※この度の新刊、福井正之著『「金要らぬ村」を出る…』は、2018年刊行の『追わずとも牛は往く』と繋がりがあると思っていて、その書について触れてみる。
〇タイトル『追わずとも牛は往く』の副題として「労働義務のない村で」とある。
本書の特質として「働かざる者食ってよし」「働かざる者食うべからず」のフレーズが要所に出てくる。その表現とともに、「働くとは」、「さまざまな人たちと共に生きていくとは」を自問自答しつつ物語が展開し、本書の基底音となっている。
本書は著者の北海道試験場(ヤマギシの村)の体験をもとにした、「睦みの里」という共同体を想定し、そこでの村人と大地と牛との生活が、生き生きと描かれている。
1975年、主人公・丈雄がそこを最初に訪問したおり、村人より次のような説明がある。
〈丈雄:世間では働かんと食えん、いわゆる《働かざる者食うべからず》という暗黙の強制がありますよね。(------)
村人・須崎:一軒の家じゃ親が働いて子どもらを食わせる。もちろん自分らもそれで食う。その動機は家族を養うということや。子どもは働かんから、家賃、食費を払わんから食うな、という親はまずおらんやろ。まあ《働かんでも食ってよし》じゃ。別に遠慮せんと大きな顔していてよい。ところがこの家をもっと大きく広げて考えてみなされ。中には子どもみたいな大人もおる。働いても稼ぎが乏しい人、体の具合が悪うて働けん人、それにブラブラしていたい人もおる。親ならそんな人らを放っておけんやろ。いや別に親とは誰と決まっとるわけやない、なんとかそんな人らを食わしていくのが親や」(第一章「発端」p31~32)〉
次の年、主人公丈雄は、地元の高校教師を退職し一家四人と参画する。
主人公西守一家が『睦み』(※北海道試験場)に到着した翌日に、『睦み』の役職の人たちによる主人公夫妻の受け入れが予定されていた。
それまで時間があり、今の新鮮な気持ちのうちに友人たちへの挨拶状をと手紙の文章を考えた。
《ようやくやってきたこの里の宿舎の窓からは
広漠とした雪原が見え
そのかなたに知床の山々がくっきり浮かんでいます
私たちの「個」は互いに屹立し他と峻別される単峰でなく
あの並び立つ連山の峰の一つになりうるならば、とねがうのです
人は共にあることが避けがたいからこそ
睦み合うものとして生まれたのでしょう
だから自分だけでなく自分を含めた人々のために
身体を使うこと智恵を働かすことが心地よく爽快なはずです
そんな大家族の未知の可能性に賭けてみたいのです》(p52~53)
最近、このことについて福井氏は次のように感慨を述べている。
〈ぼくは自分ながらへーと感嘆していた。偶然にも最も出会いたかった章句だった。そしてこの内容で日々充実して動き得たら、「生産性を超えた生きている価値」に到達しえるはずだと感じた。そこで改めて別海で感じてきた心地よさなるものは、まさにこの「生産性を超えた生きている価値」にあったのではないかと思えてきた。
それは理からいえば「この連山の一峰」と重なってくるのである。そしてあれこれの場面がそのように生きてきた証のように思い出されてきた。なんと疎いことか。おそらく金銭との代償では絶対にそうは感じられなかったであろう。》
(ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(82)改稿「金要らぬ」「働かざる」の境地・8月14日より)
そこでさまざまなことを体験し、主人公丈雄は、大空と大地と牛と夢太き人々との暮らしに充実感を覚える日々が続く。
そこでの実感に裏付けされた描写力の確かさ巧みさに、ずんずん惹き込まれていく。
ところが、働かないブラブラ族を抱える「睦みの里」の将来を憂えた村人が、その理念・理屈に共鳴する「全人愛和会」に参画しようとする動きが次第に高まってきた。
それについて、主人公に相棒慎ちゃんはいう。
《慎ちゃん:ここの本当の良さはブラブラを責めんというか、あんたの言う『働かざる者食ってよし』のベースがあることや。誰も表立っては言わんが、これはすごい覚悟やと思うよ。あくまでその人に任せて目先のことでじたばたせんちゅうことやろ。よそに頼ってその良さを崩したら、ここはなんの魅力もない。それを自力でなんとかでけんやろかとずっと思うとったがな」(終章「岐路」p260)》
そして、1976年の春『睦み』へ参画した二年後の1978年三月 『睦み』メンバーはほとんど全員が『全人愛和会』(現・ヤマギシズム実顕地)に再参画。『睦みの里』は解散した。
エピローグは、1978年「睦みの里」解散後の「全人愛和会」での著者20年余の総括が語られ、1999年にそこを離脱する。
「全人愛和会」は、その拡大路線のもとで発展し、人は増え、規模は大きくなっていく。
〈全人愛和会の生活の変貌は、古いメンバーにとっては、まさに夢の暮らしだった。大理石づくりの浴場、普通の家庭料理の水準を越えた食事、こざっぱりした新調の衣服、そして月々なにがしかの小遣い、季節ごとの親睦行事。おまけに診療所や養老施設までできていた。まさに自称するように「ゆりかご前から墓場の後まで」の施設環境まで整備されつつあった。清貧が旨となっていた理想運動体が、こういう物質的繁栄まで到達できるなどというのはおよそ信じがたいことであった。(「エピローグ」p265)〉
だが、相互扶助的共同体を成り立たせていく肝心な「生身の人間同士の裸のふれあい」は薄れていき、工夫を重ねたさまざまな仕組みの多くが形骸化していく。
著者は次のようにいう。
〈全人愛和会の挫折は意外にも早かったのである。学園世話係の暴力事件や参画者の離脱時における財産返還問題を機に外部に反対派も生まれ、マスコミの批判も厳しくなっていった。----その流れの大きな帰結が2000年前後の全人愛和会のメンバーの急激な離脱だった。丈雄夫妻もいち早くそこを離脱する。離脱の始まりはなんらかの内部的な持続運動の帰結というより、個々人の「このままではここには居れない」の直観から始まった〝相互無告〟の行動だった。後には組織的に大がかりな行動に転化し、かなりのメンバーが「全人愛和」の〝壁〟を越えることになる。(「エピローグ」p266)〉
〈このような過程が示すものは、当然全人愛和会の組織構造の問題だった。これまで「大きな家族」の総親和的イメージの背後に、そこではいつしかごくひと握りの指導部による序列化とトップダウンの体制が確立していたのである。丈雄がかつて感銘した「見出そう」「引き出そう」「合わせよう」のメンバーの相互関係がいつしかくずれ、体制に「沿う」「合わせる」が取り組みの主たるテーマになっていった。(「エピローグ」p267)〉
そして、1999年著者夫妻は離脱する。
〈離脱後の主人公:それは丈雄にしてみれば人生の晩年を前にして、新生活へのいわば強いられたチャレンジだった。もう還暦を過ぎていたから、人生にとって三度目のコース変更を迎えることになる。そして置かれた場はまさに「働かざる者食うべからず」の厳しい苦界の只中だった。(「エピローグ」p268)〉
数年たって、著者は手記めいたものを書きはじめ、やがて『睦み』の記述が始まる。当時の記録メモがないなか、記憶をもとに書いたという。本書の最後は次の一節で「完」となる。
〈丈雄ももはや七十半ばである。しかし三度も人生コースを変更してきた自分には、これからの余生に寄りすがれる記憶は何もなかったように思っていたのである。まったくそうではなかった。今、その悔恨を別海『睦み』への愛惜によって溶かしながら、希望への、言いかえればわが自己肯定への道に、微かながらに灯がついたように感じる。(「エピローグ」p273)〉
☆
「働かざる者は食うべからず」は、現代の日本社会・日本人をはじめ、世界中のどの国・地域にも、このように思う人が多いかもしれない。経済成長を追いかける人たちの、一つのキーワードとなるのかも。
それに対し著者は、「あの村では実際にタダ飯を食らう、『働かざる者食ってよし』の暮らしがずっと成り立ってきました。」と、タイトルに「労働義務のない村で」と添えた。
特殊な共同体を考えるとき、「一つの大家族」というような比喩で語られる。家族あるいは拡大家族だったら、「働かざる者食うべからず」というような思い方は出てこないのではないのか。
食うことは生きることであり、どのような食糧・食材も先人たちや多くの人や「もの」のエネルギーの結晶である。そのこと踏まえても、安易に「食う」ことと労働義務を繋げることはおかしなことだと私は思っている。
なお、見田宗介、野本三吉などに注目されていた1970年代の北海道試験場(睦みの里)では、物理的規模は小さくとも、「生身の人間同士の裸のふれあい」、「さまざまな人たちと共に生きていく」、「労働義務のない村」の、大雑把ではあるが試験場機能が働いていたのではないだろうか。
※『追わずとも牛は往く』(労働義務のない村で)の入手は著者に問い合わせしてください。
著者連絡先 akkesi7816@outlook.jp