〇山岸巳代蔵の思想の根を簡潔に表現すれば次の数語になると私は考えている。
〝共存共生の世界〟
〝だれのものでもない〟
〝だれが用いてもよい〟
〝最も相合うお互いを生かし合う世界〟
これは1960・1・30の日付となっている『正解ヤマギシズム全輯』草稿の「正解ヤマギシズム刊行に当たりて」にある言葉である。山岸が1959年7月の山岸会事件以後、警察に出頭する1960年4月までの間に書き綴ったもので、すべてが草稿段階のものであり、生前には発表されなかった。
初期の頃のヤマギシの生活体、「村」づくりに、「特講」を経て思えた〈われ、ひとと共に繁栄せん〉や〈だれのものでもない〉が息づいていたと思っている。
〈だれのものでもない〉の意味するものは誰でもわかる平易な表現で、ことさら取り上げることでもないと思うが、特講の所有など研鑽して、ものの本来のあり方を観ていくと、どのようなものでも、自分の思いがどうあろうとも、この世界のすべて「だれのものともいえない」となっていき、特に印象に残る言葉となる。
〈だれのものでもない〉を突き詰めて考えていくと無所有、無我執につながっていく。
〈共存共生の世界、だれのものでもない、だれが用いてもよい、最も相合うお互いを生かし合う世界〉から、これまで触れてきた現ヤマギシズム実顕地の財布一つの「無所有共用共活」の仕組み及びそれに付随する「終生生活保障」のシステムが生み出されていったと私は思っている。
それと、無所有、無我執などの理念を、論理的に突き詰めていくよりも、参画するに際しての特講、その後の「村」の実状に触れて、身体的な実感を得ることの体験が大きい。そのときに、〈だれのものでもない〉が参画者の意識下に「言霊」のような働きをしていたのではないだろうか。
村人一人ひとりをみたら、どの理念も曖昧な人が多いかと思うが、これは弱みでもあるし、強みでもある。知ることと骨身に沁みることには大きな溝がある。
日常的に体験する、基本的な食べることをはじめ、共用共活の生活形態の中で、《村では、衣食住すべてはタダである。無代償である。------誰のものでもない、誰が使ってもよいのである。みなタダで自由に使うことが出来る。〉など無所有の考え方が、理念の積み重ねではなく、生活実感から覚えた人も多いかと思う。
1961に始まった実顕地とは、中央試験場などで試験研究されたヤマギシズムの考え方・具現方式を実際に顕す地ということである。つまり実顕地は完成されたものでも独立したものでもなく、試験研究されたその時々の最先端をたえず実施することによって、ヤマギシズム社会へ進む前進無固定の社会構成の一機関と構想されている。
それは、いくら理念を説き、研鑽を重ねても、どうも分からない、通じないという人にも、目に見える形で本物を示して、「ああ、これだったのか」と誰もがじかに触れて分かる、生き方の提案であった。
ところが1976年になって、中央試験場は春日山実顕地、北海道試験場は別海実顕地の名称になり、実顕地本庁のもとに一本化されるようになり、試験場機能は衰えていく。
これはヤマギシ会の歴史における、大きな転換点の一つで、これ以後、研究機能や組織の在り方を考える検証機能は急激に衰えていく。
「だれのものでもない」については問題ないが、「だれが用いてもよい」については、さまざま工夫がいり、「私意尊重公意行」「自動解任」や「提案と調正」など機構と運営の柱とされてきたが、徐々に「研鑽運営方式」とともに形骸化してきた。
(※この辺は大事なことなので稿を改めて触れていく)
それでもいろいろ課題はあるが、「無所有共用共活」の仕組み及びそれに付随する「終生生活保障」のシステムは今でも続いているのではないだろうか。
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参照:二つの資料から
▼鶴見俊輔は「ヤマギシカイ」の中心には、山岸巳代蔵の「ダレノモノデモナイ」という理念が生きている。として全集二巻に「ヤマギシズムの可能性」という文章を寄稿している。
《ヤマギシズムの可能性
《ダレノモノデモナイ」
人間というのは、〝私〟そのものが一個の箱の中の自我というものではないわけで、自分の中に社会があって複合なんです。〝私〟なんてよく考えてみれば分からないでしょ。つまり、自分の顔を自分のものだと思っているけど、実は自分の顔は自分のものじゃないんですよ。自分の顔は自分が見たことないんですから。鏡に映るのは左右逆なんですよ。ちがうんですよ。だから自分の顔を知っているのは他人なんです。だから自分そのものは誰のものでもないんですよ。
だけどね、いろんな約束がありまして、自分ということが〝ある〟としておいて、法律なんかをつくるのはとても便利で、それはそれでなかなかいいところがあるんですよ。それを完全に否定してルールをつくれるとは思えないんです。〝ある〟というのは一種の虚構なんですよ。〝ある〟として、いろんなものが作られていく。だけど〝ある〟っていうのが究極かというとそうでもないんだ。
それに、誰のものでもないという領域は常に人間の中に昔からあって、農業になるといくらか所有が出てくるけれども、山から枯木でも採ってこなければ煮炊きなんかできないんだから、誰のものでもないという共有地というものはあったでしょう。これは入会権の問題なんだけれど、中世にも近代にもあったということから逆に掘り起していって、今も、誰のものでもない領域を大切にしようという動きがある。これは日本史でいえばまったく新しい領域なんですよ。あらゆるものを誰かのものとしてきちんと区画していくという考え方から離れていく。
ヤマギシ会が中心の観念として「ダレノモノデモナイ」という考えを置いたってことは、なるほどと思いましたね。いま新しく開拓されている日本史の道と響き合うものがある。まったく前衛的な道なんですよ。》
▼作家・小沢信男は朝日夕刊の文化欄に、「一語一会 だれのものでもない」というタイトルで、特講に参加したときの様子と自分の特講に対する印象を次のように書いている。
《「たしか東京オリンピックのあった年だから、三十七年も昔のこと、山岸会の特別講習会に私は参加した。農業を基盤とする山間の共同体に、一週間泊り込んだのだった。洗面所の歯磨きチューブを置いた棚に、こんな小さな張り紙があった。『だれのものでもない』。なんだいこれは。いかに無所有社会とはいえ朝からお説教かい、反発をおぼえたが、そのうちこれが可笑しみになった。だれのものでもない歯磨きチューブから、朝ごとに必要量を消費して、口のまわりを白くしながらニヤニヤ笑えた。現にいまでもこうして思い出せば、愉快をおぼえる。あの小さな張り紙だけでも私はなつかしい里だ。一週間のうち、初めの三日は腹を立てていた。徹夜で討議したはてに、最初の答えと同じ結論になったりする。あいにく私は町場育ちで気が短い。が、根は愚鈍につき、ようやく気づいた。目から鼻へ抜けるのが理解ではないのだな。だれのものでもないとは、私有の否定だけではなくて、共有でもないのだな。たとえばの話、地球の皮、太初このかたこの地べたが、ほんらいだれかのものであるはずがない。と思えば胸がせいせいしませんか。その私有を忽ち正当化する理論があるならば、眉に唾をつけておこう。私有を廃して国有にしてみても、しょせん五十歩百歩だったという実験にも八十年はかかるのだものね。人間の命もまた、国家や組織や会社なんかに所有されるものではない。とは、こんにちだいぶ自明の理になってきた」
(朝日新聞夕刊2001年8月1日付)》