広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

ジッケンチの幼年部を考える。(福井正之記録⑨)

※『回顧―理念ある暮らし、その周辺』では、㉜~㊳まで「わが初期ジッケンチ論」、㊴で「ジッケンチ学育」に触れ、㊵~㊸まで「幼年部」について述べている。2019年12月の記録で、ここでは「幼年部」をあげる。

 そして、㊵~㊷までは【ジッケンチの学育を考える②】とほぼ重なるので、【㊶幼年部(2)<母子分離トラウマ>について、㊷幼年部(3) 元幼年部生映像作品『アヒルの子』について】は割愛する。「(1)幼年部の考え方」は重なるところも多いが、これは掲載する。

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◎幼年部について 2019/12/11
(1)幼年部の考え方
 学園の親から離れた環境での子どもらの集団合宿生活という点では、たしかにそれほど特異なものではない。ただその合宿が小学校入学1年前の5歳児から始まるということは、ほとんど他に類例を見ない特異なものだろう。それがヤマギシズム学園幼年部だった。私の学園や幼年部についての基本的な評価としては、ジッケンチ評価とあまり変わりはなく、「マイナス面もあったにせよ、評価すべきこともあったのではないか」という忸怩たる観方になる。もちろんこの評価には私自身のジッケンチ離脱にともなう<視点移動>が大きく影響しており、評価の部分がだんだん薄らいできたのは事実である。

 その趣旨の一端について『愛児へのおくりもの』(ヤマギシズム出版社1987/1)から少々引用する。

「――小さい頃からかわいがられ、満たされて育った子どもは、自分から親のもとを離れていこうとするし、離れていても安定しているのである。二,三歳の子がとなりの家に遊びに行って、なにかあって泣いて帰ってくる。お母さんの膝の上でしばらく抱かれて泣きやむとまたとなりの家に遊びに行く。この子はどちらも満たされているのである。この離れている距離と時間が年齢とともに長く遠くなる。幼年部もいわばこの親子の往復運動の中に位置づけられていて、よく心配されるように往きっぱなしになるのではない。親は子の往復運動の一方の点であり、いわば港であり、ヤマギシ養鶏でいう寝枠のようなものである。ところが子どもの家庭環境はしばしば、この<出港>が限定的か、閉鎖されているかである。そこには親の盲愛や所有愛、親の都合、頭だけの子離しがつきまとっている。」

「この自分を存分に展開するということが保障されるためには、広大な山野と動物たちと、そしてこれは不可欠のことであるが、腹の立たない人たちが彼らの周囲に必要なのである。<金の要らない仲良い楽しい村>のヤマギシの村はそうした環境の必要に充分応えうるであろうし、ここでなされる一年の生活は、子らの一生を通じて折に触れて蘇ってくる原体験のようなものになっていくであろう。」(「なぜ幼年部なのか」福井記述部分)

 またこの背景について、実顕地ではいわゆる「蝶よ花よといじめない」とする考え方や経験が存在していた。さらにもっと短期ではあったが就学準備的な合宿があり、また幼児を農繁期の必要に応じて預けあったりする「どの子もわが子」的な一体感覚が育まれていた。それが断行可能とする一つの大きな根拠となっていたと思う。私自身も教育学部の専攻ではあったが幼児教育自身の経験はなく、むしろ村でのそのような環境に畏敬の念を覚えていた。

 しかし他方では、あんなにも長期間(5歳の1年の間、親に会うのはほぼ3か月間隔)親から離れる必要があったかどうかについては、今の私はいささか保留状態にある。たしかに、幼稚園等では「お泊り保育」的なものはなかったわけではないが、この長さは世間常識からいってもかなり隔絶した感を与える。それ自体は常識批判が通例であったヤマギシでは特に問題にはならなかった。ただ私には当初それほどでもなかったいくつかの問題点を次第に感じるようになってきた。そのことをふり返ってみれば<よくぞやれたものだ>という感慨を禁じえない。

 それは一つには、いわゆる<母子分離トラウマ>的な一般からの危惧(次節で取り上げる)を引き出しやすいことであった。ただその本格的な流れはほぼ1990年代の半ば以降であり、幼年部創設期の85年頃は逆に幼児期子育てを支配した母子密着スキンシップ感覚からの危惧が主であった。その母子分離への漠然とした不安からすれば、5歳児のしかも長期合宿を伴う子離しは驚くべきことであったろう。

 この点については私は幼年部1期生から村内メンバーの「里親」をつけることにこだわってきたが、それが不要とのちの年度かどこかで(私は初期を除いて運営面にはタッチせず、広報拡大が主になっていった)決められたときに感じた落胆と危惧を記憶する。もちろんそれによって何らかの問題があったと聞いたわけではない。

 二つ目には、子どもの生長の観点とは別に、親・家族のありようとして、あれだけの長期間5歳児が母親から離れていることが望ましいといえるかどうかという問題。たしかに5歳の親離れ生活はいわば幼少の母子密接必要時期(女性就業の観点から異論も多いようだが、いわゆる3歳まで)を越えており、離別についての周到な配慮があれば基本的には可能であると考える。

 ただ同時に5歳児が家族の一員として親や周囲からさまざまに学び、影響を受け、家族の一役を果たすということ。また逆にその姿を通して、親(特に母親)が慰藉的な影響のみならず、親としても生長しながら子の真近での<生育の証人>となることの意義は、決して小さいとは思えないことである。

 私がそう考えるに至ったのは、血のつながった実親の(子どもを一生引き受けようとする)誰にも代わりえない力や役割の大きさについてだった。それは私自身がジッケンチを離れ、生活の状況がどうなろうと、母親たちがわが子の総てを引き受けていこうとする本能的といってもいい姿勢から感じてきたことである。(もちろん昨今の育児放棄のような様々な条件によって、実親のすべてがその役を担いうるわけではないことを留保しつつも)。

 そして本来はその<放し任せる親>と<引き受ける親>との対等一体の親愛関係こそ、幼年部成り立ちの真実があった。にもかかわらずジッケンチの優位性を前提に実親の役割を事実以上に軽視し、ジッケンチ「親」(=係り)はその限界を謙虚に知って「身代わり」をやるという考えは乏しかったのではなかろうか。またかれらを実親以上に素晴らしく思い思わせること、そこに当時の私の広報活動の一つの役割があったと認知する。

 といっても、そのような母子分離への不安や<生育の証人としての親>という観点を超えて「子放し」が断行されたのは、子どもの生長への強い期待からであった。たとえ他人任せであってもこの1年の子どもらの経験は、幼少年期のみならず一生を貫く宝となるであろう、と。私自身の当時のイメージでいえばいわゆる<幼年部効果>は「おふくろの味」が一生続くように永続的なものと考えており、相当な期待感を抱いていた。

 しかしその<成果>を一応表面的に確認できるのは、親が参画せず地域に戻った子どもらの場合、せいぜい1,2年のことではなかろうか。もちろんこれは生活習慣や健康面の育成の面、さらに物事への意欲、対人的社会性等であって、精神の深いところで何が刻印されたのかは残念ながらよく解らない。私自身は幼年部1期生が高校生くらいになる状態までの情報はある程度聞いてはいるが、これも数少ない伝聞情報であり、組織的な調査による確認がなされたわけでもない。したがって基本的には成育過程の様々な環境変化によって<幼年部効果>は相殺されていく部分が大きかったのではないか、と推測する。その点私は同調の人々への期待を裏切ってきたと思う。

 もっとも幼年部が設立時には阿山だけだったのが、豊里をはじめ各実顕地で軒並み設立されていったのは、当時の実顕地のみならず親、会員、支持者たちの熱狂的というべき教育理想主義の高揚からであった。もちろんそれには学園での子どもらの育ちが、それなりに確認され伝播されていったという<実>があったと考える。(2012/3)

※【㊶幼年部(2)<母子分離トラウマ>について、㊷幼年部(3) 元幼年部生映像作品『アヒルの子』について】割愛。

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◎㊸幼年部史へのある推測 このタイムラグは何? 12/16
(2014/5)あれから2年、『アヒルの子』というドキュメンタリーという映像を伴ったあんなに明解な説明に出会いながら、私には「そうかな?」となお承服できない部分が残存していたようだ。ともかくあれ以降、私は<謝罪行脚>という自己命名の元幼年部生親への問い合わせや訪問を企てる。しかし母子関係では小規模の離れる時の不安や帰参時の甘えの症状以外ははっきりした事例には出会っていない。それでいつしかそれも中断した。

 それでも残された一期生ビデオでの子どもらのあの笑顔、時には土にまみれた収穫作業、それに描かれた絵が太陽と花とニコニコ顔。逆にいったいあれは何なんだ、という違和感は残る。あれも子どもらの日常ありのままの天真を映していて、決して当時の<いいとこ撮り>ばかりではなかったと思い返す(私も時折撮影に回っていた)。そしておそらくあのドキュメンタリ-映画の主人公Aさんの時期の幼年部広報ビデオも同じような一期生の映像となっていたにちがいない。                

  そこでここはちょっとした微妙な感のようなものだが、一期生の時期(1985年)からAさんが体験しのちにトラウマ発症までに至った幼年部の時期までにかなりの間がある(概算だが2010年映画公開時はAさん20歳として幼年部卒はその14年前1996年頃、ほぼ10期生の頃になる)。その頃村に在った私にはトラウマ等の連絡は皆無だった。ただこの点についても、私の阿山での初期幼年部の体験と環境はその後の幼年部にとっても同じようなものだったかどうか?
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   あの著書『愛児へのおくりもの』の私の記述部分は、私自身の一期生の記憶と世話係だったBさんの記録に基づく。しかもあの本はかなり売れたらしい(出版社から聞いた数字は残念ながら思い出せない)。しかもそのBさんはとてもやさしい人だった(その「やさしさ」を基準に選ばれたらしい)。おそらく普通の幼稚園や保育園では子どもらを呼び集め、あれこれの「いけません」を声高にアッピールできる、いわゆる指導性なるものが求められるだろうが、彼女にはそれがなかった。

 いわゆる学育理念としての<教えない>という点では、彼女は係としての取り組み以前にうってつけの女性だったのである。もちろん子どもらが行き詰まってから適宜な励ましの声かけは出てくるのはいうまでもない。そして彼女は今でも「あんな楽しかった時期はなかった」と思い返す。

   私はこのことをどう解したらいいのかずっとわからなかった。つまり私は幼年部での子どもらの生活感覚とそこを出発した後の母子分離的な兆候とを時間的にもずっとくっつけて考えていた。しかしそこにどうもタイムラグ(時間的ずれ)のようなものがあったのではないかと考えだす。

   すなわちこの一期生ないし初期幼年部の環境はいわば<至れり尽くせり>だったのである。子どもの母子分離的兆候が登場するのは実はかなりのちのことであって、当初はそういうことがなかったのではないかという推測のことである。

  この点についてまず明らかなのは受け入れ人数のことである。一期生は外からの子8名、実顕地の子12名の計20名で出発している。後からでは考えられないくらいの少数である。また同時に明確な指標となってくるのは、当時のヤマギシ会員たちの地域活動のことである。当時の地域活動の中で、子どもらはおそらく随時会員家庭の往来が当たり前であって「どの家もわが家」に近い状態であったと推測する。こういう環境ではどうしても母子分離的な障害が起こるとは考えられないし、それがそのまま幼年部につながっていたと考える。
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 ところでBさんの「あんな楽しかった時期はなかった」という思い出と関連して、少し学術的な解説に出会ったので紹介しておく。子どもらがどのように作業や日常の生活技術に習熟したようでも、主体である子どもらは遊びを遊んだだけだったという側面に関わる。

 註)矢野智司『贈与と交換の教育学』より
「遊びはもともと有用性の秩序を否定し、エネルギーを惜しげもなく過剰に蕩尽する自由な行為である。・・・そこでは、自分が遊んでいるというより、遊び自体が生き物のように自己展開していく。そして、遊びのなかで、子どもは世界と自分とを隔てている境界が解けるという自己の溶解を体験する。このことにより、遊びの体験は、日常以上に鮮烈なものとなり、強い現実感を与えてくれることになる。」

  おそらく一期生の子どもらの心に在った物語は、Bさんや友との仲良しやお母さんの笑顔だったのであって、達成や習得という目的にあったわけではなかろう。このことにどれだけ深い根拠を感じ、その意味を貫くことができたかという視点で、私は改めて幼年部というものを見直しみたくなってくる。というのはそういうはっきりした自覚は私にもなかったし、そうである限り大人はいつしか<有用性という誘惑>に足をすくわれていくであろう。いわば有能で指導性あふれる世話係ほどその可能性は高いし、そしてそういう誘惑は学園当局や拡大部や親にも溢れていたように思う。

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 ともかくその後幼年部の応募は急激に増え、各地に新幼年部が増設されていった。それに伴ってマイナス評価も次第に出てくるようになってきた。

  例えば、私の学生時代の旧友が三重地区の幼年部を参観しての感想は、「子どもらはどうもモノトーンだな。子どもらしく生き生きしていない。目が死んでいる」という厳しいものだった。もちろんこういう感想は主観的なものでタイミングとか時期とかいろいろ勘案しなければならない。「そりゃあないよ」と私はずっとうっちゃっていたし、この頃私は拡大専門で、学園の実態を確かめてみる機会はほとんどなく、かつまたそこまでやってみる必要を感じなかった。しかし村出後のあのドキュメンタリーを観て以降「もしやありえたのではないか」とようやく気になってきた。

 それ以来、子らにもよるが、親離れの虚脱やさみしさを受けとめきれない様々な問題点があれこれ出てきたのではないかと想像する。少数の係による<大部屋育児>等のこともあろう。

 したがって現在ではあの『愛児へのおくりもの』で記述できたような質の子どもらの<楽園>は、初期のように子どもが小人数で、それに相応しいお母さん的な係(多めに)、さらに地域と実顕地との里親的なつながりの存在が不可欠だったのではないかと考えるに至っている。

 もちろんこれらはほとんど推測であって、実証できたものではない。今のところそれなりに説明がつく仮説にすぎない。そしてその負の想像の膨らむところ、高等部一期生の果たした役割と同質のものを感じざるをえない。

 高等部一期生も、幼年部一期生同様ギンギラの「至れり尽くせり」の存在だった。そしてその結果は、期待通りより大量の入学生の存在だった。しかしそれへの受け入れ対応レベルがいかに困難だったか。決して肯定できるものではないが、のちの個別研や体罰にまで届いてしまいそうなのである。
 (2014/5)

(現在からの追記)
・昨年、ほぼ30年前に娘さんを幼年部におくられたお父さんから連絡があった。その後ずっと娘さんが「今も拭い去る事ができない」痛みを抱えてこられ、その親としての苦しみを伝えられてこられた。私自身も驚き、その思いに到底及ばないものの、深く感じるものがあった。伏して感謝したい。

・最近元幼年部一期生のCさんと電話で話す機会があった。当時のBお母さんが昼寝に入る前に、ギターを弾いておられた様子を懐かしそうに語ってくれた。