広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎「ヤマギシズム生活実顕地」構想(「金の要らない楽しい村」考➂)

〇この論考は山岸巳代蔵の構想「金の要らない楽しい村」について様々な角度から見ていこうと思う。

 各種の問題はあるが、一つの社会実験として見た場合、現ヤマギシズム実顕地の「無所有共用共活」の仕組み及びそれに付随する「終生生活保障」のシステムが、会発足から60年以上たった今でも続いている実態は、現社会において、あるいは共同体の在り方を考える時に、貴重なヒントがあるのではと思っている。

 そこで25年余くらし、ある時期中心になって活動していた私の課題として、ささやかながら、その一端を提示できたらと考えている。


 山岸巳代蔵の養鶏法や稲作が注目され、1953年山岸会が発足し、1956年には特別講習研鑚会が始まり、初期はほとんど農民だったが、その他の支持者も増えていった。
 1958年に、『百万羽(科学工業養鶏)』及び「ヤマギシズム生活実践場・春日実験地」を設立し、「無所有・共活」の一体生活を開始した(後のヤマギシズム実顕地の萌芽となる)。
 1959年に、死者を出すことになった山岸会事件がマスコミを賑わせることになる。
 1960年4月、山岸巳代蔵は、『声明書』を発表して自ら警察に出頭する。
 そして、山岸巳代蔵は運動の渦中から一時的に離れることになり、結果として、著作に専念できる時間が持てるようになる。この時期の著作は、未発表のものや草稿段階のものを含めて、かなりの量に及んでいる。

 そして、1960年0年5月に、「ヤマギシズム生活実顕地」構想の第一弾と言うべき、『金の要らない楽しい村』、『ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況』の二編を書き上げる。

「ヤマギシズム生活実顕地」は、春日実験地のように家屋敷を売り払って一ヶ所に集合する形態でなく、現状そのままで生活そのものを一つにしていく、財布一つの金の要らない楽しい村の試みであり、この頃から「ヤマギシズム生活実顕地」への動きが各支部間に広まり、1961年1月末に、実顕地第一号として、兵庫県加西市にヤマギシズム生活北条実顕地が誕生。その後、各地に実顕地が次々と誕生することとなる。

「金の要らない楽しい村」執筆の一年後、山岸巳代蔵は5月10日に死去するが、後の実顕地の屋台骨としての「無所有共用共活」の仕組みは、この著を端緒に、いくつかの論考がもとになると思っていて、それを見ていく。

 それに伴って山岸(本会のことはヤマギシと表記する)の人となり、思想にも触れていく。また、山岸について今まで述べたことを見直しして改訂していく。
           
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〇このブログは様々な角度からヤマギシズム実顕地、学園や山岸巳代蔵などに焦点を当てながら記録している。また、ヤマギシの変遷を語るいくつかの論考も度々触れてきた。
 改めて、この論考を書くに際して、いくつか挙げる。

▼吉田光男『わくらばの記』
 2016年、食道癌で入院することを機会に、自分が向き合いたいテーマを『わくらばの記』に書きはじめた。84歳になっていた。それは次の記録から始まる。

《『1★9★3★7』はずしりと重い。しかし、逃げるわけにはいかない。これを読むと、自分が書いている「学園問題」についての手記は、チンケで底が浅く、とうてい書き続けることができなくなった。もっと自分に向き合わなければ、書く資格も意味もない。
 辺見庸は、「なぜ」と問うことを続けている。物事の重要性は、説明や解明にあるのではなく、問うことであり、問いつづけることの中にこそ存在する。説明、解明、解釈、理論づけ、……それらはそれ以上の究明を放棄するときの弁明にすぎない。終わりのない過去を、つまり現在に続く過去に区切りをつけ、ごみ袋に詰めて捨て去るときに用いるのが、説明であり解釈である。説明の上手下手は、ごみ袋が上物か屑物かの違いにすぎない。》

 本書は「問い続ける」ことが基底音になって、ヤマギシのことなどに触れていく。ヤマギシ内部にあった人の心の記録として、とても優れたものである。
 私が編集して自家版をつくり、当ブログに〈連載『わくらばの記』〉として記載した。


▼村岡到『ユートピアの模索―ヤマギシ会の到達点』(ロゴス、2013)
 著者は2012年、ほとんど知らなかったヤマギシ会と初めて接点を持つ。実際に実顕地を何度も訪ね、そこでは、現在の資本主義日本では考えられない生活を実現していることを知ったことが本書を書く契機となる。その特徴を五つにまとめている。
・お金のためではない働き方を実現
・お金を使わない〈無所有〉の生活
・農業を土台とした共同生活を実現
・子どもの創造性を生む〈学育〉
・高齢者の生活・医療を完全に保障
 著者が、五〇年に及ぶ社会主義をめざす実践を支えた思想に立って、本書を書き綴ったことが特徴である。
 しかし、触れた時間の短さのこともあるのか、多くのことを現実顕地で活躍している人への聞き書きによるものであり、当時の実顕地の長所が前面にでていて、その陰の問題点がよく考察されていない印象がある。
 さらに、山岸巳代蔵およびそこから生まれたヤマギシ会は独特のものであり、それまでの社会主義思想などだけではよくつかめないと私は思っている。
 その頃の実顕地をよく捉えていると思う反面、そうだろうか? と思うことの多い一書である。


※ 黒田宣代『「ヤマギシ会」と家族 近代化・共同体・現代日本文化』(慧文社、2006)
 本書は1994年から約10年間にわたる黒田氏の研究成果をまとめたものである。「共同体」と「文化」という広範で曖味な言葉の概念・定義を整理し、諸外国ならびに日本における主な共同体の歴史と生活を文献より得られた情報により述べ、共同体の具体例として、ヤマギシ会の実態調査(特別講習研鑽会や各実顕地への参与観察、脱会者対象の調査票調査)を通して、ヤマギシ会が1980年代に急速に成長を遂げた背景を探り、ヤマギシ会が実現しようとした現代型の共同体の達成と限界について述べたもの。
 どうかなと思う見解も多々あるし、明らかな見当違いも見受けられるが、このような研究書があるのは面白い。


▼鶴見俊輔の論考
 このブログでは、山岸巳代蔵の思想に注目し、終始その運動に関心を寄せてきた鶴見俊輔のヤマギシズム関連の論考を度々取り上げている。
 特に印象に残るのは全集二巻の「ダレノモノデモナイ」について述べたもの。

《【ヤマギシズムの可能性(1996・11『けんさん』インタビューより)】
「ダレノモノデモナイ」
 ------ヤマギシ会が中心の観念として「ダレノモノデモナイ」という考えを置いたってことはなるほど思いましたね。いま新しく開拓されている日本史の道と響き合うものがある。まったく前衛的な道なんですよ。〉

〈今、ヤマギシ会は着実にいくつか成功を収めている。だけどね、成功は失敗の母、逆手をとられないように注意しなくては。ヤマギシ会がここまで来たのは、最初に頓挫してほとんど潰れかけたからでしょう。それを噛みしめることが重大なことで、あの大失敗が私をヤマギシ会へ引き寄せたのであって、成功が私を引き寄せたわけではない。それぞれの失敗は必ずきっかけになる。全体の成功したものの上にのっかってやったとしたら、これはまずいんじゃない?
 これは二一世紀に大きな影響を与えるんじゃなくって、人類絶滅までには相当影響があるでしょう、重さを増していくでしょう。そういう考え方に立ってやっていくのはいいと思うね。〉

 山岸巳代蔵が独自で覚えた直感と飛躍に、呼応するかのように鶴見氏の論考も魅力ある。
「ダレノモノデモナイ」が山岸巳代蔵の根っこにあり、そこからさまざまな村の機構が産みだされていったのではないかと推測している。
 まだまだ紹介したいものも多々あり、順次取り上げていこうと考えている。


▼最近ある友人から次の便りがある。実顕地の行く末のことを真面目に考えていて、親しく交流している。

《生活の元となる産業は徐々に縮小していますので経済的基盤は当然のこととして弱体化しこれから成長していく話はどこからも入っては来ません。参画者は殆ど無いに等しいですから実顕地の人材は高齢化し全平均は70を超えたと聞いています。人々はそれぞれの私意が第一に尊重されるので大変ご気軽に暮らしています。私も大変気楽です。2000年前と大きく変化した点です。
 しかしながら他に何が変わって実顕地でのやりがいや考え方の進歩といえるものがあるかと問われたらば、多分無いと言うよりも退歩していると言いたくなります。その理由としては第一には2000年以前のことについての反省が村人間でなされなかったことがあり、第二に村人の研鑽嫌い(研鑽できない)が大きいです。・・研という名の研鑽会の名称のものは多いですが、ほとんど放談会であると言いたいです。仲良しとは言いますがそれも自分たち実顕地メンバ-だけのことであり、近隣の人や事についてすら義務的には感じても関心を持つ事はないです。仲良しについても研鑽を積まねば世界には通用はしないでしょう。》

 むろん人によって、いろいろな見解はあるだろうが、実顕地在住の友人から同じようなことを聞くこともある。

 また、「私も大変気楽です」とあり、吉田光男さんも食道がんを抱えながら、自由に読んだり書いたりすることに専念できる実顕地の環境に感謝していたが、「終生生活保障」のシステムが整っているからだと思う。


 しかし、このシステムはこれまで参画した人の働きによって蓄えた財産によることが大いにあり、次の世代への適切な引継ぎがないと、先細りになるおそれがある。

 いずれにしても、知り合いの方も多い高齢者たちが、気楽に過ごしているのを聞くのはうれしい。


 村岡氏は『ユートピアの模索』でこの辺りのことについて氏なりの問題提起をしている。
『今日の時点で、ヤマギシ会として独自に活動する意味・目標・理念を鮮明にするためには、巳代蔵いらいの歴史と伝統のなかで、何が一貫して貫かれていて、また今後も堅持すべき理念・目標なのか、逆にどこを変化・改変してきたのか、すべきなのかを篩にかけて検討・研鑽する必要があるのではないか。部外者の私が立ち入るべきではないが、私にはそう思えるのである』(p176)

 相互扶助と相互規制の拡がりをもたないそこだけで成り立っているような共同体でいくのか、独自のルールに基づく「金の要らない楽しい村」を目指し、それに付随して、「親愛の情に充つる安定した快適な社会を人類に齎す」というヤマギシズム運動をしていくのかに道は分かれていると思う。
 いずれにしても、そこで暮らす構成員によって選択していくことだが。
           ☆
 
 参照:〇『山岸巳代蔵全集』「第三巻について」抜粋
 一九五六年一月に「山岸会特別講習研鑽会(特講)」が始まり、それを受講した会員が増えるにしたがって、山岸会の支部は全国に広がっていった。特講は、関西地方では連続して開かれ、関東地方でも開催されるなどの活況を呈し、受講者は一九五七年だけで二千五百人を数えるまでになる。
 特講の拡大に伴い、運動の方向も様々な広がりを見せ、現状そのままでの理想社会実現を目指す一体経営的な試みも、和歌山県有田郡下六川や山口県大島郡など各所で起ってきた。

 そうした中、一九五八年三月に「山岸会式百万羽科学工業養鶏(百万羽)」構想が発表されると、各地で中心的に活動を行っていた会員たちが続々とそれに参画、七月には三重県四日市市赤堀で創立総会が開かれ、八月から三重県阿山郡春日村(現伊賀市)に「ヤマギシズム生活実践場・春日実験地」が造られ、参画した有志会員による「一体生活」が始まった。 
 山岸巳代蔵自身も、特講の連続開催や、「百万羽」の建設活動に深く関わっていた。同時並行で、愛情問題の探究にも携わっており、そういった多忙の中にあったためか、この時期の山岸の著述は非常に少ない。「百万羽」構想に関するものも、講演記録や座談会記録があるのみで、まとまった著述はない。したがって、「百万羽」関係で本巻に収録したものは、主に『快適新聞』に発表された記録類である。
「百万羽」建設の最中、一九五九年四月一五日、山岸は『真目的達成の近道』を発表し、「急進拡大運動」を会に向けて提案した。そして、一九五九年七月に「山岸会事件」が起る。

 これらの運動や事件の事実経緯や、その意味については、本巻に収録した山岸の著作や、巻末に収録した試論を参照していただきたいのだが、結果として、山岸巳代蔵は運動の渦中から一時的に離れることになった。
 そのことで、山岸は著作に専念できる時間が持てるようになり、この時期の著作は、未発表のものや草稿段階のものを含めて、かなりの量に及んでいる。本巻では、それらのうちから、当時発表された『愛和―山岸巳氏からの第一信』、『山岸会事件雑観』の他、生前には発表されなかった『第二信』や『正解ヤマギシズム全輯』草稿の一部(没後に「ボロと水」に掲載されたもの)、『盲信について』を収録した。
 一九六〇年四月、山岸巳代蔵は、『声明書』を発表して自ら警察に出頭し、その後三重県津市に移った。そして、この頃に、「ヤマギシズム生活実顕地」構想の第一弾と言うべき、『金の要らない楽しい村』、『ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況』の二編を書き上げることになる。
(以下略)
 二〇〇五年三月 山岸巳代蔵全集 刊行委員会