広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎過去は同時に未来および現在であり

※過去を現在および未来に生かすことは、このブログの趣意であり、吉田光男『わくらばの記』も随時触れている。それに関してのいくつかの視点を見ていく。

〇吉田光男『わくらばの記』(2)から
 〈1月26日〉
 未来は過去から照射するしかないと思うのだが、そのことと過去にこだわる、あるいは過去にとらわれるということとどういう関係にあるのだろうか。

 恐らく「こだわる」ことは、過去を調べることをやめ、固定化することだろう。そしてその固定化した過去に自分がとらわれ、身動きができなくなる状態を指すのだと思う。

 だから、未来を照射しつづけるためには、過去を調べることをやめてはならない。繰り返し繰り返し調べることである。

 〈1月27日〉
 未来は過去からしか照射できない、と書いた。よく研学などで「いま、いま、いま」ということが強調される。「直面している今から逃げてはならない」という意味で、これは正しい。しかし、その「いま」をどこから考えるかといえば、過去の経験や知識から得たもので考えるのである。だいたい「いま」という時の流れを切り取ることなどできない。切り取られた「いま」は、時の流れとしての「いま」ではなく、観念がとらえた近過去の映像である。

「いま」を強調することで、過去に目をつぶり、歴史を忘却することは許されない。

 安倍首相が、「過去を未来の子供たちに残さず、未来志向の世界を構築する」などとバカげたことを言っている。慰安婦問題を無かったことにしたり、金でケリをつけておしまいにしようなど傲慢も甚だしい。

 ヤマギシでいえば、1980年代以降の急拡、そして急速な縮小、そこにいったい何があったのか、なぜそうなったのか、そしてその時私たち一人ひとりは何を考え、どう行動したのか、繰り返し繰り返し考えてゆく必要がある。そこにしか未来に生かすべき教訓はないのだ。

  
〇吉田光男『わくらばの記』(9)から
 (5月×日)
 昨日、KTさんから手紙をもらい、村の歴史の中でこの歴史をつくってきた一人ひとりには、語りつくせぬほどの重い体験があることを感じさせられた。しかし、それらが少しも記録されることなく、忘れられ消滅してしまおうとしている。残っているものがあるとすれば、それはいわゆる“ハレハレ”の公式的発言の記録で、発言者の人間味を少しも感じさせることがないものばかりだ。

 振り返ると、村には書かれた歴史の記録がない。数年前にやっと年表が作られただけである。なぜ歴史が書かれないのか。それは恐らく、村が無謬性の神話に捉われているからではないかと考えられる。しかし、一つの集団がいつも正しく誤りのない歴史を刻んできたなど、とうてい言えるものではない。歴史を書くということは、自分たちの正当性を主張するためではなく、自分を正直に振り返り、そこから正しからんとする次へのステップを見出すためである。

 歴史が書かれないもう一つの理由は、「歴史は今、今、今の連続であり、過ぎ去った過去はテーマにはならない」とする考え方である。確かに私たちにとって、「今」こそが問題である。それは間違いのないことではあるが、その「今」は過去の蓄積の上に成り立っており、当面する「今」が未来を動かす出発点になるということを忘れてはならない。「今」をどう見るか、それにどう対処するかは、過去の反省や検討、未来への展望なしには出てこない。これがないと、私たちは目先の現象だけに一喜一憂するその日暮らしの生き方しかできなくなる。

 しかし、歴史をまとめるということは大変な作業である。それを可能にする人材も資料の蓄積もない。むしろ今やるべきことは、一人ひとりが辿ってきた自分の個人史を書いてみることではないだろうか。村の歩みのひとこまひとこまで、自分が何を思い何を願って行動したか、また今それをどう思うかについて、正直に書いてみる。そうした個人史、自分史の蓄積が、村の歴史なのだと思う。

〇吉田光男『わくらばの記』(19)から
(3月×日)
 朝日新聞掲載の片山杜秀氏の文芸時評を読んでいたら、次のような言葉にぶつかった。
「近代西洋思想は進化や発展や成長のことばかりを言いたがり、過去よりも未来に高い値打ちを与えたがる。しかし、過去も現在も未来も、結局はそれを考える人間の意識の中にしか存在せず、意識は常に現在進行形なのだから、過去と未来という一緒にならぬはずの時間は現在の意識の中で重なる。そういう時間を一所懸命に区別しようと思うことがおかしい」
 進化や進歩や成長がかなり疑わしくなった今では、この言葉はかなり納得できる。ただ今回この言葉に注目したのは、先月書いた老蘇についての私の見方が、やや偏っていたのではないかと思わせられたことである。つまり、「年をとるまでに自分の内部に蓄積(内化)したものが少ないか無に等しい場合は、老蘇としての生き生きとした人生は送れないのではないか」と書いたことだ。
 内化したものの質や量が、人によってそれぞれ違うことは当然だが、それが少ないとか無に等しいなどとは言えないのではないか。人によってそれぞれの経験があり、記憶・思い出がある。その過去の経験・記憶・思い出を今に蘇らせ、それが自分の人生にとって何であったのかを見つめなおし、残された人生に活かす。こうして、過去は現在の中で未来と重なることができる。ここに老蘇の生き方を可能にするものがあるのではないだろうか。
 ただ、過去を過ぎ去った昔の出来事として固定して動かすことができなければ、それは古びた日記帳のようにただ朽ち去る以外にない。介護にとって一番大事なことは、身体的なケアとならんで、この心のケア、過去を今に蘇らせることを、老蘇自身ができるように手助けすることではないかと思った。

〇記憶の掘り起こし方
 ここでは、自らの体験を語るときの、その記憶の掘り起こし方について考えてみます。その人が自己同一性を保っていられるのは、心身のもっている自伝的な記憶によるものです。
 それは、想起する際の対人的、社会的、文化的文脈によって容易に変容し、再構成されます。その記憶のいくつかは繰り返し想起され、その人のもつ気持ちや価値観に添った形で書き換えられます。つまり、単なる事実としての記憶ではなく、現在の自分に納得するように解釈し意味づけられた物語ともいえます。

 この辺りのことについては、5月14日のブログの中で、精神分析家のJ・ラカンの「わたしを他者に認知してもらうためには、わたしは『かってあったこと』を『これから生起すること』をめざして語るほかないのである。」などに触れてあります。
 しかし、過去の出来事をありのまま正確に語ることは無理であるし、その必要性はあまり感じません。
 私たちが心地よく生きていくうえで必要なのは、過去の事実の正確な掘り起こしではなく、現在への適応と、将来への展望に役立つように願っての過去の記憶の再構成です。
 
 また、真摯に振り返っている限り、もとの情報と違ったものになるわけでなく、現在のその人にとっての過去の事実認識だと思います。(※意図的にあるいは無意識的に事実と全く違ったことを語ってしまう人もいます。)
 そのためにも、自分について振り返って書く(語る)ときに、①自分の記憶が不確かであるという自覚、②自分のしていることを客観視していくことの誠実さ、③多くのものごとには、光と影、表と裏、メリットとデメリットがあり、多角的に見ていく複眼的視点が大事になってきます。
 記憶には、すぐに想起できることもあり、普段は無意識の領域に潜んでいて、あるとき突如思い出したりします。体験をじっくり書く(語る)ときの面白さは、そのようのことの出会いにもあるといえます。

〇ブログ『ひこばえの記』「前未来形で自分の過去を回想する」)から
 多くの人にとって、過去のつらい出来事や思い出話を語るとき、「過去におきた事実」をありのままに語ることはできないだろうと思っている。意識的か無意識的であるかは、人によって違いはあると思うが、現在の自分に納得できるように、あるいは、そのように思いたいように語っていることもあるだろう。

 相談など自発的に人に聴いてもらうとき、関係のあり方により多少の違いがあるにしても、その話の聴き手に「自分はどういう人間だと思ってほしいか」を願っている。話を聴き終わった時点で、聴き手からの人間的な理解や信頼や愛をめざして、人は自分の過去を語り出すことも多いのではないだろうか。私自身を振り返っても同じようなものだと思っている。

 精神分析家のJ・ラカンはこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」と説明している。

「前未来形」というのは、「明日の午前中に私はこの仕事を終えているだろう」「四月に私は介護職についているだろう」という文型に見られるような、未来のある時点において完了した動作や状態を指示する時制のことである。

「わたしを他者に認知してもらうためには、わたしは「かってあったこと」を「これから生起すること」をめざして語るほかないのである。

 わたしは言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。わたしの語る歴史=物語のなかでかたちをとっているのは、実際にあったことを語る単純過去ではない。そんなものはもうありはしない。

 いま現在のわたしのうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のなかで実現されるのは、わたしがそれになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来なのである。」
(J・ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領域」、『エクリ(Écrits)』。『コミュニケーションの磁場』内田樹訳より)

 だがこれについては、多かれ少なかれ誰にとっても抱えている限界でもあり、これを自覚していることが大切だと思う。
 語りに限らず自分のことを表現するのは、過去の体験や最近の出来事を振り返り、今の自分に引き付け他の助けを得ながら、結局は、何とか人に理解してほしいと願い、これからもっとより良く生きようとする希望があるからだろう。

参照・当ブログ◎吉田光男『わくらばの記』(2)(2018-02-01)
  ◎吉田光男『わくらばの記』(9)(2018-08-13)
◎吉田光男『わくらばの記』(19)(2019-04-09)
・ブログ『ひこばえの記』◎前未来形で自分の過去を回想する(2018-05-14)