広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

(51)問い直す⑩「特講」がこれまでとちがって観える(福井正之)


○旧友からのFBへの投稿に「自分が何者であるのか?どのように生き死を迎えるのか…?という問いに揺らいでいる」とあった。私は久しぶりに自分の<同類>に出会ったようで心強かった。同時にこの問いかけへの私の思索は、まだ中途であることを思い出した。
 
 くり返しになるが私の論考では、ヤマギシ批判=自己批判テーマがメインではあるが、同時に<自己存在観>に関わるテーマを交錯させてきた。その発想は私の表現では、以下のようになる。
 〈社会を変えようとするなら自分が変わること/しかし今は自分を変えようとは全然思わない/その前にもっと自分を知りたいのだ/自分を知るとは/たぶん自分の変わらないところを/明らかにすること〉
 そこで私は、自分自身の生い立ちや親との関係、自分の理念的なものへの関心の深さ等に着目してきた。いいかえればわが人生について「問いかけ」始めたのである。その中での最大の気づきは「自分がしたいことをはっきりできない子どもは、たぶん本質普遍性や理念に向かうのではないか」という認識だった。これはかなり以前から意識してはきたが、表現としてはムラ離脱以降である。それは自分の欲望や欲求への屈折した態度の結果であり、生き方として決して肯定できるものではない。このことは同時に子育て、学育面にもかかわってくる重要なテーマだと考えている。
 同時に気になり始めたのは、私自身の「特講」体験のことだった。それもこれまではその〈「一体」「無所有」等の真理・真実性への導入的研鑽〉という意識だったが、このところ特講こそ「自分を知る」上でかつてない機会だったのではないかと感じ始めている。

 ちなみに吉田光男さんも手記の中で、何度か自分の特講体験に触れている。
「人間は観念の虜になりながら、自分が観念に縛られていることに気がつかない。私にそれを気づかせてくれたのは、特講である。これなしに自分が自縄自縛に陥っていることに気づくことはなかったかもしれない。私にとって、特講で何かが変わったとか、何かが明確になったというものがあったわけではない。が、すごく楽になったのである。何かが外れたのである。その時はよくわからなかったが、後で考えると、自分の観念の枠組みがストンと外れたのだと思う。途端に世の中が明るくなり、誰とでも仲良くやれそうな気分になった。ものすごい開放感である。」(「わくらばの記」59p)

 その印象は私もほぼ同感である。あの解放感や高揚感もわりと鮮明だが、当時のメモにも触れて新たな発見もあった。私に何かを呼び覚ましたのは以下の部分である。
「ベラベラとしゃべっていたおれは自分が恥ずかしくなった。いわゆるインテリ(教師、学者の卵など)は、これまでとは逆転してどちらかといえば劣等生のようだ。よくしゃべったが、それはひたすら実質のない煙幕をまき散らしただけだった。逆にこれまで沈黙していた人々(農家の親父、自殺未遂の少女など)は、後になるほどその本領を現し始めた。この人々は、血肉化された体験のみを彼ら固有の言葉で訥々と語り始めた。今度は先行するおしゃべりたちが沈黙し何事かを考え始めるのだった。」

 いうまでもなく<怒り研>の場面だった。現在の時点で考えれば、ここで取り上げているのは参加者の「自分への問いかけ」の真剣さだった。その観点では私は劣等生だったのである。自己顕示と韜晦をない混ぜた日常的なおしゃべりの次元で参加し、そのうちこれはなんか<集団的セラピー>の一種かもしれないなどという批評に終始し、その場の渦中には参加していなかったと思う。それが変わったのである。かれらによって私は、人が腹の底から発するもののリアリティーというものを明らかに感じだしたのだ。

 これはまさに「教育者が教育される」場面であり、私自身が「学育」者である言葉を実感した最初の体験だった。「自分を知る」という観点でこの場面を想い浮かべると、そこにあったのは「なぜ私は腹が立つのか」あるいは「そこに残れるか」という自分自身への真剣な問いかけだった。その姿は「自分を知る」ために「われに向き合っている」一人ひとりの存在であり、その微妙な重要さは「一体とは」「無所有とは」という理念的な真理・真実への直接の問いかけではなかったことである。したがってその帰結として生じたのは「自他融合と心的自由(事実と思いの分離)」の心地よさ、解放・高揚感だったのだ。

 そして私が参画を決めた根元的動機は、まさにその心地よさにあったと思いだす。しかし参画して以降、最初に感じた違和感は、ここはどうも特講で体感した世界とちがうのではないか、だった。どこまでも「なんでや」と問いかけ続けられるような研鑽機会はまずなかったし、それに代わる研鑽学校なるものは、どこかお勉強的な学習が多かったのである(自らも係機会の多かった吉田さんはそれへの危惧を随所に表明されている)。それこそ今にして思えば「けんさん(真なる研鑽)」喪失の兆候だった。

 今ふり返るにその違和感こそ、実顕地変質へのたしかな兆候だったのだ。その手掛かりを見失った私(ら)を待っていたのはもうくり返すまでもないだろう。参画以降、仲良し・親愛の自然な心情がいつの間にか実感を失い、「ねばならない」信条と習慣に変質していく。その流れを見れば、イズム理念への傾倒よりも、その真実性への絶えざる(自他への)「問いかけの連続」にこそ真価があると感じる。理念を信条化していくことは、決して理念の正当性を保証しない。逆に理念のドグマ化、宗教化を結果する。

 私の特講受講は1973年のことであり、ざっと三十数年も前のことであるが、特講というものがこのように見えたのは初めてのことだった。そしてこのことは当然ながら、この間「自分はこの世界の中で何者なのか」と問い続けてきたことと直通してくるのである。ただそれはどこまでも孤独だったし、特講は集団だった。しかし特講は「孤独な自問者」の集合であって、集団内の交流に直接の意味はないと思う。あるいは自己研鑽者のその営みのままの集合体といってもいい。
 とはいえ私の特講参加の主たる動機は、やはり「「自分とは何者なのか」から発していたはずだった。
2017/7/26

参照:◎吉田光男『わくらばの記』(5)(2018-03-22)