広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎調正機関に参画することについて

 ※今回は参画という角度から、実顕地のことをみていく。

〇1958年の『百万羽』の設立から始まった参画者は、1961年4月に、参画者の本財(人)及び雑財を調正する機関としてヤマギシズム生活中央調正機関が発足し、その一員となる。

 参画者の条件として、次のようになっている。
イ 山岸会の正会員であること(未入会者の入会歓迎)。
ロ 参画者全員の認定に従うこと。
ハ いささかの私心なく、いつでもどこでも研鑽によって行動できること。
ニ 参画後は参画者のいかなる処置にも感情を混じえず従うこと。
 すなわち万一の場合は妻子、親子別居または離別しても終生この仕事に没入できる人であることの心構えを必要とし、最悪の場合に立っても、ますます一体行動の実践ができる人であることが強く要望される。したがってさきに述べたように労力・技術・頭脳・財力のすべてを出し切って参画することを絶対条件としている。しかもそのきびしい行動の根底に流れるものは真実の愛情であり、その実践であることを強調する。

 その人的条件は、「百万羽科学工業養鶏参画認定申込書」の内容となる。これは後に、ヤマギシズム生活実顕地への参画申込書の内容にも重なってくる。


 1975年に参画した私の場合、独身で財産らしきものもあまりなく、調正機関誓約書の内容も全くといっていいほど気になることはなく、気楽な感じで参画希望し、受付も調正世話係から、本当の社会づくりを進めたいならば中央調正機関へ、楽しく暮らしたいなら実顕地調正機関へと言われ、違いがよく分からなかったが中央調正機関参画を選んだ。
(※1976年、実顕地調正機関参画に一本化された。)

 初期の頃は、山岸巳代蔵の思想や養鶏法に共鳴し、主に農民の一家揃っての参画者が多かったが、山岸会事件や山岸巳代蔵没後からしばらく、社会一般的にはそれほど知られていなく、参画者も若者が多かったように思う。

 そのこともあるのか、参加受付に限らずその頃の北試は牧歌的な雰囲気があり、後の実顕地が注目されるようになってからの厳しい参画受付様子とは違っていた。

 その後ヤマギシズムに関心を持つ人も現れ、1960年代後半からは、全国学園紛争を経験した青年やコミューン志向の若者たちの参加者が増え続けた。そして、自家製の生産物を一般消費者に供給し始め、その品質を支持する人々を母体とした活動が全国的に広がっていった。
 
 また、新島淳良などの著名人が参画し、幸福学園を立ち上げ、教育や子育てに関して提言を行うようになり、楽園村運動や非認可のヤマギシズム学園(幼年部から大学部)を設立することになる。それに着目する学者、研究者も少なからず現れた。社会的に活躍していた三十代~六十代の人たちの、一家揃っての参画も目立つようになり、子どもを学園に送る親も増えていった。



 参画について、初期の頃はよくわからないが、私が知る限り次のような経過をたどる。

 何かの契機でヤマギシ会に関心をいだき、まず特別講習研鑽会(以下「特講」(その期間は1週間[7泊8日]で,一生に一度しか参加できない。)に参加し,そこに興味を覚える何かがあれば、次にヤマギシズム研鑽学校(以下「研鑽学校」)に2週間(14泊15日)入校し,ヤマギシズムとは何かをある程度体得し、共鳴する人は参画を希望する。

 参画申込書には,「私,及び私の家族は,最も正しいヤマギシズム生活を希望しますので,ヤマギシズム生活実顕地調正機関に参画申込み致します。」との記載,出資明細申込書には,「私は終生ヤマギシズム生活を希望しますので,下記の通りいっさいの人財・雑財を出資いたします。」との記載があり,誓約書の内容は次のようなものである。


【「誓約書」
 私は,此の度,最も正しくヤマギシズム生活を営むため,本調正機関に参画致します。ついては,左記物件,有形,無形財,及び権益の一切を,権利書,証書,添附の上,ヤマギシズム生活実顕地調正機関に無条件委任致します。
 一 本財
 身・命・知・能・力・技・実験資料の一切
 一 雑財
 田畑・山林・家・屋敷・不動産の一切
 現金・預金・借入金・有価証券・及び権益・位階・役職・職権等の一切
 一 しかる上は,権利主張・返還要求等,一切申しません。
 一 以後,私は調正機関の公意により行動し,物財は如何様に使用されても結構です。
 一 調正機関の指定する研鑽学校へは何時でも無期限入学致します。】


 その内容をじっくり読んでもらい、説明し、疑問を覚えて参画取り消しをしても一切返還しません、とはっきり伝えていた。その覚悟のうえで受け入れ可能と考えていた。
 その過程で、やめる人、こちらから断る人もいて、最終的に少なくなった。

 また、そこで参画に至らない人も、一定期間熟慮したり、家族と話し合いを重ねたりすることで再度研鑽学校に参加し参画を希望する人も多い。
 その後、参画受付けがあり、最終的に参画を許可される人は少なくなる。

 また、参画手続きをしたにもかかわらず、様々な事情でそのまま来ない人もいた。
 なお、参画取消して離脱した人にも、嫌がらせをしたり、特に何かをしたりはしない。

 ただ、道義的にもヤマギシ会の理想から考えても、ある程度そこで暮らしていた離脱者が新たな暮らしができるように配慮することは必要であり、課題があると思っている。
 
 ヤマギシ会とヤマギシズム実顕地は別の機関であることに注意する必要がある。
 特別講習研鑽会を経て、その趣旨に賛同した人がヤマギシ会会員であり、その中から、財布一つの「一体生活」をするために、家も財産も放して「参画」した人とその家族から構成される機構が初期の『百万羽』であり、後に生まれたヤマギシズム実顕地である。
 つまり、「参画」とは『百万羽』や「ヤマギシズム実顕地」の一員となることである。

 会員さんの中には、参画を希望する方も多くいたが、いろいろな事情でそこまでは至らない人もかなりいた。
 その中には参画者以上に実顕地のことを考えている方や魅力のある人もいて、その人たちによって、ヤマギシ会運動が支えられていた面もある。


 わたしは1990年前後からしばらく参画受付けの世話役をしていた。
 受付世話係は人事面と経営面に担当が分かれていて、私は人事面を担当していた。

 もっとも気をおいたのは、ヤマギシ会の理想に共鳴し、世間一般とは甚だ異質な無所有一体の暮らしをやっていこうとする意欲があるだろうかということ。

 私が参画したときは、新たな世界に飛びこむような境地もあり、意欲にあふれていた。同時期に参画した仲間にもそれは感じた。
 ある程度期間をかけ、熟慮したうえで参画に至るわけで、私のような独身者はかなり気楽だったとはいえ、共鳴して、ある種の希望をいだいて参画した。

 むろんそのような人もいたけれど、実顕地がある程度注目されていて、ここで暮らしたら何とかなるだろうとか、我が子をここで育てたいとか、中には駆け込み寺のように思っている人もいて、参画受付は厳かに進めた。

 割合すぐに特講などで感じたことと実際のことに疑問を覚え、見切りをつけた離脱者もかなりいるなか、そこで25年ほど暮らし、うすうす疑問を感じる時もあったが、何らかの遣り甲斐、可能性を感じていたからである。

 その後疑問を覚えて離脱したが、間違っていたこと、反省することは多々あるとしても、ある程度自分なりに考えていたので、そこにいたこと自体はあまり後悔するものはない。

 大人が実顕地に参画するときは、偏った情報であれ、状況は様々だが、大方は一人ひとりの熟考の末参画した。どこかの組織のように、強引にだまして連れてこられたというより、調べる期間が長くとってあり、それぞれが選択して参画してきた。

 ところが学園生の参画については、熟慮も何も、高等部をでたら参画するのが当たり前に扱っていた。そのように願っていた〈村人〉も多いのではないだろうか。

 ほとんどの子は親にともなって連れてこられたか、あるいは熱心な会員さんに勧められて学園生になった人たちである。

 一応参画の研修期間(2週間研鑽学校)を設けて、誓約書も読み、一人ひとりの意思を確かめてはいたが、娘によると、〈村人〉になる手続き、学園生活の延長ぐらいに思っていて、参画したとか取り消したという感覚が全くないそうである。

 私も参画受付を担当していたので、その経緯はある程度掴めているが、娘と同じような感じで手続きしていた人も多かったと思う。

 なかには、〈村〉を離れて、独自の道を歩んだ人もいるが、およそ8割近くの人が参画の手続きをしたのではないかと思っている。なお、娘と同期の人60人程のうち、現在も〈村〉で暮らしている人は2人だけだといっている。
          ☆
【参照】
 ※わたしが1975年に参画してまもなく、友人の裁判のこともあり北海道試験場から出稼ぎという形で首都圏の山岸建設に出向していたときがある。
 その時に一緒に暮らしていたメンバーに、後に宗教学者として著名になる島田裕巳氏がいた。氏はときおりヤマギシに関しても触れていて、その著もよく読んでいた。以下は2013年に発表したものである。

▼【ヤマギシ会はまだやっていた】島田裕巳 アゴラ編集部(2013年02月17日)
《ふと、ヤマギシ会はどうなっているのだろうかと気になった。ヤマギシ会は、日本で最大のコミューン、共同体であり、理想社会の実現をその組織の目的としてきた。創立は1953年のことで、ちょうど今年で60年になる。

 私は、大学時代にヤマギシ会に関心をもち、宗教学のゼミでの調査をきっかけに、近づき、その運動に共鳴して、メンバーになったことがあった。今から40年近く前のことである。ヤマギシ会の共同体で生活していた期間は7カ月と短かったものの、その後も、ヤマギシ会を出てきた人間たちが中心になった、共同体つくりの運動に参加し、そのあいだはヤマギシ会ともかかわりをもった。

 当時のヤマギシ会には、学生運動に参加した経験をもつ若い人間が多かった。ヤマギシ会は、1959年に「ヤマギシ会事件」を起こし、世間の注目を集めたが、それによって危険な団体とも見なされ、一時、運動は停滞した。ところが、学生運動崩れが多数参加することで、60年代の終わりから70年代のはじめにかけて、ユニークな運動体として注目を集めたのだった。

 ただ、当時は、急激にメンバーが増え、しかも出入りが激しかったことから、組織は安定せず、方向性も定まっていなかった。生活も貧しく、私が住んでいたところも、工事用のプレハブを安く買ってきたようなもので、冬の寒さをしのげるようなものではなかった。

 私が抜けた後、ヤマギシ会は、農業産業の方向へ大きく舵を切った。若いメンバーは、朝から晩まで熱心に働くようになる。そして、都会の主婦層から、ヤマギシ会の農場で生産される卵や鶏肉が自然で安全な食品ということで需要が生まれ、共同体の規模は拡大していった。

 とくに、日本がバブル経済に突入した80年代半ばから、農業産業としてヤマギシ会は大きく発展し、その勢いはバブルが弾けても衰えなかった。もっとも拡大した1998年の時点では、全国に39箇所の「実顕地」と呼ばれる共同体をもち、メンバーの数は4400人にも達した。毎年5月には、生産した食品をただで来場者に食べさせる「春まつり(名称は年によって散財まつり、タダのまつりなどに変わった)」を行い、そこには10万人もの人が訪れた。

 日本でも、農業の協同化の必要性が説かれ、それによって経済効率を高めていくことが不可欠だと言われてきたが、なかなかそれが実現しなかった。ヤマギシ会は、「無所有一体」という理念を掲げ、私的所有を否定して、メンバーに給与を与えない仕組みを作り上げることで、その課題に一つの答えを与えた。拡大の続いていた時代には、社会的に多くの注目を集め、マスメディアでもさかんに取り上げられた。

 ところが、急激な拡大はひずみも生む。ヤマギシ会の共同体のなかで、子どもに対する体罰が行われているなどとして日弁連などによる調査が行われ、その事実が明らかになることで、ヤマギシ会は社会から激しいバッシングを受けることとなった。それは、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こってから、それほど経っていない段階でのことで、ヤマギシ会はオウム真理教と同様に危険なカルトであると見なされたことも大きかった。

 国税局による税務調査で申告漏れが指摘されたり、脱会者が次々と告発本を出したことも大きく影響した。それによって、ヤマギシ会は大打撃を受け、生産している食品が売れなくなるという事態に直面した。こうしたヤマギシ会の盛衰について、私は『無欲のすすめ』(角川oneテーマ21)という本に書いたこともある。

 大きく発展していたり、事件性があれば取り上げられるが、バッシング後のヤマギシ会については、ほとんど報道がなされなくなり、社会的な注目を集めることもなくなった。私のところにも情報が入らなくなっていた。それで、ふと、ヤマギシ会のことが気になったのである。

 その後、たまたまヤマギシ会のメンバーと会う機会があり、現状について尋ねてみたところ、この3月にヤマギシ会の現状を含めて紹介した本が出ることを教えられた。それは、村岡到氏の著作『ユートピアの模索―ヤマギシ会の到達点』(ロゴス社)という本である。著者は社会主義者で、その観点から、ヤマギシ会の歴史と現状、そしてその意義について論じている。

 この本を見ると、ヤマギシ会の規模は最盛期の半分程度になったものの、依然として農業産業として健在であることが分かった。『週刊東洋経済』が昨年「農業で稼ぐ」(7月28日号)という特集を組んだとき、農事組合法人のランキングを載せていたが、ヤマギシ会の豊里実顕地(ヤマギシズム生活豊里実顕地農事組合法人)は第2位にランクされていた。しかも、もう一つの拠点である春日山実顕地(ヤマギシズム春日農事組合法人)もランクインしており、両者を合わせれば、ヤマギシ会は日本一の農事組合法人である。

 ヤマギシ会の現状について評価を下すには、その実態を見定める必要はあるだろう。しかし、ヤマギシ会が農業ということを核にすえていることは、組織としての最大の強みである。最近では、実顕地で行われる「朝市」なるものに一般の人たちが集まるようにもなってきているらしい。ネットショップも開いており、ヤマギシ会と社会とは食品を通してつながっている。

 ヤマギシ会に入ったメンバーは、私のように脱退しなければ、生涯実顕地のなかで生活する。80歳になると、「老蘇」というグループのなかで悠々自適の生活を送るようになる。そこには、老後の不安はない。さまざまな点で、私たちは今一度、ヤマギシ会のあり方に注目する必要があるのかもしれない。
(島田 裕巳 宗教学者、文筆家 島田裕巳の「経堂日記」)》