◎吉田光男さんの『わくらばの記』の中に、『中学生のための社会科』から引用した「山岸会員との対話」のことが記録されている。
それは、次のような内容になっている。
《数年前、偶然に伝説されていたユートピア山岸会の会員と出会って話を聞く機会があった。これはいい機会だとおもって、聞いてみたい関心のあるところをたずねてみた。その肝要なところを記してみる。わたしが知っているのは山岸会がまわりを一般社会に囲まれたユートピアだということだけだった。》
その中から、学園についての部分を見てみる。
《質問(吉本)もし会員の子弟が特殊な分野の勉強がしたくて一般社会にしか教えてくれる先生や専門家がいないので、そこで勉強したいといったらどうするのか。
答(山岸会の会員)そんな子はいませんよ。
〈なぜという疑問を感じたが、会員も反対の意味で疑問を感じたらしい。)》
〈吉田記:この対話の中にはさまざまなテーマがあると思うが、ここ十数年学園問題を考えてきた自分にとっては「そんな子はいませんよ」という一言は特に大きな問題として響いてくる。
学育・学園の歴史の中では、「そんな子はいない」どころか、事実としてたくさんいたのである。(略)
「そんな子はいませんよ」という答えが事実に反していたことは、だれも否定できないだろう。問題は「そんな子はいない」という考え方の中に、何が潜んでいたのか、そしてそこからどんな考え方が芽生えてしまうのか、ということである。
そんな子はいない→そんな子はいてはならない→そんな子の存在は許されない。
こうして次第にエスカレートする強制力容認の考え方が生まれてくる。私たちはこうした誤った見方・考え方から、子どもたちに無言の圧力をかけ続けてきた。学園の世話係りの多くが、子どもたちに直接の暴力を振るったことも、後になって次第に明らかになった。子どもたち一人ひとりの違いを見ようとせず、子どもを一律に扱う学園のあり方の根っこの部分に「そんな子はいない」という考え方が潜んでいたことを深く反省しなければならない。〉
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ある期間わたしは、実顕地で若者たちに関連した役割についていた。また青年年齢に達していた学園生の参画手続きをしていた。
当然だが、子どもたちは多種多様な感じ方をしている。村(実顕地)ではとてもできそうもない勉強をしたり専門を究めたり、自分の興味のある道に進みたい人、あるいは,とてもではないが村でやれなくなったり、早くここから逃げ出したい人、いろいろな人がいた。
また一般の社会へ向けての就職や生活拠点を得るため、私と一緒に動き回った若者も何人かいる。
一方、その当時の実顕地に魅かれて、村に参画した若者も増えていたが。
『中学生のための社会科』の「山岸会との対話」部分を一つひとつみていくと、当時の実態とはかけ離れたことをさらりと言ってのけている。
「欲求はすべて叶えられる」「自分の得意な労働をすればよい」「そんな子はいませんよ」」「係りがいて要求通りのものを必ず購入してくれるのだから不必要です」。かけ離れているというよりも嘘である。
ここでもっとも問題にしたいのは、「そんな子はいない」という見方である。他の答えにもいえるのだが、「すべて」「必ず」など、ものごとのもつ多様性、異質性をそぎ落としみていく俯瞰的な第三者的な語り口である。
吉田さんが分析しているように、これは「そんな子の存在は許されない」につながる全体主義的な思考である。
吉本 隆明は、北山修との対談集『こころから言葉へ』(弘文堂、1993)で、家族に替わる実験的な共同生活、共同育児の話題から次のように山岸会に触れている。
「子どもが外の世界に出てゆこうとするのは当然あるだろうと思うので、そしたらどうするんですか、と言うのに対して、自由にさせるという答えを期待していたんですが,そうではなくて、『そんなことは言わない』というので、その点は疑問に思ったんです」
外の世界に出てゆこうとする子どもに対して、「そんなことは言わない」とはどういうことだろう。
そんなことは言わない→そんなことを言う子はおかしい→そんな子はいてはならない。とならないだろうか。
※吉本隆明『中学生のための社会科』(市井文学社、2005)
参照:吉本隆明「ひきこもれ――ひとりの時間をもつということ」(大和書房)より。
「でもぼくは、一般社会の中にいて、不登校的な生き方を貫いていくべきだと思うのです。自分たちが優れていると思っている人も、その逆の人も、一般の人たちとは別に自分たちだけの社会を作ろうとは思わない方がいい。なぜかというと、閉じられた集団に身を置くことは決していいことではないからです。スタートの時点から、一般社会と自分を区切るようなことをしてはいけない。自分を特別な位置においてしまうと、世の中には色々な人がいて、考え方が違ってもみんな平等なんだ……ということが成り立たなくなってしまいます。それに同質のものが集まって作る社会は傷つくこともなく快適ですが、先が閉じています。発展していく余地がないのです。いくら立派な理由があって作った集団でも、始末におえないものになってしまう恐れがあります。」