広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

(1)福島第1原発元所長吉田さんの死から(福井正之「述懐より」)

○述懐、という言葉が浮かんだ。これまで書いてきた論考とか、随想とか、手記でもない何か。このところそのようなスタイルに収まらないようなものが溜まってきたような気がする。だが、捌け口が見えない。それはこれまでなかったいろんな人との交流の中で、新たに見直し考え直してみたいことが生まれ、それがいまだ整理されない状態から来ているように思う。したがって従来の対話的感覚とは違った、もっと自分のカオス自体に接近したものを表わしてみたくなった。
(福井正之)

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(1)福島第1原発元所長吉田さんの死から
私がこのところ珍しく集中しているのが、7月9日死去された福島第1原発元所長吉田さんに関する記事、論評であり、それを扱った書籍、門田隆将「死の淵を見た男」(PHP研究所)まで読みつつある。きっかけは、テレビニュースだと思うが、「吉田さんは福島県民への謝罪訪問を念願されていたが、それも実現されないことになった」というアナウンサーの言葉が耳に残ったからである。後でニュース記事を検索してみたが確認できなかった。ただ「事故から8カ月後に初めて公の場に現れた吉田さんは、福島県民と国民への謝罪の言葉を述べた」また「『死ぬまで福島の人たちへのなんらかのサポートをしていきたい』と意欲を覗かせていた」とあった。

いうまでもないが、このことが私に学園親への謝罪訪問企図にも触れたてきたからである。私の場合は対象である<事故的状況>からすでに十数年を経過しているが、吉田氏の場合はあの大震災・津波に起因する原子炉事故から2年数か月しか経過していない。したがってそのタイムリー的現実性は大いにあると感じる。ところが問題は謝罪のことだけでなかった。この事故の東電ないし政府当局の組織的構造的責任とその中での吉田氏の位置と活動状況が垣間見えてくると、これはひょっとしたら組織・集団の過誤がいかにして生まれ、しかもそれにどう対処していくべきかについての、ある普遍的な問題提起になっているのではないかという気がしてきたのである。

何しろその原子炉の事故とは、当時のマスコミ報道ではもう一つ隔靴掻痒の情報しか得られない感じだったが、それへの<闘い>の内実は凄まじいものだったらしい。その全電源喪失、冷却不能、原子炉爆発、放射能大量飛散⇒チェルノブイリ×10の大惨事予測を結果的に何とか食い止めた裏には、吉田氏の時には本社指示と異なる現場判断とその指揮下にあって被曝を覚悟した決死の所員、作業員、自衛隊員、消防署員等の活躍があったらしいのである。らしい、というのはこの<平和呆け>の日本では未だ信じかねる気がするからであるが、人が<人として>死を賭して闘うことがあるという門田氏の記録には嘘はないと思う。目元が熱くなって震えがくるくらいの私の感激性格を差っ引くにしても。

ところがそれへの毀誉褒貶もあるらしい。「吉田元所長死去:原発立国の光と影を背負い」(毎日新聞 7/9)によれば
「東京電力福島第1原発事故の収束作業を指揮した吉田昌郎元所長(58)が9日死去した。原子炉への海水注入の中断を求める東電本店の指示を無視し、独断で注入を続けるなど毅然(きぜん)とした態度が評価された一方、震災前に第1原発の津波対策の拡充を見送ったことも明らかになった。原発立国の光と影を背負ったまま、58年の生涯を閉じた。」
 とある。この稿はそこまで立ち入る予定ではなかったが、少し紹介しておくと
「一方、11年12月に公表された政府の事故調査報告書(中間報告)によると、吉田さんは原子力設備管理部長だった08年、従来の想定を大幅に上回る『最大15.7メートル』の津波が原発に押し寄せるとの試算結果を独自にまとめながら、「最も厳しい仮定を置いた試算に過ぎない」として防潮堤などの津波対策を先送りしたことが明らかにされている。事故8カ月後の11年11月、原発内で報道陣の取材に応じた際には、事故を謝罪。『想定が甘かった部分がある。これからほかの発電所もそこを踏まえて充実させていく必要がある』と答えていた。」(同毎日新聞)

第1原発の原子炉建屋は海面から10メートルの高さにあり、当時までそれを越える津波は襲来したことはなく、しかもどのような識者もそんなものが今後もありうるはずがないと思いこんでいたという。ところが結果としてそれが破られたことは東電当局のみならず、日本の関係科学界にとっても重大な過誤ということになる。吉田氏らの折角の試みもその<絶対線>を越えることがなかったのは残念ながら<仕方がなかった>と言うしかないことなのかもしれない。そこを吉田氏評価の「影」の部分とするのであろう。

吉田氏個人への評価としては、その「影」よりはどうしてもその「光」に着目したくなる。私としてもそうなってしまいそうだが、おそらくそれは私が直接の被害者でないからである。いうまでもなくあの災害は地震津波による惨憺たる大量の家屋倒壊、水没死とは別に、福島の場合、放射能汚染による地域の解体、故郷喪失、多くの離脱者を生んだことは周知のとおりである。被害者の立場とすれば、その直接の責任者である東電は「光」などとんでもない黒々とした「影」ばかりである。その中に当然、吉田氏も入ってくる。被害者からすれば吉田氏はせいぜい<不幸中の幸い>を齎した人物であるにしても、その評価はそれ以下の厳しいものとならざるをえないだろう。

そこに吉田氏の福島謝罪訪問の意図が出てくるのであろうし、また逆にその訪問を受けたときに福島の人々はどんな顔をしてそれを受け入れるのだろうか? そこに想像される被害-加害の、あるいは怒りと謝罪の、なんとも具合の悪い、不条理極まりない、哀切な出会いは容易に言葉にならない。その互いに齟齬しながら向き合う感情・感覚を相互に体験、確認するために、そのような場が社会的に必要なのであろう。私などの謝罪企図など、物理的肉体的損傷のような明白な加害とはいえないにしても、時間的にいっても何と場違いでおこがましい、あるいは押しつけがましいものであることか。それこそドコキタホイ! でしかないことを痛切に感じる。しかしその体験を自分に課すことが自分にとって必要なことだと感じるものの、いかにもはた迷惑であるようで心が定まらない。

ともあれその謝罪の問題を切り口に、福島原発の問題がヤマギシのこと、特に<村人>の大量離脱者が出たあたりに焦点を当ててみる材料にならないだろうかと思う。そこを私はずっと<事故に近い過誤>と見做してきた。もちろん単なる思いつきかもしれないし、無理もあるかもしれない。しかしこのヤマギシのテーマについては、私の場合自分の直感からはじまり、山岸氏のテキストに依拠したり、共同体に関する数少ない言説を探して考えてみるしかなかった。さらにその現代社会・文明の中での位置づけとなると一段と心許ない。それ位モデルとなる材料が乏しかったのであるから、さしあたり手がかりになるものなら何でもいいと考える。

まず思うのは、ヤマギシ離脱者への生活保障は充分なのか。福島の場合、補償問題は直接には東電全体の責任に関わる。その汚染洗浄も含め、離散者救済、居住地復旧のための膨大な補償は、もはや東電単独では無理で、国家がかなりを肩代わりせざるをえない状況にあるようだ。ヤマギシの場合、対外的補償の問題はないわけではない(あったとしても「不都合な真実」として秘匿されている可能性がある)だろうが、大半は離脱した元村人の生活保障、財産返還等の問題である。その生活援助等の保証はもうほとんど解決積みのようであるけれど、その合理的算定基準やさらのその子どもらの将来については、いまだ残されているものもあると感じている。ただ詳細は公開資料がないので私にはほとんど解っていない。

またあの時期、ヤマギシに吉田さんのような人物はいなかったのであろうか? 私は当時<村から街へ>運動に関わって<村>を離れ、そのまま参画を取り消した逃げ足の速い人物である。ともかくあんな空気の悪いところには居たたまれない、二度と帰りたくない>の一心だった。ともかく私は私なりのゼロ地点(「あらゆる異質が等距離にある地点、すなわち<世間のタダ中>」小説『面接』参照)に立って、ひたすら他者思考に合わせるために干からびてきた私のアタマと感覚を取り戻したかった。

したがってそれまでずっと指導部は一枚岩だと思いこんでいたが、後になってその指導部の中からやはり<反旗を翻した>人物が現れ、結果的に鈴鹿に結集するグループになっていったことを知った。それが運動体としてはきわめて当たり前のことであろうが、それが突然で奇異な印象を与えるのは、この組織は路線や重要問題について公に検討する機会をほとんど持たなかったことである。「衆知を集めて研鑽」という大義名分を掲げながらも。それで済んできたし、またわれらはそのことを許してきたのである。

そういう過程自体が、ヤマギシという一枚岩のみならず「一体化」が金科玉条である組織の特質をよく示していると思う。始めはそうでもなかったろうが、個がその批判的な言動において際立つということはまずありえなかった。そういう人物は直ちに個別研、無期研、村変更などの対処によっていつの間にか姿を消した。いいかえれば面白い人物はどんどんいなくなった。すなわち理念の一致は、路線の一致、生活様式の一致から思考方法、感性の一致にまで至る。もちろん多くはそれを目指し、それに賛同してそこまで来たのであるから、何とも言いようがない。吉田さんが属したような世間の組織・会社では千差万別とはいえ、もっと隙間があったであろう。反骨ある人物でも、かなり存在を許されたであろう。今でもかなり厳しいようであるが「内部告発」も法的にはある程度認められているらしい。

また吉田さんについて深く感じるのは、現場感覚についての深い自己信頼があったことだった。あのいわば国家的大災害の淵に立って決断を迫られたときに、人は多くは前例、公準、多数意見というものを優先しがちである。それが日本人の良きに付け悪しきに付けても出てくる特性だった。それに結果論になるかもしれないが吉田さんはよく抗しえたものである。あくまでも想像にすぎないが、あの08年時点の津波高試算による対策の撤回が大きな悔恨として残っていたのかもしれない。その辛い反省が以降の吉田さんの決断につながっていたという観方もありうると思う。

それどころか「一体」と「仲良し」という理念を日々内部化して取り組んできたヤマギシ人にしてみれば、批判的言辞すら<一体への反逆>ととられかねない状況にまで来ていたのである。たしかに現場では何とかならないかと思える多くの問題を抱えながら上への上達の機会を閉ざされ、吞み込むことが多かったというしかない。それに関連するが、いわば<上や他ではなく、自分が至らないと見做す>しかない自分への自己検閲や自己抑圧による閉塞感で、私はたぶん窒息寸前までいっていた。したがって私は<現場>に留まって闘うことをしなかったという悔恨を自己テーマとしてずっと残したままである。

ともかくここまで書いてきて、やっぱり現代的な組織的事件というものは、ヤマギシ問題を考える上でも多くの示唆となるものを誘発するものだと改めて思った。おそらくそこが思考のゼロ地点的モデルを提供しうるからであろう。
(2013/7/27)