◎高学年編
(1)試された<生きる力>
ついで高等部など高学年の子を対象に考察する。これについては一度参画した親がジッケンチを離脱し子を伴って旧世間に戻ってきた場合、そこでぶつかったさまざまな困苦や発見についてまず述べてみたい。というのはそれまで通過してきたジッケンチ(=<村>)の環境や教育が、親子や家族のありように結果的に何をもたらしたかを、明らかにするヒントになりうるからである。
ただこういう離脱者同士の私的な情報は極めて乏しい。地域である程度のヤマギシ会員組織が残っておれば多少の情報は集約されるであろうが、ここでは大半は自分の家族プラスその周囲の情報に限られる。ただまさにその一家一家の状況こそ交換不能な切実さを持つ。したがって以下は私の家族の場合とその周辺の伝聞情報に基づく。それは普遍化しにくいものもあるが、共通のものもあるはずである。
中卒以上の大半の子どもらはジッケンチを離れて以降、親同様自己の生活基盤確立を最優先しなければならなかったろう。かれらを待っていたのはほとんどパート仕事だった。当然学歴のことを意識したはずだ。<村>の学園卒では資格は取れず、中卒のままだった。その学歴差は<村>で漠然と想定していたよりは、かなり大きいものだったはずだ。
これは学育理念に基づく<実学>尊重の気風と、子どもらも親と同様その将来を<村>に託するという前提で学歴のことは軽視していたことによる。また高校以上の外部教育機関に子どもを送り出すという発想は、初期は別としてきわめて乏しかった。したがってこのような家族子弟の大量離脱者が出ることは想定外のことだったし、いわば離脱者の自己責任としてジッケンチ当局は対処の意識に乏しかったと思う(現在では、定時制高校への進学を認めているようだ)。
ここに子どもらのことも含め従来の将来予測とまったく違った事態に直面することで、私はいわば愕然とした。私のいわば誇大な夢想のために、妻や子どもらを巻き込んでしまっただけでなく、私の<拡大>活動によって参画へと導かれ(また離脱に至った)多くの家族に対する慚愧の思いで。
新しい状況への適応ということでは親同様、子どもらもだいたいは転々としており、私の息子は夜間作業主体のリフォーム屋で働いたり、娘はパチンコ屋で働いたこともあった。つまりなりふりかまわずの実収入本位であり、それもより過酷なパート労働しかなかった。
親の援助を期待できず、また<村>からの技能学習等への援助は働きかければある程度ないではなかったが、子どもらは基本的には孤立無援だった。
(注)パート労働について、あるブログ(出典メモは散逸)より引用
「マクドナルドで十年修業を積んでも、二ヶ月で覚えたマニュアル以上のことをこなすようにはならない。」スキルアップしない仕事に従事したら、先はない。新しい実質的な能力を身につけていく仕事につかなければ、置いてきぼりを食う。しかし、そんな仕事がどこにある? 誰もが医者や弁護士になれるわけではない。
(中略)美容学校を卒業しライセンスを取っても、それを生かすだけの職場があるだろうか。数十年前に理美容業界は飽和している。(中略)正社員、専門職につけばそれなりのオン・ザ・ジョブ・トレーニングがつめる。仕事の中でスキルアップが図れる。一方はマニュアル段階でストップし、他方は個人に蓄積される生産性は飛躍的に向上する。生産性格差はそのまま収入格差へと反映される。
まず子どもらがこの直面した状況をどう捉えたか、が大きな問題だろう。普通に考えれば親がジッケンチ離脱前後に囚われた絶望と断念の思いが子どもらにも襲ったであろう。<村>学育生活での不適応に苦しんだ子どもらには村を出るのは希望だったかもしれないが、直面した現実には同じように音をあげたと思う。
絶望の苦悩は学園や親や周囲への怒りや怨恨にもつながる。それもいつしか断念の諦めに替わる。それも誰にでもあることだが、朝目が覚めれば待っている仕事への条件反射的日常行動が、それらの鬱屈やしこりを次第に沈潜化させていくだろう。ともかくそれで時間は経過する。時間はともかく誰にでも与えられた無償の治癒薬である。
ただそれだけでは、人は沈黙のまま深刻な状況を容認しえないし、できたとしてもそれはしばしば形だけのものになり、その分自己抑圧をともなう。これは心奥深く格納され、かならずや何らかの機会に噴出せずにはおかないだろう。
それにしても、(親としての責任を差し置いて少し突き放した言い方になるが)この過程で皮肉なことにかれらの<生きる力>はおそらく遺憾なく発揮されたであろう。
例外や個人差もあったろうが、おそらくかれらは似たような状況に直面した世間の同世代の若者たちよりもずっとたくましく、じたばたしなかったのではなかろうか。またそんな余裕もなかった。それに学園時代の<実学>によって培った肉体労働への対応力・持久力があり、食生活も含めた規則的な日常生活によって形成された頑健な肉体があった。
それに合宿的生活によって培われた仲間との深い絆的友情の交流がかれらを支えたかもしれない。また<村>での研鑽学育でそれなりに身についた「明るく、楽しく、前向きに」の学育理念が、何がしかプラスに作用し、あの難状況にそれなりの転換・適応を果たしていったであろうとも考えられる。
(2)実学 <作業>はたっぷり、しかし<学>は?
ここで少しばかりジッケンチの「学育」目標に立ち入る。その根本は山岸氏の次のような考え方があると思う。私は、それは今でも全く正しいと同感する。
「――皆それぞれの持ち味によって、社会的持ち場や、生き方も異う訳で、自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方をすることが、一生を意義あらしめた事になります」
そしてこの達成ないしそれに至る過程を前提として、「和と叡智」に基づく次のような連続<知的革命>の世界を構想していたのであろう。
「――各々が持てる特技を練り、知性は知性を培い育て、高きが上に高きを、良きが上に尚良きを希う、崇高本能の伸びるが儘にまかせ、深奥を訪ねて真理を究め――」
ところでこの「持ち味」ということであるが、いうまでもなく<個性>とつながってくる概念である。その個性・持ち味を見出すことが、ある理念的規範(実顕地では)の下で人としての生き方を身に着けると同時に、子どもの将来・進路にとって不可欠重要な課題となる。
それには親や周囲からの働きかけもあるだろうが、子ども自体の原動力としてはやはり、もっと面白いもの、もっとより良いものへの好奇心・探究心であり、そのなかにはもちろん人間の崇高本能に連なるものもあるにちがいない。そしてその試行錯誤の過程での対象や人への出逢いが、その内容をほぼ決定付ける。その欲求は当然にもジッケンチの枠を越える。
昔、北海道試験場にいた頃、幼年大の子らが散歩から抜け出して、牛の蹄鉄嵌めの現場からなかなか離れずしげしげ見入っていた記憶がある。そのような興味津々な出来事が、<村>にはいっぱいあったであろうし、発展とともにその数を増やしていったであろう。
また学園・学育に付きものの「職場研鑽」も本来はそのような意図のもとに用意されていたはずである。
ジッケンチでは「実学」が尊重されたが、そこに検討すべき大きな問題がある。いうまでもないが実学は現実の経験を媒介しない、単なる空想に終わらないところに意味がある。ところがそこにカラダのみでなくアタマも働いていたかどうか? それが<学>と<作業>を分ける決定的な分岐点になる。単なる時間待ちのルーテインな作業の連続であれば、それは嫌悪感を累積させるだけに終わるだろう。
基本的にはこのように考えられるが、例外もないではない。いわば親に強いられ、苦痛に耐えて続行された小さい頃の作業的な営みが、普通にはそこから子どもらを生涯遠ざける可能性が高いが、幸運にも後に生きる例も些少ながら存在する。
またヤマギシでは教育に対して「学育」を対置するが、その真意はいたずらに「教えないで待つ」を奨めているわけではない。それが成り立つ条件として、子どもらの意欲、仲間の存在が不可欠であり、さらに付け加えればそこに私は<学への企み>というものがありうると考える。
そこに親や指導者が<企み>を込めて対するとき、もっと多くの生産的な結果を残しうると予感する。伝聞だが、親から小区画の田を任せられ、それを自分で好きなように経営して米を作ってみろといわれ、やってみてとても勉強になったという話である。それに食いついた子どもも大したものだが、親もすごい。そこにはっきりした<企み>があった。
子どもは自分の好奇心を満たされただけでなく、おそらく体力のみならずアタマもフルに使ったであろう。ジッケンチ農業では体力使用の機会はありすぎるくらいあるが、ヤマギシは「知的革命」というかぎり問題はアタマである。カラダの練磨も必要だが、アタマがどれだけ練磨されるかである。すでに既述の通りだが山岸氏は「知的革命」の一環として「なるべく働かないための研鑽」を勧め、自らの農業を「なまくら農法」と称したことを思い出してほしい。
余談になるが、私は頭が疲れるのはアタマを使いすぎたからでなく、使えないからこそ疲れるとしばしば実感する。すなわちそれはアタマをとことん使える場面まで事態を切り開けない中途的状態にあるからである。アタマが使うのに値する局面では頭脳フル回転の面白さ真っ最中で、そんなに疲れるものではないし、疲れてもかえって心地よい。その分岐点にほんのちょっとした示唆があればいいし、それができるところに真の教育的リーダーの力量があるだろう。
こういう企みをもった教育的営み(すなわち真の<学育>)というのは、学校ではあまり体験できない貴重なものだし、実働の場が多いジッケンチは環境としてその対極にありながら、実態はアタマが働かない単純作業先行に陥っていなかったであろうか。それはまた(現在は不明だが)山岸氏の理想に反した大人の長時間労働の反映でもある。
とはいうものの私も教師経験の端くれとして同情的にもなるが、こういう<企て>を準備するのは容易なことではない。だから学校教師は注入―暗記の詰め込み方式が日常化し、ジッケンチでは習慣的、惰性的な作業が多くなったであろう。したがって教育界ではそういう意図を伴った○○方式が注目される。
教育界における<実学>に近い試みであった「仮説実験授業」を高等部でも一時やってみたが、おそらく拡大物見せ興業が先行し長続きしなかった。
ただ人間というものはどんな状況に置かれようとも、自らその状況を認識し比較し、全体像を組み立て、そこに意識的に働きかけていこうとする知的存在である。こういう自ら発する営みは多くの困難を伴うにしろ、その過程は面白く、集中や達成感は心地よいある種の快楽であって、こういう体験が一つでもできればそれはその人の生涯にわたる宝になる。またその宝を見出す過程には、同時に自分の持ち味・適性の発見も伴う。
こういう<アタマを使う快楽>というのは実学的なものばかりでなく、純粋数理哲学や文学、芸術表現にも必ずあるはずで、ジッケンチのこういう分野への軽視はいかにも「知的革命」の里には相応しくない。現実経営優先の呪縛があまりにもきつすぎたからであろう。
(3)親子関係の修復 <親愛の情>の再発見
ところでジッケンチを離脱した親子の場合、そこにある種の対立・葛藤が予想されるが、私ども、あるいはその周辺では予想されたほどシビア―なものではなかった。しばらく私たちと同居した娘はいったん学園時代の思い出になると、その係りへの批判的舌鋒は痛烈だった。また母親と何かの件でもめ事になったとき、「可愛い子どもを守るのが、親の仕事でしょ」とズバリ言い切ったこともある。しかし基調はいわば明るく楽しく融和的でほとんど影らしきものはなかった。
また私たちの離脱よりもずっと以前に<村>を離れ、親とはほぼ絶縁状態だった息子が会いに来たとき、私は彼の未来を奪ったものとして非難・罵倒を半ば期待したが、そんなそぶりは微塵もなかった。
娘はその持前の性格から友人も多く、学園時代の仲間を私たちの住む海浜でのバーベキューパーテイに時々連れてきていた。そこで私たちはその輪の中での会話に付き合ったが、かれらは娘と同じように楽しくはしゃいでおり、暗い影はなかった。学園生活についは係りへの憤懣は時折漏れるものの、友人間の交流は基本的には楽しいものだったらしい。また親への不満は何も聞かれなかった。中には親の理想への献身を滔々と弁護する子どももいた。
もちろん例外はあるだろうが、親へのその融和性はどこから来るのか、私はよく解らない。転換もあったではあろうが、それに至るもっと実際的な理由がありそうに思う。
一つは、ジッケンチ親にはいわゆる思春前期の子どもの反抗期というものに出会っていないという感慨が多いと思う。私は<村>に在ったときは、これを「親離れ・子放し」という学育理念の優位性だと解釈していたが、今は必ずしも釈然としていない。
たしかに親子が同居しないことで両者の直接的な対立・葛藤は避けられ、子ども同士の横のつながりが深まりやすかったであろう。ただ最初からそういう<壁>がない社会では、子どもらの自立心は本物になっていくのだろうかという危惧が残る。
ただ子どもらの反抗は、親よりも学園・学育の世話係に向かうということは、その接する時間的な長さからも充分考えられる。実際子どもらの思い出話の中では、世話係への評判は高学年ほど悪くなる。ならば子どもらのこの反抗心は充分正常だと考えられる。それを<壁>として、子どもらが<外>に向かうきっかけの一つになったかもしれない。
また<村>外で親と接触しだして以降、子どもらはいわばほとんど初めてに近い、家族の輪の中にあるという感覚を新鮮に受け止めていたのではなかろうか。
実際、<村>にいた時も、子どもらは学園の宿舎で暮らし、月一度ぐらいは親の居室で「家庭研鑽」という出会いの場を持っていた。それはそれで親にはうれしいものではあったが、子どもらにはいわば<権威>的な父親(の私)のお説教で必ずしも楽しくはなかったであろう(テレビやお菓子は別だろうが)。そしてその親の背後には学育理念に基づく<親のあり方>があり、個別の家族よりもジッケンチ全体のことを思う<メンバーのあり方>が張り付いていた。
ここで改めて「家庭研鑽」という言葉ないし位置づけが気になってくる。あえていえば家族とは「研鑽」もあってもいいが、それも含むもっと広く深い分野である。研鑽とは言語を介した意識的交流の世界であり、皮膚感覚や心情的な触れ合いをベースとする<家族>の世界には馴染みにくい部分だと考える。そしてジッケンチの個別家庭は、学園での集団生活で友だちとの融和的な交流もあるが時にはストレスもひきずる子どもらを、基本的には受容する場であると考えた方がいいであろう。これらは第2部で触れた「対幻想」として括ることができる家族の特異性にも関わる。
したがって親子の間柄は、親が理念的に<真面目>なほど、あるいはジッケンチとの教条的一体化が強いほど、子の反発を受けやすいようだ。それで家族としてのかけがえのなさをどこかで変質させ、くすんだ部分やぎこちない緊張の部分があったかもしれない。娘からの聞いた<村>在の友人の話では「なぜ(親は学園係に対し)私を助けてくれなかったの」と成人近くになってから、泣きながら母親をかきむしったという。
それが村から出ることで、個別家族の切実でみずみずしい味わいが初めて蘇ったと感じる。少なくとも私たちの家族はそうだった。親は子どもを愛し抱擁し守ることが当然だという<親愛の情>がどくどく湧き出る。子らの望むことは何でもしてやりたいのだ。そして子どもらもいつしか素直にそれに答えてくるのである。かつての<甘やかす>だの<叱る>だのというあり方(私など、かつては積極的に推奨ていた)なぞどこ吹く風であった。
それはこれまでのように中途半端なうす情けのような親の愛ではなかった。それも、これまで何もしてやれなかったという親の悔恨と、その何かをしてあげようにも極めて不如意な環境という特殊な状況の中でこそ起こりえたことかもしれない。
ただふり返って敷衍すれば、この体験は本来の実顕地生活での理想ではなかろうかという気がしてならない。ジッケンチでは「親愛の情」を金科玉条にされたが、それは本来観念でも理念でもない(「潤いのない造花ではない」)。熱くあたたかい空気そのものである。そもそもそのような「親愛の情」を人はどこで感じ、学ぶのであろうか?
いうまでもなく、だれにとってもその実親(あるいはそれに当たる人)によって感じられ、学んできたのである。ならば<村>にある子はそれをどこで感じ、どこで学ぶのか? 「家庭研鑽」の場がその最高の場であるはずであった。
もちろんその場では、親は人生の先輩として厳しく叱ることもあってしかるべきであろう。しかしそれはわが子への絶対愛から発するものであれば、理念や周囲を顧慮したかたちばかりのものになりはしない。それはたぶん親自らを刺し貫いて子に届くものである。
ジッケンチには理念上<身代わり>はいっぱいいたとは思う。しかしそのような、実親と同体でありうるような<身代わり>は、そんなにいたとは思われない。
そして現在子どもらはわが家の団らんの中で、昔の学園生活の実態をぼつぼつと語っており、意外な話も多かったのである。それがまたかれらの新たな自己表出の機会となり、親・子ともどもある程度の過去の整理も可能になってきているように感じる。
つまり十年以上も遅れて子どもらの当時の真相を知るという時間的なずれは、私たち離脱家族にとって宿命的なものであるようだ。<村人>のまま残った家族はどうなのかは知らないが、ジッケンチのある種のソフト化でおそらく私たちと同じ経験をしているかもしれない。(そもそも私がこういうジッケンチ試論をまとめる気になったのも、離脱後かなり経っていると同じ背景によるだろう。つまりそうできる環境が訪れなかったのだ。)
(4)将来志向 終身<村人コース>忌避は自然
ジッケンチ離脱親子にとって、子どもの将来についてはほとんどゼロから再構築するしかなかった。小さい子の場合はそのまま地域の小・中学校への再入学ということになるが、それ以上になると中卒のまま働き続ける場合が多いだろう。親の方で少し余裕があれば高校入学、あるいは高卒資格を取るための独学ないしスクーリング、また各種専門学校、さらには大学入学のコースをとる子もいる。それらはほとんど強いられた選択であって順当なコースとはいえない。
他方、かれらがジッケンチにあった頃の子どもの順当なコースとしては、<村人コ-ス>しかなかった。ジッケンチが現在のような壊滅的事態に遭遇しないということを仮定しても、そういうコース選択は正当だったといっていいのだろうか?
いうまでもないがジッケンチは、その周囲をまったく別の価値観、経済環境、生活環境に包囲された場でありながら、それらと全く独立して成り立つものではない。どこかに接点をもって<外>に依存する必要もあった。教育も基本的には同じである。
かつて「実顕地にはほぼ二百の職種がある」と聞いて、そこまで増えてきたのかと心強く思った時期もあった。そして実顕地が一つの<社会>を目指す限り、そこに職種に限らず、あらゆる産業、生活、教育、福祉等の組織、施設、各種機関を、実顕地に相応しく組換え取り込んでいくことが<発展>のかたちだった。
ところが高学年に上がるとともに、子どもらは<村>外の世界に興味を持ち出す。これは学園・学育でのテレビ禁止等の抑制の必要につながってくるが、それをもってしても容易に抑えきれない強力・自然な欲求になる。これはいうまでもなく始めっから勝負が見えている。係りや親の禁止的対応はかえって反発とストレスを増やすだけになり、それが親の大量離脱以前に<村>育ちの子どもらの外への流出につながっていた。
ただヤマギシの場合幸運だったのは、かの「はれはれ運動」が極めて効果的に事態を切り開いていた。この運動の中心にあった若いリーダーたちは外部学生から構成されており、かれらが展開したのは私にはヤマギシ理念新解釈によって躍動するルネッサンスに見えた。若者の外部流出が鈍化し、<村>外から内への逆流が始まっていた。これがのちの学園高等部創設への原動力になっていった。
すなわち子どもらの心を捉えたのは、やはり<面白いもの、カッコいいもの>であったのだ。力による禁圧でなく文化力というべきものが、最終的には大勢を制するのである。それが大自然との共生の営みとしての農的生活への好奇心を引出し、その多くの工夫改良の可能性の発見、さらにその生活表現としての学園の合唱・演劇などに引き継がれていった。さらにそこから大学部創設や若者の<村>への参画の動きまで登場した。
ところがこの流れが制度化され、経営持続の日常性に組み込まれていくや、再び重苦しい雰囲気がよみがえる。そこへタイミング悪く集中したのが例のマスコミ大攻勢だった。再び若者の<村>外流出が勢いを取り戻す。
この流れにはいくつもの要素が複合している。
・ジッケンチに魅力がない
・農業に魅力がないとする社会的な趨勢
・いったんは<外>でやってみたい、あるいは「遠くに飛びたい」という青春期固有の生理的な本能(きわめて精神的でもある)
・ジッケンチのそれなりに多い職種であっても、子どもの能力・資質上どれも適合不能で<外>にそれを求めざるをえない場合
親や大人たちにとって、<外への魅力>の多くは虚飾に満ちた幻想であり、当然にも危惧を抱く。これは実顕地が<正常>であるかぎり基本的には正しいと思う。
<外の自由>とは、<村>のように直接的には強いられないが、労働者自らの自発的装いのもとに蟻地獄のような現代資本主義特有の<穴>に落ち込んでいく<自由>を意味する。特にその状況は先述のパート労働において顕著である。それは私たち離脱した親たちが、共通に直面した現実であった。もちろんそれを突破する可能性はないわけではないが、それこそほんの一つまみの運と才能に恵まれた特別な人のみであろう。
ただそれも、いったんは外に出てみて納得するまでは解らない。その時ではもはや遅いのである。大学部・参画へとつながった少数の子どもらを除いて、多くの子どもらがろくな社会的職業的な訓練もなく、ジッケンチ・学園を離れ、かなりの辛酸を経験させてしまった。それで仕方なくジッケンチの社員に舞い戻った親や子どもらもいるだろう。
アメリカの共同体の中には、子どもらをいったん外に出して実体験させ、また戻って来れる仕組みがあるらしい。たぶん現在のようなある程度ソフト化された(あまり実情は知らないが)ジッケンチには、そのような試みは可能だと思える。
これはかなり必要な試みであることは、うちの娘のように「ここも嫌いじゃないし、野菜のお世話も大好き」といっていた子どもらが一定層居たはずだと思えるからである。青春時、「今ここある、その外遠く」への切実な希求や憧れがない青年はいないはずはない。これは誰にでもある青春時(に限らない)につきまとう<自分探し>の衝動から発するものであり、自分にとって異質な他者や世界と出会うことによってしか満たされないものであろう。
逆に思い起こせば親たちだって、かつては外への試行錯誤の果てにヤマギシに出会い、いわば心置きなく参画したのであるが、子どもらはこれから同じその途上(方向は違うが)に立とうとしていたといっていい。親にできたことが子どもにできない、というのはある意味ではフェアーではない。
またそのかなり際立った能力、資質、体質によって<村>外に進路を求めた方が良いケースもかなりあったと思う。その点ジッケンチ内でどの程度知られていたかはわからないが、山岸氏の子息が氏の熱心な援助のもとに高名な画家になられたそうである。親から見て(また別にわが子とは限らないが)、芸術的ないし知的な才能ある子どもらを<外>に出して教育・援助したいだろうし、また実顕地としてそうすることは理念上何ら問題はないと思う。
また逆に特殊な障害のある子どもらを<外>に託すことも当然のことであろう。ところが一般メンバーは<村人コ-ス>にあまりにも固着化して、そのような発想すら無理・論外として考え及ばなかったのではなかろうか。
人は何を成すべく余儀なくされているか――そう、誰でもない彼しかなしえない課題を求めて人は放浪する。
(第3部了)2010/12