福井正之『わくらばの記』に触れて
○旧友からのFBへの投稿に「自分が何者であるのか?どのように生き死を迎えるのか…?という問いに揺らいでいる」とあった。私は久しぶりに自分の<同類>に出会ったようで心強かった。同時にこの問いかけへの私の思索は、まだ中途であることを思い出した。 …
〇時に回り道することもあるが、私にとっての焦点は変わっていない。「問い直す⑦<自発的自己抑制>の構造」の中で取り上げた問題意識をさらに私なりに深めておきたい。例によって吉田論考からの引用である。〈(前回紹介した資料の最後)「――しかしこの自立…
〇先回クレーマーのことを取り上げたのは、確かに現在の必要からであった。これまでわがパート職場でかなり面倒だったクレームの主要問題が今春一挙に解決し、あれっていったい何だったのと見直す余裕が生まれた。そのことを私なりに整理しておきたくなった…
〇先回、いうなれば「自分以外の何者かになろうとする」願望について考えたが、そこで私は「今ある自分の姿」とは何かが改めて問われたように思う。その過程で、私はどちらかといえば単刀直入に問題に当たってしまう自分の性急さのようなものに気づかされて…
〇「イズム、イデオロギーなるもの」への問いかけは私にとってかなり根が深い。今回はイズム体系全体への受容のこともあるが、より身近な日常的なジッケンチの「イムズの言葉」の受容、吸収の過程について取り上げる。それも吉田さんの以下の記述に出会った…
〇 <自己存在観>(自分を知る)に関わるテーマBと<真理(真実)観>(ヤマギシ批判=自己批判)テーマAの統合などという少々大仰なテーマを打ち出したところで、また吉田光男さんの文章に舞い戻る。吉田さんの場合Aが主題であって私のような区分けは特に…
※福井正之さんは吉田光男さん逝去後、『わくらばの記』や吉田さんの論考などから、ご自分に引き付けて、「問い直す」というテーマで10回に亘って論を展開し、自身のブログに発表してきた。 随時それを取り上げながら、主にそれに関連したこと、及び、そこか…
私自身の2000年当時の<真理観>については、その時期からかなり経った『ジッケンチとは何だったのかⅡ部』(2009、左上資料編参照)において次のように記述している。〈たしかにもともと人間は、どこまでも理想・真理を求め、理念自体に化すことができる。私…
先回<真理観>と<自己存在観>という二つの観点について書いた。これは吉田さん日録『わくらばの記』に対する私の最初のとっかかりとしての印象表現ということになろうか。こういう自前コトバやテーマは、私のような不勉強、ボキャブラリー不足の人間が、…
吉田さん逝去の事態で、少々混乱したり取り乱したりしていることもあるかもしれない。私はどちらかというと感激性型の人間であり、それによって失敗することもままあった。それもあって、まず前回の吉田さん葬送の文章を見直してみる。かなり重大なことを口…
※福井正之氏は以前のブログ「反転する理想」に、吉田光男『わくらばの記』を、ご自分に引き付けながら考察した記録があり、本人の了解のもとに、順次掲載していく。NOは掲載時のままにした。 〇4月30日吉田光男さんが逝去されました。享年85歳。 吉田光男…