広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎〈対話〉と〈けんさん〉➀((平田オリザ、中島義道の「対話」論から)

〇最近〈対話〉に関する優れた著書の、平田オリザ著『対話のレッスンー日本人のためのコミュニケーション術』、中島義道著「対話のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの」に触れて、〈研鑽(会)〉のことを思いながら読んでいた。

 両書とも、〈会話〉は〈対話〉と違う、また〈対話〉は討論とは違うとし、日本は個人と個人が正面から向き合い真実を求めて互いの差異を確認しながら展開してゆく〈対話〉になりにくい社会と述べて、論を展開している。


 平田オリザ『対話のレッスン』では「対話」の具体的なあり方として、中島義道氏の「対話のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの」から一部引用してこう書いている。

〈▪あくまで一対一の関係であること
 ▪自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、対話すること。
 ▪相手との対立をみないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけていこうとすること。
 ▪相手との見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
 ▪自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。


 実際に対話の行われる場では人数は、二人でも一〇人でも構わない。ただ、「談話」や「教授」と違って、一方的な「一対多」の関係にならないこと。また、そこに参加する人々が、一人ひとり、確かな価値観や人生観を持って、そのコミュニケーションに参加していることが重要になる。

「会話」が、お互いの細かい事情や来歴を知った者同士のさらなる合意形成に重きを置くのに対して、「対話」は、異なる価値観のすり合わせ、差異から出発するコミュニケーションの往復に重点を置く。

 対話は初対面の人間とのみ行われるものでもない。ごく親しい人との間でも、異なる価値観のすり合わせが必要となる場合には、対話的なコミュニケーションが要求される。〉

 この両書文中の〈対話〉に〈研鑽(会)〉に相通じるものを覚えた。
 そこでまず、山岸巳代蔵が描く研鑽や研鑽会について見ていく。
         ☆

 〇「けんさん」方式で
 山岸巳代蔵は理想社会実現の方法として「けんさん」方式を考えた。
 特講のテキストにもなっている「解説ヤマギシズム社会の実態(一)」で、構成の核となるものとして「研鑽会」についても述べられている。

 要点は、どこまでもキメつけないで本質を探究し続け、最も深く真なるものを解明し、それに即応しようとする考え方ということになるかと思われる。

 山岸巳代蔵の「けんさん」の特色は生活即研鑽との考え方である。日々の暮らしが研鑽連続生活であり、その研鑽方式が、人々の間に浸透し、遍く社会全般まで広がることを目指したと思われる。
 なお、「けんさん」は個人内対話という側面がある。

 一般的に、研鑽は「学問などを深く究めること」の意で使われていて、研究者をはじめ仏道、芸道、武道などの「道」を究めていく人の表現の中によく出てくる。その中には、山岸のいう「研鑽」と、ほぼ同質的な考え方で探求し続けている人もいるだろうし、研鑽という用語を使っていても、それと甚だかけ離れている中身の場合もあるだろう。

 ヤマギシ会に深く関係した人達の中には、この研鑽という言葉を、「少し考えておく」とか、単なる打合せに、「研鑽しよう」と使っていて、その集団内だけでしか通用しないような使い方をしていた。そのために、研鑽ということばに食傷を感じている人もいた。研鑽というような抽象語の受け取り方は、一人ひとり極端に違うものがあり、言葉のもつ限界でもある。

 だが「けんさん」は、「本当はどうなのか」「もっと考えられないのか」「間違っているかもしれない」という疑問の持続という側面をもつ。今まで常識とされていたことに対しても、自分の観方・捉え方に対しても厳しい問いかけが続くという自覚が要る。
 この自覚のもとに各自が参加していないと、研鑽会にはなっていかない。

 山岸の描いた「けんさん」の特徴をいくつか挙げる。
 まず、「零位よりの徹底究明」がある。この零というのは、あらゆる前提を一旦棚上げするという意味と、大略まとまったことも、またはじめから考え直すという数字の「0」のような意味合いもある。これは長年に亘って見られる山岸の資質でもある。スパッとした切り替え、養鶏でも著述でも何度も一から見直す姿勢など徹底したものであった。

 次に我執・自分の思わくをはずして考えることの徹底。我執があっては「研鑽」にならないと、「無我執」を理念の柱と考え、「研鑽」態勢に入るための話し合う前の態度を重視し、そこに時間をかけた。本当の意味の対話は、問題意識を同じくするもの同士が、一切のキメつけをはずし、お互いに聴き合うことから始まる無我執の世界であり、そこにこそ本当の問題解決が得られるとした。

 対話が独言的主張、説得あるいは雑談になっていくのは、固定した観念や知識の世界にとどまっているだけであり、深まっていかないだけではなく、かえって対立をおこすものと考えた。

 そして、「けんさん」の目的は終局において理想社会の実現であること。そのために、日々の暮らしそのものが研鑽連続生活であり、幸福研讃会を中心的な研究機会とした。


 幸福研讃会のルールは、
1 幸福一色の理想社会を実現さすためのもの。親愛・和合の社会気風を醸成。
2 誰でも参加できる。みな同格で出席する。
3 人類幸福に関する凡ての事柄について検討し、その実現について研鑽する。
4 感情を害しないこと。いかなる場合にも絶対腹をたてない。忌憚無く批判する。
5 命令者・特別人間はいない。自分たちで共によく検討し、一致点を見出す。
 
 などとなる。そのルールの下で徹底的に話し合えば、誰もが納得できる線が生まれるのではないかという観方をしていたようだ。

〈同格〉で参加していることが研鑽会の絶対的な必要条件だとなる。自分の思いも他の思いも権威あると見ている人の思いも、いずれにも重きを置かず、各自が思っていることをそのまま出すことを通して、どこまでもみんなで検討し探りつづけていくことが、山岸が構想する研鑽会のエッセンスとなるのではないか。そのためには出席者は同格でなければならない。少なくとも自分は。


 元来、哲学・思想は対話を通して深まってきた側面をもつ。ブッダ、イエス、ソクラテス・プラトンをはじめ、古来の中国思想なども、対話を通して鍛錬されてきた。「ダイアローグ(対話)」という言葉も、「ロゴス(論理)」を分有していくことが起源で、「ものごとの筋道、道理に乗ったら誰もが承服せざるを得ない」ところを共に見出していくという方式である。

 そのために、徹底的に話し合うことで、自ずと両者が認めることがでてくるのが哲学上の対話だと思われていた。「他者の心は絶対不可視」という命題の切実さをしみじみ感じながら、それを前提にとことん話し合っていこうとするものである。

 山岸も、この対話方式を重視した。山岸会発足後いろいろな問題の解決に、研鑽会・座談会が頻繁にもたれていて、かなりの量の記録や録音されたものが残されている。

 山岸会事件後の1960年7月に始まった「ヤマギシズム理念徹底研鑽会」は断続的に第九回まで続き、様々なやりとりのなかで、「ヤマギシズム」なり、山岸巳代蔵の考え方が語られていくというふうになっている。

 実際の対話の中で語られているがゆえに、各出席者の生々しい息づかいが感じられ、ヤマギシ会でいう研鑽会というものはこういうものだなと彷彿させるものがある。

 また、晩年の山岸巳代蔵の思想を見ていくのに欠かすことのできない記録集で、『山岸巳代蔵全集・五,六巻』全体を使って所収している。

 同時期に、各地に実顕地が生まれ、機構・運営の柱として「研鑽」方式をとっていく。
          ☆

〇研鑽(会)について思うこと
 ヤマギシ会に限らず、様々な見解の人たちの合意をどのように形成していくのかは大きな課題だが、ヤマギシズム社会ではそれの方式として「幸福研鑽会」を位置づけ、あらゆることを研鑽会で検討し一致点を見出していくということを組織構成の原理とした。

 1953年の山岸会発足から、山岸会趣旨の方法に「本会の趣旨を実現するために、全世界の頭脳・技術を集合する研究機会を設け、それを実践する。」とあるように、山岸会を知る入り口として特別講習研鑽会(特講)を設け、参画にあたっては研鑽学校が必修である。

 しかし、特講や研学体験は一時的なものだ。そこで得た実感が、その後の生き方に根付いていくには、絶えざる「研鑽」連続生活の実践を通してしか深まっていかない。
 そのため、実顕地では種々の研鑽会を企画し運営してきた。

 研鑽会も各種開催されていたが、一人一人の可能性や「けんさん」する力を培い育てるという面もなくはなかったが、実顕地や各専門部署のあり方の体得といったような意味合いも強かったと思う。

 私の場合どれほど自覚していたのか心もとないが、参画にあたって、この組織ではすべて研鑽方式ですすめていくのだなというのは、心のどこかには刻まれたと思っている。

 だが、3週間余の研鑽機会を体験したといってもほんの入り口であり、山岸巳代蔵が生命線だと考えている「けんさん」の実質体得はその後の生活態度にかかっている。

〈同格〉の意識など、ことさら研鑽会になってから用意できるものではなく、日々のその人の心のあり方から滲み出てくるものであり、日頃の人に対する心のあり方、研鑽態度が問われてくる。

 しばらく振出寮など研鑽学校の役割に携わっていた自分のことを振り返っても、果たして山岸巳代蔵の描いていたような研鑽態度であっただろうか、と心許ない思いがある。
 この度の〈対話〉に関しての両書を読むと、このようにつきつめて考えたことがない。


 実顕地の中で日常的によく使われる言葉は研鑽と研鑽会で、それは次のように使われていた。「研鑽したの」「研鑽会で決まったよ」「研鑽しておくね」「研鑽してないでしょう」とのように。このような表現そのものが「けんさん」の本質から逸脱している。

 このブログの中で、同じ趣意のようなものは記録していて、ここでは角度を変えて、ヤマギシ独特の運営のありかた「提案と調正」「私意尊重公意行」について見ていく。

「提案と調正」では、研鑽会、相談、提案など対話で、よく使われていた「もっと研鑽したら」、「誰と研鑽したの」、「研鑽しとくよ」という3点についてみていく。
 A:参加者、相談・提案を受ける方。B:参加者、相談・提案をする方。

・「もっと研鑽したら」:Aは同一の資格で力を合わせるどころか、同じ土俵に上がってない。
・「誰と研鑽したの」:Aは同じ土俵に上がっていないし、そこにいない人を気にしている。
・「研鑽しとくね」:AはBのいないところで、検討するかしないか決めている。

 勿論すべてこのようになっていたわけではない。私自身AもBの立場も経験しているが、他者との対話で「お互いのずれと疑いを容認しながら、同一の資格で力を合わせる私たち」のような体験もしてきた。同じ土俵で対話をしたと思えることも度々ある。 

 しかし、振り返ってみると、上記の3点に代表される気風がだんだんと強くなっていったと思っている。(※所属していたのは2001年までで、その過程での印象である)

 これは、Aの立場とBの立場の役割が固定化されていったこと、世話する人と世話される人の固定化、職場や組織を進めている人とそれに従っていく人というような役割の固定化などがあったと思う。

 そのような役割の違いがあったとしても、半年ごと流動的に入れ替わるという「自動解任」の仕組みを作っていたにもかかわらず。


 吉田光男さんは、論考や「わくらばの記」で研鑽(会)や「私意尊重公意行」について度々触れている。

〈前に私意尊重公意行を考えたところで、私意の尊重がないところに公意は成り立たない、と書いた。しかし、私意が尊重されるためには、私意というものがはっきりと成立していなければならない。当りまえの話ではあるが、いつ、どこでも、自分の意思・感情・欲求等を自由に表明できるかと言えば、事はそう簡単なことではない。村の歴史、自分の来し方を振り返ると、特にそう思うのである。

「こんなことを言ってはまずいのではないか」
「流れに逆らうようだから出さんとこう」等々。

 こういう自己規制のようなものが働いて、自分の意見を出さないことがずいぶんあった。これは私だけでなく、多くの村人の心理を捉えていたように思う。だから、どの研鑽会もいわゆる公式発言が多く、中身の乏しい面白くないものになっていたのではないか。

 これは一人ひとりの問題でもあるが、根本は自己規制を促すような村の気風の問題である。調正所を中心とする指導部門が、テーマを通じて「これが正しい考え方だ」と方向づけると、どうしてもそれに沿って考えようとし、本心とは別の意見を出すことになる。個の自立が妨げられ、それをまた一体と勘違いしていた。しかし、個の自立がないところに同化はあっても一体はない。つまり、個のないところに私意は存在しないし、したがって公意も成立しない。私意尊重公意行も成り立たない。(連載『わくらばの記』(8)より)〉


 これは「私意尊重公意行」について「私」と「公」の関係を問い続けた中での文章で、さまざまな「私意」を摺り合わせて「公意」を見いだすには真摯な〈対話〉が欠かせないが、それがなされない例である。

 研鑽会については次の記録がある。
〈研鑽会で自分の思っている本当のことが言えない。一度正直に出したことがあるが、〈指導部〉のある人が「まだそんな馬鹿なことを言っているのか」と言い、何となくみんながシーンとしてしまったので、それからは言わないことにしている、と。しかし、本当のことが言えない研鑽会で、何が研鑽できるのだろう。

 研鑽とは何だろう。あらかじめ正しいことがわかっていて、それを広めるためのものであれば、それは講習会であって研鑽会ではないだろう。研鑽会は、本当がどうかわからないからみんなで調べ合うもので、最初から正しいことがわかっていたら、調べる必要はない。「本当はどうか」というのは、そのためのテーマである。

 そしてこれは、みんなの意見を聞きながら、自分が自分で調べることである。他に向かって「本当はどうか」というのは、相手の意見を間違いとして否定することに他ならない。(連載『わくらばの記』(21)より)〉

 
 要するに、この「研鑽」方式が初期の構想から形骸化していったことが、実顕地が変容していった大きな要因と考える。

 実顕地の現状について評価を下すには、その実態を見定める必要がある。ヤマギシズム社会で最も重視している「研鑽」や研鑽会が、現在どのように機能していて、なされているのか。どこまでも深め追求するという「研鑽」が村人の気風となりえているのかなど、実顕地を語る場合には最優先となる分析課題だと思う。
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 平田氏は終章の「二一世紀、対話の時代に向けて」で次のように述べる。
〈二一世紀のコミュニケーション(伝達)は、「伝わらない」ということから始まる。……対話の出発点は、ここにしかない。

・私とあなたは違うということ。
・私とあなたは違う言葉を話しているということ。
・私は、あなたがわからないということ。
・私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。
・それでも私たちは、理解しあえる部分を少しずつ増やし、社会のなかで生きていかなければならないということ。
・さらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ。
(中略)
・そして、自分と他者との差異を見つけよう。差異の発見のなかにのみ、二一世紀の対話が開けていく。差異から来る豊かさの発見のなかにのみ、二一世紀の対話が開けていく。〉


 ヤマギシの独特の理想に共鳴して参画した人たちとはゆえ、組織は人の集まりであり、一人ひとり価値観や人生観、考え方の違いがあり、意見の相違点も生まれる。その違いが組織を動かす大きなエネルギーになる。

 ひとりでは生きていけない人間は、さまざまな人間とコミュニケートしながら社会をつくる。
 その他者は、自分とはまったく異質の存在ともいえるし、相手から見た「自分」の姿でもある。

 意見は違っていても、一人ひとりの独自性を保ちながら、その「差異」を全面的に認め、そこでなにが決まるか、ではなく、そこに至る道筋のあらゆる地点で、完全に自由であり、他者を尊重し続けることが重要ではないだろうか。



参照・「対話的な学び」に必要なもの(平田オリザ『対話のレッスン』から)
  https://masahiko.hatenablog.com/entry/2020/12/06/000000
  ・他者の異質性を尊重する社会(中島義道『「対話」のない社会』から)
  https://masahiko.hatenablog.com/entry/2020/12/10/000000