〇『山岸巳代蔵全集』刊行の終了に伴って、その手引きとなるようなものの必要性を覚え、全集刊行・編集の過程で明確になった事実経過をふまえ、俯瞰的な観点から伝記形式にまとめ、『山岸巳代蔵伝―自然と人為の調和を―』を2012年に刊行した。
その後、ヤマギシズム関連の当ブログを立ち上げ、さまざまな角度から、自分の体験を交え、実顕地、ヤマギシズム学園などについて思うことを記録してきた。
その過程で山岸巳代蔵にますます魅力を感じ、その見方も少なからず変化している。
山岸巳代蔵没後に大きく展開したヤマギシ会活動は、山岸巳代蔵の影響を受けながらも、その思想から大分変容していったのではないかと考えている。
その山岸の思想は、現実顕地に限らず、社会や共同体、コミューンのことを考えている人に参考になることも多々あると思っている。
それはさておき、私の興味関心から、これからしばらく山岸巳代蔵について書いていこうと考えている。そこから派生して、実顕地や学園のことも触れていくと思うが。
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◎新・山岸巳代蔵伝➀
第一章 理想は方法によって実現し得る
1 山岸巳代蔵生誕の地を訪問
二〇〇八年七月七日に、全集の刊行委員・編集委員の有志で、山岸巳代蔵の所縁の地や山岸会初期の活動に関わる所を何ヵ所か訪問した。
最初は、生誕の地・滋賀県蒲生郡(がもうぐん)老蘇村(現在は近江八幡市安土町)東老蘇を訪ねた。琵琶湖東岸に広がる滋賀の穀倉地帯、湖東の沃野を貫く旧中山道(現在国道八号線)を近江八幡から北東に向かっていくと、新幹線の高架線路と接する。そこをしばらく行った右手に「老蘇の森」がある。ここは本居宣長の「夜半ならば老蘇の森の郭公(ほととぎす)今もなかまし忍び音のころ」などホトトギスの名所として名高く、中仙道の名所・歌枕の地として多くの歌人・旅人に愛されてきた森である。そこから数分のところで巳代蔵は生まれ育った。
山岸巳代蔵は一九〇一年(明治三四)八月一二日に、四人兄弟の三男として生まれた。代々百姓の家系で、父・巳之助、母・ちさ、長男・助一(一八九六年生)、二男・新五郎(一八九八年生)、三男・巳代蔵、四男・千代吉(一九〇六年生)の家族構成である。
私たちは、巳代蔵の弟・千代吉さんの四男・山岸大二さん一家が住んでいる家にお邪魔した。巳代蔵の生家はこの家から少し離れた中山道沿いにあったのだが、六〇年ほど前に今の場所に移転したそうである。母・ちささんはこの移転した家で亡くなり、その葬式の時に、巳代蔵は小冊子『二つの幸福』を配布したという。
大二さんが、従姉妹の西村しづさん(八七歳、二男・新五郎の娘であり巳代蔵の姪)を呼んで来てくれ、二人からは種々の貴重な話を聞かせてもらい、巳代蔵の若い頃の写真も見せていただいた。巳代蔵は写真に撮られることを嫌っていて、特別講習研鑽会の記念写真でも横向いていたりするので、青年時の実直な印象の写真に暫く見入ってしまった。
家の側には、巳代蔵が千代吉さんと建てたという二階建ての鶏舎の跡が半分ほど残っていたが、現在は、鶏肉業を営んでいる大二さん一家の倉庫になっていた。
同行者の奥村通哉さんと福里美和子さんは、山岸巳代蔵没後の一九六一年八月にもこの地を訪問し、千代吉さんや大二さんから話を聞いている。巳代蔵口述のもの、それを聞いた人の記録もあり、あわせて印象に残った話をおりこんで巳代蔵の子どもの頃を見ていく。
山岸巳代蔵は、一九〇八年四月に老蘇尋常高等小学校入学。以後、高等科終了まで八年間学んだ。小学六年間は無欠席、席次は六十人中四、五番、体操は不活発で駄目だが、算数を得意としていた。背は中以上で痩せ型であり、のりつけした着物を型崩さず着ていた。おとなしい子で、ものごとにはともかく熱心であった。
真宗信徒で賢夫人の評判の高かった母の影響を強く受けていたようで、後年になってから、「母によく連れられて行った寺に対する郷愁を覚える」と、もらしていた。
長兄・助一は兄弟の中で一番賢く何でもよくできた万能者であった。大陸で馬賊になるつもりで朝鮮に渡って呉服商、看板屋などしていたが、三五歳で早死にしている。彼は骨相を見る能もあり、一二歳の頃の巳代蔵に対して大器晩成で恐ろしいものになると言っていた。巳代蔵は「兄がいたら満州事変は食い止めていたと思う。何をさせても抜群だった。積極的で人につけいるのもうまかった」(『第五回理念研』)と語っている。
二人の一九六一年訪問時に、千代吉は「手仕事はわりに不器用だった。しまつのよいのと、一寸した木片でもまた使うようにされた。ブリキのはしでも。糸屋へ行ったのであんな習慣になったかと思うが紙くずでものばして。縄の端でもつないでくるくるまいていた。粗末にはせんようにした」とか、「変わった鍬を作っていた。ふりあげたら下すとき力入れなくても掘れるような重い鍬をいろいろ作っていた」などの話をしている。
以下、巳代蔵自身が子どもの頃のことを語っているものもあり、そこから見ていく。
ただ、ひとの記憶というのは、しばしば「あったこと」の記憶のなかにはいりこむ「なかったこと」によって歪められ、不確かな曖昧なものであり、その信憑性には、程度の濃淡はあるにしても、いくらかの疑問符をつけておきたい。
一方、過去の事実よりもその時のその人のとらえ方の方が、より実際の真相に近いことがあるし、むしろ、現在のその人にとっては、切実なとらえ方になる場合がある。不正確さを指摘するより、その記憶の持っている、エネルギーや豊かさにも反応していきたいと思っている。そのことに留意して、みていく。
2 妥協がない少年期
子どもの時からおかしな……なんと言いますかね……まあその当時は反逆になるんですけども、既成社会に対して、その当時の社会に対して、おかしい思うたんですな。
それで、むろん友達がなかったんです。ずっと友達がなかったんです。親とも離れておったんです、事実。で、親達は、私の言うことは「分からん。この子の言うことは分からん」と、こう言うんです。また友達ともどうしても妥協がないんです。今はもうこんなに年も……「老体」というのは情けないね、まあだいぶ世間慣れてきたんですか、多少妥協的な点があるんですがね……その当時からずっと、この絶対妥協がなかったんです。それで非常に淋しいんです。まあ自分で淋しいと思いませんがね。しかし形の上で友達がなかったんです。で、何が友達かというと、こういうこと(社会の探求)やってたわけなんです。
(「第一回特別講習研鑽会〈記念講演〉」)
子供の時から、どうもその肚の底は何も信じない、信じられないの。まあ「神さんへお詣りせい」言われても信じられないし、あの、学校で先生に習っても信じられないの。数学でさえも信じられないような僕で、次々こう、やってみると、なるほど信じられないようなものが出てくるの。まあ学校でも、そんなとこから教師も、「ちょっとあの子には……とても」、その何と言うかね、教師が「たまらん。いたたまれんようになる」言うてね、こういうこと言うた教師もあったけどね。数学でさえもね、数学はこうだというようなものでない、まだまだこんなものでなかろう、こんなものでなかろうというようなもの出てきてね。そういうもので、何でも信じないものね。
「これでいい」と、「あいつが間違いない」というここがね、そう人から聞き、自分で思っても、まだ底にその、「いやどうかな、どうかな」というものが入るのね。僕はずっとそうやったと思うわ。何でもそうやったね。宗教でも教育でも、日常のこの商売の方でも、着るもんでも、食べるもんでも、何でも、ほんで妙なものがあってね。……
(巳代蔵の母の、父系のおじさんは)とにかく変わったことをやってみる人で、これでもこれでも、これでもこれでも、まだまだまだまだと、こういう人やったらしいけどね。
お母さんもそういう傾向があってね。学校は行かなんだけどね。お母さんは、百姓の仕事でも、変わったこと、変わったことというかね。ちょっとでも人が変わったことやって、新しいもの聞くとね、「あれやってみようか」と。お父さんも進歩的やったから、あの、すぐ同意して変わったことやる人やったがね。そんなふうで、その血を受けたというか、子どもの時から、何か知らんがね、まあそれで良しとしないものね、こういうものがあったがね。で、これで良いと思ったら信ずるのやけどね。信じられないものやね。まあそういうものがほとんどでね。
(『盲信について』「喜びの感想」)
やっぱりむしろ親の言うこと、いいことやなと、やろうという気持でずっと聞いてきたと思うわ。そして実行ということになってくると、親の考えも及ばんような意表に出るような思い切ったことをやってきた結果になってる。それに対して親兄弟も、「あの子は何か積りがあって、ああするのやろから、傍からなるべく邪魔しないで、むしろそれに協力するように」というように、むしろ協力してくれた。
ほとんどそんな風で、詳しい僕に訳を聞かないでも、まあ僕の考え方や、やる事を信頼するという、それをよく親の口から聞いたし、また自由に委しておく、サシを入れるより委しておく。けど決して脱線や気儘はせなんだつもりやね。そうそう、「ようこの子は物を考えてるから、深く考えるから、そんな大した踏み外しはしないだろう」と。
どうかな、これ考えてみると、どうやったやろ、フフン。……
思いのまま出来る環境にあったのに、恥ずかしがりで陰気そうに見えて、ものは本当に言わなかった。よく考えたもので、皆と一緒に遊びに行くなど滅多になかった。お祭りでも、山登りでも、運動でも。何時も何ということなしに、まあ考え込むというほどではないが、まあ(遊んで)用事がなしに、なおないからついじっとして閑居すれば、考えるともなしに考えるということになるのやろうね。優柔不断というか、そう見えるものであって、そうそう、お盆にお母さんの里から毎年履物と扇と対でもらうの。その扇子に熟慮断行と書いてあったね。これはとても気に入ったね。その方へなろうとしていたのか、自分もその方になろうとしていたのを言い当てられたのかな。熟慮断行と優柔不断と、よう似て全然異うと思うね。……
子供の時から滅多に怒らなかったが、おとなしい子だと兄弟中でも特別可愛がられてきたが、たまに怒った時には誰も止めどがない、手のつけようがない、熾烈な怒りで、呼吸も止まるほど怒ったもので、しかし乱暴するなど、物を投げつけたり、叩いたり、そういうことはほとんどなかった。おかしいやろ、よう怒らんのや。……
よその子が犬をいじめたりしてんのには猛烈に怒るね。カイツムリを打ったのを目撃した時、怒ったなあ、すぐ消えるけどね。
(資料「子供の時分を想い出して」)
僕は子供の頃から時たま変なことをみたよ。友だちがなくて大てい一人ぼっちで淋しく遊んでいた、御飯のおにぎりを食べていたら土になったこと、ホントよ。ある時は七才位の頃だと思うが、けんかしていた蝶々の一匹が僕にとまって耳もとでやさしく話してくれた。セミとりに行こう、よいとこがあるからと先に飛んで案内してくれた。ついて行くとなるほどほんとうだった。一本の木の幹にセミがとまっている。ソッと近よってとろうとしたトタン落ち込んだのが野中の古井戸だったね。どこまでか沈んで浮き上がった時、周囲からたれ下がっていた草につかまってはい上がってぬれたまま家に帰った。井戸の水は澄み切っていた、沈んでいく時も浮かび上がっていくのもはっきり見えた。
(「一九五九年七月~八月頃の柔和子への手紙」)
これらのエピソードやその後の行跡から推測すると、子どもの頃から、出会う出来事に敏感に反応する柔らかい精神をもち、人も恐れるぐらいの鋭い観察力で疑問や工夫を重ね、誰にも臆することなしに、孤立を怖れず、よくよく考えたうえで思い切って実行し、種々のことを追求し続けたのではないかと思われる。
また、最後の柔和子への手紙に見られるように、気質的にイマジネーションが豊かであったことがうかがえる。他の柔和子への書簡類でも語られているが、幻想・幻覚も度々起こっていたようで、神秘的直観、霊的ともいえる感性も特異なものがあったようである。
その後私たちは、山岸大二さん一家とお別れして、巳代蔵が子どもの頃遊んだ「老蘇の森」に向かった。車で少し走ると、深い森の入り口に「奥石神社」の鳥居が見える。車を降りて、七月の木漏れ日を浴びながら生い茂った松・杉・桧に囲まれた参道を社殿の方に歩き、森厳な空気を感じつつ辺りを散策した。先程まで応対された大二さんの柔らかい静かな物腰で淡々と話されるのを思い出しながら、近江の風土や近江商人と山岸巳代蔵との関連について考えていた。この老蘇の森から近江における大商人輩出の地として名高い東近江市五個荘へは、車で二、三十分ぐらいである。
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※「引用文献」
・『第五回理念研』→『山岸巳代蔵全集・第六巻』(1960年10月)
・「第一回特別講習研鑽会〈記念講演〉」)→『全集・第二巻』(1956年1月)
・『盲信について』「喜びの感想」→『全集・第七巻』(1960年2月)
・「子供の時分を想い出して」→『全集・資料編』(1960年7月)
・「一九五九年七月~八月頃の柔和子への手紙」→『全集・資料編』