広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

ジッケンチの学育を考える①(福井正之記録⑥)

※『回顧―理念ある暮らしその周辺』㊴で「ジッケンチ学育」を掲載している。

ジッケンチ学育については、2010年に<試論>ジッケンチとは何だったのか  第3部 <ジッケンチ学育>外論 を書いている。この記録は<ジッケンチとは何だったのか〉の三部構成の第3部として書かれたもので、相当の力作であり、①と②で全文を取り上げる。重なる部分もあるが、ここでは、『回顧―理念ある暮らしその周辺』㊴「ジッケンチ学育」を取り上げる。

 そして、様々な福井記録を読むに際して、簡単な年表を作ってみた。

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◎第3部 <ジッケンチ学育>編 2019/12/8

 <ジッケンチ学育>とは何だったのか (2012/3)

 序)世間から見た「ヤマギシズム学園」の特異性

 私はジッケンチの教育、すなわち理念的には「ヤマギシズム学育」の世界にかなり専門的にかかわってきた人間である。しかしこと志に反し、私の現在の生活レベルはジッケンチの外にあって、ざっくりいえば下層・プア層に属するだろう。よってヤマギシ関連でいえば、まず実顕地生産物の巡回車と出合っても高価で手が出ないから、だいたいはスーパーの安売りサービスに依存してきた。

 さらに当時のヤマギシズム学園幼年部の学費(生活費込)は月額7万円であり、高等部が9万円だった。他の寄宿型学園がどの程度だったか詳らかにしないが、これだけの出費を覚悟して地域から1人ないし2人の子を送り出せる世帯となると所得階層からすれば中・上位以上で、かなり限られてくるのではないか。

 私はかつてジッケンチに在った頃、学園の渉外担当として、こういう階層の親たちと子どもを通して付き合ってきた。この親たちのヤマギシ関連でのコースは、生産物→楽園村→学園送り→親の参画の流れであり、中でも80年代後半からの大量参画がこの親たちからだったというのは特筆に値する。

 それ以前の参画者は私もそうだが、思想・理念や共同体・コミューン、あるいは福祉への関心からであり、そこからの参画も小規模ずつなものであった。ところがこの時期のきっかけは子どもの学園入学に集中しており、さらに子どもと生き方・方向を同じくするために参画してきたのであった。

 このことは当時の私たちからすれば、いわばねがってもない奇跡的な壮観であった。たかが一共同体にすぎない場に子どもの教育を託して日本全国から子どもらが集まり、しかも次いで親たちまでもがその共同体の事業に参画してくるということであり、さらにその結果として共同体の画期的な発展が実現するということであった。

 もちろんそこには、社会全体からすれば泡沫のごとき一共同体生存のための必死の画策があった。と同時にそこには従来の訓育的な教育技術ではない「学育」環境、すなわち<理想的な社会環境こそ理想的な教育を可能にする>という心ある人々の夢想に点火する実態を垣間見せていたのである。

 普通の市民的バランス感覚では、子どもを海外の遠隔地まで送り出すことはあっても、親自身がこれまでの生活、人間関係などの全てを投げうって一見未知不可解な集団に飛び込むということは、おそらくはまずありえない。またそこまでしなければ子どもが育たないとは断言しうるものでもない。しかし私は虚偽とは思わず当時の高揚した気分から、それに近い断定を行ったことがままあったことを慚愧の念とともに思い出す。つまり私は<育つ>という定義において、ある特定化された方向性を一般化していたのだ。

 今シャバ=地域にあって普通の市民感覚で暮らしている身からすれば、子どもはどこでも育つというのが実感である。年齢によって目的目標が特殊化されてくればコースを異にすればいいだけであった。それも実顕地の場合、専門的な技能ではなく,生活・農業体験による心身の涵養等の教育目標があったとしても、方向性としては<全人幸福の生き方>を目指すとなれば、相当風変わりで特殊な選択ということになる。

 しかし当時参画者拡大はジッケンチの至上命令であった。私自身も決して強いられたわけでなく率先してそのために活動していた。ということは子育てという目的と親の参画という目的とが、理想社会建設という大目的に統合されるものとして、私のなかでは矛盾なくつながっていた。

 私は学園幼年部担当として選ばれ、「愛児に楽園を」「子放し親放れ」理念の下、かつてない学園づくりにいわば打ち震えながら取り組んできた。それが軌道に乗ってくると、内外の要請もあっていっそうの拡大を求め、いつしか明らかにジッケンチ拡大=参画の一コースとなっていった。その<子どもの入学>と<親の参画>という二目的の後者に力点が置かれ、前者が軽視されればそれは手段―目的関係に変質する。あからさまではないにせよ、次第にその現実の力点移動は進行しつつあった。

 もちろんその過程では親自身の新たな生き方への転換が子どもへの教育意図とはいったん区別された自己納得として進んでいったはずである。したがってたまたま親夫婦間の亀裂や家族の解体があっても当事者自体のテーマであり、私は「真目的」実現の数少ないリスクとしてやむをえないことと考えた。そのうちその痛みも少なくなっていったであろう。親たちのどちらかでも参画したら、一体生活というより高次な<幸福>があるじゃないかと考えることで。しかし参画後の実態からすれば、それはまさに<空手形>だったと思われる方もおられただろうし、それがのちの大量離脱にもつながっていった。(2012/3記)

(現在の註)上で展開されてきた運動集約的な実践世界とはまったく対極の世界を、たまたまだが昔のマイメモ集の中から発見した。またしても吉本隆明である! しばし瞑目・・・

「でもぼくは、一般社会の中にいて、不登校的な生き方を貫いていくべきだと思うのです。自分たちが優れていると思っている人も、その逆の人も、一般の人たちとは別に自分たちだけの社会を作ろうとは思わない方がいい。なぜかというと、閉じられた集団に身を置くことは決していいことではないからです。スタートの時点から、一般社会と自分を区切るようなことをしてはいけない。自分を特別な位置においてしまうと、世の中には色々な人がいて、考え方が違ってもみんな平等なんだ……ということが成り立たなくなってしまいます。それに同質のものが集まって作る社会は傷つくこともなく快適ですが、先が閉じています。発展していく余地がないのです。いくら立派な理由があって作った集団でも、始末におえないものになってしまう恐れがあります。」

(「ひきこもれ――ひとりの時間をもつということ」大和書房)

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※福井さん各種記録を読むに際して、参考になればと思い簡単な年表を作ってみました。

○福井さんの参画後の数年の実顕地での足取り

1976年春:一家を伴って、北海道試験場に参画

1978年3月:「睦みの里(北海道試験場)」解散

1978年~79年:一時豊里実顕地にいて、やがて春日山実顕地養鶏試験場配置

1982年頃;阿山での新学園設立を目指し阿山実顕地に配置。

 関東のパン工場に実習、帰ってから阿山でのパン工場の設立に全力を挙げる。

 阿山では世話係というより子どもらの良いお父さん役として暮らしていたが、やがて実顕地拡大の動きで、幼年部送りなど各地に奔走するようになる。

○福井さんの実顕地での出版物

1987年1月:『愛児へのおくりものーヤマギシズム学園幼年部の一年』(福井正之・川端國文共著)

1990年11月:『子、五歳にして立つーヤマギシズム学園幼年部の子どもたち』(松本照美・福井正之共著)

1994年1月:『蝶よ花よといじめないー楽しい子育て親育ち』(福井正之著)

○ヤマギシ学育の動き

1985年:阿山実顕地にて幼年部一期生スタート

1986年4月:豊里実顕地にて高等部一期生スタート

1987年:幼年部三期生・阿山53名、豊里51名

1989年:豊里実顕地にて中等部一期生スタート

1990年:豊里実顕地にて初等部一期生スタート

1991年:豊里実顕地にて大学部一期生スタート

○1974年~1982年頃までの実顕地の動き

・1974年7月(昭和49年):実顕地生産物多摩供給所発足。幸福学園一体生活始まる。

・1976年(昭和51年)3月:参画申し込みは実顕地本庁が取り扱う。実顕地一本化へ。 

 4月から春日山より各実顕地へ、若夫婦次々と移動。春日山から豊里への移動始まる。

 8月1日~15日:春日山ではじめの夏の子供楽園村開催。

 12月28日:北試→別海実顕地、中央試験場→春日山実顕地



・1977年(昭和52年)5月:「緑のふるさと建設運動」の報告研

・1978年(昭和53年)1月:新島著『ヤマギシズム幸福学園ーユートピアを目指すコミューン』本郷出版社刊行。

・1979年(昭和54年)1月:豊里実顕地洗濯館「黎明」完成。阿山実顕地幼年23名。 

 実顕地拡大部発足。参画者拡大、供給量拡大、適正規模への拡大。

 この頃、太陽の家の子供達、親元に帰らないで半年以上の。合宿生活続く。 

 9月:養鶏法研鑽会が生活法研鑽会に変わる。



・1980年(昭和55年)1月:この年より年間テーマ「ヤマギシズム文化の年を迎えて」

 5月:『天真爛漫』発刊。

・1981年(昭和56年)1月:年間テーマ「ヤマギシズムの村づくり」、特講1000回。

 2月:豊里実顕地に「村のお店」開店。「愛和館」での暮らし方資料配布。

・1982年(昭和57年)1月:年間テーマ「ヤマギシズムの村づくり 村育ち 拡大」

 10月:阿山実顕地パン供給始まる。生産物供給→子供楽園村→特講の具現方式。