○はじめに
振出寮は山岸巳代蔵の晩年の構想から始まった。
その後ほどなく山岸巳代蔵は亡くなられたので実現はされなかった。
実際に実現したのは、ほぼ三十年後、実顕地で開設された。
わたしは、そこで中心になって関わってきたこともあり、知っている限りのことを記録しようと考えた。
といっても、きちんと記録に残していなく曖昧な部分もいくつかあると思うが。
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○山岸巳代蔵の構想
1961年4月、かねてから懸案であった特講受講者の次の段階としての、「ヤマギシズム研鑽学校」の構想を口述し、奥村通哉が筆記し、構成・編集を担当した。
〈趣旨:真の人間となり、世界の公人として、自分の持ち味を検べ、試し、自分を含めた全人幸福のために活かして、みんなと仲良く、健康、正常、豊満で、楽しく生きる人となって、生涯を「研鑽生活」で暮らすことを趣旨とする。(「ヤマギシズム研鑽学校案内」)〉
この研鑽学校受講が、その後のヤマギシズム生活実顕地参画者資格条件の一つとなる。
1961年4月28日に、「山岸会事件」(※1959年7月、参画者による元会事務局員の東氏への傷害致死事件)の判決を聞く。過失致死の二名を除いて一二名全員が執行猶予付きの有罪判決となった。
この日夜、津市の三眺荘で事件の関係者など十数名が参加して、「さびしがり研鑽会」がもたれている。
記録によると、研鑽会は山岸のユーモアに富んだ個人紹介からはじまり、新しい「振出寮(ふりだしりょう)」(「無いで当り前」からの実践体得場)の構想にまで及んでいる。
《山(※春日山の伊勢湾台風による被害)は幸いにというか、まだ有形物あったので、もうちょっと惜しいかと思うけど、事件や台風で乏しくなったと、また可哀想に見た人あると思うが、今度の振出寮では、現象面ではもっと乏しいところから行ったらよいと思うの。
芋蔓(いもづる)が美味しい、水が、空気が美味しい。ムシロの上が最も安眠のしとねになる。着る物でもそんなとこからやっていったらよいと思う。いろいろ方法はあるから。一日絶食すると大抵の物が美味しくなる。食の幸せはそういうところにある。孔子が言ったのおもしろい。「疏食(そし)を飯(くら)い、肘(ひじ)を枕にしても、楽しみその中にあり」と。》
※疏食:粗末な食事のこと。これは、『論語』―「述而」篇の「子曰く、疏食を飯い、水を飮み、肱を曲げてこれを枕とす。樂しみまたその中に在り。不義にして富みかつ貴きは、われにおいて浮雲の如し」(『論語』久米旺生訳注)からの引用である。
山岸にとって、無固定・無定見・無辺境・無中心などの「無」は、ただの人・タダ働きなどの「タダ」とともに、要となる語句である。
〈先ず『ないのが当り前や』と、そこに底を置いておくと、いつでも賑やか。そういうものの観方。(『理念研』)〉というように、それと相通じる境地の一端を体得する具現方式として、「振出寮」を構想した。
最も乏しいとこに身をおき、振り出しに戻る体得の場である。『百万羽』設立時にも、参画者の人材育成の場として、苦しい生活の中に身をおき、いかなる環境の中でもやりぬく人になるための実践体得の場として「予備寮」を構想し、実施していた。
この構想を受けて、関心のある人たちで描き、はぼ30年後の1992年5月に東部実顕地で始めた。
また、わたし7年程「振出寮」の係りをしていた。
翌29日に、津市三眺荘で「会いたい見たい研鑽会」が行なわれた。
春日山のメンバー中心に43名が参加した。山岸会事件後、山岸巳代蔵が春日山のメンバーの多くと再会した機会だったが、この後、山岸は岡山へと出発して旅先で急逝したため、これが春日山の人達との最後の研鑽会になった。
そして、山岸巳代蔵は同5月4日に死去する。
5月1日から岡山県児島郡興除村の各種の研鑽会に出席。
5月3日午後五時半頃、研鑽会の途中別室にしばらく横になり、その後昏睡状態のま4日午前零時五十分くも膜下出血で永眠。享年五九歳だった。
「本当の本当は通じないままに、死んでしまうのかな」「みんな好きや、仲良ういこうな」などの言葉を遺している。
5月10日 春日山「公人の丘」に埋葬された。