広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

矢野智司本かじり歩き(5)戦後教育の転換と宮沢賢治

○すでに随所で間接的に触れているが、感動体験(生成体験)とは人間にとって、人生にとって、いいかえれば教育にとっても何なのか、についてここでもう少し視野を広げて述べておきたい。
それは先回最後に紹介した「蕩尽は聖なるものを呼び起こし、『全体的人間』に立ち返る体験となる」(矢野氏)という表現が一つのヒントとなる。
またその記述は前項最初に紹介した「生成とのつながりで文化を捉え直すとき、文化のエッセンスともいうべき学校で教えられる各教科の意味も、いままでとは大きく変わることになるだろう」という認識ともつながると思う。

*戦後教育における生成体験の欠如
まずずばり矢野氏がこの著作全体のモチーフとしている、戦後教育全体についての認識を紹介する。

「戦後日本の教育は、戦前・戦中の神話に満ちた天皇制教育や、全体主義・国家至上主義・民族主義の教育、およびそれを支えた教育学への反省から出発した。
そのため、戦後教育は、教育の場から『神話』や『聖性』や『超越』といった言葉を追放し、科学的合理主義をもとにした世俗教育に限定してきた。
・・・(中略)・・・その結果、戦後教育は人間を水平化し、戦後教育学は結果として『個人』の形成に失敗し、集団主義に同化する大衆を産出してきた。
共同体の内部での人間関係こそが、すべての意味と価値の場であると教えることによって、子どもたちに帰属集団から離れることに恐れをもたらし、いじめをはじめ様々な教育の『病理』を生みだすことになった。
日本でいじめによって自殺が起きるのは、戦後の教育空間に生成の体験が極度に衰弱し、世俗的な人間関係しかないからである。
このことは、一度クラスの仲間から排除されたときには、自分の価値のすべての基盤を失うことを意味している。
現在の日本学校空間は、歴史上もっとも世俗的な空間であるといっても過言ではない。」31p(太字は筆者、ここでいう「共同体」とはユートピア的共同体ではなく普通の世俗共同社会)

私は長いこと、戦後教育の流れの主要なトーンである戦争否定、戦前体制批判をずっと肯定してきた。したがってそれをいわゆる「屈辱史観」と見做す、いわゆる<右派>の新教科書作りの動きには批判的だった。
いいかえれば私も普通の戦後教育の洗礼を受けて育ってきた世代の一人である。それでもただ1点、ここに指摘されているような神話、聖性、超越なる世界をまるまる否定できるものではないという疑問は抱いてきた。
というのは、それらを否定しては例のオウム教団のイニシエーション(死と再生の儀)に青年たちが共振する社会動向を理解することはできないし、またそれらは子どもらの超越世界的なゲームやオカルトアニメの隆盛とも関連することであろう。
よって必ずしも屈辱史観批判を肯定する立場でもない矢野氏のその指摘には救われたような思いがする。
ただ氏は戦後教育の流れを「負い目に基づく教育」と位置付ける。
思い返せば氏は私などよりずっと世代が若いから、そのように見える世代がすでに登場しているということなのであろう。
そして、たとえば「いじめ自殺」という極めて現代的な課題が、このような<生成体験>の観点で把握できるとは、私にはとても新鮮だった。
従来の学校(=文部省)の指導方針では全く届かず、かつまた「異質を排除しない」という社会倫理的観点をもってしても解決しえなかった分野である。
そこに「個人の形成の失敗」という把握とその原因としての「生成の体験の極度の衰弱」を挙げているのは、私にはさもありなんという説得性と、ある種の希望すら感じられる。
もっとも現実の実践課題としてはまだまだ未知数であろうけれど。

*<個人=「全体的人間」>への生成体験
その<個人の形成―生成体験>の部分にもう少し着目してみる。
「序章でも述べたように、教育学は、イニシエーションをはじめ贈与、供犠、祝祭といったように、生の変容において人類史上で巨大な力を発揮してきた生成変容の出来事を思考の主題とすることを避け、その人間学的な意味を展開することができていない。
なぜこれが問題なのかというと、発達の論理だけでは生の変容の全体性を捉えることができず、発達を促す経験だけでは『全体的人間』となりえず、そのためには生成の論理と生成変容の出来事を必要とするからである。
人が個人=『全体的人間』となるためには、たんに共同体のなかでこれまでの社会的・歴史的に蓄積された諸観念や身体技法を獲得するといった発達を促す経験だけではなく、生成の体験が必要である。」213p

 ここで提示されている「個人=『全体的人間』」という考え方について、である。
これについては矢野氏の歴史的かつ社会学的な考察もあるが、ここでは端折る。
言いうるのは、これはおそらく生成体験の結果であり、ひるがえって目標となるものであろう。
幼少時から、少年期、青年期にかけて、自分自身の精神形成の過程でどれだけ骨格となるものを育んできたか。そこにどれだけ確固としたもの、あるいは自分なりの独自性を確認できるものがあったかどうか。
そのように問うてみると、まさに自己固有の体験でありながら同時に世界と通底していると実感できる体験が大きな力となるはずであろう。
私にはそれをこそ「個人=『全体的人間』」となる前提ないし契機となるものと考えられてくる。

「私たちはこうして、深く体験することによって、自分をはるかに超えた生命と出会い、有用性の秩序を作る社会的な人間関係とは別のところで、自己自身を価値あるものと感じることができるようになる。未来のためではなく、この現在を生きていることがどのようなことであるかを、深く感じるようになる。このような体験による教育を、『生成としての教育』と呼ぶことにしよう。」126p

 この「生成としての教育」を従来からの「発達としての教育」に対比させ、新たな教育次元、体系が構想されうるであろう。矢野氏はそのヒントの一つとして、ベイトソンを挙げている。それによれば
「かつてベイトソンは、『精神の生態学』という言葉で、それまで分けられてきた主体と客体、心と体、人間と自然をコミュニケーションとして一元的に捉えることによって、生態学の領域を生物圏から人間の精神の宇宙にまで拡張し、そこから生の変容(学習)の諸相を捉えようとした。
ベイトソンは目的意識が陥りやすい偏狭な見解を改変することに智恵の本質を見たのだが、その智恵が広がる領域を次のようにリストアップしている。
①愛、②美術・技芸・詩・音楽・人間精神の探索に関わる諸学、③人間と他の動物あるいは人間と自然との交流、④宗教」127p

 ほう、なるほど・・・というある感動が浮かぶ。もちろんこれがそのまま学校現場における<学習要項>のようなものになりえないとしても、「各教科の意味も、いままでとは大きく変わる」可能性に胸ときめいてくる。
しかしその構想の方向はおそらく簡単ではない。というのは生成体験というものは、未知への体験という契機が不可避である限り、あくまで自発性を前提としており、外部からの意図性にしばしば相反しがちのものであろう。
教育の属性を、普通に考えられている「教え」ないし「教え育てる」と捉えれば、意図性を持つことは避けられないことだ。
(例えば死のレッスンは――筆者注)「『発達としての教育』とは異なり、生成そのものを教育の目的として企図することで実現することはできないものである。
それというのもこれまで繰り返し述べてきたように、そのような生成の出来事は、何かを実現しようと意図して目指すことで、かえって損なわれたり壊れたりするきわめて繊細な性格のものだからである。」279p

*なぜ宮沢賢治なのか
その構想を実現するヒントとして、矢野氏は宮沢賢治の業績を上げる。そこで改めてこの著作に「漱石・賢治と純粋贈与のレッスン」というサブタイトルが付けられていることに思いいたる。矢野氏はなぜ宮沢賢治を取り上げるのか。

「本章では、もっとも深い形で動物や植物や大気といった様々な自然との交流を体験し、『精神の生態学』を童話や詩として言葉でもって再現=実現してみせた宮沢賢治のテクストを手がかりに、社会的な人間関係に還元することのできない、子どもが他者としての自然と取り結ぶ生命的な関係を捉える言葉を、探り当ててみたい。」127p

 というわけなのであるが、実はこの課題がいかに困難なものかは、くり返しになるかもしれないが一応触れておく。
「『生成の論理』は、遊びや芸術や宗教によって端的に体験されるような、人間の意識できない感情や無意識のレベルでの生の変容全体を捉えようとする論理である。
しかしながら、生成の体験は、発達と違って記述し定義すること自体が極めて困難である。
深い生成で得られるのは、一義的で明晰な概念では表現できない恍惚や陶酔の体験、不気味なもの、慣れないものの体験である。
それは多義的なメタファー的な表現によってしか伝えることのできないものである。
言葉で言い表わされた時点で、多数多様な生成は既存のレトリックによって定着され、しばしば誰もが思わず口にしてしまう決まり文句の鋳型に押し込まれ、首尾一貫した『物語』に回収されてしまうからである。」203p

 ここでいう「多義的なメタファー的な表現」とは難しいが、それは誰もが成しうる手法ではなさそうである。
これまでの説明にあったように、誰もが世界と通底し、それとの溶解体験を味わうとき、自己自身も溶解・脱自の渦中にあるため、普通にはああ、おお、などの感嘆詞の表出以外のその内容の表現はそれほど容易なことではない。
しかし賢治はそれが可能だとするのは、彼が特異な表現手法の達人であるだけでなく、それがまさに彼自身の生き方に関わる深い生成体験に裏付けられているからである。
そこに矢野氏は彼を<人類の教師的存在>、すなわち日本における数少ない「最初の先生」のひとりと見做しうる根拠を見出す。
それは同時に矢野氏の教育学上の根源的な観点とも合致する。すなわち賢治の生き方と作品は人々への「純粋贈与」だというのである。そのことを想定させる賢治自身の文章を引く。

「わたしたちは氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光を、のむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものがいちばんすばらしいびらうどや羅紗や宝石いりのきものに、かはつてゐるのを度々見ました。
わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野原や鉄道線路やらで、虹や月明かりからもらつてきたのです。
ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたしはそのとほり書いたまでです。 
ですから、これらのなかには、あなたのためになるものもあるでせうし、ただそれつきりところもあるでせうが、わたしにはそのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまたわけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとおつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」
(宮沢賢治『注文の多い料理店』序1924年)117p

 私はこれまで相当量の引用をこなし、今ではかなり目もしょぼついてきたが、これほど引用の幸せを感じたことがないのではないか。
この個所はどの賢治論でも引用されているだろうが、私もあえて引用するのはこの喜びのためである。
ここで書かれていることはどう疑ってもウソやフィクションだと思えないのである。どんな童話や小説でもフィクションが前提となるにもかかわらず。それはまたしばしば疑わしかった「文は人なり」の真実性をも蘇らせるのである。
しかしこれが真実であるという何の論証もない。あるのは彼の「どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」という<主観>だけである。
私は唐突だが大本教の開祖出口なおを思い出してしまった。彼女の神から伝えられた言葉「お筆先」なるものには何も論証がないが、その真実性は本人はもとより信者たちは信じて疑わなかった(だから「信者」というのであろう)。
だからもし賢治にその方面への志があれば、《賢治教》は宗教教団として充分成り立つと思う。
もっとも宗教・信仰とは言わないだけで、実質的な<信者>たちはあちこちに居るはずで、私の今はその<隠れ信者>になりそうな気分である。

*童話、実学、瞑想などの生成体験について
このようにして生まれた賢治の童話には、意図性ないし教育的な方向づけは考えられない。
それは賢治が表現したものを子どもらに純粋に贈与しようとしたものであり、それも賢治自身が風や日光や林などなどから贈与されたものである。
したがってそれを読むものは、しかもそれを純粋な関心と自発性に導かれて読む限り、その心のなかに生成の体験、ないしそれに近い体験を呼び起こすということは推測に難くない。
(すべての童話がそうとはいえないが――筆者注)「児童文学は、賢治童話に実現されたような『生成する物語』として、子どもを共同体の外部へと開く垂直の次元での『生成』を実現する可能性をもっているのである。」118p

私自身は賢治を少年時に読んだ記憶しかなく、このところ間に合わせ的な読みあさりをしているが、改めてじっくり再読したい欲求に駆られる。
疑似的でもいいが私自身の何がしかの生成体験を期待してしまうからである。
もっともその意図性が強いと挫折の憂き目に遭わないともかぎらない。とはいえ、この欲求にしたがってもっと賢治に没入してみたい思いもある。それもあってそろそろ、この連作稿を閉じたいと考えている。
さらに私は読書というものの疑似体験性という限界をどうしても考えてしまう。
賢治が月明かりや鉄道線路から「おはなし」をもらってきたように、子どもらが様々な環境から直接、固有な生成体験を受けることを期待できるはずである。
本来、遊びやいわゆる「実学」というものは、充分生成体験可能な世界だと考えられるからである。かつてのヤマギシの<実学作業体験>というものが、<有用性の回路>に吸収され、労働体験→体得に変質していったようなマイナス面はあってはならない反省点であるけれど。
また従来様々な新宗教、ないし瞑想集団が、意図的でありながら自発性を実感できるセミナー等を通じて、イニシエーション的な疑似体験の機会を提供してきた。それも生成体験に近い内容であるように思われる。
ヤマギシの特講もその要素をもっていたように思う。それらもある種の<洗脳>的な要素やそれに近いいかがわしさの伝聞で損をしている面もないとはいえない。
そんなあれこれの宿題を想定しながら、いったんこの連載を閉じ、次に期したい。

◆追記
 矢野氏はたしかこの著書で取り上げていないようだが、私はうっすらと『賢治の学校』についての記憶が蘇った。
鳥山敏子さん創設の学校である(現在は『東京賢治シュタイナー学校』)。彼女は鶏や豚を解体して食べる授業で一躍著名になった。
私自身は教師時代、彼女も関わっていた「社会科の授業を創る会」の生活体験学習の影響を受けた(『ひと』誌)。
『賢治の学校』はドイツのシュタイナー教育とも連携しているので、その霊感的要素と、矢野氏の「生成体験」とがどこかで重なっているのではないかという予測を持つ。鳥山氏は昨年10月亡くなられている(72歳)。
(終り)2016/6/24