○吉田光男さんの『わくらばの記』で最初の頃、特に「学園」のことについて触れている。
《2月9日:私たちは、学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返らずには、自分自身を前に進めることはできない。》に始まり、次のように展開する。
《2月11日:私たちは学園に期待していた。そして自分自身はといえば、最後の最後まで学園を信ずることをやめなかった。学園出身者がどんどん村を去り、学園を閉ざす村が出始め、ついには学校法人設立の申請を取り下げざるをえない事態になって初めて、「これはどういうことか」と考え始めた。なんとも鈍い話しである。
それはやはり信じていたからである。外部の批判や内部の一部の人たちによる疑問提起に一切耳を傾けず、盲目になっていたからである。これをしも妄信というのであろう。
全集編集の過程で、山岸さんの「百万羽子供研鑽会」という文書を繰り返し読んでみた。そこにはこう書かれている。
「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃんが、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます」
先生やお父さん、お母さんの言うことも、ましてや世話係の言うことも、その通りだとしないで自分の頭で考えること、ここに自ら学び育つ学育の本来の姿が謳われている。そしてこれは教え、教えられることを排除することではなく、教えられたことをそのまま鵜呑みにする教育というものを否定したものである。ここに新しい教育の原点があるはずであった。
しかし実情はどうであったか。世話係と違った意見を出せば、生意気だ、反抗的だと批判され、個別研や体罰の対象になった。このどこに「学育」の理念があっただろうか。》
そして次のように述べる。
《2月13日:ところで、ヤマギシズム学園は全く意味のないものだったかと言えば、決してそんなことはない、と私は思っている。学育理念に基づく全く新しい学園ということで、私たちは諸手を挙げて賛成したし、教育界に一石を投ずるものと期待もしていた。
しかし、方向がずれていったということのほかに、学育理念を理解し実践しようとする人材にも乏しかった。子どもを大人の小さなものとしてしか見ることのできない世話係や村人によって育てられることになってしまったのだ。》
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今年の7月から「ヤマギシの<失敗学的>考察」について様々な角度から述べてきた。
「失敗学」とは失敗の原因を究明し、同じ愚を繰り返さないようにするためにはどうすればよいか、という方策を追求・探求する学問であり、さらに、こうして得られた知恵を社会に広めることで似たような失敗を起こさないための方策も探求する学問である。
その失敗の象徴的なものとして「ヤマギシズム学園」(1980年代~90年代)の盛衰がある。
実顕地も今から見るとかなりお粗末なこともあったが、それにもましてヤマギシズム学園は、その実態を聞くにつれ、どうしてこのようなことになったのか暗澹たる思いに駆られる。
だが、その頃の実顕地のもつ構造的な脆弱さが「学園」に現れたともいえる。
そこで、「ヤマギシの<失敗学的>考察」を当面「ヤマギシズム学園」について絞って考えることにした。
「ヤマギシズム学園」について考えることは、その頃の実顕地のことを考える上でも大事に思う。
出来れば、」関心のある方や元学園生も入って、様々な角度から、記憶を辿って想いを出し合う機会を持ちながら考えることができればよいが、先ずは私のやれることから始めたいと思っている。