広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎(49)問い直す⑧<オールメンバ―研>の行動について(福井正之)

〇先回クレーマーのことを取り上げたのは、確かに現在の必要からであった。これまでわがパート職場でかなり面倒だったクレームの主要問題が今春一挙に解決し、あれっていったい何だったのと見直す余裕が生まれた。そのことを私なりに整理しておきたくなったのは、なんといてもあんなのは二度とはごめんだというシビアーな印象が残ったからである。

 ところでそれについてのコメントに返事を書いているうちに、私の意識は一挙に2000年のヤマギシ時代に逆行してきたのである。

 さよう、あれこそはこの駐輪場クレームの数百、数千倍に匹敵する巨大クレームであった。あのマスコミ、反対派をはじめとした大小様々な批判、非難、抗議の火炎に包囲されながら、ムラの対応はほとんど無策とは言わないまでも、とった措置はかえって火に油を注ぐものでしかなかった。いわば<外部クレームに対する逆クレーム>はほとんど不発だったのである。その中ではマスコミ各社への反論電話、投書が主たるものだったが、ただそれ以外でやはり蘇ってくるのはあの反対派への直接の働きかけだった。

 それはたしか<オールメンバ―研メンバー>の総決起的研鑽会で決議されたことである。私もそこに参加して「おいおい、そこまでやることなのか」と半ばおののきながら、みなといっしょに手をあげていた記憶がある。「無理暴力を通さずに、智恵と理解の研鑽で」の言葉は今も直蘇ってくるくらい骨身に沁みていたはずであった。だが、そこではそれに反することを決行することに賛同していたのである。しかし私にできたことは、新聞社支社に出向いて抗議の意思を表明してくることしかなかった。その後、この流れによる反対派(元村人)への直接の暴力行使で、マスコミに取り上げられたケースがあった。

 このことについて私は以前にも触れていると思うが、ここ1年くらいではHPでの「反転する理想」のテーマの中で書いた。特に告白的というわけでもなく、私に関わる事実として。この<告白>云々をもう少し突っ込んでおくと、この事実はたしかに私にとって<黒い汚点>であるにもかかわらず、これまで少しあっさりしすぎていたのではないか気になっている。事実遇った過誤はあれこれ躊躇してもしようがないという思い、あるいは平気を装っているのかもしれない。私の長い孤独がそれを当たり前にしていたとも思う。

 こういう突っ込みが私に中に生まれたのは、いうまでもなく吉田光男さん語録『わくらばの記』にある「問いへのさらなる問い」に触発されてきたからである。同じあの場に居合わせた人は私だけではない。かれらはどう考えているのか。そのことについて公表できる人だけでなく、できない人もいると思う。私が公表できるのは、自分では一応誠実だと考えてはいるが、そのことについてなにがしかのシビアーな理由を抱えて、沈黙せざるをえない人もいるかもしれない。いわばそうした全体がこの事件の全情況であり、同時にこのことへの究明への糸口になりうる。

 そして今回のわが職場でのクレームのことである。私はいささかナイーブになっているのかもしれないが、妙に因縁的な感覚に襲われる。この駐輪場でのクレーム事案にぶつかっていなければ、私はこの場でオールメンバ―研のことなぞ書かなかったであろう、と。それも普通なら過去のそのこと自体から直接書いていたはずだが、今回は私の目前で経過していた<現在>が過去のあの事態を呼び寄せたという感覚がある。

 私自身はそれほど違和感があったわけではないが、「過去との対話」は一貫して私のメインテーマであった。しかしいうまでもないが、現実は進行する現在の波が過去をどんどん遠ざけていく。この必然的な困難のただ中で過去に照準を合わせ続けることは、ある意味で普通ではない。しかし私のレベルでは到底及ばないことだが、例えば日中戦争時の戦場の実態究明を今も続けている人の存在とその意義は、単なる歴史研究以上の計り知れないものがあると考える。

 ところが今回はいささか趣を異にする。起こったのは目前の現実が過去に直通したこと、それはいいかえればあの過去の事実は現在に類似したモデルを持ちうるということ(あるいはその逆)でありうるかもしれない。私がその現在について考えたことは、私自身の「正しさへの感度」がいかに弱いかという発見だった。あのクレーマーたちがぶつけてくる熱い主張にいわばヘドモドしていたのである。雇用者としての「立場」もあったにしても、それを超える。 

 そのことを私はまず同僚からも感じられる「見え透いた〈正しさ〉には必ず〝裏〟があると思う習性」として押さえてみた。それはしばしば何もしないことの言い訳につながる。さらにこれに関連する、「正しさ」理念よりはずっと内発的な「心の真実」(レアリティー)に依拠してきた、これまでの私の思考習性を意識している。そしていまそれらに加えて2000年当時のあの時の<躊躇と随順>(「無理暴力を通さず・・・」に反することへの躊躇的賛同)が蘇るのである。

 いわば、あれは「不都合な真実を隠蔽するために」「目的のために手段を択ばない」決意の表明だった。そのことについてわずかに私が容認できるのは、貧苦のためにそうせざるをえない場合である。ムラを出て以降それに近い状況に見舞われなかったとは言わない。しかしそこまで追い込まれてはいなかった。しかしあの決意が生じた時点ではだれも飢えてはいなかった。

 それならばなぜ? それでも絶対に守り抜かねばならなかった理想があったから? そこまで画き得ていたならば私のあの躊躇は何? しかしおそらくそこまで画き得た人がいたはずである。そして私はその彼に最後は従ったのである。

 これまで考えたことの繰り返しかもしれない。しかしどこかで考えたことのない新たな片鱗に触れるかもしれない。ともかく「問いへのさらなる問い」に向けて考え続けることを已めるわけにはいかない。2017/7/1