広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

書評:柳美里『町の形見」(福井正之論考)

※福井さんはヤマギシのジッケンチに限らず、数々の考えさせる論考がある。その論考は、ご自分が暮したジッケンチの各課題に引き付けて考察したものが多い。その中から随時紹介する。
 なお、これは、ブログ『わが学究 人生と時代の “機微”から』の2019年2月から3回に亘って掲載されたものである。
 また私も、柳美里『町の形見」の書評を2019年3月にブログ【日々彦「ひこばえの記」に掲載している。

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(97)今最も読みたかった本 『町の形見』 2019/2/20
 最近読みたい本があれこれ出てきた。しかしどうも読書力、思考力、なかんづく記憶力も衰えてきている。その中でこれも長年ねがってきたことだが、ヤマギシ過去情報が若い人らから急激に出てきた。その事を可能な限り受け止め整理考察していこうと思う。その中で「こういうことっていったい何?」という根源のテーマもちらつく。そして今現在読みつつある本が、まさに「今最も読みたかった」本だと感じている。

 そのきっかけになったのは、『町の形見』(柳美里著)の新聞書評からだった。曰く
〈本書は「震災」によって断絶した記憶を弔うことで再び記憶化する思いと願いが込められた…戯曲集である〉
〈「書かなければ忘れてしまう」という登場人物の言葉通りに、忘却への抗いこそ、本書に通底する態度である〉

 ナヌッ! あの2011年の「震災」がすでに忘却の対象だって。ならば2000年以前のわがヤマギシなんて、当然すぎるほど当然の忘却だろう。さらに原爆や戦争なら、その記憶はチリみたいなもんだということなのか。

 早速地元の書店に当たってみると、1冊のみ在庫していた。ツイていると思った。しかも裏表紙に掲げられた著者コメントの出だしの一節は
「過去も未来も今ここにしかない――」

 ぼくはええっ! ここしばらくニュアンスはちがえ、それに近い感覚がずっと続いていた。過去のことを記憶に基づいて書いてはいるが、今書きつつあるのは「現在」のぼくが眼前に生じている光景を記述しているだけではないかという感覚。しかもそれも自然に蘇るということもあるが、日々そのことを希求し続け自ら「現在」に呼び寄せたといえないこともない。

 そこで巻末にある著者の様々な解説(主として公演挨拶文)から入っていった。
〈「町の形見」では、過去を現存させるために時間の蝶番を外すことにわたしは注力した。過去からきて未来に向かう――、それは現実社会に都合の良い一つの時間の見方にすぎない。
過去に存在したものや出来事は、今は無いのではなく、今にも未来にも存在する。
過去も未来も、いまここにしかない。
様々な過去や未来を包括した今を、今ここで経験することができるのが、演劇なのである。〉

 なんと見事な表現だろう。ぼくはここしばらく、あるいは調べてみると過去のHPブログ(2014「時空遍歴」)にもそれと近い記述がある。すっきり整理されているわけではない時間感覚についてのものである。ただ「時空遍歴」というタイトル自体が、過去-現在-未来への往還自在の願いを込めていた。

 しかし問題はこの手法を「災害問題」にどのように表し結晶させていくのか。
これも「記憶のお葬式」という見事な挨拶文として紹介されている(巻末にも)。

〈過去も未来も、いま、ここにしかない――
 人は記憶を抱えて生きている。
生涯、生々しい感情を伴う大波のような記憶もあれば、日々の暮らしの中で
繰り返されることによって刻まれるさざなみのような記憶もある。
 人は、誰しも死ぬ。
 死ねば、夥しい記憶の群れもまた、無になる。
 生あるうちに大切な記憶に別れの言葉を述べ、懇ろに弔いたい。
『町の形見』は、記憶のお葬式です。
あなたに形見分けを贈ります。〉

 なるほど
「人は、誰しも死ぬ。
 死ねば、夥しい記憶の群れもまた、無になる」

 少し前のブログ投稿に人の死というものを「これからは年をとらないんですよね」と捉えることに感動したが、この「夥しい記憶の群れ」の喪失もすごいことだと感じた。
そしてここで、これまで少しばかり混乱していたぼくの「償う」(生者も死者も対象)という観点を、もう少し整理し深められそうな気がしてきた。いいかえればそれはこの「記憶のお葬式」の観点(他の表現もあるかもしれない)に集約できていくような予感が生まれたからである。

 それでともかく中身の脚本を読みだしてみた。意外に軽く読める感じがした。だがどうも印象としては乏しい。もう一度解説に目を通す。
「言葉は、元来、声である。
 沈黙の中から感情を救い出し、言葉をゆすり動かすことができるのは、自分自身の声しかないのではないか――。
 自分の口から発した声は、他人の鼓膜を震わせる。

 声によって、感情や言葉は自分の中から持ち出され、他者に伝わる。
人前で声を発するのは、たいへん不安なことだし、時には恐ろしいことである。」

 ぼくは改めて、この作品が演劇の脚本である意味に、初めて気づいたような気がした。書物ではなく演劇だからこそ、いいかえればその抑揚と沈黙を伴った「声」によってこそ、他者との深いありようの交錯が火花するのであろう。

 この作品の中でしばしば短歌が登場する。例えばぼくにとって最も衝撃的だったのは、次の歌だった。

  こみあげる怒りを内に留めおれば五臓六腑は静かに腐る

 読んだだけでも衝撃があった。これに俳優たちの音声を伴ったときは、どんなものになったであろうかと想像させられた――

(98)(続)『町の形見』――怒りの抑制  2019/2/26
 こみあげる怒りを内に留めおれば五臓六腑は静かに腐る

  この歌の衝撃の余韻は、すぐに収まりそうにないのでそのまま続ける。
 というのはこの「怒り」という語に伴う特別な感情は、ぼくには特講以来ずっと続いたものである。しかも今年の年賀状まで「〈喜怒哀楽〉全肯定」とまで書いた。いったいいつ頃からなのかとふり返ってみれば、やはり2000年のムラ離脱以降のこと。いうまでもなくムラ内では「腹が立つ」というのは価値的にマイナスで、自分もかなりそうはなっていない感覚でやってきたつもりだった。それでシャバでは実際どうなのかを試験的に確かめてもみたかったのである。そのうちだんだん気にならなくなった。要するに普通に腹を立てる(あるいは立つ)人になっていった。

 それが上述のように「全肯定」という意識性にまでなっていったのは、自己表現(→小説)にとってそのことは不可欠であり、それが普通の人間感(観)にまでなっていったということ。さらにそれに伴って、ぼくは特講の意義をその「とことん問う」究明の姿勢にのみ肯定し、「腹が立たない」云々はどうでもよくなったからでもあった。

 ところが――2019年の現在ただいま上の歌に触れて以降、これまでのぼくの認識に重大な楔がうち込まれたような気がしてきた。つまり今度は逆にムラではどうだったのか見返してみたくなった。そこでの日常生活は基本的には、あるいは建前上は「腹の立たない生活」だったとしてもやはり実際腹が立つこともあったのではないのか。その場合、それを押し殺して(つまり「内に留める」)はこなかっただろうか。ぼくもそれはなかったとは言えない。いや、あった。特にムラ離脱前近くは、ムシャクシャすることは増えていった。こんなんで良いのかよ、という気持ちも含めて。

しかしそれをその都度押し殺してきたと思う。たしかに世間人に比べその頻度はるかに少なかったと思うが、それが意識的ないし無意識の生活習慣にまでなっていたのではなかろうか。ここでようやっと本題に入る。ならばその都度わが「五臓六腑は静かに」腐ってはこなかったのだろうか?

こみあげる怒りを内に留めおれば五臓六腑は静かに腐る
 である。これこそぼくにはあまり考えたことのない発想のように思う。
いうまでもなくその「腐る」は比喩である。医学的生理的な事象を指していない。わが子、わが親、身内の誰彼、友人、職場の朋輩を一瞬にして失った――まさにその怒りの、とうてい心中にとどめえない激発をこそ、この歌は表し尽くしていると感じる。そしてその真率さをいや増すのが、逆の「五臓六腑は静かに腐る」という対極世界との対比であろう。

 したがってぼくがここで取り上げたいのは、逆に「内に留め」うる次元の場合どうなっていくのか。それはつまり「心の五臓六腑」はどのように、どの程度腐るものか、問うてみたくなった。

 もっともムラでは、いかなる場合にも腹が立たなかった人はいたかもしれない。こういうのは無記名アンケートでも取ればある程度はつかめるだろうが、おそらくそういうノウハウはまるでなかったと思う。それに近い選挙すらなかったのだから。そういう社会はぼくもそうだったように、本音と偽装をどう使い分けるかの無意識の心理操作が日常化するのではなかろうか。

 ぼくはブログで「ムラでの研鑽会は上級に行くほど首振りが増える」と書いた。これはいわば客観描写のつもりだったし、自分が入っていない。それをこの「本音を内に留めない」次元まで突き詰めれば、それはできなかったのである。ぼくも首振りの一人であり、発言をしてもおそらく上への<忖度>は必須だったろう。とすれば、おそらくその分まで「五臓六腑は静かに」腐ってきたであろうと想像される。

 しかしこの想像は実生活上ある危険を孕む。ヤマギシ人に限らずほとんどの勤労者にとってそういうことはないに越したことだし、あったとしても退職覚悟、ないし実際の退職をともなう。よっぽどのことがないかぎり人に勧められることではない。

 そこで当然自分のことになるが、ぼくは自分の心理体質としてどうもクソマジメな(よく言われる)人間らしい。そのマジメさで小説まで書いているといえば、たしかに聞こえはいい。しかしその「書く」という実態は昔タブーとして押し殺してきたものを、ゲロのように吐き出し続けてきたものが元になっている。そのことが今回の和歌との出会いによって、さらに自分の腐ってきた「五臓六腑」の所在をあからさまにされたようにも感じる。いいかえればぼくの「トラウマ(いわゆる心的外傷)」はそこにあったと思う。

その感覚で、少しは体罰状況下にあった学園生の「トラウマ」にも触れられそうな予感がする(先々回「体罰被害の止揚 わが人生総括から」ではこのことを試論的に展開してみた)。ただここでまた気づかされ、問うてみたいのは、人はなぜトラウマになるのか? という根本問題がある。

 この観点からすれば、ぼくなんてクソマジメどころか、まさに「現場で逃げてきた」フマジメ人間であったと自覚する。だからこそ残念ながら「腐ってきた」残るものがある。それを何とか記憶し記録して考えようとしてきただけのことで、強いて言わせてもらえばそれに些少の意味もないとは思えないだけである。

 あくまで一般論だが、おそらく逃げなかった人間はトラウマになりようがないと推測する。どうも話は厳しくなって自分でも手に負えない感もあるが、ただここでブレーキをかけたくなるのは、それが「闘い」になりうることである。自分に対して、他に対して。それも「人は逃げずに向き合い続けなければならない」という観点の正当性、あるいはそれへの真面目さが、時に「闘い」になりうる。それもこの大震災のような犠牲に直面した時には怒り狂い泣き喚くであろう。でも必ずしもそうでない場合、その人の体質、気質、体験に応じてどこかの地点で踏みとどまる必要があるだろう。

「闘い」にならない場面はあまり思い出せないが、ふと蘇ってきたのはある葬儀の場面だった。昔まだ実顕地という呼称が新鮮だった頃、学育のわが子の病死に対してその父親は代表としての挨拶に立った。それが途中、さめざめと嗚咽し泣きだし、したがってその挨拶はしばしば中断した。彼はおそらく創設期からのべテランメンバーだった。しかしぼくも含めて少々鼻白んだ参列者もいたにちがいない。まだシンマイに近いぼくも「へーヤマギシでもこんなに泣く人がいるのか」と怪訝に思ったほどである。しかし今そのことを書いているぼくの目は涙ぐむ。彼はその悲しみを見事にも「内に留め」なかったのである。

(99)(続々)『町の形見』――痛む悲しみ 2019/3/4
  先回の論考を悲しみの物語で閉じた。悲しみもぼくの中では怒りと同類だと考えていたからであろう。それをさらに続ける気になったのは、ヤマギシ世界のイメージを「喜怒哀楽」全肯定の観点、強いていえば<人間実像>の観点から捉え直してみる必要性を痛感するからである。

ふり返ってみれば実はそういう試みはぼくの中ではすでに為されていた。ぼくはジッケンチ離脱後、自分の感覚・感情が萎縮・鈍磨、停滞しているばかりか、どこかいびつな状態になっているように感じ、その原因を「自己感覚のメッキ化」と捉えた。断片的だが少し抽出しておく(「ジッケンチとは何だったか、Ⅱ」2009/2)。

*〈そして例えば、ずっと抱えていた疑問が解凍したような気がした。すなわち私のなかにハレハレしかなく哀の感情がなければ、どうして山岸氏が書くように「他の悲しみを自分の悲しみと思う」ことができるだろうか、というような疑問〉

*〈いささか無謀な過去への願望になるが、結果からみてこの<俗なる幸福感>への必然の流れを可能な限り先取りし、山岸氏が書くように『なるべく働かないための研鑽を』『将来は一週10時間か5時間くらいの労働で』について公然と研鑽し目標とすべきではなかったろうか〉

*〈「……万一不幸と感じる事があるなれば、それは何処かに間違いがあり、その間違いの原因を探究し、取り除くことにより、正しい真の姿に立ち還ることが出来るのです」ここで指摘したいのは、山岸氏は決して「不幸と感じる」こと自体を否定していないということである〉

 この終りの山岸さんの不幸感についての取り上げ方との関連で、私の性急な解説よりあえて故吉田光男さんの所説を紹介させていただく。

「――しかし村では、引っかかることはこだわることであり、良くないこととされてきた。こうした先入観の下では、自分の思い悩むことなどはとうてい出すことができない。それは解消されず個人の内部に蓄積されることになる。そして、ひっかかったり、こだわったりすることは、我執として否定されてきた。そうなると、自分が一番思い悩み、考え、解決したい問題が、闇に葬り去られることもある。本当はそのひっかかりこそ、研鑽さるべき最大のテーマの筈なのだが・・・」(「わくらばの記」114p)

さらに今回の問題意識はそれを超えた次元、すなわち怒り感情にもその軽重のちがいで決定的な認識の差異が生まれる、というところから出発する。そのことは「悲しみ」表現についても同様であろう。それは「痛み」にすらなり得る。

「彼は痛みの場所を知らない。痛みの場所に触れられると、わたしの心は木の葉のように震える。でも誰にも触れられなければ、呼び掛けられなければ、わたしはその痛みに耐えられそうにない。何度も繰り返し襲われた、自分一人が生き残った、という息を呑むような衝撃に耐えられそうにない」(246p)

  これは物語の途次に差し込まれた表現でわかりづらいだろうが、ぼくの取り上げたいのは「自分一人が生き残った」という部分である。ぼく自身はそういう体験はないから、これはすざまじいことだという衝撃(観念的だが)のみは伝わる。しかし怒り同様、その先も知らずおけない何かが擡げてしまうのである。あの震災、津波の現場に直接直面した東北の人々はその衝撃に、出会い、とり込まれ、そこでの痛みというのか苦悶というものに、相当がんじがらめにされてきたようなのだ。

その解決というか止揚の方向はどこかにあるのだろうか? 上の文ではそれは他者と在りようというか、つながりようにあるようにも示唆される。そこをもう少し探ってみたい。ただこの本は基本3作の脚本を一冊にしてあるだけで、そのどこにも答えめいたことは書いていない。ただ何処かでその3作が呼応し合っている章句がある。基本的にはその実際の上演劇に向き合って感ずるしかないことだが、それも2018年秋に上演されたきりで、以降の予定は公開されていない。

それでもともかく私なりの推測だが、こういうことじゃないかという根幹となる「柱」(ないしテーゼ)があるのだと思う。その最初のプロセスは次のように表現される。

〈(授業ごっこの先生役)2011年、3月、11日、金曜日、午後、2時、46分、18秒、みなさんは、どこで、なにをしていましたか?〉
 各人の答えの後
〈――車で家を見に行ったら、もう水浸しで、二階の踊り場まで津波が来てて、いつも見ていた青い海じゃなくて、すごい濁った茶色‥‥なんか赤っぽくて‥‥人を殺したような海の色でした。
(なお)わたしが、文芸部に入ったのは、あの日に起きたこと、あの日のことを書いてみたかったからです。書かなければ忘れてしまう。忘れてしまったら、町が、かわいそうだから。
 なおは窓辺に近づき、窓を大きく開け放ち、叫ぶ。
 ※(なお)福島県 双葉郡 富岡町 上郡山!
  生徒たちは窓辺に立ち、一人一人、自分が生まれ育った町の名を叫ぶ。
  訴えるように、問うように。
  掛け替えのない存在を、自分の声で抱き締めるように。

 息絶えようとしている家族を、自分の声で蘇生させようとするかのように。
もう行くことができない場所に、声だけで踏み込むように。〉

ところがこの主人公はるさんはその後「プールの水に溺れて」亡くなるのである。今のぼくはとうていそこまでついてはいけない。そこでまたまた著者の解説に立ち戻る。著者はその公演を担った某高演劇部の高校生らのことを語っている。

〈――彼らの声の源にある感情を、彼らとともに大切に丁寧に扱った。彼らと「静物画」という芝居を創る過程で、わたしは、彼らの中で声が生まれ、外に出たがっている瞬間にいくつも立ち会うことができた。彼らは、自分と外界を隔てる境界線でもある体の中から、声を発することによって自分を解き放った。演出者冥利に尽きる、と言っても良いのではなかろうか?〉