◎「幸福学園」のスケッチより(ヤマギシズム学園考3)
※新島里子さんは2020年に、『新島里子作品集 道草回顧』を刊行され、それのはじめに「自由への旅立ち」の項目がある。そこに先回紹介した「子ばなれと親ばなれ」や参画した「春日山――第一夜」、初期の頃の「幸福学園のスケッチ」が掲載されている。
そこから見ていく。
○春日山入り――第一夜
話は遡る。私たち夫婦が、子どもの一人はサマーヒルへ、もう一人、息子のほうは親類の家に預けて、家を売り、東京を引き払ったのは昭和四十七年も終ろうとする暮の二十七日であった。行先はヤマギシズム中央調正機関のある通称「春日山」。前日に家財道具や身の廻りのもの一切、トラックで運んでもらってあったから、私たちは身一つでの春日山入りであった。
わりあてられた部屋には私たちの引っ越荷物がうず高く積まれてあり、夜遅く着いた私たちはとりあえず蒲団の包みだけ解いて荷物の山の中にどうやら寝床を作った。やれやれと横になろうとしたその時、
「新島さん、新島さん」と廊下で呼ぶ声がした。「はい」と返事をすると、ガラリと戸が開いた。向かいの部屋の住人Dさんであった。
「鹿がとれたんですがね、さしみで一杯やりませんか」
入って来て蒲団の上にお盆を置いた。お調子と鹿の肉のお皿が乗っていた。
「じゃあゆっくりやって下さい。鹿は今日喰わないとせっかくの味が落ちるんですよ。うまいですよ」といいながらDさんは出て行った。ほんとうは一緒にやりたかったのだろうが、私たちにはまだそんな余裕がなかったのだ。あとになって、申し訳ないことをしたと思った。
鹿のさしみも珍しかったし、お酒もありがたかったが、いささか驚いた。夜おそくにひとの部屋にこちらの都合におかまいなしに入って来る隣人、しかも新しくやって来て旅装を解くか解かないかという時にである。正直こりゃあ大変なところだわい、と思った。先が思いやられる、と思った。
しかし、一方でほのぼのとしたあたたかいものが沸いて来るのを覚えた。ここまでくればもう安心、これでいいのだ、来るべきところへやって来たなあ、という思いであった。
鹿のさしみ、新入りの仲間に対する、これは最高の挨拶ではないか。
春日山は正月の用意で忙しい最中であった。翌日、私は炊事場へ出かけてみた。ちょうど正月用の煮染めの野菜を切っているところだった。まるで盥のような大きな桶に何杯も、人参や牛蒡や里芋などが切って入れてあった。それらを見たこともない大鍋に入れてシャベル(?)でかきまわして煮るのであった。老若男女大ぜいの人が立ち働いていた。
夜、部屋ごとに餅が配られる。私たちの部屋にも二人分が来る。つきたてのあんこ餅、よもぎ餅がことのほか美味しかった。
元日は近くの霊山という山へ初詣に行く。まだ暗い道を子どもも若者も年寄りもエッコラエッコラ登る。頂上に着くと、温かいお汁粉とお神酒が待っていた。昨夜用意したものを先発隊が担ぎあげたのである。みんなはこれが目的でもある。霊山から拝む初日はことのほか美しかった。
翌一月二日から三日間、ヤマギシ会本部で第一回幸福学園研鑽会が開かれた。呼びかけに応じて、全国から会員が三十名近く集まり、海のものとも山のものともわからない、まだ影も形も何ひとつ態をなしていない、この幸福学園というものを、どんなものに、どのようにつくっていこうかと、真剣に話し合われた。
こうして第一回を皮切りに、幸福学園研鑽会というものは第二回東京の早稲田奉仕園で(この時は子どもの分科会もあって、二百人以上参加した)二泊三日、つづいて第三回を京都、第四回を名古屋というように、全国各地でつぎつぎ開かれるようになったのである。
その年の夏までに福井、富山、柏崎、そして北海道に渡って札幌、旭川、釧路とまわって八月八日の北試の収穫祭と合流しての研鑽会まで、日本全国を十数か所巡り歩いたことになる。
第一回研鑽会のあと幸福学園設立準備委員会なるものが出来、夫と私の他二名が、その仕事を専任することになった。東京ではヤマギシズム東京案内所を中心に活動が開始され、山岸会会員、非会員を問わず、この運動の趣旨に賛同する人は日に日に多くなって行った。テレビの取材を受け、放映もされたと記憶する。
やがて機関誌『愛児に楽園を』が生まれ、東京新宿に事務所も置かれた。各地の研鑽会に出席する合間、私はこの事務局に時に寝泊まりしながら、電話の応対、来訪者との話合い、機関誌の編集・製作など忙しい日々が続いた。『愛児に楽園を』はタブロイド版8ページの月刊で、毎号五千部前後が印刷され、定期購読も増えていった。これは山岸全体の機関誌『けんさん』に合併される十九号までつづいた。
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◎幸福学園のスケッチ
○はじめの一歩
忍者の里として知られる伊賀と甲賀の境に阿山町はある。JR関西線と草津線が傍を通り、水田と山に恵まれた豊かな農村である。ヤマギシズム幸福学園がその一角に根をおろしはじめたのは昭和四十九年七月であった。当時の日記の一部を紹介する。
七月一日
今日から幸福学園の一体生活が始まった。スタッフは男女合わせて十名、子ども六名である。ここ阿山町東湯舟というところは、三重と滋賀の県境で、あの伊賀の忍者と甲賀の忍者が往き来していたところだそうだ。宿舎として借りたこの茅葺の家の歴史も古く、約百五十年前に建てられたものだという。そして家主の名は服部さん。かの服部半蔵といくらか血のつながりがあるのかも知れない。二年間空家になっていただけあって、一と月前初めてここを見に来た時はひどい雨漏り、雨戸は開かず、あちこち根太は抜け、蜘蛛の巣だらけでお化け屋敷のようだった。ドンデン返しの仕掛けでもあるんじゃないかと、面白がっていう人もいて、武道十八般に通じているというスタッフのU君でさえ、夜は一人で泊まりに来られなかった。だが、今は畳も障子も新しく張り替えられ、見違えるような姿でわれわれを迎えてくれた。
七月五日
台所の流しがバカに低く出来ているのに閉口した。いくら昔の女性が小さかったからといっても、これではすぐに腰が痛くなる。そこでスタッフの面々の評論がはじまる。
「すでに腰の曲がったお姑さんが台所の実権を握っていたのさ」
「いや、この流しのために昔の女性は腰が曲がってしまったんだよ」
とまれ、わが幸福学園の女性(並びに男性)の腰を守るために、流し台はさっそく改造された。
七月九日
近くの牧場から牛乳を分けてもらえるようになった。朝一番にK子ちゃんが車で一走りして牛乳をもらいに行くのが一日のはじまりだ。K子ちゃんは目下のところただ一人車の運転ができる貴重な存在、お客を迎えに行くのも、買物に行くのも、彼女なしでははじまらない。牛乳は一升瓶にたっぷり、まだ温かいしぼりたてである。値段は市価の半分。日のよって匂いや味が違うのがまたいい。ああ牛さんのお乳を飲ませてもらっているんだな、と実感させられる。
七月十五日
この家の柱や鴨居は、ひと抱えもある太さで、さすがに堂々たるものだ。台所には、いわゆる天井がないから、煤けて真黒な垂木から百年(?)前の煤がときどき落ちてくる。今夜はちらし寿司にしようと真っ白なご飯を炊いた(普段は麦飯)のにヤレヤレまた煤が降って来た。
○かくれた才能
七月二十日
幸福学園にとって一番の協力者であり地元の長老ともいえる人を、一夜招いて手作りの料理をご馳走することになった。お相伴は地元出身のKさんと新島さん。
この土地に伝わる不思議な話やどこの何兵衛さんがどうしたとか、話の面白さにつられ地酒の美味につられ、あるいは多少の緊張から自分の酒量を忘れたのか、ついつい度を過ごしてしまってお客様を送り出した途端、お相伴の二人、起てなくなってしまった。若い男性スタッフが助け起こし寝床へ運び込んで一件落着。二人とも体を張ってのお付き合いだったのである。ご苦労様。
七月二十六日
台所の土間の真ん中に昔の竈がでんと据えられている、竈といえば竈神を祀るくらいだから、その家にとっては大事なものである。プロパンガスの今日では無用のものだけれど、やたらに壊してしまってはこの家のご先祖に申し訳ないような気がして、上にデコラ貼りの大きなテーブルを作ってかぶせ、ここで食事が出来るようにした。その他、物干し台から押入れの改造、本棚作りなど、すべてAさんが一手に引受けて、あれよあれよという間に出来上がる。その玄人はだしの腕前に一同舌を巻く。おかげでだんだんと住み心地のよい家になっていく。
お風呂は五右衛門風呂で薪で焚くのだが、その風呂焚きが滅法好きで、毎日買ってでもやってくれる人がいたり、いろんな人がいろんな隠れた才能を発揮する。また必要に迫られてはじめてやってみたら案外上手くやれたりして、一体生活の妙味に加えて草創期の喜びに、みんなの胸は日毎にふくらんで来るのだった。
○大さわぎ幸福学園
八月一日~七日
特講期間中の子ども預かりをすることになった。今回は乳児二名、幼児三名、小学一年生三名である。一日の昼過ぎ、春日山から布団、オムツ、衣類とともにマイクロバスでやって来た。知らない子がどやどやとやって来たので、うちの子どもたちはびっくりして部屋の隅にかたまって眺めているだけ。やって来た子どもたちのほうは作ったばかりの砂場を占領、手作りの玩具が珍しいのか、とびついて放さない。だがそんな光景もちょっとの間で、やがて一つになってたちまち家じゅう大騒ぎ。夜になると八畳の部屋に吊った蚊帳が珍しいらしく、中に入って上になったり下になったり、あるいは魚になったり動物になったりして遊んでいる。翌日になると賑やかさにつり込まれていつのまにか近所の子どもが自分で捕ったカブトムシやクワガタを菓子箱一杯に詰めてもって来てくれていっしょに遊んで行く。あまりの騒がしさに道行く人がびっくりして覗いて行く。「お宅は何世帯住んでいるのですか?」などと訊かれてしまった。
洗濯は午前、午後の二回。庭じゅう万国旗はためき、食事は、よく食べる子、食卓をチラと一瞥しただけで「ボク、食べない」という子。好き嫌いを言われるのは覚悟の上である。朝起きて寝るまで、のべつまくなしにお喋りしてる子、「オヤツ、オカシ」とすぐに言って来る子など、育った環境や習慣が違うとはいえ、実にさまざまな子がいるものだとつくづく思わせられた。お風呂は土方に行っているスタッフも応援してくれて、若いお兄ちゃんが、赤ちゃンを二人も入れてくれたり、総動員の毎日だった。
幸い近くにほとんど人影を見かけない神社や小さな公園があって、日中はよくここへ連れて行って遊んだ。大きい子は虫捕り、メダカ捕りなど、都会の子どもにとっては何よりの遊びを満喫したことであろう。あっという間に帰る日になった。口々に「ボク、また来るよ」といいながら、サヨナラをして行った(後日、一人の子は本当にお母さんとやって来た)。
その後の静けさ。夏の盛りの一週間は暑さを感じるいとまもなく過ぎて行った。
○ 畑に種を蒔く
八月一日
東京杉並の、もとのわが家に置きっ放しになっていた本が、トラックに満載されてやって来た。穀物倉だった土蔵が書庫兼書斎に早変り。夫は子どもたちと遊んだり、食事の時のほかは、大抵この土蔵に頑張っている。土蔵のヌシである。そこでみんながつけた別名は「オクラテス」。
八月八日
東京の親類に預けてある中学生の息子雄髙と、さやか、義弟のS氏、姪のK子、それから雄高の友達一人が連れ立ってやって来た。さやかはサマーヒルの生徒だが、目下夏休みの帰省中。今年は幸福学園で過ごすそうだ。しかし、来学期でサマーヒルを辞めて幸福学園のスタッフになるために日本に帰ってくるのだといっている。夜になるのを待って、彼女が撮ってきたサマーヒルのスライドをみんなで見た。二歳になる牧穂が裸の子が出てくると手をたたいて喜ぶ。牧補自身いつもすっ裸なのだ。
八月十一日
東京、横浜方面でヤマギシの建設事業をやっているK氏が車でやって来られた。最近若い奥さんを迎えて新婚旅行かたがた二人で来ようと思っていたところ、出発間際になって新妻のR子さんは特講の係に引き抜かれて、日光会館(日光市にある。当時ここで特別講習研鑽会が開かれていた)へ行ってしまったとのこと。K氏はカブト虫を一匹つかまえても「R子くんがいたら喜ぶだろうなぁ」と奥さんを恋しがることしきりであった。
八月十四日
車で三十分も行くと滋賀県になるが、そこに大沢池という用水池がある。今日はそこへ水泳をかねてのピクニックに行くことになった。スタッフ全員とわが学園の子どもたちに加えて、夏休みをここで過ごしに富山から来ている小学四年のS子ちゃんと、昨日やって来た小一のTくん母子、総勢二十名にもなろうか。運転手のK子さんがお盆で両親の家に帰っているので、ここのところずっと東京から来ているK氏が代わりに車であちこち買物などに飛び回ってくれているのだが、今日もご本人が知らぬ間にマイクロバスの運転手に仕立てあげられてしまった。バスの運転ははじめてなのだそうだが、なあに、お客のほうは少しも心配しないのである。座席はもういっぱいで、みんな走り出すのを今やおそしと待っている。そこへS子ちゃんのお父さんが富山からやって来た。さあ乗った乗ったと、みんな乗せて出発。
大沢池には我々一行のほかは殆ど人がおらず、貸切りプールのようなもの。これからはここを幸福学園の活用池とすることにした。大人も子どもも喜々として泳ぎまわり、はしゃぎまわって大満足の一日だったことはいうまでもない。特筆すべきは、女性スタッフの一人の見事な水中逆立ちで、それを見ていたある口の悪いお兄さんスタッフいわく「ダイコンガサカサニハエテル」。
八月十六日
今日はす総出で畑の種まきをした。家主さんの好意で近くに百坪ほどの土地を借りて、数日前から耕しはじめたのだった。春日山から鶏糞をどっさり持って来て入れたし、きっと美味しい作物がとれるだろう。
○食糧自給をめざして
八月十八日
「畑に芽が出たよう」S子ちゃんのご注進でみんないっせいに畑へ駈け出して行った。昨日の雨がさいわいしてものすごく早い発芽だ。大根、人参、蕪、白菜など緑色の豆粒を散らしたように点々と光っているのをみると、太陽よ、雨よありがとうと言いたくなる。ここで生活をはじめて二ヶ月近く、炊事係を受持っている私としては、思うように野菜が手に入らないのが一番頭の痛いことなのである。もちろん春日山や豊里からどさりと届くこともあるけれど、なんといっても品数が限られているし、いろいろなものを少しずつ、というわけにはいかない。葱の二、三本、菜っぱひとつかみが欲しいなと思っても、おいそれとは手に入らないことが多かったのだ。
それでもずいぶん近所の農家から助けて頂いた。南瓜、茄子、胡瓜、シシトウ、お茶など、これからはこの畑から収穫して新鮮なところを食べて貰えると思うと、本当に嬉しい。そばで夫がしみじみとした口調で呟いた。「蒔けばちゃんと出てくれるんだねえ、ありがたいねえ」と。
当り前過ぎるほど当り前だけど、これは実感である。幸福学園の食糧自給の第一歩。今日は芽出たい日であった。
八月二十一日
Kさんはスタッフのなかの唯一の地元出身者だ。ご両親は健在で農業をがっちりと営んでおられる。この町に幸福学園を、という息子さんの熱意に煽られて、何かにつけて協力して下さっている。そのご両親の橋渡しのお陰と、Kさん自身の連日の鉄のワラジを履いての苦労が実って、とりあえず約六百坪の土地が手に入ることになった。今夜、その地主さんとの契約が無事すんだ。 地主さんはこの家の修理に当ってくれた大工さんの一人で、自分の土地が幸福学園という子どもの家になるのならと、先祖伝来の土地を手放す気になったのだそうだ。建物を作るときには是非手伝わせて欲しいと言ってくれている。もう七十に近い好好爺の大工さんだけれども、こんな人と仲良くなれたということは何より嬉しいことだ。
八月二十六日
さやかが、ボロ布とボロ毛糸でお人形を作った。続いてS子ちゃんがオバQ人形を作った。それを見ていた小さい子どもたちが、糸と針でなにやらお裁縫をはじめた。男の子までが結構上手に針を操っている。
子どもたちを見ていると、一番年上のさやかの真似を小四のS子ちゃんが、、S子ちゃんの真似を六歳、四歳の子が、というふうに順に下へ移ってゆくのがわかる。考えてみれば、子どもにとってはじめての経験というものは、誰かの真似なしにはやれないことだ。身近にいる先輩、それも比較的年齢の近い子の真似が多いようだ。最初のお手本が、生涯身についてしまうというのもうなづける。あとからの修正や染めなおしは、苦労の割にはそれだけのものでしかないだろう。
八月三十一日
台風といっしょに大阪から「幸福学園見学ツアー」なる一団がやって来た。女性九名、男性二名、泊りがけである。まだ生まれたばかりの小さな学園にとっては大型訪問団だ。炊事係としては前日から張り切らざるを得ない。都会では忘れかけている本物の野菜をたっぷり味わってもらおうと、南瓜と茄子とシシトウを用意した。トマトは丸のまま食卓に乗せた。女性が多かったせいか南瓜の煮付けのよく売れたこと。
夜は研鑽会である。幸福学園運動を始めて二年、おぼつかないながら実際に一体生活を始め、その姿を現してやっと二か月である。「外」の人たちとの交流は初めてであった。ヤマギシズムのこと、サマーヒルのこと、また障害を持っているご自分の家族のことなど、夜おそくまで話がはずんだ。
九月一日
午前中は台風の過ぎるのを待ちながら話し合い。午後は幌を掛けたトラックに乗って幸福学園用地を見に行ってもらう。草や木がぼうぼうの山林なので、どこからどこまでといわれてもさだかではないけれど、やがて生まれるであろう理想の学園の姿を想像して貰って、雨に濡れながら下山。見学ツアーといってもこのほかに見ていただく所はあまりないし、身体を動かしての作業を、との希望もあって、Kさんの実家の山の下草刈りをやって貰うことにした。へっぴり腰あり、および腰ありで、慣れない労働に挑戦した満足感が成果ということにして、ふたたび学園に戻ってひと休み。夕方、一人は今夜からの研鑽学校に入学のため春日山へ、あとはまた、幌トラックで新堂駅まで送り届けて手を振ってさようなら。
ほんものの台風は四国・九州方面をうろついているそうだが、学園はすでに台風一過、お客様を無事送り出して、急に静かになって一息ついたところだ。ともあれ、みんな満足して帰ってくれたようで、こちらも一同満足。
○第一回 夏の子ども楽園村
「夏の子ども楽園村」というのが開かれた。
都会を離れ、親から離れて、きれいな水と空気と緑のなかでこどもたちを思う存分遊ばせてやりたい、というのがそもそも話のはじまりだった。
今の学園の受け入れ能力は二十名とみた。おもに東京の多摩供給所を遠して活用者の人たちに宣伝した。たちまち二十名を越える子どもが集まり、それを伝え聞いたた関西方面からの申し込みを加えて三十名となり、慌ててあとはお断りということにした。
五歳から十二歳までの男女三十人、幸福学園の子どもと合わせて三十四人が服部宿舎の母屋と離れに分宿、八月一日から十五日まで、親を離れ、テレビなし、大人がきめた規則やスケジュールなし、子ども自身が自分の生活を設計するという二週間である。
毎日何時に起きるか、何時に寝るか、どこへ行き、何をするか、誰と遊ぶか、お母さんも学校の先生も決めてくれない。子ども達は自らの自由意志で決めた。
以来、「楽園村」は今日まで絶えることなく、えんえんと続くことになる。
○始まりが終わり 終わりが始まり
この物語もそろそろ終わりに近づいて来たようである。登場人物の一人である筆者の夫、新島淳良はすでにこの世にいない。私たちの友人の一人が彼を追想して書いてくれた文章に、次のような一節があったのを思い出す。
「新島さんの個人的な業績が、本来あるべき姿まで到らなかったとしても、それは決して完全な終わりではなく、延々と続く人の命の連なりの中、誰かに何らかの形で引き継がれてゆくのではないだろうか。彼の中国に対する思いや研究も、街に出ての運動もみなそうやって長い長いときを経て、次第に形作られて行くものなのだ。曲がったり、戻ったり、縮まったり、或いは別のものに形を変えたり――そんなことを繰り返しながら。
それでも少しづつ、ゆっくりと、決して絶えることもなく、そしてそれが何処まで行くかは誰にもわからない。生きる、ということはそういうことではないだろうか。」
私たちの実践に何らかの意義があったとすれば、とりもなおさず夫婦、親子、兄弟がまず仲良し、そして遠い親戚とも近くの他人とも仲良くやれたということくらいか。世界中がそうなればと願って生きてゆく。そんなものがたりが今終わり、また始まる。 (完)
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○第一回ヤマギシズム幸福学園研鑽会 動き出した『幸福学園』設立運動
1973年1月3日正午から5日正午にわたり、春日山の山岸会本部会場で開催された。
参加者43名。なかでも元・現を含め教育関係者が目立った。
研鑽会はまだ漠然とした構想段階にあるだけに、各人の教育体験を批判的に提出し、それらをバネとしながら、全く新しい構想に基づく幸福学園の具体的なイメージへと煮詰める方向に向けられ、本格的な幸福学園運動の第一歩を踏み出した。
この設立運動は無限の人材、物財の参加を受け、そして巻き込むヤマギシズム社会化具現方式の一環として今後広範囲に推し進められる。
なお次回の研鑽会は2月10日より3日間東京の早稲田奉仕園セミナーハウスで開かれる。(1973年1月15日付けんさん紙より)
※『自由への旅立ち』幸福会ヤマギシ会月刊紙『けんさん』2002年・4月~2003年・11月
【新島里子略歴】
1929年(昭和4)東京に生まれる。
1972年(昭和47)12月 ヤマギシ会に参画
1973 年(昭和48)『子ばなれと親ばなれ』(思想の科学11月号)掲載
1989年(平成元年)俳句結社・南風同人
2011年(平成23)第一句集『一椀 新島里子句集』(ふらんす堂)を刊行
2020年(令和2)9月 『新島里子作品集 道草回顧』(一粒社) を刊行
2023年(令和5)9月13日永眠された。(享年93歳)