「はじめに」
2017年12月にブログ「広場・ヤマギシズム」を立ち上げた。
それは、ヤマギシズムのことを考えていける一つの広場と考えている。また、後の研究者などに繋げればいいかなとも思っている。
戦後生まれたコミュニティー・共同体の規模、現在まで続いている継続年数、農業法人としての活動もかなりの実績をあげている。また、多くの人に様々な影響を与え、ヤマギシ会活動の入り口である「特別講習研鑽会」(特講)も海外から参加者が続いていて、会員活動もそれなりに盛んである。
理想を掲げたヤマギシズム運動、実顕地の影響の大きさを考えると、第三者的な視点による研究、真っ当な批判の類は、はなはだ少ないと思う。そこで、関心を抱く人や研究者などの究明や学びに役立つような資料集・記録集などをつくれないものかと考えていた。
今の社会状況からも、実顕地・ヤマギシ会は、共同体として様々な角度から考察していくに値するものがあるとも思っている。
長年そこで暮らし、進めてきた自分としても、それについて発信していく責任、役割があるのではないかと考えている。
まず初めに、独特な展開をした「ヤマギシズム学園」について述べていこうと考えている。
「ヤマギシズム学園」は当時(1970年代~90年代)の実顕地から生み出されたもので、その「学園」について考えることは、その頃の実顕地のことを考える上でも大事に思っている。
出来れば、関心のある方や元学園生も入って、様々な角度から、記憶を辿って想いを出し合う機会を持ちながら考えることができればよいが、先ずは私のやれることから始めたいと考えている。
なお私は、学園づくりには直接には関わっていませんが、その頃実顕地全体の中で大きな影響を及ぼしているS氏や同じく学園に大きな影響を及ぼしているN女史などと、よく一緒になり、様々な話を聞いている。
記録するに際しては、間違っているところヘンなところと同時に、面白い試みや可能性を覚えるところにも焦点を当てていく。
ある理念を掲げている共同体や組織であろうと、無為の地域社会であろうと、人は何らかの集団社会の一員であり、そこのあり方を考えるうえでも、参考になることもあると考えている。
いずれにしても、過去の間違いを学びほぐして、明日、次代につなげていくのが記録を残していく肝心なところだと思う。
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◎幸福学園について
※「ヤマギシズム学園」は新島淳良・里子夫妻の幸福学園づくりから始まった。
「幸福学園」は「ヤマギシズム学園」の源流にあたると、わたしは考えている。
新島里子さんが「子ばなれと親ばなれ」という題で月刊『思想の科学』(1973年11月号)に掲載している。幸福学園づくりの契機となったことが綴られているので、そこから見ていく。
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○「子ばなれと親ばなれ―ヤマギシズム幸福学園の出発―」
一、学校はうんざり
娘のさやかが、小学校生活をまもなく終ろうとする或る日、いきなり「イギリスにテストも宿題もない、したくなければ一日中勉強をしなくてもいい学校があるんだって。私ぜったいそこへ行きたい。もうこれ以上勉強するのはイヤ。あと中学が三年もあるなんてうんざりだわ」といい出した。私たち夫婦は面喰らった。よくよく聞いてみると、次のようなことがわかった。
その学校というのは、一九二一年にA・S・ニイルによって創立され、いまも運営されているサマーヒル・スクールで、満三歳から十六歳までの生徒がみんなで約六○名、教職員十数名と家族のように生活している寄宿学校であること。子どもたちは世界各国(本国のイギリスのほかはドイツとアメリカが多い)から来ており、学年やクラスがあるわけではないから、新級、進学のためのテストはなく、子どもたち自身の手でつくられたカリキュラムによって授業が行われているが、それに出席するかどうかは全く自由である。
もし、どの授業にも出たくなければ、それも許されるという。またイギリスの文部省とは一切関係なく、したがってサマーヒル学園を出ても何の資格も得られないばかりか、義務教育終了の資格も得られないとのこと。学費は年間約六○万円、春夏冬の計四ヵ月の休暇は家に帰ることになっていること。
以上のようなことであった。
さやかが、どうしてこのことを知ったかというと、クラスメートのKさんの姉さんが大学の教育学でとくにニイルを研究し、妹にサマーヒルに行くことをすすめたのだという。Kさんは、もうそこに行くことを決めたのだそうだ。
翌日、さやかはKさんの家からニイルの著作数冊を借りて来て、私に読んでほしいといった。それはニイル著作集の『問題の子ども』『知識よりも感情』『自由の子ども』などであった。
私はさっそく読みはじめた。そしてほぼ読み終えるころには、ニイルの教育思想に深くひかれ、とくにつぎのような言葉が強く心に焼きついていた。
「子どもは外側からの訓練や権威や、さらには恐怖を加えて教育すべきでなく、自分自身の歩みによって発達するよう自由にさせられねばならぬ」
「サマーヒルは、子どもを学校に適応させるのでなしに、子どもに適応する学校を作ろう、という考えで作られた」
「知識よりもハートである」
「子どもが遊ぶ能力を失ったなら、子どもは心理的に死んだも同然である」
ある夜、娘と私たち両親は、心のありのままを出し合うようつとめて話し合った。
私「どうしても行きたいの? 外国で一人ぽっちで暮らすことできる?」
さやか「どうしても行きたい。一人じゃない、大ぜいのお友達や先生と一緒だから平気」
私「小学校六年を終ったくらいでは、日本語もほんとうに覚えたとはいえないし、宙ぶらりんの日本人になってしまわないかしら?」
さやか「そのことが心配なら手紙をどんどん頂戴。それから本も送って欲しい、今までよりもよく読むようになると思う」
父親「知っているだろうが、日本では義務教育を終えていないと、高校や大学に行くことはもちろん、美容師にもあんまさんにもなれないんだよ。それでもいいのかい?」
さやか「もし、あとでそういうものになりたくなったら、その時中学へ入ればいいでしょう。今は何になりたいかわからないから、いく必要ない」
父親「うちはそんなにお金持ではない。お父さんの収入からいって君のために一年間に使えるお金はこれこれだから、ちょっと無理のように思う」
さやか「お金を借りればいいと思う。三年間でいい。余分に使ったお金はあとで働いて返すよ」
父親「しかし実際に行くとなると学費だけではすむまい。お小遣いもいるだろうし、夏休みの帰省の時の飛行機代だってバカにならない」
さやか「お小遣いは最低限度でいい。むこうでアルバイトだってするよ。イギリスのお友だちと仲良くなって、夏休みにはそこの家にいさせてもらうようにする」
父親「お父さんはいつ職場をやめるようになるかもしれないのだ。今の職場にはいろいろ問題があって、お父さんはかならずしも職場のやり方に賛成でないから、お父さん自身の考えと大きくくい違うようになった時にはいられなくなるかもしれないのだよ。そしたらきみのために使えるお金はもっと少なくなるだろう。きみがイギリスにいるためにお父さんの行動が鈍るようなことがあっては困る」
さやか「その時は、私はいつでも帰って来る。職場をやめるかやめないかは、お父さんの問題でしょう。そうなったときのお父さんの気持の問題を、わたしのせいにしないでよ」
私たちがどんなカ―ドを持ち出してきてもムダであった。夜がしらじらと明けるころ、夫も私も、ほぼ娘の希望をかなえさせてやりたいという気持で一致していた。やはり疲れたのだろう、その日さやかは学校を休んだ。
結論が出るまでの数日間、さやかの表情や態度は、私の目からみて何とも明るくアッケラカンとしていた。自分の考えがわかってもらえないはずはない、といった楽天性に満ちあふれていた。もし彼女がヘンに反抗的だったりメソメソしたりでもしていたら、少なくとも私たちはあんなにすんなりと受け入れなかっただろう。あるいは行かせない方向に説き伏せてしまったかもしれない。
とにかく彼女はさわやかだった。いま思えば、火花を散らすような親子の対立になったかもしれないあの時期ほど、子供が親を信頼し、親が子供を尊敬(この逆がふつうなのだろうが)できたことはないと思うのである。
(つづく)