〇《金の要らない楽しい村》は、一九六〇年五月に山岸巳代蔵によって口述されたものを起こした資料の題名である。この資料は、〈山田村の実況〉と共に、ヤマギシズム生活実顕地をつくろうとする人たちの研鑽資料として使用された。
これがヤマギシズム社会・実顕地のキーワードの一つとなる。
これからしばらく、この資料の原文を紹介し、それが後の実顕地にどのように取り入れられ、変容していったかを考察していく。
さらに,現社会で面白い実践をしている共同体、相互扶助的地域社会もいくつかあり、そこの気風や特徴を、変容した現実顕地と対比しながら、その可能性を探っていきたいと思っている。
その中で、意欲的な教育共同体を繰り広げている「凱風館」の内実は、共同体を考えるときに、とても参考になると思っている。その成り立ちや内容について内田樹氏が『ローカリズム宣言』など度々触れていて、その考え方などを参照していきたいと思っている。
この教育共同体は「凱風館」に共鳴することを一つの条件とする特殊なものではあるが、それ以外は自由な気風が漂っているのを感じる。この自由さが、共同体のもっとも大事なことではないだろうか。
なお、共同体について、ブログ・日々彦「ひこばえの記」にいろいろな角度から述べている。その中から、【「相互扶助的共同体」が成り立つ気風】の一部を紹介する。
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〇2011年に大学を退任した内田樹は神戸に「凱風館(かたくなな心を開く広場)」を開いた。それは合気道の道場であり、住まいでもあり、「私塾」でもある。同時に三百人の「相互扶助活動」のハブともなっている。
〈先行世代から受け継いだものを後続世代に引き継いでゆく、そういう垂直系列の統合軸を持った相互扶助・相互支援的な共同体が、もう一度、たとえ局所的にではあれ再建されなければならないと思います。その共同体の最優先の課題は、子どもを育てること、若者たちの成熟を支援することです。〉(『街場の共同体論』p200)と述べている。
『ローカリズム宣言』では凱風館のことについて次のように記録している。
〈メンバーそれぞれが、自分の持つ特技や情報(※農漁業、育児、IT,医師等)によって共同体にサービスを提供してくれます。そうやって凱風館では、実に活発な交換が行われています。でも、そこには貨幣が存在しない。凱風館で行き来している財貨やサービスは、これらを市場で購入しようとすれば、それなりの代金を支払わなければならない質のものです。でも、ここでは貨幣は用いられません。受け取ったサービスに対して自分がいつか、自分が得意とする分野の仕事で「お返し」をすればいい。そういうルールになっている。貨幣が動かないので、凱風館で行われている経済活動はGDP的にはゼロ査定されます。-------
凱風館が小さいなりに非市場経済、非貨幣経済の場となりえているのは、ここが教育共同体だからです。〉
続けて次のことを述べる。
〈私たちが享受しているもの、この社会制度も、言語も、学術も、宗教も、生活文化も、すべてが先人からの贈り物であって、僕たちが自力でつくり上げたものなんか、ほとんどありません。ですからこれをできるだけ損なうことなしに未来の世代に手渡さなければならない。贈与を受けたものには反対給付の義務がある、そのルールを内面化したもののことを人間と呼びます。商品と貨幣のやりとりというスキームでしか人間社会で起きていることの意味を考量できないものは、厳密には人間ではないのです。人間にしか共同体はつくれない。だから、現代日本では地域共同体も血縁共同体も崩壊したのです。〉(内田 樹『ローカリズム宣言』より)
先人から渡されたものを次の世代へ、仲間から提供されたサービスを、出来る機会が来れば、自分の得意技やできる範囲でお返しする。凱風館はこの気風が当たり前のように根付いているのだろう。
本書では他にも,岐阜県中津川市の自治体の「人口3000人の村で27軒の飲食店がつぶれない」などの実践例や群馬県上野村で暮らしている内山節氏の村づくりの思索を援用しながら論を進めている。
〈ローカリズムとは何かというと、自分たちの生きている地域の関係性を大事にし、つまり、そこに生きる人間たちとの関係性を大事にし、そこの自然との関係を大事にしながら、グローバル化する市場経済に振り回されない生き方をするということです。
ここが自分たちの生きる世界だという地域をしっかりもちながら、そういうローカルな世界を守ろうとする人々と連帯していく。(内山節『ローカリズム原論』p106)〉
「相互扶助的共同体」には乳幼児もいるだろう、病気、高齢などによりほとんど寄与できない人もいるだろう。
また、人間が集団として生きて行くためになくてはならぬもの、自然環境(大気、海洋、河川、湖沼、森林など)、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網、電気ガスなど)、制度資本(学校、医療、司法、行政など)は、機能停止しないように定常的に維持することが最優先される。
そういうことも含めて「相互扶助的共同体」が成り立つには、その規模によるがさまざまな英知を結集する仕組みがいる。
そこには、そこで起こることは「私たち」のことだと思える一人称複数的な主体がある程度いることが欠かせない。
いずれにしても、贈与と反対給付のルールを内面化した人たちや気風があることが、大きいのではないだろうか。