広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

元学園親との対話から(福井正之記録⑩)

※「元学園親との対話から」は、2013年に記録した【<ヤマギシ学育>って何だったの?】の中で記述したものである。

 内容は、①<自責の念>のその先、②<事実としての被害>と自己責任、③わが子との対話から始まる。となっている。

 この論考は学園親からの声をはさみながら記録したものである。

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◎元学園親との対話から
〇はじめに       
《幼年3期の阿山でお世話になりました。あれからもうかれこれ26年です!!写真は、去年の秋に前撮り(結婚式の)で撮ったものです。

長男(阿山の3期)も一昨年に子供ができて私たち夫婦にも孫ができました。子供たちはみんな元気にたくましく育っています。》

このようなメールをいただき、私も感無量な思いになります。それぐらいの時間が経過されれば当たり前すぎることかもしれませんが、私は元幼年部生に対しては<今浦島爺さん>の感覚です。そして「子供たちはみんな元気にたくましく育っています」に何よりも深い安堵と喜びを覚えます。そこにはこれまでいろんなことがおありになったでしょうに。

いったいあれはなんだったの? というジッケンチへの疑念から始まったモノロ-グを10年以上経ってから、ようやっとダイアロ-グにきりかえようという気になってきました。何とか私なりに考え方や気持ちの面で整理がついてきたということでしょうか。それも私がかつて<しでかした>事態に対しずっと責任を感じてきた学園親ごさん(とそのお子さん)に対して。それは自責の念ということですし、申し訳なかったという思いともいえます。ともかくあまりにも遅すぎるとは思うのですが。

名簿・資料等も散逸した現状なので思い立ってfacebookで探してみました。そこで見つけた何人かの元幼年部親との交信がはじまりでした。そこで巻頭のようなメールが返ってきたのです。しかし私はまだまだ安堵できないと思いました。始まったばかりです。どのような内容が届けられるか分らないし、また思い屈して何も答えようのない親もいるかもしれないのです。

私の自責の念とは、まず学園に送られてきた子どもらの育ちへの危惧でした。たしかにそこに何らかの過誤があったとは直接聞いたことはありませんし、自らそれを追跡調査し確認したわけでもありません。ただ間に母子分離やそのトラウマについての危惧情報がありました。またあの「あひるの子」(幼年部出発生が幼年部を題材に製作したドキュメンタリー)において、幼年部に送られる恐怖がトラウマとなって潜在してきたという表現、さらにそこに登場した元幼年部生の必ずしも明るくはない幼年部時代の記憶など、決してプラス情報ばかりでないことが暗示されていたのです。

さらにその自責の念は学園親にも向けられます。すなわち子どもの幼年部入学以降、親たち自身が学園の母体であるジッケンチに大量に参画してきたからです。それが彼らの幸福につながったのかどうか改めて聞いてみたこともありません。さらにそれのみか、その後わずか十年~数年にして、ジッケンチ大激動の影響を受けて、そこを離れた親たちも相当数いたのです。

この何というのか、普通の転職や引っ越しとはわけがちがいます。かれらは普通の人であれば、一度ならずは体験するであろう挫折や蹉跌を二重三重にわたってくりかえす、人生の軌道修正に奔走せざるをえなかったです。それは私も似たような境遇で奔走しましたから、その心情はよくわかるつもりでしたが、自分からはどうすることもできませんでした。

ともあれ子どもらへの心配は少なかったとしても(高学年、特に中等部ついては問題情報は少なくないようです)、この幼年部入学がなければ親たちは参画しなかったでしょうし、またその後の人生の蹉跌を招くこともなかったでしょう。

それは理想主義的な運動に必ずやつきまとうリスクとして(ある意味ではだれもがそれを覚悟して参加した)評価の難しい分野かもしれません。しかしそれはあるよりはない方がよく、多いよりは少ない方がいいのです。したがってそこに<まちがいごと>と考えられる部分が必ずやあるはずです。

そこに私という存在が (あるいはジッケンチの全機構が) 確実に関与していたことを忘れるわけにはいきません。私は子どもを通じてその親たちの人生を狂わせた(かもしれない)存在だったのです。その自責の思いを公表させていただくことで、いくばくかのご苦言やご批判をいただければ、それが事の真相をいくらかは明らかにしうるのではないでしょうか。

あのジッケンチの大激動に至る事実・実態・真相について責任あった当事者は今も沈黙を貫いているようです。学園関係についても同様な状況でしょう。やはり学園親たちのわが子を介しての親情あふるる発言・感想こそ、ヤマギシズム学園の全貌を明らかにするものだと考えます。  (2013/6/2)

①<自責の念>のその先  
 例えばa さんより次のような返信がありました。
《福井さんから直接連絡が来るとは思ってもみなかったので驚いたのと、懐かしくてとても嬉しかったです。
 自責の思いを抱きながら過ごしてきたとの事、また謝罪したいとの事、福井さんのホームページを拝見してお気持はお察し致しますが、僕は福井さんにも誰にも何の恨みも持っていませんのでどうぞお気になさいませんように。

 ただしかし、そう言われると、実は自分自身も参画して村人として特講や研鑽学校、高等部中等部の世話係を通じて、影響力の大小は別にしても、学園生やいわゆる外の人への人生に影響を与えたかと思うと申し訳ない気持になっていました。
 また、自分の子供に対しても幼年部の一年間は果たして良かったのかどうか、その後参画して子供たち三人は村の子として親から離れて暮らしたけれども、それが良かったのかどうか、もし参画しないで一般社会で暮らしていたらどうなっただろうと後悔のような気持がわき起こる事もあります。
僕は自分の気持を文や言葉で言い表すのがヘタなのでうまく伝えられませんが、機会があってお話しできることがあれば嬉しいです。

facebookの「友達申請」をなさらないのは福井さんの考えがあってのことでしょうから、こちらのメールアドレスに返信させていただきました。》

最後の部分から釈明させてもらえるならば、私はあの林立するfacebookの「友達になります」オンパレードに当初から不気味な違和感を抱いてきました。したがって、今元幼年部親に対しようとする自分の立ち位置が、とうてい「友達になる」という感覚ではなかったということです。

ところでこの「僕は福井さんにも誰にも何の恨みも持っていませんのでどうぞお気になさいませんように」ということです。それはそれで私としては積年の苦渋を安堵させうるありがたい反応でした。と同時にこれは何か私の方の投げかけに、はっきりしないものがあるのではないかとも考えさせられました。

つまり私が<誰に対し、何を、なぜ謝罪するのか>という論理が、<自責><謝罪>という心情だけでは見えにくくさせ、逆にしごく当然な心情的反応を返していただいたということになりはすまいか。これはどこかaさんの気持ちを逆なでするような捉え方かもしれません。しかし少し考えてみればこれはいわば当然なことで、いわゆる俗に事の真相が明らかにされ、公認された責任者や<犯人>が謝罪の意を表わしているという段階まで至っていません。

私の方の一方的で未だ実証不充分な、したがって心情的な要素が少なくない推定<有罪>の告白に対し、そうしか返しようのないご返事だったと思います。そして実際私がその投げかけに託したものは<有罪><無罪>の判定よりは、「いったい学園とは何だったのか?」という問いかけです。その自分への問いかけの部分はhpで記した通りですが、「申し訳ありませんが、これではまだまだ足りません。それぞれの場からのお考えをどうかお聞かせ、お寄せください」となります。

もっともだからといって私の<自責><謝罪>という心情にはウソはないつもりです。少なくとも多くの学園親御さんたちには(自分も含め)まったく想定外の事態に導いてしまった当事者の一人であったという自覚は失うつもりはありません。昨今の震災事故のように、想定外であったから責任を免れるというわけにはいかないでしょう。

そしてaさんは、そのことを慮ったかのように即、自分自身の参画後の実顕地での役割について、思い返していただいているのです。さらにお子さんの育ちについてもあれでよかったのかどうかと。それはおそらくこれまでもaさんの心中において幾度か去来した自問自答であり、御夫婦、親子の間で何気なく交わされたやり取りの端々に漂った問いかけであったでしょう。これは内容は多少異なるとはいえ、私自身の心中や家族の会話の中でのやり取り、問いかけでもありました。

そこであらためて、というわけでもないのですが、この問いかけの範囲を自分・家族から、その少しばかり周辺へと広げていける機会にできないかというのが、私のねがいです。たしかに

「子どもらの育ちはあれでよかったのだろうか?」
「参画しないで一般社会で暮らしていたらどうなっていただろうか?」
という問いかけは今さら変更不能な事実への無用な繰り言のようにも見えます。 

しかしそうでしょうか。私はこの繰り言から、自分の人生とは? 我とは? 仕事とは? 家族とは? 理想とは?・・・などと埒もないことを10年も自問自答してきました。いい加減切り上げて今、現実の必要事に集中した方がずっと正常で健康的です。またそうしないと稼ぎに追いつくことができません。とはいえその自問自答が決着せず中断し、抑え込んだとしても、いつかはまた蘇ってくることもある のではないでしょうか。

私はこのaさんとつい最近、お会いしてお話しができました。互いに懐かしいという思いもあったでしょうが、あの噴き出るような会話がいつまでたっても尽きないような気がしました。いいかえればお互い言いたいこと確かめてみたいことが山のようにあったということなのです。

そのような機会を少しずつ作りながら、その様子も可能な限り報告していきたいと思っています。
(2013/6/5)

②<事実としての被害>と自己責任
私が投げかけた<自責の念>に対して、先回のaさんのように「僕は誰にも何の恨みも持っていません……」というご返事があったほか、「いろんな人からの影響はありますが、選んだのは自分ですから、責任は自分にあります」という趣旨の反応がいくつかありました。これは私にはいささか感動的なことで、さすがいずれも昔熱心に地域での会活動にも参加され、のちに参画された方たちだからとも思いました。

ふり返ってみれば、私自身もずっと同じように考えてきて、大昔北海道僻地で教師をしていた頃訪問してくれた「北試」のメンバーのこと、あるいはその後に影響を受け参画までつながった「幸福学園」の新島氏のことは懐かしくこそ思え、何のわだかまりもありません。参画してのちも1,2度ぶれた時期もありますが、大筋主体的に関わってきました。ところが例のジッケンチ大激動前後の脱会以降、①そのように参画し、また脱会された学園親たちへの<申し訳ない思い>がずっと続いたのはこれまで述べた通りです。ただ同時に ②この間運動を推進指導してきたジッケンチ指導部への<疑問>が逆に強まってきたのです。

②の疑問とその背景についてはジッケンチ組織体制のヒエラルキー化、学園の拡大手段化や経営従属などを<批判的>に、hpの論考上で詳述しました。そしてその流れを当時は疲労感や閉塞感としては感じていたものの、表現もせず、内部で交流もせず、従ってその阻止のために戦うという感覚はまるでありませんでした。それほどその体制が自分に内部化し、それに毒されていたということになります。そこに私は深い自己責任の意識を抱きます。

その結果として生まれた ①学園親たちの子育ての危惧や<難民化>は自分に責任があることを、<自責の念>として表明してきました。それはまた私の<自己批判>の端緒だとも考えました。この私の自己責任の表明は、元親御さんたちの(福井の責任でなく、自分の責任という)自己責任の表明と共通する立ち位置だと考えられます。ただ少しばかりニュアンスが違うという感じが残ります。

というのは、私はその前段ないしそれと並行的に、ジッケンチ指導部への<批判>を不可避としてきました。元親の立場で言いかえれば<自分の責任はいうまでもないが、その前に福井(あるいはジッケンチ指導部)にも責任がある>と言いうる部分があるのではないでしょうか。おそらくその思いの方は、まだ初期のメ-ル交流の時点では伏せられていて、それが深まった時点や直の対話になると明らかになってくるものと思います。事実私はその点について、uさんらから的確な指摘をいただいております。

《私はここで自分達が(福井さんも)何故彼らの言いなりになってしまったのか? 子供の現実にしっかりと眼を向けて、そこに本当の理はあるのか?を問えなかった事が、何よりもヤマギシの学園の問題点であると今も思っています。》

uさんと私はジッケンチ脱会後、時に応じて集中的なメール対話を交わしてきた長年の相棒ですから、当然かもしれません。しかもここで言われているのは、私への<批判>ではありますが、端的に<事実の指摘>です。それへの私の異論や反論はなく、受け入れるべきという建て前はもちろんなく、まったく同感として入ってくるのです。ただこのような関係は、現実には極めてまれな関係だと考えた方がいいでしょう。

ここで「批判」とか「自己責任」とかいう言葉の定義にまで少し立ち入りたいくらいですが、これらの言葉には<感>から<事実>に至るかなり幅広い分野で、極めて多義的なニュアンスが込められがちです。私がまったく孤独な中で「ジッケンチって何だったの?」という自問自答を文章化しはじめた頃は、信条としてはまずジッケンチについての自分の実感や直面した事実をウソ瞞着なく記すということにこだわってきました。したがって始めはおそらく被害感覚的な非難、中傷や自己転嫁の部分は少なくなかったと思っています

この部分で生じるのは、<不本意にも><強いられて><自分のせいではない>……の感覚です。私はhp上で「挫折体験と自己哲学」を掲げて考え続けてきたテーマの一つはこのことでした。そこで出てきたのは冗談のような偶然で、自己哲学をいつのまにか誤って「事故哲学」と入力したことがありました。そうなんだよ、これって事故みたいなもんじゃないか、と妙に納得した感覚がありました。そのことで私は離脱した学園親たちのその後の社会再適応に伴うさまざまな試行錯誤を(私もそうでしたが)、いわば<事故>のように感じ、<不遇>感覚に襲われながら、<耐えて>きたと思い返されてしまうのです。この離脱は自らの選択(やむをえないという留保付きの)でありながらも。

もしこれが<事故>であるならその原因があり、被害者だけでなく加害者もおり、それぞれにそうなってしまう背景・経緯があるという認識が漠然と生まれました。そこから、私の場合幾度も推敲や書き直しをくり返しながら考え続けていくと、その<事故>性も次第に偶然性を失い、どこかしら自分にとって必然的な流れに、<自分だからこそ、こうなってきた>という不可避性のようなものも感じられてくるのです。

 そこで起こるのは、対象を把握しようとする自分自身の感覚、意識、観念の対象化・客観化(俗に自分自身の姿を、距離を置いて鏡に映してみる)ということだと思います。これが徹底してくると、おそらくこれまで自分が意識的にか、無意識的にか対象に加えてきた<着色>が脱色され、無色透明、客観的な姿・事実実態が観えてくるような気がしてきました。

そのことで、いわゆる意識・観念としての<被害感覚><被害者意識>は虚妄として次第に払拭されてくるとは思いますが、残るのはすべて<自己責任という事実>だけとはならないと考えます。すなわち事実としての<批判されるべきこと><被害―加害>の存在は残されることであり、それは客観的な実証によって明らかになることではないでしょうか。したがってuさんの私への批判は<事実としての批判>次元のものだと考えています。

また私のジッケンチ論考もその過渡の産物であり、完全無色の事実展開のみではありえませんが、少なくとも間違い事に対する<事実としての批判>を目指したものです。ただこの種の立場や位置に伴う主観がこびりつきやすい分野ではどのように捉えられても致し方がないことでもあるでしょう。

ここまで至るプロセスは、おそらく一瞬の心の転回で済む人もいるでしょうし、私のように何年もああでもない、こうでもないという反問の連続によってなんとか気づいてきたシツコイ人もいると思います。ただこの自己責任の自らへの受け入れは、あくまでも自発―自己納得の道であり、<仕方なしに諦める>断念とか、<すべてを丸ごと呑み込む>という精神主義的な決断(常人には無理な達人の領域)とは明らかに似て非なるものです。

したがっていわば<怨念>のようにいつまでも自分の思いにこだわる状況も、そこでは怨念が<表出>として続いているのであり、それを自他の力による何らかの方式によって<解毒>しえないかぎり、抑圧すべきことでないと考えるのです。
 (対話録25「被害者意識の払拭はまず怨念表出から」参照)

ただこれには<大人の分別>の要素もあるわけで、この怨念的状況は実は学園時代に何らかの精神的な<傷>を受けてもそのことを表出・表現しえず、したがって治癒を果たせないまま悶々と生きている元学園生とよく似通っている状況だと直観します。それが家庭内の親子の問題としてだけでなく、親御さんの共通のテーマになってくることも充分ありうることでしょう。

ともかく元親御さんたちの「責任は自分にあります」の表明には感動いたしましたが、他方私の場合はそれほどすっきりしたものではなかったので、なぜだろうというのが今回の執筆の動機でした。それは元学園親への<自責の念>が残っていると思ってきた私とは対照的に、自己責任の問題がはっきりした元学園親たちの多くが、おそらく次のステージに向けて歩み始めているからだと思います。その過程で当時の鬱屈も自然解消されてきたということもあるかもしれません。

ところが今回、これまで考えてきたことも含めて整理的に書いてみて、私の<自責の念>もいつまでも<念や感、あるいは謝罪>の次元に止まっていることはできない、という思いが湧いてきました。私の、事実としての自己責任の実行として、ジッケンチのみならず学園の実態・全貌を捉えるというテーマが依然として残されている、という思いです。
(2013/6/15)

③  わが子との対話から始まる
元学園親との交流を企図してそんなにも経っていないのですが、これはなかなかどうして至難の業だなあというのが今の感想です。何とか連絡が取れ、懐かしいお話はできますが、その先の事実実態の究明まで行ける例はやはり少ないと言っていいでしょう(私の方の物理的訪問能力もありますが)。その想定はhp発足時からないわけではありませんでしたが、それが極めて自然必然的なことだと今さらながら納得です。はっきりいって私の<自責の念>などは、お呼びじゃなくてまったく当然なことなのです。自己責任の総括によって解決済みということでしょうし、今さらヤマギシについての古く暗くもある過去を引っ張り出して何になるのか、という思いもあるだろうと思います。

このことの実際的な背景として、離村時における重要切実な「生活援助金」、あるいは財産返還をめぐる係争問題は、ほとんど本庁との個別対応という方式によって解決済みであり、すでにそのピーク、タイミングを過ぎています。(このテーマからは少しずれますが、ジッケンチの過去の問題点として、これまでの事故や不祥事に触れてみようとすれば、そこには金に糸目をつけない本庁の<不都合な真実>の隠蔽の痕跡を感じるときがあります。しかし個人情報保護の名目のために、想像や噂の次元を越えることは容易ではありません)

そこで私としては意識的働きかけよりは、<求められての>自然な交流の時期を待つしかありません。もちろん「ジッケンチ・学園とは何だったのか」というテーマに沿っての交流の扉はずっと開いておくつもりです。
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残されたというか、実は最初から気になっていたのは、子どもらの育ちの問題でした。「結婚しました」「子どもらは元気にたくましく育っています」はたしかにそうでしょう。しかしそうでなかった悩みの時も、普通一般子どもらとは違った形で、現われたこともあったのではないでしょうか。これらの内情は幼年部というより、親の参画により子どもが長年学園に在籍した場合に、様々な問題状況を表わしていたと推測されます。その中には深刻なものもないとはいえないでしょうが、たとえ学園に批判的であっても、即、表に出せないこともないとはいえないし、またそういう交流の場もありませんでした。

その問題状況が想定されるのは、本hp<論考>へのyさんの投稿にもありましたが、学園の目標・方針にそれなりに適応できた子はなんとかやってこれたとしても、不適応の子どもらへ扱いは「かなりお粗末だったと思う」という指摘に関わる問題です。発足当初は幼年部、高等部はいわば少数精鋭で、環境設備人材も充分用意できていたようです。ところが親たちの大量参画が軌道に乗るや初等部、中等部学園の設立とそれへの大量入学の流れができてきました。それに伴って<不適応の子どもら>は増えていったと思われます。

それへの対応・対処として、私など拡大現場にいた人間には学園の内情はあまり知らされず、「子ども研鑽会」という考え方が有効だと考えていました。しかし、そういう場で考えられる子どもらの層は少なくなっていった、あるいはそういう研鑽会を成り立たせるためにも別対処が必要な子どもらが増えていったと考えられるのです。この背景には親子の問題を抱えたままの子どもへの親の叱り、ごり押しもかなりあったでしょう。そこでは、私などもその考え方の普及にかなり尽力した「分類の子育て」(親子対等観の克服を意図した)の考え方がマイナスに作用したケースもないとはいえません。

そのためある意味では必然でしょうが、そういう子らへの言葉は悪いが<力による圧伏>が行われたこともままあったのではないか、と考えられます。それがいわばのちに「係の暴力」としてマスコミの指弾を受けることにつながっていったのではないか。これらの情報は、子どもをほとんど学園や係り任せにしていた親たちには寝耳に水なショッキングな話であり、改めて子どもらに確認して真実を知るなど、のちの大量離脱の引き金の一つになっていったと考えられます。同時に学園の体制についてもいささか尋常ではない状態についての情報も少しずつ入ってきました。
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このことの最も身近な証人は、やはりわが子です。私はまず自分自身の<トラウマ>払拭のために、あれこれ自己哲学してきましたし、またそれに必要な身近な旧同志や知友との交流も少しずつ回復してきました。そして今回のような元学園親との交流です。しかしそれはいわば大人たちの<トラウマ>払拭がメインの課題でした。それで子どもらのことを考えながらも、そこに届かないもどかしい思いが続きます。しかしそれは交流という観点からだけのことで、もろヤマギシ学園体験の当事者はわが家の一員として生きているのです。

その子どもらのことを考えれば、いわゆる学園後期ほど<良い子>になり切れない子どもらがかなり出ていて、<村>を出て後も<何であんなところへ入れたの>という親子間葛藤が現出した可能性は充分あります。その葛藤は次第に断続しながら払拭されていきそうですが、親=大人よりはずっと長く深くその子の人生に利いていくようにも思われます。場合によってはその子の人生観形成の重要な柱になりうるかもしれません。これは直接伝聞したとかでなく、現に30代後半から40に入りかけのわが子2人と私ら親とのこれまでの長い葛藤と和解の断続という歴史に徴して明らかです。その大勢は親子間の親愛の情の取り戻しに費やされ、世間よりはずっと遅れた時間を経過してはいますが、ようやく家族らしくなってきたなあという感慨もないとはいえません。

つまりそれまでは自分の思い込み以下で、<良い親>になり切れていなかったわけです。私は「学育外論」において、<子どもらの反発は係りが主で、親には向いている感じではない>と述べましたが、のちになって子どもらにもう少し内情を聴いてみると<本当に助けてほしいときに親に説教され、その親にかえって呆れていた>というのが真相のようです。そのことで子どもらはかえって 「捨てられた」と絶望することになったかもしれないのです。まったく慚愧に堪えないことですが、こういう親失格は親子の真実についてより深く考えてみることもなく、理念の命ずるままに安易に(そこに私たち親のテーマが凝縮してあるようです)子どもを離す時点から始まっていたのではないか、とザクリと思い返されてしまうのです。ふり返ってみれば私は最初の小説「面接」と「息子の時間」において<良い子>になり切れない「大人」と「親」を描いていました。

本庁や学園関連の<不都合な真実>は隠匿可能かもしれませんが、こういう家庭・家族における親子の<不都合な真実>は、ずっと火山のように休火、死火することはありません。その観点からすれば、私は今頃になって<自責の念>を放棄し<良い子>になるべく努めているようですが、子どもらに対してはそうはなり切れるはずはありません。そういう子どもらへの慚愧の念から、改めてわが子と向き合い、その思いをじっくり聴いて対話してみることがとても大事なことだと思います。それが可能になった親子共の<村外>離脱によって、親子間の心通うつながりが回復できた経験は、私どもだけではないはずです。 今ではかなり豊富な事例があちこちにあると思います。こういう親子間の体験的真実についてこそ交流すべき本質があるのではないでしょうか。<交流>というより、表わすことで心を通わすというのか・・・

さらに前述のかつて猛威を振るった「叱る子育て」の見直しとして、「叱らない子育て」や「おもしろ」子ども塾の実践が元参画者から生まれています。このことは現ジッケンチにおける楽園村復活の動きに対して、確実にその<次>が始まっていることをお伝えできることだと思います。
(2013/7/6)