2024-01-01から1年間の記事一覧
○はじめに 振出寮は山岸巳代蔵の晩年の構想から始まった。 その後ほどなく山岸巳代蔵は亡くなられたので実現はされなかった。 実際に実現したのは、ほぼ三十年後、実顕地で開設された。 わたしは、そこで中心になって関わってきたこともあり、知っている限り…
○広島原爆忌の前日5日、宮城県気仙沼市長が打ち上げ漁船「第18共徳丸」の保存断念を表明していた。 それは私には、おそらく広島の子どもらが、その『誓い』において述べた心と対極にある決断だと感じた。くり返すが、そこにはこうあった。<――だから、あ…
○8月は暑いだけでなく重い。例年の原爆記念日から終戦記念日に至る一連の流れ、がである。 68年も経っているのである。マスコミは「風化させてはならない」と例年と同じく語り続ける。そして世代交代という次のぺ―ジを示すのである。 しかもマスコミは「…
○親しくしているBさんの<ヤマギシの交流の場>の提言を読んで、改めて私にとって「ヤマギシ」について考える機会となった。私は、現実顕地で活動している人たちとも交流しているし、離脱者や深く関わった当時の青年たちとも交流を重ねている。現実顕地で活…
(2)イデオロギーと「人として」の意味 前回紹介した門田隆将「死の淵を見た男」の記述の中で私が最も共振したのは、巻頭にあった以下のセンテンスだった。 「本書は原発の是非を問うものではない。あえて原発に賛成か、反対か、といった是非論には踏み込…
○親しくしているBさんから次のメッセージがありました。 《FBでヤマギシというグループ作りました。山口さんのヤマギシの広場のFB版みたいなものですが、是非山口さんの知見もお聞かせくださいませ》 そこで、大事なことだと思うこともあり、簡潔に現在…
○述懐、という言葉が浮かんだ。これまで書いてきた論考とか、随想とか、手記でもない何か。このところそのようなスタイルに収まらないようなものが溜まってきたような気がする。だが、捌け口が見えない。それはこれまでなかったいろんな人との交流の中で、新…
○すでに随所で間接的に触れているが、感動体験(生成体験)とは人間にとって、人生にとって、いいかえれば教育にとっても何なのか、についてここでもう少し視野を広げて述べておきたい。 それは先回最後に紹介した「蕩尽は聖なるものを呼び起こし、『全体的…
○先回の主旨は、子どもは遊ぼうとして遊んだわけではなく、何をやっても遊びだった、ということである。 しかし遊び自体は子どもとは区別すべき概念である。そのことを矢野氏は「(子どもには)自分が遊んでいるというより、遊び自体が生き物のように自己展…
○矢野智司本かじり歩き (3)子どもの遊び領域 「贈与と交換の教育学」より *『愛児へのおくりもの』について 先回、矢野本の「ボランティア」についての記述から体験学習の意味を考え、さらにそこからそれほど予測できたわけではないが、ヤマギシの学育、…
矢野智司本かじり歩き(2)感動とは教えることができない 「贈与と交換の教育学」より 先回、「感動体験」と言いうるもののおおよその枠組み、構造を探ってみた。今回はその少し外延を考えてみたい。 先回のキーワードの一つは、「深い感動は言葉にはならな…