広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

いつまで過去にこだわるのか (福井正之記録⑮)

※『回顧―理念ある暮らしその周辺』の➂⑬に再度掲載された。このブログは『時空遍歴』からの転載。

「時空遍歴」について福井氏は次のように述べている。
〈現在の私は認識の基本軸において、過去は同時に未来および現在であり、その逆も真であることをしっかりと肯定する。
 こうして私はこのページのタイトルを「時空遍歴」と名づけ、そこに過去―現在・未来往還自在の境地を込めたつもりである。〉

          • -

◎いつまで過去にこだわるのか プリーモ・レーヴィのこと
 (『時空遍歴』2014/8/29)一部補稿

 もう1年以上前のこと、ヤマギシで共に活動し、同時期に離脱した旧友が私のHPを観ての感想に、「10年位前で時間が止まってしまっているような感じ」とあった。私は「そうかもしれない」とその感想に基本的には同意し、あらためて「おれはなぜ、いつまでも過去にこだわるのか?」あれこれ考えてみた。彼の言うように「年月を積み重ねて、ほとんどの子どもたちは自分の人生をつくってきて」おり、大人たちにとってはそのことはもっと急がれていた。

  私も当然一生活者として生活再建は不可避であり、その観点から<前を向き>、現在から将来への関心は失うわけにはいかなかった。そのことは元仲間たちが新たな起業や趣味や運動に転じていくのとまったく同じように、なんら特別なことではない。

  ただその過程は私にとっては同時に「後ろ向きに歩みながら、遠ざかっていく<あの景色>をあれこれ考え記述してきた」ということにもなる。それはおそらく身に合わない巨大な自責感のためであり、さしあたりは「ああいうことはなぜ起こりえたのか?」という解明への欲求だった。当初は「みんな」へのぎこちない顧慮もなかったわけではないが、他はどうあれそのことがいつしか私自身のメインテーマとなり、私の生きがいにもなってきた。
                *
 そしていつしかその「過去」的に見えた課題の中にも、現在ないし未来へのシグナルを聞くことも増えていった。そして現在の私は認識の基本軸において、過去は同時に未来および現在であり、その逆も真であることをしっかりと肯定する。それは私にとって様々な先人、現代人である乙武さんや矢野智司氏、あるいは過去人であるハンナ・アーレントや埴谷雄高の業績を拙いながら<かじり歩く>ことによって開かれていった認識だった。ヤマギシの過誤のみを見据えていただけでは、その過誤自体およびその本性も観えてこなかったであろう。

  こうして私はこのページのタイトルを『時空遍歴』と名づけ、そこに過去―現在・未来往還自在の境地を込めたつもりである。そして今回、そこにプリーモ・レーヴィ(1919~1987)の名を加えたい。彼はイタリア系ユダヤ人としてアウシュヴイッツから奇跡的な生還を果たした人物であり、『プリーモ・レーヴィへの旅』(徐京植:朝日新聞社)によって私は初めてその存在を知った。

 実はプリーモ・レーヴィがその後1987年に自殺している。理由は不明らしい。ヤマギシズム学園が草創されてすぐのことである。そこでさらにその著書に当たってみた。それはレーヴィの自死一年前に刊行された『溺れるものと救われるもの』という著書だった。読みだして私は慄然としかつ粛然とした。そこにはあの激烈な衝撃と感動をもって読んだ『夜と霧』(フランクル著)との深い連続性が表現されていたのである。

 その『夜と霧』の中、読者のだれもが忘れることができない多くの章句のなかで、とりわけ印象的な表現がある。

「――収容所暮らしが何年も続き,あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわず言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。」

 そのリアリテイーはすごい説得力があって、それ以上追及することができなかった。自分はどちらなんだろうという問いに、内心はあなたたちは? をも含め。結論が分かっていながら立ち往生したばかりでない。他方では、記述されていた人間崇高性の頂点を表しえた人々の存在への感動を失いたくなかったからだと思う。

 しかしレーヴィのこれへの言及は容赦なかった。
「――生き残ったものの中では、囚人生活中に何らかの形で特権を享受していたものの方が多かった。年月がたち、今日になってみれば、ラーゲリの歴史は、私もそうであったように、その地獄の底にまで降りなかったものたちによってのみ書かれたと言えるだろう。地獄の底まで降りたものは、そこから戻ってこなかった。あるいは苦痛と周囲の無理解のために、その観察力は全く麻痺していた。」(同著「序文」)

「私もそうであったように」とずばりである。そして
「――ここで上げられたすべての理由から、ラーゲルの真実は長い道のりを経て、狭い扉をくぐって外に現れた。そして強制収容所という宇宙の多くの局面はその中でまだ十分に掘り下げられていない。ナチのラーゲル解放からすでに四十年という月日がたっている。」 

「四十年!」私は目を剝いた。この著書の出版は1986年のことである。
               *
 当然そのテーマの世界史的課題の大きさもあるだろう。レーヴィはこの間の人類の悪業について、広島、長崎の原爆、ベトナムでの無用な流血、カンボジャでの自国民へ大虐殺等を挙げながら、ナチの抹殺収容所の量と質におけるその巨大さ、唯一性を強調してやまない。

 私は自分の過去への営みについて、十年でかなりやってきたと感じ、最近二十年を迎えてそろそろ潮時だと観念しつつあった。ところがなんぞレーヴィは私の二倍は関わっていた。

 いうまでもなく、アウシュヴィッツとヤマギシとではあまりにも対象課題としてはかけ離れている。しかしユートピアは逆ユートピアとは深層部分で通底していないのだろうか? 私は思わずその妄想をたくましくしたくなることもないではないが、それを実証するにはさらに長い年月がかかるだろう。

註)この著作は読んでもらうしかないが、すっと読めるものではない。ある種様々な微妙部分に触れている。裏表紙につけられた解説には、次の項目が挙げられている。

 ・善と悪を単純に二分できない「灰色の領域」

・生還したものが抱える「恥辱」

・人間が持つ最も恐ろしい悪魔的側面を描いた「無益な暴力」

・アウシュビッツの風化の怖れについての「ステレオタイプ」

 これらは生存者のその後の人生にも付きまとったというから、『夜と霧』だけでは想像できなかった部分になるだろう。曰く「生き残ったものたちは、生きる喜びを奪われ、いわれのない罪の意識と戦い続けた・・・」

 なお本の巻頭裏には次の引用があった。
「それからはある不定の時に、その苦しみが戻ってくる。そしてこのひどい話を語り終えるまで、心は身内で焼かれ続ける。」(S.T.コールリッジ『老水夫行』)
2019-08-23記

          • -

◎1960・6・15の旧友たちとの「共同幻想」
(『時空遍歴』2014/7/2)

 旧友の一人Aさんが75歳で亡くなり、友人たちによる<偲ぶ会>があった。6月15日のことである。というのは彼と私たち友人たちの共通項に1960年6月15日があった。いうまでもなく60年安保闘争の白眉、樺さんが国会前で亡くなった日である。私もすでにヤマギシを外れていて、こういう集まりにも招かれるようになった。

 50数年前のその頃から私たちは学生運動に関わり、革命理念か、それに近い心情で生きることになる。Aさんのその後の人生コースは、いわゆる党派闘争から離れて以降も、印刷屋をやりながら地域のいろんな問題に関わる、いわゆる社会派オルガナイザーの生き方だった。友人たちへの気配りも忘れず、人望も高かった。

・6・15五十年経て相まみゆ いずこにありや若き面影

・友逝かば夢の行く末問わずとも やさしきレジェンド手向けやりたし

 これは当日の私の心情であり、本当は泣きたかったのである。いわば革命の夢は不問に、Aさんの良さは良さとして伝説として讃え伝えたかった。参加者の多くはいわば革命<挫折>派であり、資本主義を肯定しないまでも社会のそれぞれの位置に適応し、それなりの地位を築いている。

  弔辞的な語りもその流れであり、また「死者を鞭打たない」という気持ちもあった。ところが中に「なぜ(革命のことを)語らないのか? もっと頑張ってほしかった」という、うっかり聞き逃しそうな短く静かな語りがあった。この語りを聞いてしまってから、私はとても泣けなくなった。

  彼Bさんは、当時は文学志向であり、革命派には資質的に違和感を覚えながらアンガージュマンへの自己変革を目指した。自分は「資本主義社会という絶対的な“悪”の再生産に加担する害虫である」と苦しみながら。その強迫観念で一時は危ないところまでいった彼からすれば、革命理念を鼓吹していた連中(Aさんも私も)は、沈黙したまま<逃げる>ことは許されない、という思いだったであろう。

  もう半世紀も前のことである。実質的には全く<時効>だろうが、やはり精神に刻印されたことは容易に消えるものではない。だから逆にこういう場でしか吐けない語りでもあった。

  のちにBさんは私とのメール交換に応じ、そのいきさつを語ってくれた。Bさんはその時点から何とか立ち直って以降、「共同理念の幻想性」についての、はっきりした覚めた認識の所持者として以後を生き抜くことになる。その転換点のポイントは次のようだ。

 《私は、共同の理念を「自分自身はどう考えるか」という場所に引きずり降ろし、「理念」と「実感」の双方を自分自身で検討する中で当面の結論を出すという「正直な」やり方を意識し始めていた。》当時としてはまだ目新しかったその「共同幻想」という吉本隆明なりの用語は、彼が新聞記者だったということも関係するだろう。

  驚いたことに、Bさんのその時期からほぼ30年の時空を隔てた現在、私がそれと似たようなことを書いていたのだ。

 《――与えられ学ぶべき「真理」は私には縁がない世界だと思うことにした。私が手がかりにできるのは、今のところわが全心身で嗅覚でき、かつ実感できる真実しかない。聖人君子なる「特別人間」になりたい人は勝手にやったらいいだけである。普通の庶民感覚からすればそれは<へんな人>である。》(「ジッケンチとは何だったのか」2)

  それこそ私が、ヤマギシズムという理念の共同幻想から離脱を実感できた分岐点的認識だった。実は、私はBさんと同じ時点で、当時の革命理念の幻想性に気づき、その挫折を体験していたが、理念一般の普遍的幻想性まで深めることができなかった。もっとましで庶民的・土着的な革命理念を模索していたからである。

  そこで出会ったヤマギシの目先の<成功>に幻惑され、ラクをしていた分だけ、私は本質から遠回りをしていたような気がする。もっとも私はその「遠回り」にも何か理由と意味があると、相変わらず執念深い。

註)「そこで全国各地で街頭ドンちゃん騒ぎが沸騰していた60年に、そんな騒動に見向きもしないで「数家族で別海に入植していた共同体」のことを聞いた。これこそ庶民による現実的土着的な革命だ、と焼けぽっくいに火がついたのが、ヤマギシへのシフトの始まりだった。

 こうして私は幻想から現実に踏み込んだつもりでいたが、今にして思えばこれも“庶民的土着的現実”と称する巨大なイデオロギーであった。それくらい現実の根は深く、背伸びした輩の足をあっさりすくうのである。

 ただそうはいってもヤマギシやジッケンチは、まるっきり虚妄だったわけではない。あの生産物や楽園村や学園への着目はそれなりに正解だった。その分だけそのイデオロギーは生き延びたのだが、内情の一端が暴露されることによって、それもあっさりと費消されてしまったのである。」
 (「ジッケンチとは何だったのか」2)
 2019-07-14記