広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎福井正之さんのこと(福井正之記録から①)

○昨年12月23日福井正之さんが死去されました。享年81歳です。

 奥様の美千代さんからの連絡によりますと、しばらく前から大腸癌で入院していましたが、本人強い希望で2か月程前に家に帰ってきて、その後は福祉・医療関連などの方々の支援により穏やかに暮らしていて、今朝ふっと亡くなられたそうです。

 福井さんとは同じ時期(1976年頃)にヤマギシの北海道試験場に参画し、そこで福井さんたちが始めていた『北海通信』の編集現場でお会いしたのがはじめての出会いです。

 その後、それはど接点はなかったですが、2000年頃、そこを離脱してから福井さんの立ち上げたブログに感想を寄せたり、投稿をしたりして交流を重ねてきました。

 お会いするときは、それぞれの近況や思いでと共に、ヤマギシのことについては、過去の見過ごすことができないようなことも含め、忌憚なく、それぞれ憶測、捉え違いがありながら、また自責・他責感を入れずに、「あれはどういうことだったのか?」と語り合いました。

 福井さんやその著作のことについて、このブログにも度々触れてきましたが、福井さんとはメール交換も含め手元にかなりの記録があります。私のやれることとして、その中から主にヤマギシについて書いたものに絞って掲載していこうと思います。
 簡単に福井さんの私が思っている来し方に触れていきます。
               ☆
 ○1941年石川県の寺に生まれる。
 僧侶の父は跡継ぎにと考え、大阪の寺での修行を強いたりしたが、疑問を覚え、そこを離れる。

 やがて、その頃盛んであった全学連の動きに共感を覚える。
〈彼らの表情は生き生きとして全身が躍動していた。オレのように訳の分からない因襲をただ受け入れ、我慢しているものはそこにはいない。いったい彼らを突き動かしている情熱とは何だろう。〉

 1960年北海道大学教育学部に入り、そして学生運動に没入する。
 1965年大学を卒業、北海道東部の高校教員になり、1960年代の学生運動の挫折を引きずりながらも、理想の教師たらんと日夜励んでいた。その時分に出会ったのが北海道試験場である。

 人はある時、心が躍る出来事に出会う。その「虹」のようなものに劇的な感慨を覚えて、その人の生き方につきまとうことがある。

 1941年生誕の福井氏にとって、初期のヤマギシ会の北海道試験場との出合いはそのようなものだったのではないだろうか。

 そこは理念の頭でっかちの学生運動とは違って、日々の暮らしに根ざした、一個人や一家族を越えた無所有の一体生活(「財布ひとつ」の生活)体として、ひとりも不幸のない「金の要らない楽しい村」の理想を実践していた。何よりもそこに暮らす人たちに魅力を覚えた。

 1976年35歳の時、彼は妻と子供二人を伴って、そこに丸ごと参画した。
「北海道試験場」はやがて三重の実顕地と合流し、その運動は全国から世界へ展開した。

 福井氏の活動は、「教育から学育へ」の理論と実践の中核をなし、誠実で理知的な人格は、多くの人に親しまれた。

 そして、新島淳良氏が立ち上げた幸福学園から始まった幼年部送りに各地を拡大に奔走していた。
 その福井氏の話を契機に、会員となり幼年部送りや参画した親もかなりいる。そのことに大きな責任を感じていたようだ。

 また、15歳になった福井氏の息子さんは、実顕地に作られた学園になじまず、単身ムラを出て、東京で自己の人生を切り開く道を歩き出した。
 ある時息子さんと出会った福井氏は、17歳になっていた息子さんが快活に育っていることに一驚する。
 それと並行するかのように実顕地の方向にも疑問を感じるようになる。

 福井著『「金要らぬ村」を出る(付)「息子の時間」にそのことを書いている。
〈語り手:「おれ」が理想を覚えてG会に一家を連れて参画した時の小さな息子が高校生になったとき、G学苑になじまないまま、Gの「村」を出ることになった。
 おれは、G学苑幼児部の創設の方にも奔走していて、息子が「村」を出ることに危惧をいだいて、長い説得をするが、息子は「おれはここでやっていけん」とぽつりと云う。それでまたおれの長い語りがはじまるのだった。つまり平行線が数日続いた。息子は、親の描いた理念の世界とコトバでは届かない、自分の未だコトバにならない世界を呼吸し始めているようだったとおれは思う。結局息子は「村」を出ることになった。
 ところが、一七歳の息子と会ったとき、仲間や寄る辺となる、ある家庭などにより快活に育っているのを見て、対等に向き合い、息子の存在感を覚えるようになり、自分の子供時代から青年期への成長を振り返ることで何かしら同質のものが流れていることを感じるようになる。
 一方G会は、おれがかなり長い間、かってない理想社会への大壮挙と思っていて、そこに自由で平等な社会の雛型を見ていたが、組織が巨大になる同時並行に、そこも序列化とトップダウンの管理社会を形成して大きく変質していった。
 指導部の選任・解任も形式化し、衆知を集めるとされた研鑽会も整理・専門化され、全体で運動のビジョン、路線について論議すべき場がもはやどこにもなかった。〉

「北海道試験場」は、後の名称もヤマギシズム実顕地となり、参画者や共鳴する会員も増え続け、組織の拡大が進むにつれ、初期の頃に持っていた理想が変質していき、特に大きな期待をもって始まった学園運動が数々の人権問題を起こすなど、2000年頃、疑問を感じた人による大量の離脱者を生み、60歳を迎えようとしていた彼もその一人だった。
 このことは著書『追わずとも牛は往く』に詳しく書いている。

 2001年、福井氏一家は組織を脱退し、大阪で夫婦二人、裸一貫の暮らしに転じた。思うような仕事もなかなか見つからず。夜間の警備員になった。その合間を縫って大阪文学学校で学び、小説を書きだした。
 氏の場合は、この度の新刊『「金要らぬ村」を出る…』に描かれているように、世間での厳しい生活に追われつつ、20年以上暮らしたヤマギシのことを、「あれは何だったのか」と思う日々だった。
 一方、「何が本当に必要なことなのか」「自分とは何者か」「俺は何をしたいのか」と、先人たちの知見を参照しつつ、数々の論考を自身のブログに発表していた。

 また、自分なりの「ヤマギシ総括」の意味合いもあったのだろう、詩や小説の試作に書き現すことをしていた。

※福井正之著『追わずとも牛は往く』~労働義務のない村で~(楡影舎、2018)
福井正之著『「金要らぬ村」を出る(付)「息子の時間」(ブイツーソリューション 、2020)