広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎(50)問い直す⑨一体ならぬ同化、ひっかかりの我執化(福井正之)

〇時に回り道することもあるが、私にとっての焦点は変わっていない。「問い直す⑦<自発的自己抑制>の構造」の中で取り上げた問題意識をさらに私なりに深めておきたい。例によって吉田論考からの引用である。

〈(前回紹介した資料の最後)「――しかしこの自立がないところに同化はあっても一体はない。つまり個のないところに私意は存在しないし、したがって公意も存在しない。私意尊重公意行も成り立たない」(113p)を承けての次の段落。

 〈ヤマギシの中で私意の表明を妨げていた言葉に「ひっかかり」と「我執」がある。……これ(ひっかかり)は誰にでも起こりうることで、それが物事を考える出発点になる。しかし村では、ひっかかることはこだわることであり、良くないこととされてきた。こうした先入観の下では、自分の思い悩むことなどはとうてい出すことができない。それは解消されずに個人の内部に蓄積されることになる。そしてひっかかったり、こだわったりしたことは、我執として否定されてきた。そうなると自分が一番思い悩み、考え、解決したい問題が、闇に葬り去られることになる。本当はそのひっかかりこそが、研鑽さるべき最大なテーマの筈なのだが……。2000年問題以降、ずっと悩み、考え続けてきて、ようやく悩みひっかかることこそが、自分が真正面から取り組むべきテーマなのだと気づくようになった〉(113~114p)

  あのマスコミ指弾の大波の下でも当時の村人の日常は決して重苦しかったわけでもなく、日常的な明るい語りや笑顔はそのままだったであろう。しかし今思い返してみれば、吉田さんの言われる「同化」という指摘は微妙で大事な部分を浮き彫りにする。一体というより、日常的な集団<同化>の姿は一見明るかったのではなかろうか。しかしこの同化の明るさの背景に進行していたことは、そんな生易しいことではなかった。

<上下階層化>はさらに強固に確立され、実はメンバー同士の横の付き合いが何となく憚られるもの、いいかえれば一列横のつながりが次第に解体しつつあったのである。それは吉田さんの「会員時代よく会っておしゃべりしていた女性たちが、参画後は会ってもお互い素知らぬ顔して通り過ぎる、といった光景がよくみられた」(30p)という印象とも符合する。いいかえれば「けんさん」による心の肝心な部分を交流し合える機会のない関係の実態は、どこかでそれとはない孤独感を漂わすことになっていたのではないか。

 こういう部分について山岸さんは何か言及していることはないのか? ムラ出後、私は改めてその個所を発見したように思ったのは青本の以下の部分だった。

「……万一不幸と感じる事があるなれば、それは何処かに間違いがあり、その間違いの原因を探究し、取り除くことにより、正しい真の姿に立ち還ることが出来るのです。幸福が真実であり、人生はそれが当たり前のことであって、不幸は間違いです。」(8、幸福一色 快適社会)

 もうすでに暗記し続け、今でも思い出すあの部分である。いったいこの文章は何のためにあったのか? まったく寺の坊さんがその中身も顧慮せず経を誦するように、覚えていただけだった。しかしこの文章の現実の効用は、表面下でメンバー個々の不幸感を抑圧するように作用しただけではないのか。その「原因を探求」するという方向とはまったく逆に。というのは、山岸さんは「不幸は間違い」と断定しながら、決して「不幸と感じる」こと自体を否定していないのである。

 にもかかわらず多くの人は「不幸と感じる」なんてそんな人はこの「幸福一色快適社会」に居るはずがないと、かぶりを振ったであろう。そして多少のひっかかり、こだわり(それこそ不幸感の始まりといってもいい)があったとしても、それは良くない恥しいことだとみなしたであろう。おぼろげながら私のなかでもその記憶が甦ると、涙が湧いてくるくらい滑稽に感じる。 

 しかしこれは笑い事ではない。このことは「私意」形成の(同時に「けんさん」の)大前提となる自分の内面を探る自己観察、自己凝視を、何となく悪いことをしているようで無意識に避けようとする自己規制を生じる。しかもイズム信奉に真面目な人ほどそうするだろうし、それができないとついつい自分を嫌悪し否定することもないとはいえない。そのように思い当たってきたそのことを私は「自発的自己抑制」と命名せざるをえなかった。このことは極論すれば、自己内面、本心、本音の喪失にまで帰着しかねない。そこまでは行かないにしても、その貧弱化は避けえなかったであろう。 

 外界への無関心、自己内部への沈潜という営み・生き方も社会的には充分ありうるし、文学などという営みはそのことを不可避とする。しかしわれらが生き過ごした、ああいう<同化必須「けんさん」不能>の近接集団は、学園生も含め、読書や文学ないしその他の内面表現不毛の環境になり果てていたのである。にもかかわらず、その学園生の中から密かに読書を継続し続け素晴らしい表現者になりえていた人が存在していたことは、唯一の救いである。それはいかに抑圧しようと挫けない人間精神の強靭さを表して余りある。
2017/7/10

参照:◎吉田光男『わくらばの記』(8)(2018-05-03)