広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

「ジッケンチって何だったのかな?」(福井正之記録⑫)

※『回顧―理念ある暮らしその周辺』(67)(68)で、「ジッケンチって何だったのかな?」という問いかけをしている。
 文中に〈2000年時実顕地離脱について、私は長いことあれは<恥ずべき逃亡>のような負い目を抱いてきたが、近時実はそうではなく「出発」だったという認識を新たにした。とあり、そこからヤマギシズムの目指した理想は何だったのか? 実顕地はそれをどのように展開しようとしたのか? を(「試論―実顕地とは何だったのか、1」2008/11福井)(「試論ジッケンチとは何だったのかⅡ」2009)の論考を交えながら述べている。

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(67)ヤマギシ問題 私たちはそれほど愚かではなかった
私(たち)にとって、ヤマギシ「問題」は今に至っても新たに思い当ることがいくつか出てきた。何年経っても心の痕跡は残るからであり、それに人の出会いがあり、交流が続くならなおさらである。

私ら一家4人の話で言えば、娘は近くに別居しているが、息子はこの県営住宅に親と同居している。二人ともすでに40代。夕食にはほぼ全員顔をそろえる。いろんな事情で結果的にそうなってきたのだろうが、娘はヨメにも行かず息子にヨメもこない。時にはうるさいことをぶつぶつ言ってた親父も、あのコミックでの<親のわが子への無責任実態の暴露>以来シュンと静かになった。それ以来私は〝柔和〟である。一番うるさくて賑やかなのは(おまけに忙しいのも)うちのカアちゃん。子どもらのことでこの夫婦がうなずき合うのは、「親の一番欲しい時期に親をしてなかったからな」というつぶやきになる。また逆に、子どもらが早すぎる親孝行してくれているのかもしれんと錯覚したくなることもある。

という風にわが家でヤマギシ「問題」はずっと(さしあたり私が死ぬまで)健在なのである。しかしそれはかつてのG当局担当者にとっては、とうの昔の生活援助金の次元で終わったことであろう。それだけでなく、私たちの多くもそう思っていると思う。

まったく唐突で申し訳ないが、例の石牟礼道子さんの亡くなったことで「彼女の登場が無ければ、水俣窒素の問題は災害救済補償の次元にとどまっただろう」という識者のテレビでの解説を聞いた。たしかにあの『苦海浄土』に登場する胎児性水俣病児の存在は人類の未来にとってまったく未知なる次元を提示するものであった。またそのタイトルの「浄土」にこそその著書の真価が託されていると思う。その私の昔からの感触を確かめるために改めて読み返してみたい。

石牟礼さんの様な〝巨人〟のことはさておき、私にはヤマギシ「問題」とは単なる過誤や未経験や体制だけの問題ではないと感じている。たしかにあの2000年以降のメンバーの大量脱退に至るまでの数年、マスコミ等の批判、非難の内容は主として学園での係暴力から始まる学園の実態暴露であり、それに対するG当局の隠蔽工作とそれとは知らないメンバーの「反論」 とがずっと続いた。そこから実顕地メンバーすらあまり知らなかった組織構造や税務の問題が次第に周知されてきた。今からふり返れば不思議なことだが、まったく普通とはいえない「無所有」「金の要らない村」関連のことは全く問題にされなかった。

このことはフィクション世界になるが、戦略的に見て大失策だったのではないかと空想する。なんといってもヤマギシの本当の〝売り〟は、そこにあったと思うからである。ちなみに一つの仮説を提示しておきたい。

〈世間ではマスコミ等の指弾があまりにもきつかったために、マイナスイメージ一色だったから、まずそこを少し解除する必要があるのではないか。オウム真理教並みの糾弾はあまりにも度を越している。(中略)私見によればヤマギシは、家族を超えた人間共同の生活体を現実に形成し、産業・生活・教育・福祉等にそのかなりの可能性と限界を示唆したと見える。またそのような可能性を孕んだ質でなければ、私など数千人が希望と理想に燃えることができなかったはずである。その全貌・実態のいわば<失敗学的>解明・考察によっては、社会や歴史への貢献、すなわち功の部分をも数多く明示しうるのではないかと秘かにねがってさえいる。〉
(「試論―実顕地とは何だったのか、1」2008/11福井)

なぜこのような方向にならなかったのか? つくづく無念にも思うが、事態はその学園問題を中心に推移したために起こった巨大な大量脱退の〝悲劇〟だった。またそうなってしまわざるをえない体質が働いたのである。それはおそらく目先の功利に弱く不都合を即隠蔽する「会社体質」だったからだと推測する。何といっても隠蔽は、その内容より隠蔽自体を実質以上に不実に見せる。

ちなみにその観点からすれば「そこには理想に燃える優秀な、かつ賃金も払わないで済む恐るべき低コスト効率的な労働力が存在していた」(同上)とどこか釣り合わない。上層指導部に在った人々は、おそらくその一般メンバーの誠実有能な知恵を、見くびってきたのではなかろうかと推測せざるをえない。逆にいえば自分たちがどれだけその価値を知っていたか、あるいは知ろうとしていたか? 


もちろんフィクションだが、そのような周知を寄せ合えれば、あの局面では「誠実なる謝罪」こそ最高の選択であることが判明し、そのことによってこそヤマギシの「本業」に世間の耳目を振り向かせえたかもしれない。

しかしあの事態こそ、巨大な悲劇であると同時に、「人間とは」、また「社会とは」、また「理想とは」何であるのかについての巨大な実験場だったと深く想う。昔ムラ出の旧友とあれは「実験以上の実顕だった」と冗談を交わしたこともあった。しかしそういう切口も含め、いまだ多くは解明以前の謎のままである。しかもその解明は、文明史の「次元」に明らかに到達しうる価値ある内容を備えていると思う。

なぜそう想うか。私のこの間感じてきた論点を一つだけ挙げる。
私たちは結果から判断して決して賢かったとは見えないが、普通以上に賢かった人々だと思う。いうなればそこに「時代の理想」を感得していた人々がいたこと、さらに感得しただけでなくその対象に参画実行した人々だったこと。そこには当然失敗の危険性も担保されていたと思う。

少々余談を入れると私のあの小説を読んだ旧友は「あれは福井の敗北の文学」だと言ってきた。昔から忌憚なくやってきた間柄だから当然だが、彼の「敗北」観の内容は「男なら妻子を路頭に迷わすな」ということに尽きる。私は彼のそういう「観」に大いに賛同する。しかし言うまでもないが時代を変えるには、そういう人々ばかりでは不可能だというしかない。

そしてそのことを実証したのは、実はあの2000年時実顕地離脱の局面だった。私は長いことあれは<恥ずべき逃亡>のような負い目を抱いてきたが、近時実はそうではなく「出発」だったという認識を新たにした。そして今回私にとってさらにはっきりしたのは、あれこそ参画時の理想への出発と同質のもの、いいかえれば変質した「理想に反する不可解非人間的な社会」からの訣別であり、理想への(その内容は一律ではないが)勇気ある再出発だったと実感する。先のことがわからないのはあの参画時以上であろうに、とても普通の人々にできることではない。

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◎(68)実顕地「労働」とその〝悪無限〟感覚
「ジッケンチって何だったのかな?」という問いかけを今回は、実顕地の「労働」に向けてみる。参画者たちが直面した実顕地(初期はまだ「実顕地」の呼称はない)生活の仕事の大半は、肉体労働だった。このことは例えばこれまで知的な趣味として読書や映画や音楽会に行っていた人々はそれを放棄し、それぞれの身体状況に応じて肉体労働に関わることになる。そこまでやるからにはそこにも<理想>のにおいがついて回って当然だろう。

しかし実顕地の「労働」は、私には自分の動向も含め今でも釈然としない思いを呼び起こす。まだ学園づくりが問題にもならなかった80年前後、私は春日で養鶏試験場の段取り係だった。ある象徴的事例を思い出す。正月3日のメンバーの段取りで必死になっていて思いついたのは、正月に帰ってくるメンバーの親族に助っ人になってもらえないかという一策だった。楽園村の大人版とでも言ったらいいか。短時間の軽作業、出てきた親族たちもみなご機嫌だったと思えた。ところが1年経って愕然とした。翌年正月には帰ってくる親族がほとんどいなかったことである。世間の正月感覚と「村」との画然たるちがい、それもあるが私には自分の中の〝利用主義〟の部分をまざまざと意識させられた。このことは当時私に限らず、いわゆる外の世界の人と対するときの根元的なテーマ(いわゆる「全人」)にもかかわる。

当時、私らの仕事上の理念として「タダ働き」があった。おそらく「無所有」理念からくる。ところがいうまでもないがシャバでは労働は有償であり、労働法規から言っても、「タダ働き」は絶対に人に強制できないものだった。たとえ一時無償だとしてもそれはボランティアのようにどこまでも自発のものだった。ところがわれらの場合その自発を促進しうる馴染みの理念が「タダ働き」だったのである。即ち我らは誰かの〝奴隷〟だったという意識は毛頭ないが、少なくとも理念の〝奴隷〟だったといえる。それが時には自分を超えて、「マイペースから一体ペースへ」などのスローガンになる。それをどういう思いで発したか、また聞いてきたかという問いは今でもいささかシンドイ。

実顕地にまだなっていない初期の頃、各地の鶏舎建築等の人手派遣で〝夜討ち朝駆け〟の集卵エサやりが続いたころ、私も含めたまりかねた現場のメンバーが経営係のKさんのところに押しかけた。kさん曰く、「今は全国各地の村づくりの絶好のチャンスだ。建設部も殆ど各地に散って、それでも足りない。それで飼育も応援に駆けつけてもらっている。いつまでもじゃないし、そのうちまた戻ってくる。それまでの辛抱だ」。それで皆はあっさり引き下がった。私の耳に残っているこのような経営からの説明は、これが最初で最後だった。つまり以降は下の係役が代行する流れになっていったように思う。

ただここでのKさんの説明をあらためて思い出してみると、実はたいへんな内容なのである。「こんな事世間で通用するかい」である。タダ働きのおまけに、時間制限なしの仕事の要請なのである。Kさんはすぐ近くの養鶏試験場のメンバーの〝夜討ち朝駆け〟の実態を知らなかったはずはなかろう。しかし逆にイズム心酔者であればそこにある感動を覚えたであろう。よくぞ言ってくれた、「何をか言わんわが全て」である。おそらく当時の私がその一人だったから、永いことその内容まで吟味する気にならなかったと思う。

このことは後の春日山実顕地づくりの鶏舎建築、養鶏法受け入れ等に伴い、子どもらの幼児舎宿泊が何か月か続いたことにも関わる。当時養鶏試験場の段どりだった私も、農繁期の農家状況のように考え大きく関わっていた。母子分離等の問題点は当時あまり知られておらず、幼年部発足後の状況でも特に指摘できる問題事例にはぶつかっていない。ただこれなども何かあればまさに「わが全てでは済まない」子どもらも巻き込む事態になりうる。

たしかに長時間労働の現実は長い時間を経て「社員」制に切り替わってほぼ沈静した。それで助かったと思えたメンバーも多かっただろう。しかしそれまでの労働力確保(いいかえれば金銭確保)の執拗さを踏まえるなら、私はこれを〝悪無限的労働体質〟と名付けざるをえなかった(「試論ジッケンチとは何だったのかⅡ」2009」。

のちに大理石造りの浴場やシャンデリアの下がった愛和館で食事をしながら、よくぞここまでやれてきたもんだという感慨は確かに湧いた。それは生産物供給を柱とする経営面の〝大成功〝のゆえである。だが私はムラを出てからの記録に、その苦い感慨を書かねばならなかった。

私がその始めの部分で取り上げたのは、山岸さんの構想のことである。
〈“将来は”と山岸氏は限定しているようだが、あの青本の何箇所かの似たような趣旨の記述を読み返してみれば、それはまさに現在の現実の課題として提案されていることは明白である。労働の神聖を否定し、牛馬に劣るバカ働きを皮肉り……さらに特徴的なことは「知的革命の端緒、一卵革命を提唱す」と掲げられる章のはじめに「働きすぎる―馬鹿働きを」が掲げられていることだ。これはこのテーマがまさに「知的革命」の重要な要諦の一つとして示されていたのではないだろうか。とすれば「なるべく働かないための研鑽」とは「実顕地」の日々の職場研における重要なテーマだったはずである。〉(同上)

この現実感覚は、私がのちに思い出されてきた北試での「労働強制のない労働感覚」や真剣に学ぶことになったイリイチの使用価値を前提とした「素人療法」論と共通するものだった。