広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎説得的定義と「言葉のお守り的使用法」と実顕地

※日々彦「ひこばえの記」4月13日に「手づくりの定義へ(『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』から)」を掲載した。その中に次の文章がある。

〈『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』の解説、鶴見俊輔「手づくりの定義へのすすめ」は次の言葉から始まる。
・〈私は、自分なりの定義をもっている。人はそれぞれ、その人なりの定義をもっている。私の思想の根もとにあるのは、痛みによる定義だ。-----痛みによって定義する。たのしみによって定義することもあろう。そういう、自分のからだの記憶としてもっている定義の束が大切だ。(中略)
「これは善い」という時の「善い」の定義には、「私はこれが好きだ」+「あなたもこれを好きになってください」という二つの判断の組みあわせがこもっており、そこには説得への努力がふくまれているとC・L・スティーブンスン『倫理と言葉』に書いた。「説得的定義」とスティーブンスンの呼ぶものは、数学や自然科学にも少量ふくまれており、社会科学や歴史学においてはさらに大量、そして日常生活で使われる言語では野ばなしで使われている。政治や広告では、説得的定義の本領が発揮される。
科学や技術の名の下に、どれほど説得的定義が、その性格を見わけられることなしに使われてきたが、ある年月の間隔をへてわかってくることもある。〉


 C・L・スティーブンスン「説得的定義」について考えたとき、鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法(1946)」と私の所属していた頃(2001年以前)の実顕地について考えました。

 C・L・スティーブンスン『倫理と言葉』によれば、説得的定義とは自分の態度を表す言葉を表明することで相手の態度を変化させようという言語行為である。説得的定義でしばしば使われるのは、「自由」「教養」「愛」 など、一般に定義は曖昧だが一定の肯定的あるいは否定的な評価が結びついているような語(二次的評価語)である。説得的定義においては「本当の」「真の」という語がもちいられることがよく見うけられる、とある。

 ヤマギシズム社会の構成にとってもっとも根本にある言葉に「研鑽」があります。そのことを「ヤマギシズム実顕地について思うこと」に述べました。それを引用します。

〇〈「けんさん」は、「本当はどうなのか」「もっと考えられないのか」「間違っているかもしれない」という疑問の持続という側面をもちます。今まで常識とされていたことに対しても、自分の観方・捉え方に対しても厳しい問いかけが続くという自覚がいります。山岸が理想社会実現の方法として、「けんさん」方式を基本としたのは卓見であると思います。

 だが、ヤマギシ会に深く関係した人達の中には、この研鑽という言葉を、「少し考えておく」とか、単なる打合せに、「研鑽しよう」と使っていて、その集団内だけでしか通用しないような使い方をしていました。そのために、研鑽ということばに食傷を感じている人も少なからずいました。私をはじめ実顕地にくらす人々が「けんさん」の本質をどこまで掴んで自覚していたのかと自問してみると、かなりの疑問符がつきます。

 鶴見俊輔氏の考察に「言葉のお守り的使用法」があります。
「言葉のお守り的使用法とは、人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場を守るために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事の上にかぶせたりすることをいう。このような言葉のつかいかたがさかんにおこなわれているということは、ある種の社会条件の成立を条件としている。もし大衆が言葉の意味を具体的にとらえる習慣をもつならば、だれか煽動する者があらわれて大衆の利益に反する行動の上になにかの正統的な価値を代表する言葉をかぶせるとしても、その言葉そのものにまどわされることはすくないであろう。言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとり能力がひくいことと切りはなすことができない。」とし、お守り的に用いられる言葉の例として、「民主」「自由」「平等」「平和」「人権」などを挙げている。(※『鶴見俊輔集3 記号論集』筑摩書房、p390)

 ヤマギシズム)実顕地でいえば、「研鑽、一体、調正、本当の仲良し、~が本当、私意尊重公意行、理----」などがあります。その言葉をお守りのように身につけることで、あたかも自分が体得しているかのように錯覚し、その言葉や表現を用いて論をたて人々の説得の道具にするような使い方をしている人、が少なからずいたのではないかと思っています。
 実顕地の中で日常的によく使われる言葉は研鑽と研鑽会でした。それは次のように使われていました。
「研鑽したの」「研鑽会で決まったよ」「研鑽しておくね」「研鑽してないでしょう」とのように。このような表現そのものが「けんさん」の本質から逸脱しています。

 言葉というものは、その意味するところの奥に、それを発している人全体の世界を抱えている場合があり、「けんさん」「無我執」「自然と人為の調和」あるいは、「最も相合うお互いを生かし合う世界」「やさしさ一色のけんさんで、みんなの仕合せの世界を作ろう」「みんな好きや、仲良ういこうな」などの言葉・表現には、山岸自身の心や問題意識を背負っていると思われます。その発した言葉の奥底の心や問題意識まで迫っていかないと、その隠された大きな意味をとらえることが出来ず、浅薄なとらえ方に陥ってしまいます。
※このブログ「ヤマギシズム実顕地について思うこと」(2015/5/28)より抜粋)〉

「研鑽」の限らず、その頃の実顕地は説得的な「お守り的言葉」の使用に闌けていたと思います。その言葉の一つひとつを吟味することなく、自らの感性に照らすことなく、安易な使いかたをしていた。むろん私も例外ではありません。

 このことは特定の理念を掲げた集団にはよく見られることで、その集団内でしか通用しない言葉で語りがちになります。学術分野、健康分野、教育分野などにも感じます。

 鶴見俊輔は『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』の解説で、〈「説得的定義」とスティーブンスンの呼ぶものは、数学や自然科学にも少量ふくまれており、社会科学や歴史学においてはさらに大量、そして日常生活で使われる言語では野ばなしで使われている。政治や広告では、説得的定義の本領が発揮される。〉と述べています。

 「説得的定義」「言葉のお守り的使用法」は、その頃の実顕地を語るための一つの視点になると思っています。また、情報化の激しい現社会の留意しておきたい課題だと考えています。