地の暮らしが真に研鑽に裏打ちされているとは言いがたい。これが現実である。私たちは、まずこの現実を正直に認めることから出発する以外にない。

研鑽を妨げる考え方や気風には、何となく「みんなに合わせるのがいい」「全体の流れに逆らってはいけない」といったムードが働いている。反対や異論を嫌うのである。そこから、“全員一致”あるいは“一枚岩”の思想が生まれてくる。しかし、自分の中でもさまざまな相反する考えが浮かぶように、大勢の人の間に多くの考えの違いが生ずるのは当然のことである。「違って当然、しかも一致している」。では、何が違って、何が一致しているのか。

(6)
鶴見俊輔さんたちの共同研究『転向』に、藤田省三さんは戦前の共産主義運動、特に福本イズムが支配的であった頃の一枚岩的組織について、次のように書いている。

「(党内の)民主的討論の原則は、同質のものの間の空疎な用語の修正のやりとりとなって形骸化する。とともに他方、集団はいつの間にかエピゴーネンの集団と化す」

コミンテルンの指導する国際共産主義運動に自らを合わせようとして、異論を封殺し、みんなが小スターリン、小福本になろうとして、遂にエピゴーネンの集団と化していったというのである。その際重視されていたのが、党内用語である。その言葉さえ使っていれば、異端とはみなされない“お守り言葉”として用いられ、その結果、言葉は貧困化した。言葉の貧困化は、思想の貧困化を招く。

異論は、一つの方向が誤りに思えたときに、軌道修正する重要な参考資料になる。しかし、多くの運動組織は、左翼も右翼も宗教組織も、みな異論を排除して一枚岩の組織であり続けようとしてきた。そこから、組織内の闘争・指導権争いが起こり、排斥・除名、そして遂には投獄・処刑に至ることもしばしばであった。

山岸さんは恐らく、こうした組織とは全く異なる組織のあり方をヤマギシズム社会組織に求めようとしたのだと思う。意見はいろいろ異なって当たり前、しかも対立にならずに、妥協や迎合もない組織のあり方、その一つの試みが実顕地ではないだろうか。そしてそのカギとなるのが“研鑽”である。研鑽が生命線というのは、まさにその意味にほかならない。

研鑽は単なる話し合いでも打ち合わせでもない。「ごまかさずに、だまさずに、わからないことをわからない、知らないことを知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめいに考えます」。これは、誰でもわかる。納得できる。しかし、なかなか実践できてはいない。わからないことをわからないと言わず、知らないことを知らないと言わずに、沈黙したり、いい加減に聞き流したりしていないだろうか。そして、真剣に考えずに多数の意見に同調し、安心・安全を求めてしまう。こうした私たちの態度が、学園の行き詰まりをもたらし、I さんのような学園生を生み出してきたのである。

時代は内外ともに行き詰まり、文明の大きな転換期に来ている。しかし、先行きは不透明で、未だどこへ向かうのか、向かうべきなのか、一向に見えてこない。ヤマギシの存在意義が時代に問われているのである。

耳をすませば、この社会からはさまざまな喘ぎが聞こえてくる。子どもたちの間には、いじめや差別がはびこり、青年たちは就活に追われて自分が「何者」かわからぬ状況に置かれ、あげくは三割以上の若者が派遣労働を強いられている。また年寄りは年寄りで、その多くが老々介護や孤独死の恐怖にさらされている。今こそヤマギシの生き方が求められているのではないだろうか。

しかし、そうした声を聞き取り時代の要請に応えるには、実顕地の生活を真に研鑽生活と言えるまでに深める努力から始めなければならない。そのためにこそ、まず「研鑽とは何か」ということを、あらためて考え直してみたい。

(7)
先に「子供研鑽会」資料の一部を紹介したが、理念研の中で山岸さんが語った「研鑽」に関する発言を幾つか抜き出してみよう。

*人の意見を聞いた時も「こら、ええな」としたら危ない。むろん「こんなものいかん」と、そんなに早まるものでないと思う。

*「みんなが一致したから、それで良い」と、ここだけのそれをしたら危ない。……「これが良い」とキメてかかったら省みないわ、人が言ったかて。馬車馬みたい、盲馬というのか、目隠しして走ってる馬みたい、これではね。

*どうもはき違い、聞き違いが多いわね。正確に聴き取ったという人は一人もない。みな、謂ったら誤解や。それがずいぶん邪魔するということね。「わしはあの人をこう聞いた」といっても、言った人の気持ちと同じということは絶対ない。どんな澄み切った鏡に映しても、逆さに映るのやぜ。……せめて同じ方向の誤解ならましやけど、全く逆方向の誤解が相当あるね。……誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんあるということでかなわんが。

*反対の意見こそ、自分を再検討し、間違いへの警告であったり、前進への大きな参考価値があるかと思われるし、意見が違う間はわかりやすい簡単なことでも、わかりを妨げるものを自分側につくるもの……。

*どこまでも「果たしてそうだろうか」「そうであるかもしれないが、そうでないかもしれない」という線を残して、共に考え進められることが大切である。

*人間には……〈自動的な知恵〉を使おうとしないで、〈他動的な知識〉で盲従しようとする錯覚癖があるようだ。

*どちらも間違いをもっているだろうから、「そうじゃない」でなく、「そうかもしれん」で。信じ込まないこと。

*頑固と云うと、すぐ相手を考える。あの人さえ頑固でなかったら、あの頑固さがとれたなら、と。

*本当は全知全能でない限り、正しい判断は出来ないものと思う。あの人こそ最高の人格者であり、全知全能の神様の再現だから、凡人のわれわれの考えでは到底はかり知ることが出来ないなどと、ひとから聞いたことや、自分で感じたことから判断して、神様ときめつけ、全部が正しいかのように信じこみ、凡てをまかし、服従する盲信型もずいぶん頑固なもの。

*自分の考えは正しいか正しくないか分からない自分であり、また他の観念も正しいか正しくないか分からないとする自分になることから出発する。

*人間かしこぶるより、大バカになること。大バカが大仕事する。

以上は、「山岸巳代蔵全集」の六巻および七巻から山岸さんの発言のほんの一部を抜粋したものであるが、考えさせるものをたくさん含んでいると思う。

(8)
Iさんの手記を読んで、自分を振り返りながら、私は自分の研鑽不足に思い至った。不足というより、研鑽のない生き方をしてきたな、と思わされた。

以上が、Iさんの手記を読んだ私の率直な感想である。この手記を読んだ人はぜひとも自分を振り返り、その感想を書いてみてほしい。未来の子どもたちのために、そして再び学園を用意するためにも、自分たちが、そして実顕地が、いま何をしなければならないかを共に考えていきたい。
 (2013年10月)

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参照:最後にこの論考で度々語られている『百万羽子供研鑽会』の資料をのせる。
《資料》百万羽子供研鑽会
※この資料は、一九五八年の「百万羽養鶏」設立当時に、参画者の子供たちの研鑽会においてすでに使用されていたという証言がある。資料の最後に一九五八年八月三〇日という日付があり、成立には山岸巳代蔵が関わっている可能性が高いという意見がある。なお、この資料は子供用なので底本ではほとんどの漢字にはルビが振ってあるが、『山岸巳代蔵全集三巻』では省略した。

○研鑽会
 研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます。
 また、自分のすぐれているのを、人にみとめさそうとしたり、自分の考えを通そうとして思いどおりにならなかったり、そのほか、どんなことがあっても腹を立てません。腹を立てると、正しく考えることは出来ませんし、自分も人も面白くありません。けんかになることもあります。
 どんなことを言われても、されても、腹が立ってこないようになれば、けんかもおこらないようになります。
 みんながなかよくしなければ、自分も面白くありませんから、みんなが良くなるようにするのです。自分一人だけ良くなろうとしても、しまいには自分もわるくなります。
 本当に自分も良くなろうと思えば、みんなが良くならなければ、自分が良くなることが出来ませんから、みんなが良くなることは正しく、そうでないものを間違いとしてきめていきます。そうして、みんながそうだとわかるところまで考えてきめます。その中で、そうでないと言う人や、わからないと言う人が一人でもいれば、みんなでもっと考えます。
 こういうようにして、一つ一つみんながそうだと言うところまで考え、正しいことを実行していきます。間違っていたらすぐあらためます。
 そこで、人がしないからしない、あの人に言われるからしない、あの人がするから自分もする、というのでなく、人のことを言わずに正しく考えて、自分から進んでするのです。
 こうして自分自分が考えて、正しいことを実行していくのですから、ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめいに考えます。そうして何事をするにも、自分だけのことでなく、みんなのこともよく考えて、正しいことは、先ず自分から実行して、みんなが仲良い、住みよい社会にしていきます。

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