広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

福井正之論考

(5)<理念体系>信者はいかに発生したか 親の過去と子どもの現在(福井正之「述懐」より)

○私はどうも理念というものに弱い人間だった。したがって人生のかなりの部分をそのように生きてきた。個々の理念ではなく<総合的な理念体系>、すなわちマルクシズムとヤマギシズムによって。ヤマギシではそれを「イズム」と略称していた。その個々の内容と…

(4)忘却願望と記念碑 第18共徳丸から (福井正之「述懐」より)

○広島原爆忌の前日5日、宮城県気仙沼市長が打ち上げ漁船「第18共徳丸」の保存断念を表明していた。 それは私には、おそらく広島の子どもらが、その『誓い』において述べた心と対極にある決断だと感じた。くり返すが、そこにはこうあった。<――だから、あ…

(3)風化と記憶のはざまに 広島原爆忌から (福井正之「述懐」より)

○8月は暑いだけでなく重い。例年の原爆記念日から終戦記念日に至る一連の流れ、がである。 68年も経っているのである。マスコミは「風化させてはならない」と例年と同じく語り続ける。そして世代交代という次のぺ―ジを示すのである。 しかもマスコミは「…

(2)イデオロギーと「人として」の意味(福井正之「述懐」より)

(2)イデオロギーと「人として」の意味 前回紹介した門田隆将「死の淵を見た男」の記述の中で私が最も共振したのは、巻頭にあった以下のセンテンスだった。 「本書は原発の是非を問うものではない。あえて原発に賛成か、反対か、といった是非論には踏み込…

(1)福島第1原発元所長吉田さんの死から(福井正之「述懐より」)

○述懐、という言葉が浮かんだ。これまで書いてきた論考とか、随想とか、手記でもない何か。このところそのようなスタイルに収まらないようなものが溜まってきたような気がする。だが、捌け口が見えない。それはこれまでなかったいろんな人との交流の中で、新…

矢野智司本かじり歩き(5)戦後教育の転換と宮沢賢治

○すでに随所で間接的に触れているが、感動体験(生成体験)とは人間にとって、人生にとって、いいかえれば教育にとっても何なのか、についてここでもう少し視野を広げて述べておきたい。 それは先回最後に紹介した「蕩尽は聖なるものを呼び起こし、『全体的…

矢野智司本かじり歩き (4)生成としての遊び 実顕地草創期の世界

○先回の主旨は、子どもは遊ぼうとして遊んだわけではなく、何をやっても遊びだった、ということである。 しかし遊び自体は子どもとは区別すべき概念である。そのことを矢野氏は「(子どもには)自分が遊んでいるというより、遊び自体が生き物のように自己展…

矢野智司本かじり歩き(3)子どもの遊び領域

○矢野智司本かじり歩き (3)子どもの遊び領域 「贈与と交換の教育学」より *『愛児へのおくりもの』について 先回、矢野本の「ボランティア」についての記述から体験学習の意味を考え、さらにそこからそれほど予測できたわけではないが、ヤマギシの学育、…

矢野智司本かじり歩き(2)感動とは教えることができない

矢野智司本かじり歩き(2)感動とは教えることができない 「贈与と交換の教育学」より 先回、「感動体験」と言いうるもののおおよその枠組み、構造を探ってみた。今回はその少し外延を考えてみたい。 先回のキーワードの一つは、「深い感動は言葉にはならな…

矢野智司本かじり歩き(1)感動体験の意味 

※ブログでは『福井正之記録集1』からヤマギシの実顕地の課題について考えていくつもりですが、同時に、福井さんの論考を掲載していきたいと思います。 しばらく2014年頃述べている「矢野智司本かじり歩き(1)~(5)を紹介します。 - ○矢野智司本かじ…

書評:柳美里『町の形見」(福井正之論考)

※福井さんはヤマギシのジッケンチに限らず、数々の考えさせる論考がある。その論考は、ご自分が暮したジッケンチの各課題に引き付けて考察したものが多い。その中から随時紹介する。 なお、これは、ブログ『わが学究 人生と時代の “機微”から』の2019年2月…