広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

ヤマギシ離脱前後の理念から実感へ(福井正之記録⑭)

※『回顧―理念ある暮らしその周辺』の⓺⑦に再度掲載された。このブログは「回顧」とあるように過去のブログ、特に最初の頃は『時空遍歴』からの転載が多い。

 この記事は、ジッケンチ離脱前後のヤマギシ的理念から生活実感への足掛かりとなる記録である。

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◎<村出>の生活原点 確認と展開
 原題は「生活どん詰まり感と<純粋贈与>」とあるが・・・
 生活原点からの純粋な考察は、申し訳ないが埴谷雄高さんよりもぐっと切実になる。
(『時空遍歴』2014/7/24)

 ヤマギシからの離脱に当たって実感した私の<分岐点的認識>について触れる。それは,はじめは<真理>と感じられた共同幻想的理念以前に自己感覚を取り戻す営みだった。それと同時に、たちまちぶつかったのは生活と老後への「どん詰まり」感覚だった。ようやく見つけた警備員職では給料が安すぎ、追加のアルバイト探し、スーパーでの安物あさり等、60歳以降の離脱者だったから若年と比べ多少厳しかったかもしれない。

 この状況は普通には不幸感に襲われて然るべきだろうが、私はたぶんにその余裕すらなく、食あさりと職あさりに没頭し、そこに多くはマイナス結果が予測されても<狩猟者>に近い緊張感やスリル感も味わっていたように思う。それがおそらく捨て鉢の元気や根性につながっていた。その数少ない成功も、むき出しのアリの労働になるしかないものでありながら。

 「――しかしいまの自分を捉えている意欲は、生存への欲求という純粋に動物的な危機感から発していた。そしてこちらの方が(ムラでの高尚そうな理念よりは)、なにかしらウソがないようで落ち着けるのである。」(創作「にわか老後」)

 もうひとつの重要な体験も語っておく必要がある。それは同じ離脱者同士の交流が始まったことである。そこで、今では奇跡でしかないと思い返されるが、いつしか互いの預金口座をまったく自発的に公開し合っていた。その経緯はここで詳細に触れる余裕はないが、互いの生活情報に触れ、送金したり、されたりもした。その結果、私たち夫婦は温泉旅行までプレゼントされたが、その感激は今も忘れることはない。

  その形はたしかに、ヤマギシ流の研鑽の結果でもあるようだが、おそらく全く違ったものだったと思う。というのは、それは山岸さんのいう「他の悲しみを自分の悲しみと思い、自分の喜びを他の喜びとする」という精神に合致し、まさにジッケンチよりも、そういう場でこその実感だった。それは今でこそ私には「純粋贈与」という言葉に該当する奇跡だったと理解している。

 「そこではどうしても自己保存の危機に基づくぎりぎりの打算が主になるが、同時に身銭を切る苦痛と喜びもないわけではなかった。その真情のレベルは決して低いとは思えない。ひとにはどこか『ひととともに』あろうとする本能(また人情とでもいうのだろうか)が内在し、それはきわめて稀な機会、ある自然必然的な条件一致に遭遇した時に萌え出し燃えあがるものらしい。そういうことが予測されそうにない困難な場であればあるほど、それは光る。山岸さんはそれもたぶん崇高本能と呼んだ」。

 (「ジッケンチとは何だったのか」2)

 当時、そのことを裏づける自己表現=認識上の実感を得たが、それは以下のようなものだった。

――ただなにかに触れたような気がする/やさしさの磁場というのか 

それはたぶん悲しみと不幸の場に虹のように架かり  

触れるとやさしさが吹き出す/ ふだん疲れ固まっているぼくにでも 

やさしい人に育たなくとも/やさしい人になろうと取組まなくとも 

やさしい人になれと強持てに迫らなくと/その場に触れたらだれにでも吹きだすやさしさ

やさしさがないのではない/ たまたまそういう場に出合わなかっただけ

(詩集「今浦島抄」)

 ここまで書いて私は人間が<人とともに生きていく>うえで、重要な二つの感覚的根拠に出会っていたことに気づく。一つは自分のなかに沸き立ってきた生存への欲求であった。二つ目は、いわゆる<やさしさ>に代表される他の人へのしみじみとした親愛感だった。

 その二つはいずれも自分のなかから湧き出た感覚であり、その感覚が捉えた認識として、これこそとことん肯定していいのだと思える真実性を備えていた。

 このような認識の仕方は、私はジッケンチではほとんど思い出さない。特講での怒り根拠についての自己内発見以外は。ジッケンチで一貫していたのは、ほとんど<理念体得>であり、それに付随する山岸先生の文章やエピソード、その他だった。それに対し私の心内で呼応する感覚はなかったとは言わないが、やはり多くは<学習>に留まっていた。

  これらの私にとって全く新しい認識と観点は、当然ジッケンチへの違和感を増幅させた。いくつかの直接的な、というか、すっきり落ちない疑問・・・端的に

   現実に生活の危機を知らない村人が、何を以て貧しい人の悲しみを自分の悲しみに思えるのだろうか?
 そして総括的に考えたのは、以下のことである。

「(ジッケンチでの)理念の実践はどこか空疎で、理念のための理念を思わせた。理想に向かう姿勢にウソがあったとはいえないが、どこか上げ底の気分で、なにかしら心許なかった。たぶん現実に根拠を失ったその分だけ、自分たちこそ理想を実践しているという、思いこみの世界にまどろむことができたのであろう。」(創作「にわか老後」)

  ところで、あの「純粋贈与」の体験は、グループのメンバーのその後の異動その他で、一時的なものにとどまった。それはさらに継続できるものか、あるいは継続すべきものか、今でも時折考えるが、あれはあれでよかったと思う。もしあの時点でそれにこだわれば、おそらく契約と統制の組織(いわば<短期部分参画的>な)イメージに煩悶したであろう。大事なのは、あの当時のあたたかで、しみじみしたイメージと感覚だろう。

  今宵は研鑚会をやっているというより/焚き火を囲んで山小屋でだべっているようだ

/この居心地のよさはなんだろう (詩集「今浦島抄」)

  この私たちの<純粋贈与>の経験は、今S市での旧メンバーによるギフトエコノミー形成の動きに通じるものかもしれない。その予測される困難性をどのように解決できていくのか。現在の私は、それに遠くから着目するのみだが、その成否はやはりジッケンチおよび会活動の総括と深くかかわっているように思う。

註)この体験を2019年の今の時点で振り返ってみると、よくぞやれたもんだと目元鼻元が潤んでくる。あの時期も入院までして、何よりも妻へのご苦労を痛感せずにはおれない。詳細は私記に譲る。

 あの時期のどん詰まりとその試行錯誤を通して、私に何とかなるという成功感覚をもたらした選択が三つあった。

 一つはマンション管理員への選択を「夫婦住込み」に特定したことである。これははっきり言って住居費がタダになる。一般に、どういうわけか日勤の管理員は応募しても、夫婦住み込みには抵抗があった。

 またこの継続としての二つ目は、その住み込が72歳退職だから、次期は県営公営住宅の応募しかない。それで休日は自転車で神奈川東部の公住を調べまくった。競争率とその公住の実態調査である。競争率の高いところはまず無理。低いところはかなりボロボロ。そのころ合いを狙って、たまたまだろうが一発当選になった。何年待ちというケースが多かったから奇跡に近い。

 三つめは年金のことである。私ははじめは65歳給付を考えていたが、思い切って70歳に切り替えた。支給率はかなりの割り増しになる。いったい自分はいつ頃死ぬかなど、じりじりした時期もあったが、もうかなりいい歳でまだ生きている。ただその逆もありうるのはいうまでもない。
 2019-07-26記

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◎理念から実感への着地 違和感から<違和語>へ
 (『時空遍歴』2014/8/24)
 先回は初めてジッケンチを離脱して何を感じ、何をやってみたかを書いた。今回は逆にその兆候となる内部での感覚模索を振り返ってみる。

  自分にとって閉じられ、閉塞していた組織から(しかも長年月そこに同化しきっていた人間が)離脱していくには、始めは違和感から始まる。さらにその累積は<違和語>の発見とその記述へと切り開かれていくであろう。それは外からの言葉によって決定的なものになるが、それ以前の葛藤の過程で発する自己内の言葉があった。

わたしの感情の配線がそれを感じないように

無意識の訓練を積み重ねてきたかもしれない

わたしの不幸感の片鱗でも敏感にキャッチし  目をそらさないこと

そのためにまず私の全感情を肯定してみること

おれという人間の手応えおれの実感  それはどこにあるのか

おれの脳中のどこにも ムラという隔離空間のどこにも見えない

強持ての理念に痩せ細ってきた実感を 括りつけるだけでは

いつまでも飛べないはずだった  理念のための理念

思えばあそこは「真実の人」に成ろうとして 成り切れない悪無限軌道だった

それを断ち切って おれの正味はこの程度 このままのおれでいい 

そう思い定めてから

ぽんぽんウソ瞞着なく 自分を放せるようになった

(いずれも詩集「今浦島抄」)

 これらは私にとっては記念碑的な<違和語>である。メモはそれ以前からあったようだが、実際の記述はいずれも「村から町へ運動」の時期で、試験的に外で暮らし始めた(参画取り消し前)孤独な生活の中だったと記憶する。さらにそれ以前のジッケンチ生活での記憶をたどると、病気入院が大きなきっかけになっていた。

 「おれはメモろうとして懐中電池を手探りで探したが見つからなかった。ええ、かまうものか! 頭上のスイッチを探し点灯した。光の世界は一瞬にして辺り一面にまばゆく展開した。夜の秩序への歴然たる犯跡! おれはノートを広げ素早くボールペンを走らせた。

・病院は収容所なり何もせず 何もできない暇人たちの

・生きるとは何かのために生きるなり それなかりせば時耐えがたし

 素早く明かりを消して仰向けになる。メモへの執念。これもやはり我執なのか。いやおれはすぐ自罰的に“我執”を持ち込むが、これは正当な自己防衛だと思いたくなっているのだ。あとはまた不眠を嘆きながら切れ切れの眠りをつなぐしかない。ここへきてもう五度目の夜だ。天井の闇を睨む――」(小説「小さな手術」)

  これまで日記は書かなかったし、心情的なメモはほとんど残さなかった。昔はそれほど日常的な研鑽会に充たされていたともいえる。ふり返ってみれば、実顕地の「無所有」テーマで「日記を焼いた」という報告を聞いて、大いに感動した記憶がある。その時期私は自己表現の記録というのは<我執の兆候>とまで考えていた。

  それが今回は、イズム用語や理念や変質してきた研鑽会への違和感を抱き始めた時期の、長期入院体験を取り上げる。入院の苦痛は実は傷病自体や手術にあるのではなく、長い待機の時間の退屈さであり、しかも夜は9時消灯であった。その中で自分の内からこぼれる言葉を記録しておきたいという強烈な欲求に襲われたのだ。それにはやはり短い短歌がいいと始めていた。

・脊髄の注射の最中われ抱きぬ 若き看護婦の力を感ず

・何事か行われおる気配のみ 麻酔は身近を彼方に運ぶ

・病院で熊のごとくに眠りたし なぜに人のみ冬眠はなし

 その消灯過ぎてのメモの必要で、唐突かもしれないが私はあの「ガリレオ」というTVドラマの主人公福山雅治が、何か閃けば直ちにそこらの地べたでもなんでも数式をメモっていたことを思い出す。同じような感覚だった。孤独な時間のなかの個的な思考、そこら生まれた言葉が、当時の私にはかけがえのないものだった。それ以前、私には学育関係の著書はあるが、このような意図的な心情記述はおそらくこれが最初だったのではないか。

 そのための孤独な時間を確保するために、ジッケンチからの一定の心理的のみならず物理的距離が必要だったのは、ジッケンチの持つ独特の<一体>濃度があったと考えるしかない。おそらく体制への内的な違和感覚は、直ちに「イズム秩序への歴然たる犯跡」を察知されずにはおかなかったであろう。ただ三十一文字の頃は、自分自身の<自己内没入>指摘を警戒していただけで体制批判はいまだ乏しかった。

 「腐食し始めた理念に宙吊りされたまま、足が地に着かない。どこかに着地したいが、それはどこにあるのか? 自縄自縛の理念の隙間から、自分の実感を取り戻せそうな予感。やはり精神は異質なものとの緊張によって、健康を取り戻すのではないか。」(小説「面接」)

  だからこそ私は外に出ることを急いだ。そしてそこから<違和語>の本格的創出の時期に入っていった。

註)ここでは<違和語>自体を取り上げているが、実はその前提としての「違和感」のテーマはもっと大きい。これはすでに「悲しみ」のテーマにも触れているが、いわゆるジッケンチでの<ハレハレ>用語を優位としていたいびつさにもつながる。いわゆる「喜怒哀楽」全肯定の課題にもつながるので次回でも触れたい。
 2019-07-30記