※『わが学究 人生と時代の “機微”から』では、2017年9月に、【(12)難しい本はまずルーズに読む イリイチ訳者註】【(13)「自立共生」のイメージを深めるための数編の引用】に続いて【(14)「使用価値」だけの、金の要らない社会の現存】を掲載している。
ここでは、イヴァン イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』(ちくま学芸文庫、2015)・訳者渡辺京二から、主に「使用価値」と「自立共生」に焦点を当てて論じている。そこから⑭で、ヤマギシが目指した「金の要らない社会」を取り上げた。
続く【⑮「食」の人間・自然との共生のイメージ】で、「使用価値」と「自立共生」から「実顕地」での食の在り方に触れている。
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◎「使用価値」だけの、金の要らない社会の現存
掲載したイリイチさんの文章は私はすごいものだと思うものの少々読みづらいし、なかんずく意味もすっとはとり辛い。しかし何かが残るし刻まれる。いくつかのセンテンスはさらなる問いかけと究明を誘う。
例えばその一は、以下である。
「――人々が商品に最小限頼るだけで、主として自分にできることに頼るかぎり、そういうニーズを満たすための手段はあり余るほどある。こういう諸活動は交換価値を与えられることはかつてなかったけれど、使用価値を持っている。人間が自由にそういう活動を行うことは労働とはみなされない。」(125p)
ここで使われている「交換価値」「使用価値」という言葉は、若い頃マルクスに触れた経験のある人なら誰でも心のどこかで滞留していると思う。かの『資本論』の始めにその究明があったと記憶する。そこでは人間は「使用価値」としての労働は売れないが、「労働力」を交換価値として売ることによって「賃金」を得る、またそこから「剰余価値」論へと展開されていく。
ここから別にマルクスは知らなくとも、「働かざる者は食うべからず」という〝教訓〟の大きさを想う。それは「働かない者は食えない」という意味よりは、「ゼニを稼ぎ出す」賃労働を意味した。だから私は若い頃からその逆の世界を時々〝妄想〟してきた。そしてその〝妄想〟をのちに事実として体験する。次はそれについての私のメモである。
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働かざる者食ってよし
この世の暗黙の納得、働かざる者食うべからず。
事実失業者は食えず、働かない病者障害者も肩身が狭い。生存権は絵に書いたモチ。
ところがそこでは、老人、子ども、病者、障害者以外の働く気がない働かない人も食っていた。別に小さくならないで。食堂はタダだから、金のあるなしは関わりなかった。
事実働いても給与はなかった。働きたいから働くんで、食うためではなかった。マチマチの稼ぎで、みな同じ物を食った。同程度の物を着て同じ住居に住んだ。たしかにド貧乏だったが、不自由ではなかった。
ところがある時期からそこは急に忙しくなってきた。すると次第に、働きの悪さが取組みの悪さと見なされるようになった。働かない者は肩身が小さくなり、食堂にも行きづらくなった。
そうしなければ自滅したから必然の流れというしかない、のか? しかしそこにはずっと働かざる者食ってよしの暗黙の納得があった……
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これはあのヤマギシの村でずっと続けられてきたことである。私が参画していた二十数年間そうであった。今でも規模は縮小したがたぶん続いているであろう。それは山岸巳代蔵の「無所有」理念から発していた。いうまでもなく所有があるから売買が生じる。「だれのものでもない」世界では「すべてタダ」になるというしかない。そこにイリイチの提起していた「使用価値」のみの社会が存在していたのである。もっともそこには当然ながらある程度の<調整・管理>の部分が不可欠になるだろう。それが最低限で済めば理想だが、そうはならない多くの微妙要素を避けるわけにはいかない。
それは生活物資から、育児・教育、福祉・医療、建設、冠婚葬祭全体に及んでいた。そしてそのほとんどは村人の「タダ働き」によって充当されてきた。そのこととのパラレルな事実は、そこには給与なるものはなく、だから有償労働もなかった。そこで一時ささやかれた理想は「ゆりかご前から墓場の後まで」だった。
それでかなりの部分で自給自足が可能になっていたが、完全自給自足を目指すわけではない。それじゃ外との経済関係で不可欠なゼニはどうしていたのか。それは村全体で生み出した農畜産、加工等の生産物を、外へ「交換価値」として供給することに依っていた。それはムラ(実顕地という)設立当初から続いていたが、最初はずっと貧しく清貧なものであった。
ところがある時期からそこは急激に成長し始めた。有精卵が当たったのである。仕事は鶏舎建築から養鶏へと急に忙しくなり、それを基軸にした村づくりが各地に広まっていった。仕事はかなりきつくなってきたが、生活は急に豊かになってきた。それは悪いことではないが、後からふり返れば、そのいわば思いがけない〝大成功〟が大きな分岐点となる。
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「理想間近し」との夢が膨らみ、それに向けてのお互いの取り組みが意識されてきた。働きにも「マイぺースから一体ペースへ」なるテーマも出てきた。それが食堂に行きづらくなる人が出てくる背景だった。それから村の体制が次第に会社組織に近い上下階層構造に変貌する。メンバー相互の「一列横」の対等感覚が崩れ、それに伴って「研鑽会」といういわば合議機関もむしろ〝思い発散〟の場に変質する。そこから山岸巳代蔵が描いた構想、理念自体からずれた方向と実態も出てきた。
しかし何といってもかつて知らない未体験ゾ-ンへの挑戦であったから、当然過ちや失策のなかったはずはない。特に最大の失敗は私も関わった不慣れな学園づくりの分野だった。それに伴って子どもらも参画者も増えたが、急激すぎた。ともかくその失策がずっと隠蔽されてきたのである。私のムラ出はその疑問からだったが、それはさておき今回はイリイチのことである。
イリイチの「自立共生」「使用価値」の世界が、明らかに山岸巳代蔵の描いた「無所有」「金の要らない」世界と重なってくるのである。そしてたしかに実践ではヤマギシが先行するものの、彼の現代産業社会と対比しての未来構想の広闊、深遠は とてもヤマギシ関係者の及ぶところではない。私は改めてイリイチの思想、特にその「自立」観からヤマギシの限界や問題点が浮かび上がってきそうな気がしている。
ヤマギシの生活体が急激に成長したのは1980年ごろからである。そしてイリイチのこの翻訳は1979年に世に出ている。明らかに山岸さん(1961年逝去)の方が少し先輩だが、イリイチ(2002年逝去)とは時代が重なる。イリイチがもしのちのヤマギシの<金の要らない、使用価値だけの社会>の存在を知ればどう考えただろうか。すこぶる興味深い。
2017/9/30記
※「自立共生」について(イリイチ著から)
「産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件づけられた反応とは対照的な意味を持たせようと思う。私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。」(40p)
※「交換価値から使用価値へ」(イリイチ著から)
「人は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力を持っている。この能力のおのおのが、それぞれひとつの必要(ニーズ)を満たすようにできているのだ。人々が商品に最小限頼るだけで、主として自分にできることに頼るかぎり、そういうニーズを満たすための手段はあり余るほどある。こういう諸活動は交換価値を与えられることはかつてなかったけれど、使用価値を持っている。人間が自由にそういう活動を行うことは労働とはみなされない。」(125p)
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◎「食」の人間・自然との共生のイメージ
しばらく「使用価値」と「自立共生」という言葉にとりつかれている。ヒントとなるのはさしあたりイリイチの言葉だけである。ところが私は「金の要らない」社会の体験があるのに、イリイチのヒントとうまくつながらない。たぶん私はその仕掛けを自分で作ったわけではなく、始めっからそこにあっただけだったからであろう。
そこで何度か「人は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力を持っている・・・」に立ちもどる。しかもそれは「主として自分にできることに頼るかぎり」という限定がある。他方、「人々はこういったものすべてを、他人の手を借りずにつくりだせるわけではない」(39P)という記述にも出会う。そこから出てくる助力とか、世話になる、のイメージからすぐ「交換価値」とか有償がつながってきて、そうならない可能性のイメージがどうも鮮明に浮かびにくい。
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そういえば当たり前のことだが、ここであらためて気づくのは家族の仕事のことである。それは〝家族労働〟と言うこともあろうが、普通は交換価値を持たず(持たさないという意図もなく自然に)有償労働ではないタダ働きなのである。主婦のシャドウワークはいわばその主役であろう。家族はある意味で横柄かつ感謝もなしに、その人の世話になっている。
これはこれでなぜか不思議な気がしてくるが、そこからさらに広がってくるのは大自然からの〝大いなる恵み〟を受けていること、そのことに今さらながら気づかされる。イリイチも別の場で環境汚染や地球の生態系への危惧を語りながらも、「私はその言葉(自立共生)に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ・・・」と記している(下線は私)。
私はその最大のわかりやすい焦点は、衣食住、なかんずく食物のことじゃないかと考える。この食物自体の使用価値としては食べることに尽きるだろうが、それを得る営みというものは人間の有史以来不可欠のもので、おそらく交換価値の対象になるずっと以前から最も大切な「使用価値」であったと考える。それには当然そのための働き方、調理、保存の方法とか、さらにそれへの気持ちの持ち方等が込められている。
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ふと思いついて図書館で探してもらったら、はたして地下書庫にあった。それは無着成恭さんの『ヘソの詩(うた)』(毎日新聞1983年初版)であった。のっけから引用させてもらう。
○ごはんの時に 六年 山崎まどか
食事のとき/自分のおちゃわんに/自分でごを盛ろうとしたら/
「ダメ!っ」ていわれた。/
あら、どうして?って思った。自分のことは自分ですると思っていたのに/
山岸会のおばさんから/「自分のことは他人にしてもらうんですよ。/
人は誰でも/生まれたときだって 死んだときだって/
他人からしてもらうんでしょ。/だから/ 自分のことは自分ではしないの。/
そのかわり他人のことをしてあげるの」/
そういわれてしまった。/そういえばそうだと思った。/
人間は、生きるために/にわとりも殺さなくちゃいけないし/豚も殺さなくちゃならない。/
生きてるっていうことは/ずいぶん迷惑をかけることなんだ。/
自分で自分のことを全部できたら/人は一人ぼっちになってしまう。/
他人に迷惑をかけるということは/その人とつながりを持つことなんだ。/
他人の世話をすることは/その人に愛を持つことなんだ。/
生きるっていうことは/たくさんの命とつながりをもつことなんだ。/
お乳をやった私に/あたたかいからだを押しつけてきた子牛を/私は思った。
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今はどこでもほとんど廃れつつある慣行だろうが、その意味・考え方に初めて出会った感があると思う人は少なくないのではないか。ただ現在の時点では、私はこのヤマギシのおばさんの語り口には少しひっかかる。その「ダメ!っ」という強調表現を伴う「自分のことは他人にしてもらう」という考え方だった。あの頃はもっとソフトだったし、(子どもらの食事では少々微妙だが)「〈自分でできることは自分でやる〉」という考え方もあり」だったと思い返してみたくなる。
それでもそれをそのまま受けて、山崎さんは実に見事な物語を組み立て展開している。感銘深いのでくり返すが、「他人に迷惑をかけるということ」「他人の世話をすること」「生きるっていうこと」が、つながりや愛という、より深い心情の次元でとらえられていることである(他の生命を頂くということの究極の納得は困難だが)。それら人と人との、あるいは自然との暮らしの中での<してもらう><してあげる>という日常的なやり取りは、時には避けたくなったり決裂したりする関係になることも少なくないだろうに。
そしてたぶんこのようなイメージなしには、イリイチが様々に展開していた「共生」という理念や、そして山岸巳代蔵がいう「われ、ひと(陽・土とも解される)とともに」という理念はびくとも口を開かないのではないかという気さえしてくる。
無着成恭さんは当時勤務されていた学園の子どもらを連れ、ヤマギシの実顕地を体験旅行されていた。その時生まれた何篇かの子どもらの詩がここに所収されている。それは無着さんの「物が豊かになりすぎてしまったために、人間がつくった物には、その物をつくった人の心がついて回っているのだということを忘れてしまった時代に心の側から実践した」(あとがき)授業の記録である。
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私も当時一読感動した(冒頭の一点を除き)記憶がよみがえる。そして内心では正直、これは〝使える〟と喜んでいた。ヤマギシが健康食品の供給によって次第に世に認知されていた状況から、さらに子どもらの体験学習の場「子ども楽園村」が着目され始めていた頃だった。ただ私はここから学園づくりへの方向が明確になり、その一時的成功と後の<係暴力>の問題で頓挫していった過程の回顧は、とても辛いことである。 2017/10/5記