広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎わたしと振出寮(2)

○ヤマギシズム生活実顕地と振出寮
振出寮の構想が出てくるのは、各地に「ヤマギシズム生活実顕地」造成の機運が高まってくるにつれてである。
1960年10月に、保釈中にもかかわらず和歌山県の下六川の杉本雄治宅に出向いて、一体経営から本当の一体でやる「ヤマギシズム生活実顕地」をやってみたらどうかと提案する。

「ヤマギシズム生活実顕地」は、春日実験地のように家屋敷を売り払って一ヶ所に集合する形態でなく、現状そのままで生活そのものを一つにしていく、財布一つの金の要らない楽しい村の試みであり、この頃から「ヤマギシズム生活実顕地」への動きが各支部間に広まり、1961年1月末に、実顕地第一号として、兵庫県加西市にヤマギシズム生活北条実顕地が誕生。その後、各地に実顕地が次々と誕生することとなる。

『山岸巳代蔵全集四巻』に収録した『ヤマギシズム生活実顕地について―六川での一体研鑽会記録から』(1960年10月・和歌山県金屋町)と、『実顕地養鶏法発表会』(1961年5月・岡山県興除村)は、共に、当時まさに実顕地をつくろうとしている会員やその周囲の会員に対して、ヤマギシズム生活実顕地だけでなく、研鑽学校・試験場・振出寮など一体生活を成立させるための機構と、その元となる心のあり方について、山岸が詳しく語った貴重な記録である。

岡山での『実顕地養鶏法発表会』では振出寮について次のように言う。
《山岸:それで、春日の方もなんにも心配ないのよ。別のあそこと違った場所に振出寮というかね。シンシツリョウ。まあ、それはまだ今準備中やけどね、そこにまず行くの。
いや、そこで今の食生活とかね、衣食住をね、そういうことを、まずみなが研鑽でどこやこやと理屈なしでね、体験よ。それから、予定してあるのは、山鳥さんやらああいう人達が何人かそこの係でね、もの言わずにね、この開拓……見てるの。
行きたい人が来たらええ、強制はないから。そこで、成績によっては研鑽学校に入るやろし、成績がやはりこのメガネに叶わない。資格がつくまでは、いつまででもそこにおる、と。いやなれば何もどこへなと出ていったらいい、と。
まあ、お粥ぐらいは食べられる、と。雑炊ぐらいは、粉のね。そして菜っ葉やらは自分達でどうせ作るしね、麦も作って。まあそこはそこで自給体制は出来るけど。それから資金は呼び水程度のね。で、泊まるのはタダ、食べるのもまずタダで、ある人は出してきたらええけどね。
だいぶ志願者がありますわ。有る人の志願者が。「そんな生活してみたい。」って。そこでまた工夫したらええのよ、こんな方法やってみたらどうか、振出し、零から始めるとこね。》

山岸巳代蔵の構想では振出寮は特講(※1956年に始まった特別別講習研鑽会)と同様に参画前の誰でも体験できる場と考えていたようだ。
1961年4月の「ヤマギシズム研鑽学校案内」の趣旨、科目:予科(公人完成科)、本科(適性試験科)、専科(適者専門就場科)の詳しい説明の最後に「入学およびその後」に次のことが書かれている。
〈6・入学待機のため、または退学者あるいは在学を取消された者が、再起するための憩いの場としては、ヤマギシズム振出寮がある。ここは振出しより奮起して出発するための施設である。〉

4月28日、津での『さびしがり研鑽会』で次のように言っている。
《山岸:研鑽学校へ入る前の予備寮的なものね。そこで入学できるようになってもらうための、段階のものね。実顕地から入る希望者も、いったん寮へ入ってもらって、予科へ入れる資格付けてもらってと思う。》

5月2日、岡山での『実顕地養鶏法発表会』では、次のように言っている。
《山岸:今度はまた「振出寮」ちゅうので、試験場、それから研鑽学校の前の、外に、そんなんが出来て、ここはまた特にそういう実験-----。絶食してみたり、玄米食べてみたり、それから塩でね、やってみたりね、せんべい布団で----。
会社の社長やらね、いろいろ贅沢のしようがないと思う人が、そこから振出しで入ってくる。
場所も今計画中で、緒についてますけどね。》