(2)イデオロギーと「人として」の意味
前回紹介した門田隆将「死の淵を見た男」の記述の中で私が最も共振したのは、巻頭にあった以下のセンテンスだった。
「本書は原発の是非を問うものではない。あえて原発に賛成か、反対か、といった是非論には踏み込まない。なぜなら、原発に『賛成』か『反対』か、というイデオロギーからの視点では、彼らが死を賭して闘った『人として』の意味が、逆に見えにくくなるからである。」
私のこの文に触れて直感したのは、これまで何度か取り上げてきた<事実としての被害―加害>という捉え方の必要性を、別の角度から傍証しているのではないか、ということだった。これまでそうは言っても、そのような捉え方はかなり困難なことだと思わないわけはなかった。特に<被害―加害>の関係は普通の簡単な事件や犯罪でも即対立関係に入り、司法的な裁きの場に依存することが多い。さらにそこにここでいうイデオロギー性が加味されてくると司法判断でも容易に決着がつくものではない。
イデオロギーという言葉は本来、理念体系としての〇〇イズムに類するものであった。それは人間としての理想をその本旨として構想していながら、おそらくここでいう<「人として」の意味>に近いものとしばしば乖離するところがあった。旧来の言い方ではヒューマニズムということになるだろうが、すでに古語に近い節もある。ともかくその部分は私の若いころ頃関わったマルクス主義然り、ヤマギシズムでも後にそれを度々意識するようになった。しかもそれは純粋ではあるがゆえに、頑なで排他的になりがちで、逆に反対派とかれらによる体系的反対論を形成させることにもなり、両者の対立は必然だった。原発是非論もその縮小版となりやすい。
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この書の主人公である吉田氏をはじめとする多くの第1原発暴発抑止・阻止のために闘ったメンバーの行動は、心中にあった原発是非の信条とはほとんど関わりがなかったろう。たまたま自分たちの職場が炎上寸前であり、その影響が地方や全国に飛び火する危険を必死に食い止めることが最緊要だった。したがってこの書は、外部からの強力な支援者のことも入ってくるが、中心となるのは有り体にいえば<加害者>の物語である。被害者の普通の感覚からすればなぜそんなところを肯定的に取り上げるのか、という観方になるであろう。
しかし著者の門田氏が予見し、かつ取材して明らかになったのは、単なる自己職場防衛を越えた凄まじい献身の物語だった。それは文中しばしば登場する「決死隊」という言葉が、決して異常とは思えない現場の取り組みだった。その内容はおそらく原発反対論者をしても瞠目させうる「人として」の質を保持していたのである。そしてその結果はまた<おそらく>ではあるだろうが、そのような危機状況を二度とはさせまいとする原発反対論を利するような気がする。
また著者の取材も相当困難なものだったらしい。東電の職場情報防衛の壁は津波に匹敵する高さだったようだ。少し長いが引用する。
「(私のようなフリーの人間は、軍団で攻めていく大メディアのようなことはできない)・・・さまざまなルートを辿ってアプローチし、私は1年4か月目にやっと吉田さんに会うことができた。食道癌の手術のあとの病床で吉田さんは私の手紙と本を読んでくれて、その上で、会うことを決断してくれたのである。しかし、吉田さんは都合2回、4時間半にわたって私の取材に詳しく答えてくれた。・・・脳内出血で倒れて4か月後に出た拙著を吉田さんは大層喜んでくれた。そして、不自由になった口で『この本は、本店の連中に読んで欲しいんだ』と語られた。・・・番組での青山さんの証言を聞いて、私はさまざまな人たちと闘った吉田さんは、実は最大の敵というのは、『東電本店ではなかったか』と思った。私も、拙著の取材の過程で介入してきた東電本店(正確に言えば広報部)の存在に、最後の最後まで悩まされた。その対応に神経を擦り減らしながら、拙著はやっと完成した。」(「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」門田隆将 ブロゴス7/14)
この取材は実は吉田さん自身が望んでいたものでもあったらしい。文中にある「青山さん」とはこれ以前に吉田さんが取材依頼していた硬派のジャーナリスト(日本放送「そこまで言うか」のレギュラー)だった。しかもいずれも東電本店には無断の、独断行為である。この情報に触れて私の<イデオロギー性>の把握が一挙に拡大した。すなわち東電という巨大組織の護持も、そこに有無を言わさぬ執拗な<党派性>が付きまとうのである。<職務上知り得た情報の漏洩抑止>というコンプライアンス理念も、いうなれば巨大なイデオロギーに化す場合がある。
現場のみならず、このことでも吉田さんは「死の淵」に立っていわば内部告発に近い覚悟されたのであろう。この覚悟とは、いうまでもなく<「人として」の意味>からである。しかもその<意味>が国家的、国際的、歴史的重要性を孕み、巨大とはいえ東電という一企業の存否の問題を超えてしまっている(と吉田さんたちは認知していた)。にもかかわらず、その公表がいかに困難なことであることか。ここまで来てようやくヤマギシ問題にも一部照射可能な部分が出てくる。もちろんヤマギシではそのようなことはほとんど起らなかったであろう。
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もしヤマギシに過誤があったとすれば最も解りやすく明白なのは、<「人として」の意味>にそぐわない、あるいはそれに反する過誤である。いわゆる<こうすればもっとうまくいった>というような運動論的のものは二の次である。その点でマスコミが<学園世話係の暴力>に飛びついたのは正当であった(そこにはおそらくそこに至る内部情報の漏洩があった)。そしてヤマギシの組織を上げての反論活動も、その大勢に抗しえなかったのは当然であった。さらにその後の<村人>の大量離脱はそこに<「人として」の意味>を見出せなくなった人々の無告の行動だった。ということは、それにつながる組織、運動、生活、学園等に多くの過ちがあったということになる。
もちろん良いことも楽しいこともなかったとはいわない。まさにそこに<「人として」の意味>を見出しえたからこそ生活水準低下、辺境・僻地も拘らずわれらは参画し、十年二十年も生活しえたのである。しかも規模的にマイナーであって、その社会的影響力は東電と比べ極小である。にもかかわらず、私はその掲げた理念、未来や地球への希望は、可能性として国家的、国際的、歴史的重要性を孕んでいたと考える。それが結果的に私の認識では、いわば功罪半ばか罪がより多い社会的実験に留まってしまったのは、今でも残念な思いがよぎる。
特に執念という感じはなかったつもりだが、結果的に持続してきたこのヤマギシへの(あるいは自分への)自己哲学は、はじめは私怨=被害感覚もなかったわけではないし、多くは加害的自責感に衝き動かされてのものだった。そして被害感覚の払拭(自責感の部分は微妙に残る)とともに<事実としての被害―加害>という問題意識に至った。この間現実のジッケンチに対しては、期待感はないわけではないが、それをどうこうしようとする意図を抱いたことはない。それはあくまで現村人の課題だから。ただ過誤による加害の部分が明白になれば当局は当然責任を負うべきだと考えてきた。
しかしこれは現在ほとんど夢想に近いとは思う。なぜならそれには東電の吉田氏の例に照らしても、多くの情報の公開ということが不可避だからである。私は自らの体験の自己告白とその公開を通して微力ながらそれに資したいと考えてきた。いうまでもなくヤマギシはイデオロギー性の高い団体として組織護持意識は極めて強力である。ただそれでも当局としてはこれらのことをいつまでも沈黙のままに済ますわけにはいかない。そこに今春の村岡到「ユートピアの模索――ヤマギシ会の到達点」(ロゴス社)出版の一つのねらいがあったと考える。あれが当局の少々の自己批判的内容も加味せざるをえない総括であり、情報の現状許容範囲の告白であろう。
村岡氏は共同体的社会主義者としての好意からその代筆的役割を果たしたと言えるが、多くはヤマギシ賛美でありその過誤と加害の根幹に触れるものではない。無いものねだりになるが、もし村岡氏がその取材を<村>離脱者やその子弟も含めて、本書の門田氏のように辛抱強く進めることができたならば、素晴らしい内容のヤマギシ本になったにちがいない。それこそ私が夢想した<事実としての被害―加害>の時代の記録としてずっと歴史に残るであろう。ただその場合はおそらくヤマギシ当局の支援はないだろうから、すぐに出版できるかどうかわからない。
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ともあれあの<「人として」の意味>を多く失ってきた事態は、私にはいまだ<悲劇>であり、一場の<喜劇>として思い出に化しきることができない。<いつまでも悲劇の過去にこだわるべきではない>とは人としての正常健康な考え方であるし、いつかはそうしたいとねがってもいる。しかし私は同時に<「人として」の意味>はそれに止まらないと考えてしまう。それは私程度の実態ではいかにもおこがましいから、時代遅れ変わりモンの趣味だと見做してもらっていっこうに構わない。けだし人はそれぞれ固有のテーマと趣味を生きることは、パンのみにては生きえない人間の条件に適うことだから。
(2013/8/3)