〇金の要らない楽しい村
《金の要らない楽しい村》は、一九六〇年五月に三重県津市において山岸巳代蔵によって口述され、中村美須枝と大江博が筆記したと伝えられている。
この資料は、〈山田村の実況〉と共に、ヤマギシズム生活実顕地をつくろうとする人達の研鑽資料として使用された。一般に公開されたのは山岸没後で、『ヤマギシズム第九九号』(一九六一・一二・五)と『ヤマギシズム第一〇二号』(一九六二・一・五)に、
〝ヤマギシズム生活の具現方式 金の要らない楽しい村 月界への通路の一コマ(山岸巳代蔵著・未発行)より〟として、二回にわたって掲載されており、『山岸巳代蔵全集(㈢」への所収は、それを底本にした。
ここでは、その中の「研究家・実行家に贈る言葉」を掲載する。
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▼研究家・実行家に贈る言葉
この著書は教書ではない。否、この著書に限らず、私の過去、言ってきたこと、書いてきたこと、行ってきたことすべて、及び今後のすべての言行のいずれも、みな教えるものではない。全部研究家の参考資料として提供し、それの取捨選択・実行に至っては、各々の自由意志に俟つものである。
その時その場に於ける私の思ったまま、或いは自分で気づかないままに表現されつつある、一応の部分的現象にすぎないものである。やがて私の思う記録、〝月界への通路〟の一端として『正解ヤマギシズム全輯』の草案を取りまとめ、各輯ごとに分類し、人間生活はもとより、宇宙万般の現象界・無現象について、私の感ずるままに縦横に書き綴り、大衆の前に贈りたいと思って、今それにすべてを賭けている。
しかし思うに任せないことは、今の環境条件下、心身の不自由さから、それの中断状態のやむない事情にあり、私が今日まで受けた過去、現在の人達、及び大自然に応える日の遅れることに重荷を感じ、無為に生命の燃焼し終る時に近づきつつあることを惜しむ。
この著書は目下の世界情勢を考慮し、明日を待てない緊迫さを感じ、身心憔悴の中で心せくままに、全輯の中の一節を抜粋・省略して記述したもので、粗雑なことおびただしいものがある。
私を生み、育み、注ぎ込まれたものが活かされるのは、これからだと思う。
もし世に何ほどか役立つなれば、私を活かし、使われた方がいいと思う。
真正、最良を目指し、それを検べ、探究し、一刻の停頓なく、希望に満ちた前進一路、過去・現在を知り、将来を創造する歓びに生活する今日只今、即ちみな仲良く、楽しく、豊かに、今日より明日、明後日と、展けゆく将来を創設する今日の歓びの中に、現在只今も、正常・健康の中に浸って生活する一コマ一コマの連続であろうとするもの。
明日の幸福は、今日の歓びの中から生まれ出るもの。
もし、今日只今が正常・健康でないなれば、速やかにそれの原因を検究して、その間違いの部分を発見し、即刻それの解消を図ることである。
悲しい今日の中から楽しい明日は生まれない。今日は物が足りなくて、身体に汗しても、やがての物心の豊満、健康・正常のための、今日只今の心の世界は、歓びであり、生き甲斐に生きるものである。
ヤマギシズム生活は、本当を目指して、只今も本当であろうとし、歓びの中に、理論研鑽・方法研鑽・実行研鑽の、正常・健康の連続生活を謂う。
本著『金の要らない楽しい村』の著述にあたって、本当は理論、理念から説きおこし、現象面について書くのが順序であるが、今の著者の体力的・時間的事情もあり、それは『正解ヤマギシズム全輯』によるとして、ここでは読まれる人達にまわりくどさを感じささないために、形態面について、大衆向きに著すことにした。
だがこれは最終段階の出来上がったモデルではなく、真理、真実、最良を目指しての、まだまだこれからの段階にあり、未熟・不完全な前進段階の一コマであることもちろんである。
来る日も来る日も研鑽を続けて、改良に改良を加え、幼稚なものを完全へ育て上げていこうとする生長期のものである。
その研鑽改良も著者一人よくするところでなく、各々が、世界の全智、全能、実蹟を取捨選択し、みんなで育て上げていくもので、明日も、今日この著書に盛られた型を踏襲するような、進歩性のないものではない。
みんなで創案して、よりよく、より本当へ、みんなで改良していくものである。
これは繰り返して言っておきたいことで、著者自らも、なお改良を続けていくものではあるが、それに依存しないで、各自、自らが改良・実行していくことである。
教書でないと書いたことは、あくまで教えるものでなく、従い習うものでなく、どこまでも、考えるための参考資料に過ぎないという意味である。
現在の世相では、本書の文字を読める人は多いだろうが、これを読み得ても意味を読みとれる人は少ないだろうと思う。
まして本書に盛られた具現方式を、即実行、具現できる人は、その境地に入った、よほど進歩的で、世界の先端をいく、革命意識に燃える、まれに見る人達に於てのみなされるであろう。だが、この空想とも一般に笑殺されるであろう、実は実現容易な理想境〝金の要らない楽しい村〟が、地上の一角に一点打ち立てられる時、それを見、聞き、伝えた世界科学者達の研究課題になり、人間の本質、社会のあり方等について、関心を寄せられる人々の注目が集まり、実行家の続出することは、火を見るよりも明らかである。
世界の各地・各所に、〝金の要らない楽しい村〟が続々と打ち立てられるであろうし、こうしてこれらが相関連的に、燎原の火のように世界中に燃え拡がり、急速に全世界が風靡されることを拒む何ものもなくなる。
初めは荒唐無稽、夢物語と嘲笑している古い社会通念・常識観も、事実の前に、いつの間にか新しい事態の中に立っている自分を気づかれることであろう。
世界第一号を打ち上げる人は誰だろうか。
それに続く人は誰々だろうか。やりたくない人、やれない人は、やらなくてよいことであり、またそういう人達ではやれないことでもある。
『金の要らない楽しい村』という著書名も、ただそれは一端の、一部の表現であって、この真意・実質は森羅万象総てに関する深いものであり、世界革命を誘発する口火を切るものである。
金の要らないということは、通貨やチケット・権益・契約・義務・所有観念等、有形・無形の一切の枠から解放された、真の自由の天地であり、旧来の法律・制度・習慣・通念が、根本的に真のあり方に立脚した、全人類が想像だに成し得なかった、最も進歩的な、文化的な、物理・心理の粋を集めた、哲理顕現の世界であり、またそれなるが故に実現も容易なはずである。
本当のものは難しいものでなく、間違った考えに彷徨している間は、本当の答は出ないもの。理数究明的に、一点の狂いのない答が出るはずである。
規模は小さくても、本質的なものが一ヵ所できれば、後は誰が勧めなくてもみんな見習う。
世界中から観に来て、世界中に拡がる。
──一九六〇年五月──
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『金の要らない楽しい村』の「研究家・実行家に贈る言葉」は、執筆当時の山岸巳代蔵の状況とその執筆の動機が語られている。その一年後、五月一〇日に死去する。享年五九歳。
短い文章だが、晩年の巳代蔵の特徴が現れているのではと思う。
つづけて未完の「総論」が述べられ、「金の要らない楽しい村」のイメージが簡潔に語られる。
もう一篇(金の要らない楽しい村)ヤマギシズム生活実顕地〈山田村の実況〉で、このように実顕地はできるのではないかと、三七五戸の山田村のことが小説仕立てで書かれている。
最期に調正機関に触れるなど具体的に描かれている。
順次、掲載していこうと考えている。併せて山岸巳代蔵の思想に触れていく。
(続く)