広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎「優柔不断」の人として(新・山岸巳代蔵伝②)

第一章 理想は方法によって実現し得る

3 優柔不断が本当
 先の「子供の時分を想い出して」の文中に、熟慮断行と優柔不断について述べている。そこに、「少年期に一見優柔不断に見えるような恥ずかしがりであったらしいが、熟慮断行の人になろうとしていた」とある。

 人には、成長、年齢、時代の状況などにより、見方、考え方の変化していく面と、一貫して変わらないものがある。
 山岸巳代蔵の変化したことの一つとして、熟慮断行の人から優柔不断の人への変化、あるいは優柔不断の強調をあげることができる。
(※山岸生没一九〇一年八月~一九六一年五月)

 山岸(以下山岸巳代蔵、幸福会ヤマギシ会などは「ヤマギシ」と表記する。)の晩年は「優柔不断が本当」とよく言っていたようだ。

 一九六一年五月三日、山岸が実顕地造りを模索していた岡山県興除村での「一体高度研鑽会」に出席していた夕方に変調をきたし、そのまま帰らぬ人となった。
 そのときの記録は次のようになっている。

《「一体が本当で、なれないというものは何か、どっちかに邪魔してるの。で、何か方法をもってすれば簡単にいけるもので、心も大事やけど、仕組みも大事。この実顕地というか、一体生活の正常なあり方になるために、いっぺんにいけるとせずに、あまりにも永年人間の間に妙なものが蟠踞してるので、一発にいかんので、現象界と違って心の中はなかなかなので、先ず仲良くで、気の揃った者が寄って、まず始めて、そこで仕組みを考えて、本当に仲良くならないとどうにもならないという方法を以てすれば、元の姿に帰ってやれる。仕組みと方法が今まで出来てなかった」

 などの山岸の発言があり、引き続き会話が進み、山岸に対する柔和子の
「ものすごく押し付けに聞こえ、永い間厳しく感じたが、今になると、これほど頼りない人はないね。今ここで話を決めてると、次の人と会うと『ああ、これよいな』、また次に『これよいな』と変わって、気にいらなんだ。優柔不断だと決めつけて、幕を持って見てたが、それに「全人のためにこれを」と思ってたが、まあ頼りないもので、この頃、『優柔不断が本当』という言葉で言うように、頼りないというか、全然自分の考えを固持しない人」
 との発言がある。

 そして最後に、
 柔和子:「結局十人の中で研鑽できない人があるとすると、私自身、その人も迷惑がってついていかんくらいに思っているから、「その人を退けて出したらよいのやないか」というものが私には出てくるが、それを先生は根気よいというか、どんなにしてもそれを退けようとされん。「どの人もなれるのが本当やないか、その原因を取り除こう」と、その方を究明してられるので、私らとはずいぶん違うなと思ってるの。」

 山岸:「(山本)英清さんという人が、去年の秋頃か、「私はもうちょいと賢いと思っていた」と言ったが、あれから楽やったわ。
 ああ、あかんの、頭痛くなってきた。」(山岸横になる)
(小休 十七時三〇分)

 この直後、山岸変調となり、医者を呼ぶ。
 この後、山岸は床につき、ときどき意識を回復して、
「本当の本当は通じないままに死んでしまうのかな」
「みんな好きや、仲良ういこうな」等の言葉を遺し、
 五月四日午前零時五十分、くも膜下出血により、死去。享年五九歳だった。》
(「岡山一体高度研鑽会の記録」)


「ヤマギシズム実顕地」構想について、山岸会事件以後しばらく途絶えていた機関紙として、一九六一年四月から発行されはじめた『ヤマギシズム』の最初の号の「意見の広場」欄に、山岸自ら「ヤマギシズム実顕地の造成を」の意見を寄せている。
 そのはじめに、「優柔不断が本当」と小さな字で添えられている。
(『ヤマギシズム』「意見の広場」※全集には何らかの原因でその部分は載っていない)


 山岸巳代蔵五二歳の一九五三年に山岸会が発足し、それに関心を持つ人が増えてきつつある翌年「『ヤマギシズム社会の実態』」が発表された。


 これは、山岸が今の段階でこのように考えているというのをわずか一〇日余りで書き上げたといわれている。この私案は(本稿未完)になっている。

 山岸の著作の主だったものは運動初期の第一回特講以前と、山岸晩年の一九五九年九月以後に集中している。この晩年の到達点が、後の実顕地造成につながっていく。


 ヤマギシ会創設以後、めまぐるしく動く運動の渦中にあったが、熱湯事件や山岸会事件、数々の失敗などを経て、じっくり思索・検証できる時間がとれるようになり、「正解ヤマギシズム全輯」の著述をはじめるようになる。

 一九六〇年二月に、『盲信』について考えることで、一つの大きな転機となったようだ。

 この「盲信」の研鑽後、自信のもてない自分になる(優柔不断)→自分の観念にとらわれない(無我執)→どこまでも検べ続けていく(けんさん)→自信のもてないお互い同士で補い合って(仲良し)→そのようなお互いになってこそ、どこまでも探り究めていくことができる(研鑽会)、そのことで本質的なものを実現していけるのではないだろうか、その連続と、これまで考え続けていたことが一直線につながっていく。

 これ以後は、何より先ず自分自身に対する「我執の抹殺」へのあくなき追求に向かっていき、それが晩年によく言っていたという「優柔不断が本当」という言葉に現われてくる。

 また「自信のない人になる」というような表現もよく出てくる。紆余曲折がありながらも、生涯に亘って無固定前進の生き方だったのではないかと考えている。

 そのことと繋がるが、生涯に亘って試験・研究、ときには試行・錯誤の連続生活だったと思う。資質としてどこまでも試験・研究の人であったと考えている。

 青年時の偶発的な出来事からはじまる養鶏業時代から、伊勢湾台風で和田義一に見出され引き出される出会いから、やがて山岸会創設となり、「争いがなく、ひとりも不幸な人のない社会」という遠大な目標を掲げ、特講開設、『百万羽』展開、柔和子との取り組み(柔和子というそれに耐え得るような伴侶を得て)など、壮大な実験・研究をたゆまず続けた。

 山岸は一九六一年五九歳の時に亡くなる。この八年間に、一貫変わらない考え方と、年とともに大きく変化していく見解もかなりある。私は「優柔不断」を言い続けた晩年の巳代蔵にとても関心がある。




 吉田光男さんは優柔不断について次のように語っている。
《人間は弱いものであり、頼りないものである。それを自覚したときに、人の前には二つの道が開けている。弱く頼りないものだからこそ強いもの、絶対的なものにすがって生きようとする道、ここから宗教・信仰、あるいは信仰的権威への依存が始まる。もう一つの道は、弱く頼りないものであることの自覚の上に、だからこそどんな権威にも頼らず、自分たちの不確かな知恵を持ち寄って研鑽し、より良くより正しからん方向を模索しながら歩むことである。ヤマギシはこの後者の道を歩もうとするものだ。だからこそ山岸さんは、〈自信のない生き方〉を大切にし、自らを〈優柔不断〉と言ったのだと思う。》(『わくらばの記』15)


 山岸巳代蔵が提示した〈けんさん〉は、『何事も慎重によくよく考え、一応の結論が出て、どんなに優れたものに違いないと思えても、そうでないかもしれない可能性に配慮するもので、何処までも絶え間なく「やさしくものやわらか」に問い続けるもの』と、わたしは考えている。

 つまり、問い続ける〈けんさん〉ベースには「優柔不断」があり、山岸は、特に「盲信」研以後よく言っていたのではないだろうか。

※「岩波広辞苑」から
【優柔不断】ぐずぐずして物事の決断のにぶいこと
【優柔】①やさしくものやわらかなこと。②物事に煮えきらないこと。
【不断】➀絶え間の無いこと。②決断の鈍いこと。
【熟慮断行】よくよく考えたうえで思い切って実行すること。
【熟慮】十分に思いめぐらすこと。
【断行】反対や不利な条件を押し切って、きっぱりと行うこと。

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※「引用文献」
・「岡山一体高度研鑽会の記録」→『全集・第四巻』(一九六一年五月)
・『ヤマギシズム』八八号「意見の広場」→『全集・第四巻』(一九六一年四月)
・『盲信』「喜びの感想」→『全集・第七巻』(一九六〇年二月)
・吉田光男『わくらばの記』(15)→ブログ「広場・ヤマギシズム」(2018-12-04)