(第三章 社会や人生のあり方を根本的に究明することが先決)
4 「山岸式養鶏法普及会」と「山岸会」
1950年9月、ジェーン台風が京阪神を中心に猛威を振るう。あたり一望倒伏田の中、稲が見事に立ちそろっている山岸の耕作田を発見したのが、台風被害の実地踏査をしていた京都府の農業改良普及員の和田義一である。
和田は普及員として米の増収に最も力をそそぎ、担当地区を視察しつつ指導して廻っていた。早速和田は山岸を訪れ、その人柄、考え方に触れ、これほど優れたものをここだけにとどめておくことの惜しさを痛感し、心進まぬ山岸を口説いて講演会などに引っぱり出した。
やがて、その養鶏法や農法に魅力を覚えた人が結集し、1953年3月に「山岸式養鶏法普及会」が結成される。
このとき、特に大事な提案があるからと、山岸が考えている組織とその趣旨・方法についての文案を提示した。
「養鶏普及会は実に結構なことであるが、私の体験からも、また若い頃から考えつづけた私の考えや、社会の実情からしても、養鶏普及会だけの会であり活動であればじつに危険で、むしろそれなら初めからこんな会を作らない方がよかったと気づく時が必ず来ると思う。その上皆さんも感じていられるように、これは実は鶏であって鶏でない。本当は鶏も含めた根本的な不可欠の大事なものがあると私は考えるのだが」
それが一同の共鳴共感を受けることになり、是非普及会と同時に並列的に結成しようということになり、その会の名は「山岸会」ということに決定した。
初期の頃は、養鶏法や農法に注目する農民などが多かった。そのようなこともあり初期の著作は、養鶏に関連したものが大半である。
しかし、養鶏法に限らず、山岸巳代蔵の思想や感性が色濃く現れていて、魅力的な論考も多い。
この経過は、『山岸巳代蔵全集(第一巻)』のあとがき「第一巻について」に述べている。
《第一巻について
この巻には、一九五三年(昭和二八)から一九五四年(昭和二九)九月までに、山岸巳代蔵が発表した著作を中心に収録した。
山岸巳代蔵の思想は、養鶏や農業にとどまるものでなく、人間の幸福や社会のあり方の理想を追求し実現しようとするものであろう。しかし、戦時下という時代の制約もあって、山岸は当初、自分の思想を鶏に適用して山岸式養鶏法を組み立てた。それが非常に画期的な省力養鶏で、短期間に効果のあがったこともあって、山岸の思想本体そのものよりも、その具現体の一つである「山岸養鶏」が戦後の農村を中心に急速に広まった。そうした関係上、特に初期の著作は、養鶏に関連したものが大半である。山岸自身の思惑としては、山岸式養鶏法の断片的な技術のみが広まり、それを中途半端に取り入れて、一時的には経済的成功を収めても、結局は失敗に終ることを懸念し、山岸式養鶏法の精神・経営・技術をも含めた総体を何とか多くの人に伝えようとしたようである。
本巻冒頭に収録の、『山岸会養鶏法』は、こうした背景で一九五四年二月に出版された、山岸最初のまとまった著書である。それと前後して、篤農家の集まりである「全国愛農会」により山岸式養鶏法が紹介され、その発行誌である『愛農養鶏』に山岸の文章が連載された。また、農村への農業技術普及や精神運動を展開していた「愛善みずほ会」発行の『みづほ日本』にも連載の場が提供された。いずれも養鶏にまつわる著述であるが、山岸の思想が色濃く反映したものとなっている。
さらに、同年四月には、山岸式養鶏会の機関誌『山岸式養鶏会会報』が創刊され、「獣性より真の人間性へ」を発表。九月発行の会報二号では「獣性より真の人間性へ(二)」「会の性格と運営について」など、山岸の思想を直接綴った文章も次第に発表するようになる。
山岸が養鶏に関わったのは約二十年に及ぶが、心身ともに養鶏に打ち込んだのは、その間わずか二年に過ぎなかったという。山岸の本業は、一貫して、真理及び理想社会の探究、そしてその実現のための知的革命の理念と方法の模索であった。このことは、巻を追うごとに理解を得られると思う。》
(『山岸巳代蔵全集(第一巻)』「第一巻について」)
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「山岸巳代蔵全集第一巻」所収の各著作の解題
・『山岸会養鶏法 増補改訂 農業養鶏編』一九五七年増補二〇版
『山岸式養鶏法(農業養鶏編(前編))』は一九五五年に加筆し発刊された『山岸会養鶏法 増補改訂 農業養鶏編』の一九五七年(昭和三二)山岸会出版部から発行の増補二〇版を底本とした。
「手引文」の「本書は幸福の書」及び「改訂に当りて」と本文「一 特別解説」は増補改訂版(一九五五・七)において加筆された。
『山岸式養鶏法(農業養鶏編(前編))』では、増補二十版の「八 農業養鶏には」の「⒑餌付け第四十日までの管理―餌付け第四日以後」の項目までで本文は終了。その後の文章は第一巻の『山岸会養鶏法』の最後に補遺として記載する。増補二十版の「八 農業養鶏には」の⒒項は柴田利雄記述、⒓・⒔・⒗項は芦田哲雄、足立新吾記述である。
また、呵獏博士(山本英清のペンネーム)署名の「九 失敗の実例とその原因」「十 山岸会とは」及び「十一 体験発表」も増補改訂版で加えられたものである。
・「山岸式農業養鶏について」
全国愛農会の機関誌『愛農養鶏』に一九五四年三・五・七・九月四回にわたって連載された。タイトルは三月号「ナマクラ養鶏の真髄」、五月号は『山岸式養鶏法特集第二話』としてタイトルは「心理追究から発した養鶏」、七月号「自ら墓穴を掘る」、九月号「病災は内より」となっている。
『愛農養鶏三月号』に掲載された「ナマクラ養鶏の真髄」は『山岸式養鶏会会報創刊号』の発信寄稿録の中から「①同行愛農会の諸兄姉に」にも掲載。それぞれに省かれている部分もあり、この項は両方の掲載文を照合して編集した。
・「山岸式養鶏法の実際」
愛善みずほ会の月刊誌『みづほ日本』に一九五四年四月号から九月号に六回にわたり連載された。タイトルは「山岸式養鶏法の実際」、「山岸式養鶏法の実際」⑵、「山岸式養鶏」⑶、「山岸式養鶏法」⑷、⑸、⑹となっている。
四月号の「山岸式養鶏法の実際」は一部『山岸式養鶏会会報創刊号』の発信寄稿録の中から「②稲と鶏㈠」に掲載されている。多少の食い違いがあり、両方の掲載文を照合し、最も著者の意を表すと思われる形に編集した。
・「獣性より真の人間性へ」
山岸式養鶏会の機関誌「山岸式養鶏会会報」の創刊号、二号に連載された。
・『山岸式養鶏会会報』創刊号
一九五四年四月一日に山岸式養鶏会本部によって発行。発行人藤田菊次郎、編集人西辻正彦、印刷所一燈園印刷部。
「米を一粒も輸入せずして満腹する法」「会員諸氏に図る」「本会の現状を検討しましょう」は山岸巳の署名入り。「高槻のお母さん」「無資本から五〇〇羽養鶏へ」は著者の署名はないが、署名のないものについても、内容や文体から、あるいは生前の山岸を知る人に確認し、本人の著作であるとほぼ確定できるものは掲載した。また山岸が大いに関わったと推定されるものについては、註釈をつけて参考資料として掲載した。
・『山岸式養鶏会会報』第二号
一九五四年九月二五日に山岸式養鶏会本部によって発行。発行人藤田菊次郎、編集責任者山本英清、編集人西辻正彦、印刷所一燈園印刷部。
「会の性格と運営について」「山岸式養鶏法」「難解な私の言動」は山岸巳の署名入り。「籠を編むに竹を使う男」も文体・内容から山岸の著作と断定。「山岸式養鶏法」は六月に某養鶏新聞に掲載されたと編集記に書かれているが、出典は不明。「ことばと真理」は山本英清による、山岸の談話の聞き書きである。
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参照:獣性より真の人間性へ(二)
《私の言葉や文章は、拙い上に、今(一九五四年)の社会通念から離れ過ぎていて、非常に難解でしょう。正しく感得して下さる人は、甚だ数少ない筈ですが、幾年か後に思い起し、または読み返して下さると、或いは軽い、実に通俗的な表現形式であったと、気付いて頂けるかとも思います。遠い彼方に目を向けて、心耳で聞き、意眼で読み、何を云わんとしているかを見抜いて下さることを、切にお願いします。お互いの幸福のために……。
方法あり (自著 実践哲叢 一二八号のうちより)
耳かきで飯を盛る。杓子は耳かきにはならないと云われていますが、私は私達の周囲を眺め、これはまた耳かきで飯を盛る行いを随分、飽かずに、飽きながらも、毎日・毎月・毎年・時々刻々の分秒を、営々として、生命の燃焼に費し続けていることに気付きます。
私は今日まで、一九〇一年八月からの五〇年余の日々を、蚕が桑の葉を食むが如くに、悲喜交々のうちに何と多くを食い込んできたことよ。果してこれで繭が造れたか、心を休め得る立派さを重ねつつありや。否未だ蚕食の貪をなお多く求めて、野垂れ死にの日に、腐身の寸斤にても重からんことを希うや。
振り返って感ずるものは、その計画性の一小部面のみにも、蚕虫に愧ずるものがあります。彼等は、すくなくとも、彼等の多くは、節をハッキリ行っている。得たものを積み、規則正しく脱皮を、そして吸収成長の期と、整理と、後の世への生命の繁栄を、画然と区分けしています。そして絹とその他のものを残しますが、人間は何時の間に何を為したか、何時まで何を何しているのか、分からないうちにハートが休みます。
といって私は蚕が偉くて、人間がどうだとか、劣るなどと云っているものではありません。しかも、人間には虫魚禽獣の持っているものと、少しは異なったものを具えていることを認めています。が、それを用いることを成さず、また持っていることさえも知らずに唯、蚕にも及ばぬ行いに終るとは、愚かしき限りであると思うものです。
食べて、子を次代に引き継ぐのみなれば、蚕の繭に、何を以て竝ぶべき。
しかし蚕は幾世代を重ねるも、繭を残すのみでありましょう。無作意的の突然変異や、交配の機会的な原因、或いは生理的環境適応変異及び人為的改変による進化はあっても、自ら意識的に桑葉の、及びそれ以外のものを研究したり、ストーブを焚いて冬を己が世にし、または病敵をなくして安定の境地を造ることも、まして心の世界等について深く考えて試ようとはしていないようです。
化繊は蚕族の未来に暗翳を投げかけ、御都合主義な人間共は桑を与えず、家屋を追放するでしょうから、野外に出て雑草を食む工夫をめぐらし、中には賢い蚕がいて、絹の新しい用途や、繭以外のものを造ることを考え、糸を必要とする世界へ、移り住むことさえ計画しているかも知れません。
こうして人間なる絶対者の愛撫を願うもの、或いは、それから逃れる果ない夢を描いているものもいるでしょうか。とまれ、この世への置き土産は、かつて麗人美姫の玉の肌に纏われ、裳は曳いて嫋足にまつわり、褥となりて佳人を夢境に誘い、王侯・貴顕を匹夫・獣性の虜として国政を揺さぶり、或いはまた、錦の御旗となって千軍を指揮し、興亡常ない歴史を創る一役さえも演じた華やかさを念えば、心穏やかに冥して可なりでしょう。
私は蚕の国を覗いて、人間の世界を省みます。農民、商人、工人は、何を残し得たか、金融・交通に携わるもの、教育・宗門・学府・廟堂に拠るもの、斉しく目指すものは幸福への一歩みでありましょう。が、しかし、果してそれが得られたか、万人が望む幸せが……永遠の。
私は今こそ深く厳しくそれを探究し、今において掴み得ざれば、何時の日にかそれを成し得べきを思うとき、晏如たるを得ない。人間はそれを成し得る賢さを具え、能力を持っていると断ずるものです。(以下略)》