〇前のブログで次のように書いた。
〈1976年になって、中央試験場は春日山実顕地、北海道試験場は別海実顕地の名称になり、実顕地本庁のもとに一本化されるようになり、試験場機能は衰えていく。
これはヤマギシ会の歴史における、大きな転換点の一つで、これ以後、研究機能や組織の在り方を考える検証機能は急激に衰えていく。〉
それについて思うことを述べる。
まず以前のブログで、実顕地調正機関に一本化され、山岸巳代蔵が描いた試験場機能が衰退していくことに触れた記録がある。
【ヤマギシズム実顕地について思うこと】から、その一部を抜粋する。
▼(山岸巳代蔵は)生涯に亘って試験・研究、ときには試行・錯誤の連続生活だったと思います。資質としてどこまでも試験・研究の人であったと思います。青年時の偶発的な出来事からはじまる養鶏業時代から、伊勢湾台風で和田義一に見出され引き出される出会いから、やがて山岸会創設となり、「争いがなく、ひとりも不幸な人のない社会」という遠大な目標を掲げ、「特講」開設、『百万羽』展開、柔和子との取り組み(柔和子というそれに耐え得るような伴侶を得て)など、壮大な実験・研究をたゆまず続けました。
1961年になって、山岸巳代蔵の思想や山岸会の運動に共鳴した人たちの中から、実顕地が誕生することになります。これは私の見解になりますが、実顕地造成に伴い、山岸は四大機関によるヤマギシズム運動の展開という構想を描きました。すなわち、自分の観念にとらわれず自信のないお互いになってどこまでも「けんさん」のできる人になる研鑽学校、あらゆる角度から実験・研究を繰り広げ様々な方法を探求する試験場、金の要らない楽しい村で暮らす顕現体としての実顕地、そして、ヤマギシズムを広く知らせる山岸会活動。この四機関は相互に重なりながらも、他に置き換えることの出来ない独自の活動目標があり、横一列の関係で、それぞれの機関が充実してこそ、ヤマギシズム運動が展開していくと考えたと思います。
山岸自身は、その構想の実現に向けて身体の衰弱にもかかわらず、体力の許す限り各種の研鑽会に出席していましたが、これからという局面の1961年5月、59歳のときに亡くなることになります。その構想を受けて、主に山岸の身近にいた人たちによりヤマギシズム運動が展開します。
1958年の『百万羽』の設立から始まった参画者は、1961年4月に、参画者の本財(人)及び雑財を調正する機関としてヤマギシズム生活調正機関が発足しました。私は1975年北海道試験場での研鑽学校受講後すぐに参画しました。その時に試験場の総務の方から、革命を目指すなら中央調正機関に、実顕地で仲良く楽しく暮らす方を選ぶなら実顕地本庁に参画手続きをするようにとの説明があり、中央調正機関に参画して北海道試験場に配置になりました。その後一年も経たないうちに、参画者の受け入れは実顕地本庁に一本化されました。この辺りの動きは、参画したての私には皆目わからなかったです。
そのような流れのなかで、試験場や研鑽学校の機能が実顕地造りの傘下におかれるようになりました。このことが良くも悪くも山岸の構想とは違ったものになっていったと思います。本来すべての事柄、人々に対応するべく世界に開かれた試験場、研鑽学校が、実顕地が栄えるためのもの、現実顕地の体制にふさわしい人になるためのものとなっていき、実顕地の各機構や運営も実顕地の基盤がより強固になることに力を入れるようになっていったと思います。1976年12月には北海道試験場(北試)は別海実顕地となり、1961年3月に春日山実験地から名称変更したヤマギシズム世界実顕中央試験場は春日山実顕地に変わりました。
その後次第に、試験場機能は乏しいものになっていったと思います。養鶏部門をはじめ産業部門で、何人かは熱心に取り組んでいたようですが、全体の気風としては、山岸が描いた本来のあり方からすると中途半端なものになっていったと思います。1991年になって、本来の体制にするため、改めてヤマギシズム世界実顕中央試験場発足となり、その後案内板なども設置されましたが、はかばかしい動きにはならなかったと思います。
山岸没後から私が参画した1975年ぐらいまでは、一部に注目している人はありましたが、社会一般的にはそれほど知られていなく、農業を基盤とした自給自足的な生活形態で、経済的な基盤も整っていなかったです。そこでまず、実顕地造成における足元からの基盤づくり、特に生産物拡大など経済的な面に力を入れたのではないかと思います。
1960年代後半から様々な分野からの青年たちの参画者が増えてきて、1973年末からはじまった生産物供給が軌道に乗りはじめ、楽園村運動などで注目されるにつれて参画者が増え続け、組織も大きくなっていき、経済的な基盤も強固になっていきました。それに伴って、研鑽会、機関誌、各種通信物などで村人の意識を高めていくようなことも活発になっていきました。
それと同時に、実顕地の組織と運営も一人ひとりの自由意志力による総和というよりも、管理維持的な要素や能率的な面が色濃く出てくるようになり、特定の力のある人が運営面において影響力を発揮するようになりました。また、村人たちの多くも、その人たちに委ねるというような傾向もありました。
組織の規模が大きくになるにつれて、管理的なシステムを整えていくことは欠かせないと思います。そのために「自動解任」「長を置かない」「総意運営」「私意尊重公意行」など、不完全な個人による支配や固定化しない組織・運営のあり方として考え出されたものです。しかし、真摯に自覚する人もいましたが、指導的立場の人の固定化もあり、一人一人の自律的な「けんさん」によるものというより、むしろ一部の特定の人たちによる他律的、操作的調整という面もあり、本来のねらいから逸脱した形骸化したものになっていきました。
研鑽会も各種開催されていましたが、一人一人の可能性や「けんさん」する力を培い育てるという面もなくはなかったですが、実顕地や各専門部署のあり方の体得といったような意味合いも強かったと思います。
私自身も村人たちもそれぞれの役割に専念していれば、実顕地が益々栄えるというような、思い込みを抱いていた人も多かったのではないかと思います。結局,力点が「われ、ひとと共に繁栄せん」から「われ、実顕地と共に繁栄せん」に変わっていったように思います。
☆
組織は人の集まりであり、当然考え方も違いがある。意見の相違点や別の価値観も生まれる。その違いが組織を動かせる大きなエネルギーになることがある。
それなりに信頼されている会社などには監査役がいて、大きく内部監査と外部監査がある。内部検査にあたる人は、あくまでも「第三者」としての独立した立場に立つことが求められる。そのため、特定の部門での権限を持っておらず、組織的にも精神的にも客観性を保てる人材が選ばれることが多い。
一方、外部監査は組織とは利害関係のない外部の専門家によって行われるものであり、一定規模の企業では実施が義務付けられている。また、会社の事情をよく知らない外部の人間が行うため、より客観的な評価がしやすいというメリットがある。
上記のことは、会社の場合も大事だが、ある程度の規模を抱えた組織には欠かせないと思う。独特の理想を掲げた実顕地のようなところは、監査役に限らず、その在り方や方向性について見直ししていく研究機能や検証機能は特に大事になる。
その意味合いにおいて、初期の頃、試験場や研鑽学校を実顕地とは別の独立した機関としたのは卓見だと思う。
試験場で試験研究されたその時々の最先端をたえず実施する機関とされた実顕地も、当初は各地に顔の見える範囲のこじんまりしたで集団で、その構成員の「けんさん」というか「話し合い」によって運営されていた。実質どこまでやれていたのは分からないが。
次のことを思う。
実際に活動している人たちと距離を置いた別の人、グループがあり、そこで「果たしてそれでいいのか、方向性はどうなのか」との検証機構がいるのではないか。
実顕地本庁のもとに一本化してから、実際に中心になって実顕地を推進している一部の人たちが、その必要性を考えたとしても、限界があるのは当然である。
ここでは一例として「ヤマギシ」にとって基幹となる養鶏に関して、養鶏にも携わったこともある吉田光男さんの記録があり、それを紹介する。
〈実顕地急成長時代の経営重視の中で、試験場は無くなり、研鑽学校も実顕地に吸収され、ヤマギシズム社会構成の3機関が、実顕地一つに統合されてしまった。
このように、試験場が無くなり本庁養鶏部に一本化されることによって、経営だけが重要視され、飼育に関する技術的な検討、研究、試験が行われなくなり、飼育者は日常作業を通じて感じた疑問や感想を深める機会が無くなってしまった。
ただ、技術的な疑問や考えを個人レベルで解決しようと思っても、それは思い付きの範囲を越えるものではないし、かえって混乱を招くだけだと思う。今それだけの人材がそろうかどうかは別として、試験研究に関心のある人が3人以上寄って、実顕地から一切の制約を受けない飼育試験に取り掛かれるとしたら、試験場再興への足掛かりが得られるのではないかと思ったりする。〉(連載『わくらばの記』(13)より)
しかも、実顕地本庁のもとに一本化した上に、それを担う人が特定の人たちに固定化された。
その頃、海外の実顕地に行った人が、どこの実顕地に行っても、特定の人が推進している豊里実顕地がモデルになり、肝心のところが金太郎飴のような一律さを覚えると言っていた。
実顕地を本庁のもとに強力に一本化するというのは、「管理、効率、合理化」などには、一見都合のいいもののようだが、「親亀こけたら、みなこけた」になりかねないもので、危ういものでもある。
「けんさん」を、運営の生命線とする実顕地生活において、「果たしてそれでいいのか、方向性はどうなのか」などの検証機構や試験・研究機能が、実顕地から制約を受けない機能として働いていなかったのは、当時の実顕地がおかしくなっていった一つの大きな要因と思う。
「付記」
1998年11月、大きな影響力を持っていたS氏が亡くなり、同時期に定期的に開催されていた研鑽会で、現実顕地のしていることはおかしいのではないかと、今の実顕地を根底からつくりかえねばならないという強い要望がある一方、今の実顕地のよさを守りながら、徐々に変えていこうというような人たちも出てくる。
1999年3月、実顕地から試験場、研鑽学校を切り離しそこ独自の活動をするための数名の新配置がある。わたしは研鑽学校配置となる。
その後、研鑽会で今の実顕地を否定するような動きが活性化し、そこに「村から街へ」行った人も参加し、その動きに共鳴する人も増えていった。そして、現実顕地を否定する研鑽会はよそでやってくれとなり、多くの人が実顕地を離脱し、鈴鹿市などへ行った。
※その経緯は当ブログ「◎2000年の実顕地からの大量離脱について①②」に記録した。